そうして他所寄り道こそしたが、無事目的のお風呂場へと辿り着いた。
案の定ヒコさんは認識阻害を用い、タオルさえ巻かずに恥じらい一つなく男湯の方へズガズガと入ってきたが、幸いなことにおじいちゃんが数人程度のいるばかりでそこまで気になることはなく。
久しぶりにお湯で体を洗い、湯船で足を伸ばし、存分に旅の疲れを癒やし。
そうしてヒコさん共々満足しながら宿に戻ってきた後、少し休めばちょうど指定した食事の時間となった。
「ほら食べな! ピュアラと言えばこれ! 女将の宿名物、ラブラブビッグハンバーグだよ!」
メインディッシュ、ソースでハートが描かれた大きな肉の塊。
皿ギリギリまで広がった、食べたこともないほど大きなハンバーグ。かつて少年が夢見たであろう極上の一枚が目の前で俺に食べられるのを待ってくれていた。
ちなみにヒコさんは猫で通さなければならないので、女将お手製の猫用ご飯を床でだが、微塵も気にせず美味しそうに食べ進めている。
本人曰く獣の姿であればその流儀に則るのが風情、強制されなければそれで構わないとのこと。長く生きていると秩序なき獣になっていたいこともあるというのが、かつて彼女が話した持論である。
「いただきます」
ナイフを手に持ち肉に入れれば、それだけでじゅわじゅわと溢れしまう肉汁。
その滝のような光景にごくりと、口内に溜まってしまう唾を呑み込んでから、フォークで切り分けた一欠片を刺して口の中へと放り込んでみる。
──美味い。どっさり響く濃厚な肉と脂の旨味は、男心を掴んで離さないという決意のようだ。
「美味しい、とても美味しいです」
「そいつは何より。ほら、気に入ったなら食べな! おかわりだってあるからね!」
まるで心を殴られたと思うくらいの美味の衝撃に、ガツガツと夢中で食べ進めてしまう。
美味い、美味しい、ここまで大きなサイズのハンバーグを食べたことはない。
そもそもハンバーグなんて町の料理とは縁のなかった村時代。そしてヒコさんの弟子になってからも研究やお世話メインであまり料理という文化に手を出せていなかったので、今日が実質初めて食べたようなもので感動もひとしお。
更に言えば、ふっくらさと脂を両立したハンバーグはそうあるものじゃないはず。
ここまでの大きさを保ちながら、ふっくらとした食感と脂の量を保っている。スープやパンといった他の料理も非常に質が良く、無料で食べさせてもらえるのがかえって申し訳なくなってしまうほどだった。
結局美味しすぎて、美味しい以外の言葉や思考をほとんど発せず。
無我夢中で食べ進め、結局おかわりまでもらい、二枚のビッグハンバーグをいただき、この上ない満腹感でお腹を擦りながらごちそうさまとなった。
「ごちそうさまでした。どれもとても美味しかったです」
「はいお粗末様。久しぶりの旅人だからね、こっちも腕を振えて嬉しい限りだよ」
こんな美味を作ってくれた女将へお礼と称賛言わずにはおれず。
皿を片付けようとした女将に告げれば、彼女は自らの腕なら当然と言うみたいに、にかりと誇らしげな笑みを浮かべてみせた。
「そうだ、せっかくだし締めに葡萄酒でもどうだい? ちょうど開け頃のが一本あってね?」
「そうなんですか? では一杯、ありがたくいただきます」
ま、見かけこそ大分幼くなってはいるが、精神的にはとっくに成人済みだし問題ない。
この体の酒の耐性度合いも知っておきたいし、せっかく誘われたのだから断るわけにもいくまい。だからヒコさん、猫がお酒飲めないからといって不満全開で足を踏まないでください。大人げないですよ。
そうして正面に座った女将は、音をさせない優しい手つきでワインをグラスへと注いでいく。
