1999年5月の日曜夕刻、横島は何故かWINS新宿の一角にいた。
しかもその手には一枚の馬券が握られている。本来学生や未成年には売ってはいけないはずだが、窓口のおばちゃんは素直に券を渡してくれた。
自分でも不思議なことだった。別の用事でここの前を通りかかったときに、何故か奇妙な強迫観念に駆られ、ふと我に返るとこの馬券を手にしていた。
メインレースの後の条件戦の、しかもとても来そうにない組み合わせの一点買い。
それを一万円分も買っていたのだ。そのため、今、彼の財布の中には、紙が一枚も入っていない。
「俺は、何をしてるんだ……?」
蒼白な顔で馬券を見つめていた横島の耳に、更に追い討ちをかけるような叫びが聞こえてきた。
『お見事! アダタラヨイチ、最低人気に怒ったか、奇跡の逃げ切り! 5-12 アダタラヨイチ-ドルチェヴィータ、配当は何と100,000ジャスト! 十万馬券が出ました!』
「うそ……」
それは、横島の手に握られている小さな紙切れが、一千万円の現金に化けた瞬間であった。
「「「えーっ!」」」
翌日、美神所霊事務所から、いくつもの女性の悲鳴が上がった。
「師匠、ホントにこの紙切れがいっせんまん?」
「……葉っぱとどう違うわけ?」
「でも横島さん、何でまた馬券なんか買ったんですか?」
だが肝心の横島は、めいっぱい不機嫌な顔をして、馬券を睨んでいた。
おキヌちゃんが真っ先にそれに気づき、心配そうに横島の顔を覗き込む。
「どうしたんですか?」
「彼にはそれはただの紙切れなのよ」
答えたのはただ一人冷静だった事務所の主、美神さんその人であった。
「何でです?」
美神さんはさっとその場券を取り上げると、顔の前でくんくんと匂いをかぐ仕草をした。
「ふむ……変な気配はなし。ホントに当たり馬券なのね。でもねおキヌちゃん、馬券は本来未成年には買えないの。つまり横島クンはこれを現金化できないのよ。不機嫌にもなるわ」
「美神さん」
彼女の声を遮った横島の顔は、滅多に見られない生真面目なものだった。
「わかってるわよ、もちろん」
そう答える彼女の顔も、幾分引き締まった物になっている。
「おキヌちゃん、冷静になって考えてみて。ただでさえ金欠の横島クンが、こんなものを一万円も出して買うと思うの?」
「あ……」
「俺もそれが不思議なんスよ」
横島も自覚はしていた。これは操られたりして買ったものではない。欲しくなって、自分で買ってしまったのだ。
「まあ確証はないんですけど、これを買ったとき、何かに操られている、っていう感覚はなかったッス」
「あたしも賛成ね。でも、何かが起こってる気はするわ」
守銭奴的なところがある美神さん。儲け話に対する嗅覚は絶大であった。
と、その時。
ほぎゃあ、ほぎゃあ……
赤ん坊の泣き声が微かに聞こえてきた。
「あら、どうしたのかしら」
母の美智恵は出勤中。事件のない日だったので、20も歳の離れた妹の面倒は、美神さんが見ている。
「あの泣き方だとなんかぐずってるわね……とりあえず」
立ち上がった美神さんは、霊具入れに向かい、お札を一枚取り出していた。ひのめちゃんの発火能力を抑えるお札は永続性のあるものではない。特に機嫌が悪くなるとそれに比例して能力が暴走するらしく、たびたび結界を突き破ることすらあった。そうなるとそのお札は使いものにならなくなってしまう。
「結構これも物入りなのよね……ああっ!!」
美神さんはあわてて隣の部屋に飛び込んでいった。
「どうしたんですか……きゃあっ!」
後をついていったおキヌちゃんからも悲鳴がもれる。ひのめの結界が今にも破れそうになっていたのだ。
「美神さん!」
あわてて残りの三人も駆け込んできたが、ちょうどその時美神さんが結界に新しいお札を叩きつけ、暴発をくい止めたところであった。
「……ふう、危機一髪だったわ」
「間に合ってよかったでござるな」
被害が出ていないのを見て、シロがそういった。
「いつぞやの二の舞は御免だものね……!!」
そういった美神さんの顔が突然引きつった。
「な、何事!」
「なんかまずいことでも!」
あわてて詰め寄るシロと横島に、美神さんは青い顔のままつぶやいた。
「おふだ……まちがっちゃった」
びくうっ!
