第12巻   作:高見南純平

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第533話

 地下迷宮には、水銀ガスがじわじわと流れ込んでいた。天井の亀裂から落ちてきた毒気は白い靄となって通路を漂い、岩壁の隙間を縫うように広がっていく。その中でララクとウロアは【獣血解放】を発動したまま対峙していた。狼の血を濃くしたウロアの瞳は鋭く輝き、ララクもまた身体能力を高めながら距離を測る。

 

 ウロアの周囲には【アイシクルランス】によって生み出された氷槍が浮かんでいた。しかし最初に見た時とは様子が違う。【アイシクルフォース】の影響を受けた氷槍は冷気を吸い続け、一本一本が太く長く成長している。槍先から零れる冷気だけで周囲の空気が白く曇り、床には薄い霜が広がっていた。一方のララクは炎を纏う剣【灼牙剣フレアファング】を握る。刀身を覆う炎が赤く揺らめき、水銀ガスを押し返すように熱気を放っていた。

 

「溶けたやつを凍らせる!」

 

 放たれた氷槍をララクは斬り裂く。炎が氷を砕き、水滴へ変える。しかし砕け散った飛沫は地面へ落ちる前に再び凍りつき、新たな氷の欠片として空中へ留まった。【アイシクルフォース】によって冷やされた空気そのものが氷を維持するための土壌になっているのだ。

 

「相性無視ですか」

 

 氷を壊しても意味が薄い。破壊した分だけ周囲の冷気が再利用され、新たな氷槍が補われていく。消耗戦になればなるほど、この空間を支配しているウロアが有利だった。

 

「【ウルフブレス】!」

 

 ウロアが大きく息を吸い込む。膨らんだ胸が一気にしぼみ、咆哮にも似た吐息が迷宮を駆け抜けた。本来なら衝撃波として相手を吹き飛ばすスキル。しかし彼女はすでに別の力を重ねている。【温度調整】。身体の温度を自在に操り、それに適応する肉体を作り出す能力。現在のウロアは高熱を帯びていた。吐き出された息は熱風となり、ララクへ襲いかかる。

 

「熱の力!? これが3種目ですか」

 

「数えれて偉いぞ!」

 

 熱波が全身を撫でる。頬が焼け、肺へ流れ込む空気が熱い。だが次の瞬間には【アイシクルフォース】が周囲へ作用し、熱せられた空気ごと冷却してしまう。熱風の余韻が残る中へ冷気が流れ込み、肌の表面から体温を奪っていく。

 

(っく、氷を自ら消滅させる悪手かと思ったが……かなり体に負担が)

 

 汗が滲んだ直後に凍える。血流が活発になった直後に冷やされる。身体は温度変化へ適応しようとしているが、その切り替えが追いつかない。【熱耐性】【冷気耐性】は確かに働いている。それでも異常な高温と低温を何度も繰り返し浴びれば、筋肉も内臓も疲弊していく。

 

 さらに迷宮が牙を剥いた。壁面の魔法陣が淡く光り、不快な高音が頭蓋へ突き刺さる。耳鳴りに似た音が消えたと思えば、今度は腐った肉を煮込んだような悪臭が鼻を襲った。直後には舌の上へ強烈な苦味が広がり、胃の奥が反射的に拒絶反応を起こす。目の前にはウロア、周囲には氷槍、足元には水銀ガス。その上で迷宮そのものが五感を乱してくる。普通なら戦闘どころではない。

 

「体がイカレて逝っちまいな!」

 

 狼へ近づいた顔に獰猛な笑みを浮かべながら、ウロアは冷気と熱気の渦の中を悠然と歩く。その姿は、この異常空間に適応した獣そのものだった。挑発と共に【アイシクルランス】が再び動き出し、白い軌跡を描きながらララクへ殺到する。ララクは炎剣を握り直した。今相手にしているのはウロアだけではない。この迷宮全体がそれぞれの敵だった。

 

 だが、この迷宮の厄介さはウロアだけが有利という話ではなかった。彼女自身もまた壁から発動する異常なスキルの影響を受けている。悪臭に眉をしかめ、視界の揺れに舌打ちし、込み上げる吐き気を獣じみた気合いでねじ伏せているだけだ。汗が首筋を伝い、荒くなった呼吸がその証拠だった。氷の冷気で体温を制御しているとはいえ、味覚を狂わせる罠や耳を刺す騒音までは完全に防げない。獣耳がぴくりと震え、苛立ったように尻尾が床を叩く。

 

 そんな中、不意に何かが空気を裂いた。

 