グラスを軽く打ち付け、チンと、乾杯の音が短く鳴る。
軽く言葉を交わしてから、まずは葡萄酒の香りを楽しみ、それからそっと口を付けてみた。
……うん。お酒の善し悪しなんて分からないが、これは中々どうして悪くないな。
口の内へ広がったのは、最初に嗅いだとおりの葡萄の味わい。
絶妙な甘み、ほのかな酸味、ほんの僅かな渋みのアクセントが調和していて飲みやすい。熟し頃というのも頷ける、飲みやすい一口だった。
「美味しいです。ここまでもてなしてもらえると、お金払えないことが申し訳なくなってしまいそうです」
「気にしなくていいさ。何せ随分と久しぶりの、もしかしたら最後になるかもしれないお客様だからね。開けるにはちょうどいいと思ったけど……うん、やっぱり悪くない」
ただ美味しいなと飲んでいた俺とは違い、噛みしめるように味わっている女将。
こんなに美味しい料理とお酒を提供してくれるのに、もしかしなくても最後みたいな物言いと憂う表情に、いよいよ状況が気になって仕方なくなってきた。
「あの、お風呂場へ行く道で石像が壊されているのを拝見しました。そこで酔っていた人から聞いたんですけど、神様から授かった石像が壊されるなんて何があったんですか?」
「酔ってる男性……ああ、飲んだくれヘドラかい。まったく口が軽いやつだ、大人しく酒だけ呑んでりゃいいものを」
壊された石像の話題からそれとなく入ってみると、女将は苦虫を噛み潰したように顔を歪めてしまう。
まるで聞かれたくなかった、知られたくなかったような態度。
ならばお風呂場の場所など言わなきゃ良かっただろうに、隠すことなく伝えてくれたのは女将の善性故なのだろうな。
「ま、あんたには関係のない話さ。何も知らずに済むのであればそれが一番、それでも聞きたいかい?」
「……だとしても、この町に来て女将さんの世話になっちゃいましたから。何か出来ることがあれば──」
「ないよ。何もない。あたしらはもう、何をしたくもされたくもない。……もう疲れちまったんだよ、この町のもんはね」
寂しげに呟き、それから勢いよくグラスに入った酒を一気に飲み干し、それから再び注いでいく。
頬が僅かに赤みを帯び始めた女将の憂いに満ちた面持ちは、決して好みではなく、世の言う端正と呼ぶそれからは遠ざかっていたけれど。
それでも、それだけ人生を積み上げてきた故で無情という色気を秘めていると、そんな気がしてならなかった。
「とはいえ、あんたも見ちまった以上これだけじゃ納得なんて出来ないだろう。……だから、他言無用で頼むよ。この町に残った最後の総意、愚かなあたし達の怠惰と業を。葡萄酒の肴にさえならない、一つの町の哀れな終わりを」
コトリと、静かにボトルを置いた女将は一度下を向いてしまったものの、覚悟を決めたように顔を上げる。
「町がこうなっちまってから、あいつがこの町に初めて姿を見せてからもう一年くらいになるのかね。どっかで聞いたかもしれないけど、昔はもっと活気があって、外からの人も歓迎されていたんだよ。愛に恵まれた町、愛をあやかれる町ピュアラにようこそってね?」
「あいつ?」
「ああ、青い肌をして羊角を頭に付けた半裸の男。立派な翼と蛇の尻尾をその身に宿した、異形ながらに美男子。愛奪の魔幹部ネトリンと、そう名乗った輩が来てからこの町は変わっちまった……いや、終わっちまったんだ」
ネトリン。確かピュアラではない、今の町の名前がそんな感じだったはず。
しかし愛奪の魔幹部か。正直な所、まったく聞いたことない。
異形というのなら魔女かその部下か何かなのだろうが……ヒコさん、何か知ってたりします?
