よく手入れの行き届いたベッドは柔らかく、葡萄酒のおかげか実に寝入りの良く。
この体が本当に酔っていたのかは定かではないが、ともかく久しぶりに、何の警戒もせずにぐっすりと眠りを堪能することが出来た。
そうして目覚めの良い朝を迎えることが出来た俺は、朝食をいただき支度を整えてから宿を出て、町の入り口にて女将達に見送られようとしていた。
「お世話になりました。昼食まで持たせてもらえるなんて、本当どうお礼を言っていいのやら」
「そこはビシッと一言、ありがとうで締めるのが男ってもんさ。……それに、礼を言うのはあたしの方だ。久しぶりにお客をもてなせて楽しかった。本当にありがとうね」
握手を交わし、お礼を言えば、嬉しそうな笑みを浮かべながらお礼を返されてしまう。
女将は朝食も実に美味で、更には道中の昼食にとハンバーグの残りを使ったサンドウィッチを持たせてもらってしまったほどなのだから、やはり礼を言うべきは俺だと思えてならない。
「昨日は悪かった坊主。道中気をつけてな」
「猫ちゃんとお幸せにね? ちゃんと大事にするんだよ? んあー可愛い!」
昨日絡んできた人達だって打って変わり、まるで普通の人のように旅の無事を祈ってくれている。
あまりにも恵まれすぎて、すぐに手痛いしっぺ返しが来るのではと疑ってしまうほど。
今にして思えば身ぐるみを剝ぐわけでもなく、この町へ入るなくらいしか言ってなかったのだから、ネトリンに狂わされただけで悪い人達ではないはずだ。
……ま、旅をしていれば、こういう温かい対応をしてもらえる方が稀。
ここは旅人に優しく
「じゃ、気をつけるんだよマニス。どんな夢かは知らないが、一度決めたならしっかりやんな」
「……はい。ありがとうございました」
そうして最後に一礼して、それから彼らに背を向けて、新たな旅路に趣こうとした。
「フフ、ハハ、フハハハッー!! おはよう諸君!! 今日も素晴らしく快晴、絶好の愛奪日和だと思わないかー!?」
──その瞬間だった。
どこからともなく自信に満ちた、自分を支配者を信じて疑わない、そんな男の声が周囲一帯に響き渡ったのは。
「ね、ネトリン……!! どうして、三日前に来たばっかりじゃないか!?」
「何寝惚けたことを言ってるんだか。気が乗ったから顔を出す。自分の所有物なんだから、それは当然だろ?」
嘲笑と共に空から目の前へと降り立つは、青肌と赤髪をした、何故か半裸の男。
羊の角、大きな翼、蛇の尻尾を持つ半裸の魔性。
底知れぬ魔力を秘めていると一目で分かる存在感を醸し、更には恨みを買う人からでさえ美男子と形容されるに相応しいほど顔の整った異形のヒトは、まさしく怪物と言っていいだろう。
あいつがこの町から名と愛を奪った、愛奪の魔幹部ネトリン。
明らかに人間ではないがなるほど、確かにあれは一般人の手に負える相手ではなさそうだ。
「ああ結構、手厚い歓迎ありがとう。それでそれで……ふむふむ、君が噂の旅人君かな。中々に整った顔立ちに上質な魔力、常人とは違う雰囲気を漂わせてならないね。悪くない」
睨み、怯え、憤る町の人々。
そんな彼らへ気さくに手を振りながら歩いてきたネトリンは、真っ直ぐこちらの目前で止まり、舐めるように見下ろしてくる。
……どんな状況であれ男に舐められる趣味はないんだが、こいつ中々に癪に障るな。
『なるほど、あいつが愛奪とやらか。噂以上に傲慢で、不遜で、この世の何もかもが思い通りに行くと思っていそうな面をしている……んっ?』
そんな中、ネトリンがヒコさんを一瞥し、にやりと口角を上げた直後。
不可思議な魔力の波長が走るのを知覚した直後、あんなにもネトリンに罵倒を言葉を浴びせようとしていたヒコさんの念話がパッタリと途切れてしまう。
まるで初恋の衝撃で言葉を失ってしまったような、それ以外が目に入らないような。
「ヒコさん……?」
「おーよしよし、可愛い猫ちゃんだこと。名前は何て言うのかな……まあいいや、名前なんてのは俺の愛の前では意味を為さないのだから」
まるでこちらに興味をなくしたように呼びかけに応えることはなく、俺の肩から降りてしまったヒコさん。
何事かと思った直後、黒猫はひょいとにやつく青肌の男の肩に乗ってしまい、彼の指で額を撫でられることを甘んじて受け入れてしまっている。
……なるほど、そういうことか。まったく、随分と趣味の悪いことをしてくれるものだ。
「なるほど、残ったのは君か。まあ恥じることはないよ。このネトリン様の
目の前のこいつは、俺が絶望の最中にいると思って長々と語ってくるが、まったくもってどうでもいい。
だって今、こいつは言ってはならないことを言った。俺の琴線に触れる一つの言葉を、そう言われてしまえばそれ以外なんてどうでもよくなるただ一言を。
「さてと、これで目的は済んだ。もう行っていいよ、一人で精々楽しく暮らすんだね」
「……そうはいかないな。お前の
「ふうん? ……ま、奪い返しに来たければ来てみなよ。この愛奪の魔幹部、ネトリン様の屋敷に。さっきまで心を通わせていた猫の手で殺される覚悟があるのならね」
勝ち誇るでも見せびらかすでもない、こちらへの興味なんてなくしたみたいに吐き捨てたネトリンは、こちらの返事を待つことさえなく、その翼を大きく広げて飛び去ってしまう。
ここで
どうせ行き先は分かっているのだし、この場は素直に退いてやろうと、握りかけた拳を収めることにする。
そうして後に残ったのは、傍から見たら連れ添っていた相棒に置いていかれた悲しい男が一人。
後ろで俺達を見送ろうとしてくれた町民の方々と変わることない、置いていかれた負け犬だけだった。
「……ごめん、ごめんよ。あたしが泊めちまったから、平気だって高を括っちまったから大切な猫を奪われちまった。全部、全部あたしのせいだよ……」
「……ふふっ、大丈夫ですよ。少なくとも、女将さんが謝るべきじゃないのは間違いないですから」
きっと俺が絶望に打ちひしがれているのだろうと。
心の底から後悔していると分かるくらい、申し訳なさそうに謝罪してくる女将に問題ないと返しておく。
実際、本当に女将に落ち度など一つもない。
町に入ると決めたのは俺達。ヒコさんを連れ去ったのはネトリン、奪われたのは俺なのだから。
「それに猫は気まぐれですから。お迎えが遅くなると、すごく機嫌が悪くなるんですよね。それじゃ」
「はい? あ、あんた何を……!?」
そうして俺は女将の必死の制止を振り切り、わざわざ示してもらえた方向へと歩き出す。
しかし中々に面白いことをしてくれる。
ただでさえ二つほど浮かんでいた動機があったというのに、こんなにも一瞬で倍に増えてしまうとは予想外。きっとあの愛奪の魔幹部とやらは、興味を奪うことの天才でもあるのだろう。
──さあ行こうか。愛を奪うなんて愉快な力を魅せてくれた、魔幹部なる男の根城へお礼をしに。