バチカン市国。世界でも最小の独立国にして、キリスト教の総本山。
その奥深くに、余人には知られてはならない場所があった。
通称、禁断の間。
ヨーロッパ諸国の長い歴史の中、退治できない凶悪な魔物や悪魔、破壊不能の妖物や魔具などがここには封じられている。その中でももっとも危険だといわれているのが、悪魔ラプラス……『前知魔』といわれるものである。
その力は完全な予知能力。決して外れず、回避不能な未来を予言するその力を人は恐れると同時に欲した。過去、彼を捕らえた人は彼を人類史上最強とも言える結界に捕らえ、その力を限定することに成功した。結界内で彼が見れる未来は約100年、そして媒体がなければその力は発揮できない。
以後彼の力は、世紀の変わり目にのみ、教皇の名の下に於いてわずかながら行使されてきた。だが彼に未来を聞かされた者はことごとく破滅している。完全なる予知とは、同時に全ての希望を奪うに等しいことゆえに。
そして美神さんは昨年末、一つの仕事を引き受けた。気むずかしく、退屈しているかの悪魔に次の100年を予言させる交渉役……結局この仕事は彼を笑わせるだけで終わってしまった。次の100年を予言させるための媒体は手渡したものの、それを元に未来を予知することは未だ彼の意志一つにかかわっている。その後がどうなったかは、美神さんですら知らない。
だがそこに呼び出しがかかった。
さしもの美神さんも、不安を隠せなかった。
封印庫の最深部、ラプラスの間の前。
一見ただのガラスで仕切られたこの部屋こそ、ラプラスの力を封じる最強の結界であった。その中で三つ目の悪魔は、のんびりと寝そべりながら読書をしていた。しかし彼が読むのは手の中にあるものではない。第一それは白紙の日記帳であった。いや、正確には白紙ではない。今年のはじめから昨日までの日記が、ローマ法王自らの手で記されている。それが何故か今彼の手元にあった。
「よう、久しぶりだな」
振り向きもせず、彼はそういった。このクラスの悪魔ともなると、およそ話せない言葉はない。彼女たちに話しかけた言葉も、綺麗な現代日本語であった。
「いつぞやは世話になったわね。わざわざ何の用?」
美神さんの言葉にはたっぷりと贅肉ならぬ皮肉が乗っていた。
「ああ……お前にしかできないことがあってな」
その言葉に一同はびくっ、と引きつった。何せ相手は前知魔、その言葉は絶対の宣告に等しい。
「改めて頼む……お前の髪をくれ」
「ぬわんですってぇぇぇぇ!」
怒髪天を突く勢いであった。周り中で押さえなければ、そのまま彼女は超強化ガラスの結界を粉砕しかねなかった。
「あんたっていう人……じゃなかった、悪魔は、まだ諦めてなかったの!」
だがラプラスの声は冷静そのものだった。
「俺は今こうして教皇の日記帳を再び借りて見ている。なぜだか分かるか? 結界内ではっきりと捕らえられなかったが、今までの冗談めかした警告ではすまない危機が近づいている。今それを捕らえようと、改めて媒体を借りたのだ」
「前知魔のあなたに、捕らえられない未来?」
流石に美神さんもいぶかしんだ。これが百年前、二度の世界大戦を予言して当時の枢機卿を一人、キリスト教最大の禁忌の一つである自殺に追い込んだ悪魔の言葉であろうか。ラプラスの予知は絶対の筈なのに。
「あ……悪魔よ、我々を惑わすのを止めよ、イェス・キリストの名の下に!」
付き添いの枢機卿が、蒼くなって聖句を唱える。ラテン語だったので、理解できたのは美智恵さんだけであったが。
だが至極真面目に、ラプラスは言った。
「忠告しておこう。拒否するのは自由だが、その場合人類は滅亡より怖ろしい災厄にとらわれる。貴様もまたその中で、二つのものを失うであろう」
「令子、惑わされては駄目よ。ラプラスはあくまでも悪魔……人を惑わす存在だっていうことを忘れないで」
美神さんの耳に、ラプラスとお母さん、二つの言葉が届く。
そして美神さんは答えた。
「質問していいかしら……何故あなたは警告にとどまらず、力を貸そうというの? あなたは全てを知るかわりに、自らは何もできない。全ては定めのままに生きるがゆえに、この地に封じられたって聞いているわ。それがなぜ?」
「流石だな、美神令子」
