愛を失った町、ネトリン。
かつては愛に恵まれた町としてそこそこの知名度のあったその町は今、その忌まわしい四文字の名を植え付けた愛奪の魔幹部の手によって、見るに堪えない惨状に変わり果ててしまった。
「あの子、大丈夫か……?」
「俺達も行った方が……いや、それで巻き込まれでもしたら今度こそ……」
町の入り口にて、残された……いや、捨てられたとでも言うべき町の民が悩むのは先ほどのこと。
久しぶりに町へ訪れた少年。旅をしてきたであろうに毛並みの整った黒猫をあの青肌の男に奪われてしまった彼が、そのまま町を去っていてしまったことについてでしかない。
猫のを少年は女将の懺悔に気にしないでと、気丈にも笑顔まで見せて消えていった金髪の少年。
あどけなくも、どこか凜々しさと男らしさを秘める謎めいた雰囲気を持ち合わせた旅の人。
女将の料理で笑顔になりながらも、願いどおりに町に深く関わろうとしなかった彼と仲の良さそうだった黒い猫。ネトリンはいつも通り、その絆をいとも簡単に引き裂いてしまったのだ。
気丈にこそ振る舞っていたが、計り知れない絶望に侵されたことだけは分かる。
だってそれは、その闇の奥底にあってもなお足りないほど黒い絶望は、この町の多くが味わったものに他ならないのだから。
出るべきか。それとも目を伏せて、後悔しながら、それでも見なかった振りをすべきか。
嗚呼、それでも町の民には選べない。最早選ぶほどの力も、心もない。
折られ、牙の抜け、抜け殻のように生きるしかない彼らでは何も選べない。敗北とは、屈辱とは、諦観とはそういうもの。愛奪の魔幹部による魅了に染まらずとも、彼らは既に手の中でしかないのだ。
「女将! 待てって女将さん! あんたが出ても何も解決しやしねえ! なあっ!」
「それでも止めるんじゃないよ! もう限界なんだ! あんな旅人さえ巻き込んじまって、これ以上何を黙ってろってんだい!
「く、クソっ……! おい、誰か手伝ってくれ! 女将が、女将が飛び出しちまいそうだッ!」
そんな沈みきった町の入り口に、突然騒ぎ、助けを求める声が聞こえてくる。
町民がそちらを向いてみれば、この町で女将と呼ばれる女が鍋を被り、棒を持ち、憤怒の形相で町から飛び出そうとしているのを男達に止められている姿が嫌が応にも目に入ってしまった。
「あんたじゃ無理だよ女将! あんたはすげえが、別に強いわけでもねえ! それとも、そうやって飛び出したアモルの顛末も忘れちまったのか!?」
「だとしても! それでももう限界なんだよ! あんたらはそれでいいのかい!? 自分達の身だけならともかく、あんな何も悪くない、町に寄ってくれただけの旅人にまで同じ苦痛を味わわせて、それでもまだこんな所で家畜もどきやってやれるのかいって!! ええっ!!」
数人に止められ、動くことさえ出来ないまま、それでも涙を流して叫ぶ女将。
それは町の誰もが思っていたこと。けれど町の誰もが口に出せなかった、出そうとしなかったこと。
死んだ目をして俯く門番も、生きる気力をなくした主婦も、女将を止めようと歯を食いしばる男達も。
誰もが持っていて、吐き出せずにいたもの。
愛する者を奪われて、失って、生きる気力をなくしながらも生きた者達の、なけなしの意地。
「……俺も行くぞ。俺だって、このまま、黙ってられるか……!!」
「そうよ、そうだわ。もう限界よ、これ以上、わたしだってもう……!!」
そうして町に残された人々が、もうとっくの昔に折れてしまった人々が。
それでも心の奥底に残したほんの僅かな、ちっぽけで意味のないほど脆弱な何かを揺らされ、何もかも捨てて立ち上がろうとした。愛する者を救うために、愛する者に殺し殺されようと覚悟を決めた。
──そのときだった。
「お、おいあれ、あれを見てくれ……!! みんな、人だ……!!」
たまたま女将から視線を外していた、少しだけ顔を上げた門番の若者が指差しながら声を上げる。
次第に集まり始める、町の人達の視線の先。
何十という人の集まり。真っ直ぐと、こちらへと向かってくる見覚えのある人々。かつてネトリンによって連れ去られ、この町からいなくなった者達だった。
戻ってきた中で比較的まともに話せた男、道具屋の店主であった男が事の顛末を話していく。
魅了から解放された直後、彼らが見たのは下半身のみ晒したまま床に刺さっていたネトリンの姿。
あの恐ろしい強さも、端正な顔も、傲慢な口も、何もかもが失われた無惨な姿であった。
ここで何が起きたのかは、それは頭に靄がかかっていたようで思い出せない。
どうしてネトリンが、あの恐ろしい化け物がこんな有様になっているのかなんて見当が付かない。
けれども、現にネトリンは伏している。人を弄びた最低最悪の怪物が、こうして力尽きている。