横島が硬直する。彼の脳裏に、いつぞやのバックドラフトの光景が甦った。
「み、みがみざん!!!」
しかし美神さんはそんな横島にも気付かず、そのままつぶやき続けた。
「これ……一万のじゃなくて五万の奴だった……もったいないぃぃぃっ!!」
一気にシロと横島の腰が砕けた。
「「美神さんっ!」」
二人の声が綺麗にハモる。
「ビックリさせないで下さいよ!」
「そうでござる」
二人ににらまれ、ちょっと引いたものの、気を取り直すと猛然と美神さんは反撃に転じた。
「何よ、コストパフォーマンスは大事なのよ。これは私事だけど、仕事の時はもっと大事な事よ! 五百万の仕事に一千万の札使ってたんじゃ事務所はやってけないのよ!」
「おい」
そこにタマモが口を挟んだ。ついさっきまでの雰囲気はどこへやら、三人の注目がタマモに集まる。
「美神さん、お札間違えたって言ったよね」
「ええ、こんな事滅多にないんだけど……」
その隣で横島が頷く。少なくとも過去、美神さんがこの手の間違いをしたところを横島は見たことがない。
「だとしたらやっぱりアンタ、相当強い運の持ち主なんだね、ここ見てよ」
「なになに……あっ」
タマモが指摘したのは、お札の一角であった。そこにほんのかすかなものだが、黒い染みのようなものがある。
「これ……焦げ目でござるな」
シロが鼻をひくつかせて言う。ちなみにこの札は火炎封じのお札。当然力が有効な内は決して燃えない。
「そう。今回の暴走は、五万のお札を使ってもぎりぎり止められるかどうかだったってわけだ。いつものお札だったら……」
みんなの頭の中を、一陣の風が通り抜けていった。
「……とんだ怪我の功名ってわけね」
「ほんとですね」
その声は、妙に遠くから聞こえた。一同がそちらを向くと、そこにはドレッサーに大の字になって張り付いているおキヌちゃんがいた。
「……何やってるの? おキヌちゃん」
「へ……? あ、あたし、何でこんな所に?」
「……」
しかし美神さんはそれには答えず、じっとその場で何やら考え込んでいた。
「予知現象、とでも言うのかしらね」
事務所に戻ってきた一同は、みんなで午後のお茶をいただきながら、美神さんの言葉に耳を傾けていた。
「横島君の馬券と言い、アタシのお札の取り違えと言い、何だかあたし達、無意識のうちに何らかの予知をしているとしか思えないのよ」
「誰かに予知能力が芽生えたんじゃなくて、予知そのものが現象としてみんなの身に起こっている、って事ですか?」
「そうよ」
おキヌちゃんの言葉に美神さんが答える。
「さっきのおキヌちゃんのタンス張り付きは何のためか分からないけど、無理に推測すればひのめの暴走のせいであそこに火がついたのかも知れないわね」
「けど、集団ヒステリーや集団念動力は聞いたことあるけど、集団予知ってのはあまり聞いたことがないわね。現象としてあるのは、同一の予言や予知を見るものであって、個々の人間がそれぞれの未来を知るようなものじゃなかったはずよ」
そこにタマモが口を挟む。肉体派のシロと違ってタマモは、学校に通うようになってからとみに知識量が増えた。
おかげでクールさにも磨きがかかっている。これで眼鏡でもかけた日には「冷徹な副委員長」の出来上がりである。
それはさておき、タマモの指摘に美神さんは少し考え込んだ。
「確かにその通りよね……この現象は今までのそういうものとは切り離して考える必要性があるわ。ただ気になるのはね……」
「なんだ」
「さっきっからしきりに予感がするのよ」
みんなの注目がぐっと美神さんに集まる。
「どうもこの現象……」
横島が、おキヌちゃんが、そしてシロとタマモも思わず生唾を飲み込む。
「物凄い儲けになるような気がして」
……一同は見事にこけた。
「な、何よ、そうまでこけること!」
「いやその、しかし……」
こう言うとき真っ先に美神さんの標的となる横島があわてて言い繕おうとしたとき、あわただしい勢いの足音が迫ってきた。
「何事?」
そう美神さんが人工幽霊一号に尋ねようとする間もなく、事務所の扉があわただしく開いた。
「令子、緊急の仕事よ」
「……どうしたの、母さん」
その後美智恵さんの口から出たのは、こんな言葉だった。
「緊急かつ指名の仕事が来たわ。バチカンから」
「バチカン~~!」
みんなの声が思わず裏返った。特に横島と美神は。
「あそこにはあんましいい思い出がないんだけど……何事なの、一体」
言うまでもないことだがバチカンはキリスト教の総本山。バチカンがGSの力を必要としたとするならば、無料奉仕で仕事をするGSは星の数ほどいる。いくら美神さんが世界でも有数のGSとはいえ、わざわざ指名してくる理由など一つしか考えられない。
「ラプラスが貴方を呼んでいるらしいわ。すぐに出発の準備をしてちょうだい」
「やっぱし」
美神さんは小さくため息を付いた。
「そんな事じゃないかとは思っていたんだけど」
そして翌日。
美神令子、横島忠夫、氷室キヌ、美神美智恵、美神ひのめの五人は成田空港を飛び立った。ひのめがいるのは流石に置いていけないせいである。いくら何でもシロとタマモの二人だけに子守を任せるのは無謀であることは、美智恵さんもしっかり理解していた。
「バチカンに託児所はないわよね……」
ため息のもれる美智恵さんであった。