ラプラスはそこで初めて微笑んだ。彼一流の、倦怠の混じった冷笑を。
「決して俺の言葉に取り込まれず、冷静な分析をしている。伊達に修羅場をくぐってはいないな。理由は簡単だ。その災厄は俺にとっても耐え難いものだからだ。実に利己的な、悪魔らしい理由だろう?」
「理屈は分かるけど納得は出来ないわね。前知魔のあなたに耐えられない未来なんかあるの?」
「あるとも」
ラプラスはそう言い切った。
「残念ながらこれ以上のことは、あんたの髪を貰わない限り言えない。そのかわり約束しよう。例え髪を貰っても貴様が望まぬ限り貴様の未来は告げぬ事を」
ラプラスの視線が美神に注がれる。横島も、おキヌも、そして美智恵さんも、ただじっと美神さんの言葉を待っていた。
そして軽く目を閉じていた美神さんは、その目をしっかり見開くと、頭に手を当て、髪の毛を一本引き抜いた。
「信じるわ」
その言葉と共に、牢の片隅に設けられた引き出しに髪を入れる。
「これであたしの未来はあなたのもの……預けるからには約束を守って貰うわよ、ラプラス」
「まああわてるな。俺だって願い下げになる未来ってのはあるんだぜ」
ラプラスが髪の毛を掴む。その瞬間、信じられないことに驚愕の表情が彼を彩った。
「「えっ!」」
美神さんと美智恵さんが、そろって声を上げる。前知魔であるラプラスに、驚愕することはあり得ないはずなのだ。
驚愕とは、予想外の出来事に遭遇したときに起こる感情なのだから。
だがラプラスの顔は確かに驚愕に彩られ……そしてそれがゆっくりと、哄笑へと変わっていった。
「ふ……ふはは……ふははははっ! なんと、流石は美神令子! あのアシュタロスの野望をうち砕くだけのことはある! 間違いない、貴様ならあの未来をうち砕ける!」
「未来を……うち砕くですって!」
美智恵さんの目が鋭く光る。
「前知魔たるあなたが、未来を変更するですって! そんな馬鹿な! あなたには、そんなことは出来ないはず!」
悪魔族は絶大な力を持つ反面、一つだけ出来ないことがある。それは変化。どんな悪魔族も、持って生まれた力や性格を自ら改変することは出来ない。気が変わる、というのはある意味人間だけの特性と言ってもいいのだ。だから悪魔は契約を破れないし、力が強大化、あるいは弱体化することはあっても、全く新たな力を得たりその性質を変えることは出来ないのである。例を取れば悪魔パイパーは、大人を子供にすることは出来るが、その逆は出来ない。彼の力は「肉体の時を奪い取る」ことであり、「成長をコントロールする」力ではないからである。
そして前知魔たるラプラスの力は「不破の予言」。絶対当たる予言である以上、逆に彼には未来の改変は出来ないし、そもそもそんなことを考えられるわけもないのである。その力の性質上、もし彼の予言が外れたら、それは彼の存在の消滅に直結するのだから。
何しろあのアシュタロスですら、意図した気を変えるというのはコスモプロセッサを動かすまで不可能なことだったのだから。宇宙意志による反動レベルの負荷がかかってやっと可能な事ともいえる(笑)。
だがラプラスは、なおも笑いながら美智恵さんの方を向いていった。
「不思議に思ってるな、お前さん。だが一体何時俺が自分の力を『前知』だと言った? オレはあくまでも人間にそう呼ばれているだけで、俺自身がそういったことはないぜ」
美智恵さんの、そして美神さん達の顔から、つと冷や汗が流れた。
自分たちは何か大きな間違いを犯してしまったのではないか。
そんな思いがみんなの間をよぎる。
だがラプラスは笑ったまま語りかけた。
「安心しな。貴様らの力を借りなきゃならん俺が、何故貴様らを害する。教えてやるよ、俺の真の力をな」
そういった瞬間、彼の額にある第三の瞳が強い閃光を放った。
「なっ、あなたの力はこの結界で……」
周囲の視界が急速に白く染まっていく中、美神さんが叫ぶ。
「この結界はあくまで俺の『見』の力を制限するものなのさ。この力はそれとは関係ない。何、すぐに判るよ、美神令子。『タイム・スライダー』たる貴様ならな……」
笑い声の中、美神は急に床が消えたのを感じた。重力が消え、三半規管があっというまに大混乱する。
激しいめまいと共に視覚も聴覚も惑乱し、意識が急に遠くなっていった。