その事実だけで抑えが効くわけがなく。
例え亡骸でも構わないと。次々と集まりながら、怒りのままに、後悔のままに、嫌悪のままに囲み晴れることのない鬱憤を晴らし続けた。
そうしてしばらく経ち、町民の報復が最高潮を迎えた頃。
雑に人々を掻き分けながら姿を現わした、見覚えのない白衣と眼鏡のみという痴女めいた銀髪の美女が、あの魔幹部を魔法で消し飛ばしたことで、呆気なく全ては終わってしまったのだと。
「すまねえ、本当に、どうかしていたんだ……。俺達は、なんてことをしちまったんだ……!!」
「ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい……」
膝から崩れ落ち、悲痛な呻きと共に謝り続ける者。
愛した者が戻って来ていないと、俯く者の肩を揺らして問い詰める者。
もういないと知っているのに、必死に親を探す子供。
町の誰もがネトリンの不思議な力のせいだと分かっている。そんなこと、分かってはいる。
けれど感情は別。愛する者を裏切り、踏みにじり、侮蔑と共に捨て去った唾棄すべき下種としての姿を見てしまったのだから、易々と受け入れるなど出来るはずもない。
全てが終わった後にこそ最も突きつけられるのは、残された者にとってもっともかかる絶望。
愛奪の魔幹部、ネトリン。愛に恵まれた町から愛を奪った、最低最悪な外道。
例え悪夢が終わろうと、この町の者から絶望と不信が失われることはないだろう。最早この町は、愛奪の魔法にかかった者に未来は──。
「聴いてくれ! なあ、頼むから聴いてくれ! ピュアラの町に残り、戻った人達よ!」
そんな空気を拭い去るように、よく通る大きな声を轟かせたのは一人の女性。
男達の拘束から離れ、怒りを収めた女将が今、大きな声を張り上げ彼らの注目を集めたのだと。
「過去を変えることなんてあたしらには出来はしない! ある者は見捨て、ある者は恐れ、ある者は愛した者を手にかけた。同じ大きさの罪さ、誰も許しちゃならない、許されちゃならない重すぎる罪なんだ。誰かが悪いんじゃなく、誰もがしてはならないことをしちまったんだ。一人のせいなんかじゃ、決してないんだよ……!!」
女将は自身に言い聞かせるように、けれどより多くの者へ伝えるように声を張り上げ続ける。
魔法による魅了。意思の欠如した状態での反転。恐怖への屈服。
誰も悪くないのではなく、誰もが悪いのだと。許されないことをしてしまったのだと。ひたすらに突きつけるように。
「だからこそ、償いたいのなら顔を上げな! せめて死にたくなるほど後悔しながら、何回も墓の前で謝り続け、それでも必死に生き続けな! どれだけ辛くとも、苦しくとも、かつてお前たちの愛した者達と笑顔であれたこの町に戻るまで、精一杯やり切るんだよ! それだけが、残されたあたし達に出来る唯一の贖罪。違うかい!?」
懸命に叫び、そして町の人々に問う女将。
一人、顔を上げる者がいた。二人、支え合って立つ者がいた。何人も、寄り添いながら頷く人がいた。
もう顔向けなんてできないと、町へ戻らなかった者も大勢いた。
戻るか残るか、その選択を選ぶことさえ出来ない者だって多くいた。
何を思うのか、大半の動物たちはその場から動こうとはしなかった。
けれどこうして、戻ってきた者達がいる。
失った者はほとんどだけど、それでもまだ、残った者だって確かにある。
どれほど堕落の罪の重さに苛まれていたとしても。
手ずから愛する者を愛した者へと変えてしまったとしても。
正気に返った所でもうこの町に居場所などない、そう分かっていたとしても。
それでも向き合おうと、自らが背負う罪の贖おうと覚悟した。
愛した者を裏切ったその地に残り続けることが、その先がどれほど生き地獄かを理解しながら。いつまでも来ないであろう、赦されるその日を迎えるために。
そうして愛を失った町ネトリンは、愛に恵まれた町であった町は復興を志し、人々は再起した。
当然だが、あの愛奪の魔幹部の名をそのままにすることはなく。
けれど愛の神の施しへ仇で返したからと、町の名前をその神の名へと戻すことはなく。
名を失った町として、名のない町として、緩やかながら
そうして遠い未来において、この地はかつての繁栄を超えるほどの大きな街となるが、それはここでは語る必要のない話でしかない。
この再始を知る者は、この町をやり直そうと決めた勇気ある人々と、ここにはいないもう一人のみ。
砕かれた石像の主。愛の神の加護など百年も前に薄れ、ただ劣化しない石の像でしかなかったもの。
けれど僅かに残った彼の──愛の神ピュアラの石像、偶然にも残った口元は僅かに微笑んだ。
町の誰に気付かれることもなく、ひっそりと。
もしかしたら最初から見守っていたのかもしれないと思えるほど、どこか優しげで嬉しそうに。