ウロアが低く息を吐くと、全身を巡る魔力の流れが変化した。
「今、私は2種類の力を使える。三種か。狼も含めればな。【獣血解放】」
瞬間、狼人の女性兵士の身体から獣性を帯びた魔力が噴き上がる。筋肉の繊維が強く張り、腕や脚の輪郭がわずかに変化していく。人間としての姿を残しながら、狼としての身体能力だけを引き出した姿。鼻先は少し前へ伸び、牙は鋭さを増し、瞳には獣特有の鋭い光が宿る。完全な獣化ではない。理性も、戦士としての判断力も失わない。その上で狼人が持つ本来の力だけを限界まで引き出す。それが獣人特有の強化スキル、【獣血解放】だった。
頭部を守る兜も半分だけ展開されている。獣化によって顔つきが変化すれば、通常の兜では動きの邪魔になる。それに、相手を見るための視線まで隠してしまう。だからこそ、ウロアはあえて顔の片側を晒していた。
「それじゃあ、僕も微力ながら【獣血解放】」
ララクも自分の中に眠る力へ意識を向ける。しかし、ウロアとは違う。彼の中に狼の血は流れていない。発現するのは、獣としての別系統の力。言うならば、猿に近しい進化の名残を引き出したものだった。
身体を覆う魔力は薄く、耳や尾が生えるわけでも、大きく姿が変わるわけでもない。それでも確かな変化は起きていた。筋肉の反応速度が僅かに上がり、手足の動きが軽くなる。歯も少しだけ鋭くなり、握った拳には以前より強い力が込められるようになった。
だが、最大の変化はそこではない。危険を察知する感覚。逃げるべき瞬間を判断する本能。生き残るために必要な感覚が、研ぎ澄まされていく。
「猿、いや人の【獣血解放】なんてできるのか。変な体だぜ、おめぇ」
ウロアはララクの姿を観察しながら呟く。
「ほんの少しだけ身長が伸びたような気がします」
ララクは自分の身体を確認する。派手な変化ではない。しかし、冒険者に必要なのは見た目の強さだけではない。生き延びるための力。それもまた、強さの形だった。ウロアは狼の血によって戦い、ララクは積み重ねた経験と、人間ではない獣性の一部によって戦う。異なる2つの獣血が向かい合った瞬間、迷宮の奥だけではなく、別の場所でも新たな異変が起き始めていた。
◇◇◇
迷宮が存在する地下空間、その上部には広大な野生のフィールドが広がっている。現在では草木が生い茂り、自然の領域と化している場所だが、かつては迷宮へ挑む者たちのための補給所として使われていた。物資の保管、休息、情報交換。その役割を持っていた施設は、今では崩れた石壁や風化した設備だけを残している。
何百年、何千年も前の建造物であり、本来なら完全な廃墟になっていても不思議ではない。しかし、残された通路や配置された設備には、どこか今でも利用されているような違和感が残っていた。
だが、人が近づかなくなった理由は別にある。周囲には白く濁った気体が漂い、吸い込めば喉の奥に刺激が走る。植物は変色し、石材の表面には金属のような光沢が浮かんでいた。その原因は【水銀ガス】。本来は液体金属である水銀を、特殊な力によって気体化させる危険なスキルであり、それを操るモンスターがこの補給所跡を縄張りとしていた。
その場所に立つのは、兵士であるロゥガ・ロゥ、記録者として迷宮を調査するイジネ・ジィ、そして戦闘医のゼマ・ウィンビー。3人の視線の先には、銀色の光沢をまとった巨大な獣がいた。
「虎? 牙が異常に長いけど」
見たことのないモンスターを観察するゼマに対し、ロゥガは警戒を崩さず答える。
「スミロドン。初めて相対するな」
それは古代から存在していた大型肉食モンスター。巨大な牙を持つ特徴的な姿は知られているものの、現存数は少なく、冒険者であっても遭遇する機会は限られている。
なぜそんな希少な存在が、この危険な場所に生息しているのか。その理由を、イジネが説明する。
「スミロドンの天敵は、アタイたち狼人だった。そこで生み出されたのが、超有害のガス。水銀を扱うようになって、体も銀に包まれるようになった。だっけな」
銀色に変化した体表と周囲に漂う水銀ガス。それは長い年月を生き残るために獲得した適応の結果だった。
古代生物が絶滅する理由は様々だ。食料の減少、環境の変化、そして天敵の存在。このスミロドンにとって、その天敵に当たったのが人種だった。だからこそ、この個体は生存するために力を変化させた。敵を近づけさせない猛毒のガスを操るという、現代では異質な能力を手に入れることで。