『知らないぞ。魔幹部などいう括り、私の記憶は微塵も思い当たりがないからな』
なるほど。となればやはり、最近の流行り始めた新規勢力の類。
それも幹部と名乗るのならば、頭目が誰であれ、誰かしらの部下と考えるのが自然だろう。
「やつは空から町全体に響くようこう叫び、我が物顔でピュアラ様の石像に降り立った。これよりこの町はこのネトリン様の所有物となる! 故に財を全てを快く献上し、町の名を我が名に変えよ! ……なんとまあ、実に不遜で馬鹿らしいと思うだろ?」
同意を求めるのではなく、ただ力なく笑いを零した女将は、それから再び一口グラスに口を付ける。
「当然抵抗したさ。町で腕自慢だった男連中は迅速に動き出し、その悪魔のような男を町から追い出そうと武器取って飛びかかって……そして、呆気なく倒された。軽く腕を振るっただけで男達は切り裂かれ、地へと叩き落とされちまったのさ。まるで自らの力を誇示し、町民全員に支配の首輪を付けるかのようにね」
怒りではなく恐怖からであろう、かつての光景を思い出すように、グラスを持つ手を僅かに震わせる女将。
確かに支配において最も手っ取り早いのは力の誇示、逆らう気概をへし折ってやるのが一番の方法ではある。
きっとその青肌の男とやらは、さぞ都合がいいとほくそ笑みながら返り討ちにしたのだろうな。
「ネトリンは倒したやつらを殺すことなく、血を流しながら倒れる男達を踏みつけながら、何てことなさそうにこう続けたのさ。今の無礼はこの無礼者の妻や夫、もしくは子を連れてくることで許すと。さもなくば、今度は同じ数の女を目に入った順に殺すと」
「あたし達は逆らえなかったよ。……いや、逆らおうとしなかったんだね。あの瞬間、あたし達は確かに捨てちまったのさ。この町の民として、人として張るべき尊厳を、先達が名もなき村の頃から紡いできた誇りの何もかもを」
思い出しながら話す女将の顔は、本当に悔しそうで。
逆らえなかったと言うが、圧倒的力の前では仕方の無いことだろう。
そんな言葉を掛けようかとも思ったが、その同情は意味のない慰めにしかならないと、グッと葡萄酒と共に呑み込んだ。
「そうして男達の女や子供はネトリンの前に自ら立ち、直後に信じられないことが起きちまった。あれほど怒りに満ちた顔で見上げ、憎悪を込めた目で睨んでいたってのに、次の瞬間にはそいつらの顔は、まるで最愛の人を目の前にしたかのように緩み出し、媚びを売るように愛の言葉を吐くようになったんだ。演技なんかじゃない、心からの愛をね」
「地獄だった。嗚呼、本当に地獄だったよ。倒れるやつらへ鞭打つように、ネトリンに向けていた憎悪をそのままぶつけるみたいに、女達が何度も何度も踏みつぶし、侮蔑を吐く様を見せつけられたのは。新婚だったバーラも、ちょっと素直じゃないが確かに想い合っていたカスミも、あんなに父親に張り付いていたナデシコも、みんなみんな喜々とした顔で愛したはずの男を踏みにじり、罵倒を浴びせ、ネトリンが制止した途端、最愛であったはずの存在さえ忘れたように媚びる様を見せつけられたのは」
まるでこの世でもっとも、本当に恐ろしいものを見たと。
鬼気迫る迫力と実感の込めて語った女将は、それから口元を手で押さえてながら閉ざしてしまう。
「やつはね、悪趣味にも愛の強い方を奪うんだ。男女に関わらず、子供でも動物でも見境なく、より愛を持っていた方の心を奪い連れ去っていく。家族であれば一人を残して連れ去られる。そして拒絶され、否定され、捨てられた最後の一人は絶望しながら生きる。そうして気まぐれに奪われ続け、ついにここは愛を失った繁栄の残骸と成り果てちまった。……必死に支え合ってもね、先に心が壊れちゃどうしようもないのさ」
一秒、二秒、三秒、十秒。
