「あぁ、獣血ハイは終了だ」
ウロアが【獣血解放】を解除すると、狼へ寄っていた顔立ちがゆっくりと人のものへ戻っていく。ララクもまた同様に【獣血解放】を解き、全身を巡っていた高揚感が静まっていくのを感じていた。だが戦いが終わった安堵よりも先に、鼻を刺す悪臭と胃をひっくり返すような吐き気が押し寄せる。この迷宮は最後まで休ませてはくれない。
「氷の使用方法を勉強させてもらいましたが……ボクたちの戦いはいずこへ?」
ララクが苦笑すると、ウロアは水銀ガスが流れ込む亀裂を見上げながら鼻を鳴らした。
「ロゥガをここに引き戻す理由がなくなった。これで、あいつが上に集中できるようになっただろ」
倒れたデイノスクスの巨体が通路を塞いでいる。上位任務の対象は討伐された。少なくともロゥガを足止めする最大の障害は取り除かれたということだろう。
「もしかして、本当は同時クエスト……じゃなくて多任務を一人で背負う事に賛成なんですか?」
「あいつの理想がそれなら応援したいさ。血族だかんな」
だが、その声色は決して肯定一色ではなかった。
「ただ、その前に現実が立ちふさがる。今は良いが、いつか体にガタが来る。人手が足らねぇんだよ、この国は。だから割り切って、命令されたことだけに直面してればいいんだ」
「妹思いだったんですね」
「あいつと生まれた時からずっとな」
短く言い残し、ウロアは歩き出す。ふらつく足取りを見れば、平然としているようで五感を狂わせる罠の影響をしっかり受けているのが分かった。それでも立ち止まらない。悪臭も眩惑も耳鳴りも吐き気もまとめて押し潰しながら進む背中は、どこかロゥガとよく似ていた。
その姿が暗闇へ消えていくのを見送りながら、ララクは静かに考える。
(労働者確保……そうか)
兵士不足。人材不足。そして慢性的な労働力不足。移民でもなければ急激に人口が増えるわけでもない。この国では誰かが無理をして不足分を埋めるしかないのだ。
だからロゥガは何人分もの任務を抱え込み、ウロアはそれを止めたかった。
迷宮の奥から吹いてくる毒気混じりの風を受けながら、ララクは地上を思う。今この瞬間も市街地では統領候補たちが演説を続けているはずだった。兵士不足、労働問題、移民政策。この国が抱える課題を変えようとする者たちがいる。
地下ではモンスターとの戦いが続き、地上では国の未来を巡る戦いが続いている。そのどちらも決して無関係ではなく、同じ問題の上に成り立っているのだと、ララクは少しだけ理解し始めていた。
◇◇◇
市街地の中央公園では、多くの市民を前に七星ジィファ・ジィが声を張り上げていた。
「兵士たちは今日も任務をこなすために駆けずり回っています! それでもどうしても手が回らない事が多々あります。これは力不足……ではありますが、ひた走る兵士たちの事は評価して頂きたい! そして皆さまの生活を豊かにするためにも、他所から人材を確保するのはもはや必須です! 冒険者制度を取り入れる事も、私が当選したあかつきには考慮したいと思っています!」
広場はざわめいた。賛同する者、眉をひそめる者、腕を組む者。その反応は様々だったが、反対派の市民たちですら足を止めていた。彼らもまた知っているからだ。討伐されないモンスター、後回しにされる依頼、修繕されない施設、増え続ける問題の数々を。そして何より、それらを処理する兵士の数が足りていない現実を。
今この瞬間も、どこかで兵士が働いている。
その言葉を証明するかのように、街から離れた迷宮上層の遺跡跡地では、銀色の液体が石畳を這い回っていた。砕けた地面の亀裂を流れ落ちる水銀。その中心で咆哮を上げるのは、古代の捕食者スミロドン。長大な牙を震わせるたびに水銀ガスが噴き出し、周囲の空気を毒へ変えていく。視界は霞み、鼻腔は焼けるように痛み、呼吸をするだけで喉が軋む。そんな環境の中でもロゥガは一歩も退かなかった。
左手にはファルシオン。右手にはフォセ。ファルシオンで押し寄せる水銀を弾き飛ばし、フォセでガードしながら巨獣の動きを見極める。市民たちが演説を聞いているその裏側で、兵士は今日も命を削りながら任務を続けていた。