 ララクとウロアは反射的に身を捻る。直後、巨大な牙が2人の間を通り抜け、背後の岩壁へ深々と突き刺さった。岩肌に亀裂が走り、砕けた石片が弾丸のように周囲へ飛び散る。さらに2本、3本と続けざまに飛来する白い刃を、ララクは【灼牙剣フレアファング】で弾き、ウロアは【アイシクルランス】で叩き落とした。火花と氷片が暗闇の中で散り、金属音にも似た衝突音が狭い通路に何度も反響する。

 

(トラップ……? いや直接攻撃系は今までなかった……という事は)

 

 ララクが飛来した方角へ目を向ける。すると暗闇の奥から地鳴りのような重低音が響いた。床石が微かに跳ね、壁面の砂がさらさらと流れ落ちる。迷宮全体が呼吸しているのかと思うほどの振動。その正体はすぐに現れた。

 

 巨大な影だった。

 

 壁にも天井にも体を擦りつけながら進んでくるワニ型の古代モンスター。黄色い瞳が闇の中で鈍く輝き、そのたびに縦長の瞳孔が細く収縮する。厚い鱗は岩盤にも見え、長大な顎には何列もの牙が並んでいた。通路の広さなどお構いなしに前進してくるその姿は、生物というより移動する城壁だった。

 

 その牙の何本かは根元から欠けている。

 

 だが次の瞬間、露出した歯茎が脈打った。

 

 肉が盛り上がり、白い骨が押し出されるように伸びていく。ぬらりと濡れた新しい牙がみるみる形成され、わずか数秒で元の長さへ到達する。さらに表面が硬化し、鋭利な刃へと変わっていった。

 

 【牙再生】。

 

 そしてデイノスクスは顎を開く。

 

 ぶちり、と嫌な音が響いた。

 

 完成したばかりの牙が根元から外れ、そのまま射出される。

 

 【ファングショット】。

 

 牙は槍にも矢にも見えない速度で飛び出した。風を引き裂く高音が耳を刺し、白い軌跡だけを残して通路を貫く。1本だけではない。10本、20本。牙の雨が正面から降り注ぎ、壁や床へ突き刺さるたびに岩盤が砕ける。さらに恐ろしいことに、射出された直後にはまた新しい牙が生えてくる。撃ち尽くすという概念が存在しない。顎そのものが巨大な連射兵器だった。

 

 巨体が一歩進むたびに床石が軋み、通路が揺れる。名はデイノスクス。古代の捕食者。その巨大な肉体は迷宮の罠など意に介していない。味覚を狂わせる攻撃も、鼻を焼く悪臭も、耳を貫く騒音も、長年ここで生きてきたせいか当然の環境として受け流しているようだった。むしろ異常環境に適応した結果、この迷宮そのものを縄張りにしてしまったのだろう。

 

「 デイノスクス……ノルマがやってきたな」

 

 ウロアが低く呟く。

 

「っえ、じゃああの鰐が、ロゥガさんが探していたモンスターっていうことですか」

 

「運のねぇ奴だよな。ノルマ以外のモンスターを引き当てて、こっちはあたしたちがヒットした。昔から手のかかる優等生だったんだ」

 

 その言葉でララクは思い出す。ロゥガが抱えていた任務書の山。その中にあった1枚。

 

『上位任務・デイノスクス討伐』

 

 近辺に凶悪モンスターの存在を確認。巣を突きとめて、討伐されたし。

 

 まさしくその対象が目の前にいた。

 

 デイノスクスはゆっくりと顎を開く。再生したばかりの牙が何十本も並び、その奥から獣臭い息が吹き出した。腐肉と血液と湿った泥が混ざったような臭気が通路いっぱいに広がり、ただでさえ狂わされていた嗅覚へ追い打ちをかける。喉の奥で低い唸りが膨らみ、その巨体が前傾した。

 

 次の瞬間。

 

 迷宮を震わせる咆哮と共に大量の牙が一斉に放たれる。

 

 ララクとウロアは同時に地面を蹴った。

 

 牙が頭上を通過し、背後の壁を粉砕する。別の牙が足元を抉り、床石を吹き飛ばす。水銀ガスが漂い、五感を狂わせるトラップが作動し続ける中、その隙間を縫うようにして古代捕食者の攻撃が襲いかかる。

 

 つい先ほどまで互いを倒そうとしていた2人だが、今はそんな余裕などない。

 

 不可攻略の迷宮。

 

 その異名は、決して大げさな呼び名ではなかった。ここでは迷宮そのものが敵であり、その環境に適応した怪物たちまでもが牙を剥いているのだから。

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