それから更には数える気にもならない、何秒経ったかも分からないほどの間の後、女将はぽつりと話を再開させた。
……なるほど。それで愛奪の魔幹部、だから愛を奪う町ネトリンというわけか。
「確かに外へ助けを求めれば騎士様は来てくれるかもしれない。あんたみたいにたまたま訪れた旅人が巻き込まれでもしていたら、或いはどうにかしてくれたかもしれない。……だけどネトリンに囚われ、下僕と化した連中は殺されちまうかもしれない。あたしらにはその選択が、決意が出来なかった。それがよそに迷惑を掛けると分かっていても、出来なかったんだよ……」
顔に手を当て、最後の方はもう、掠れてしまうほど弱々しくなってしまいながら。
必死に誤魔化すようにグラスを呷った女将は、ダンと力強く、割れてしまいそうなほど強くグラスをテーブルへと叩き付けた。
「なあマニス、あんたならどうしていたと思う? もしもあんたの黒猫の心が奪われ敵に回っちまったなら、そのときは切り捨てることが出来るかい?」
「.……俺だったら、切り捨ててしまったと思います。愛を抱く誰かより、追い求める夢の方が大事だと思ってしまえる性分ですから」
「……そうかい。そいつは酷い男だね。やっぱり旅をする男なんてのは、そういうもんなんだろうね」
俺の答えに女将は笑う。軽蔑でもなく、同意でもなく、納得したように小さく微笑んだ。
幼い頃に夢見た理想のマジカルチ◯ポ、それを追い求めるだけに力を注ぐ生。
村を捨て、両親に背を向け、魔女の制止さえ振り切って大雷霆に打たれ、それでもまだ変わることなき探求の心は錆びつくことはない。
どこまでだって夢のためにしか生きていない俺が同じような場面に出会い、現状もっとも関係の深いヒコさんが敵対するようなことがあったとしても、きっと変わらず己が道を進んでしまうはずだ。
それだけの愛を、己よりも優先してしまうほどの情を抱けるのは尊いこと。
俺にはそれがない。どこまでいっても夢追いの人でなし。それが俺、マニスの死んでも変わることのなかった在り方なのだから。
「旅人に随分と、理解があるようですね」
「なあに、あたしも辿った恋は一つじゃない。この宿に行き着くまで、色々あったってことさ。さ、これで話は終わりだ。とっとと寝て、明日には町を出て、そしたらここのことは忘れちまうんだ。そしたらきっと、何も失わずに済むから」
そうして女将はやり残したことがあるからと、女将は空になったグラスを持って部屋から去る。
尽きかけの魔灯が明滅を繰り返す薄暗い部屋の中で、黒猫は一っ跳びでテーブルと乗って俺の正面に陣取り、まだ残っていた葡萄酒に舌を落とした。
『愛によって栄え、愛によって滅ぶとは残酷なものだ。……して、悲痛な現実を耳にした我が娯楽は、如何なる選択を取るつもりかな?』
「……大人しく出ますよ。ああも言われてしまっては、俺がこの町のために手を出す理由はないですから」
『薄情なことだ。或いはそれでこそ魔女の弟子と、そう言ってやるべきなのかな?』
ヒコさんはペロペロと葡萄酒を舐めながらも、念話にてくつくつと、いつものように笑うのみ。
「いいかマニス。私は何も手を出さないし、頼まれたって貸してやることはない。精々見守ってやるから、思うままにするといい。全てはお前次第だ」
最後だけ念話ではなく、わざわざ言葉に出してまで念押ししてから酒飲みに耽ってしまうヒコさん。
そんな気ままながら何かもを見通すかのような、猫の如き師匠を少しだけ羨ましく思いながら、ゆっくりと目を閉じて考える。
しかし、ああ。万物を魅了する力、か。
嗚呼、名前のとおりに女神さえも魅了せしめるというのなら、それは本物のマジカルチ◯ポと呼んで差し支えないのかもしれない。それならば、俺の夢に近づくのならば、いくらでも興味は湧くな。