愛奪の魔幹部、ネトリン。
羊の角に大きな翼、蛇の尻尾を持つ上半身を晒した半裸の男の根城は、ピュアラの町からそう遠くない位置にあった。
「なるほど、隠れるつもりはありか。どうやらそこまでの馬鹿でもないらしいな」
静かに手のひらを置いたのは、自然の中にあるはずのない半透明なのに先の見えない紫色の壁。
あるようでない、されどないようで確かにある。
これを知らずに潜ったとて、阻まれることなく通り過ぎるだけ。知覚したとして、強固な門となって立ち塞がる。
少なくとも、愛する人を取り返そうとした普通の人間には感知することさえ不可能な、そんな中々に高いレベルの結界。伊達に愛奪の魔幹部などと、酔狂な名を名乗っているわけではないということだ。
──さて、それじゃあ行こうか。ないとは思うけど、家違いだったらごめんなさいだ。
拳を握る。己に魔力を通す。いつものように、目の前だけを見据えながら低く構える。
技量で押し合う戦闘でなく、ただ障害の粉砕であれば、この拳は最上の結果を引き出してくれる。
ヒコさんに、師である拒絶の魔女に落ちこぼれの烙印を押されながら、それでも認められた
この小さく幼い体になってからは初めて使うが、果たしてかつての何割ほどの威力が出てくれるのだろうか。
ではいざ、マジカルチ◯ポ求道術奥義。その名もマジカルパンチ。ちゅどーん。
軽い実験の気持ちで拳を振り抜いた直後、バチンと空気は破裂し、一拍遅れた轟音と共に目の前の結界は粉々に吹き飛んでしまう。
かつての何割、どころの話ではない。
明らかにかつてのマッチョ状態でのパンチを上回る、圧倒的パワーによる破壊の跡があった。
……もしかしてだけど、この新しい体、前よりずっと強かったりするのか?
「……ま、とにかく進もうか」
検証と考察の余地はあれど、そういうのは後で考えればいいと首を鳴らしながら切り替えて。
そうしてついに姿を現わした、何十何百も連れ去るに相応しいほど大きな屋敷へと足を踏み入れていく。
家主の誘いを受けて、挨拶は既に済んだ。ならば残すは再会と決着だけ。
しかしもったいないほど立派な屋敷だ。『杖』でもなければ物は主を選べない……惜しいものだ。
犯し、奪い、染め上げる。
如何な愛さえ塗りかえる魔法、
「あん、んっ、ネトリン様ぁ……!」
巨大な天蓋付きのベッドを中心に置いた屋敷で最も大きな部屋。
ネトリンが愛の部屋と名付けた大部屋に響くのは、つい数日前に町で魅了をかけた女の嬌声だけ。
艶めかしく、快楽に溺れ、満たされたように蕩ける。
つい数日前まで一児の母であったことさえ忘れ、ネトリンの体に跨り、喘ぎ声をあげ続けていた。
ネトリンに抱く相手の好みはない。
男でもいい。女でもいい。子供でもいい。老人でもいい。ああ、或いは動物だって構わない。
唯一求め、心の底から望むのは、誰かを心から愛していたという事実のみ。
より強い愛を持つ方を自身の魔法で染め上げ、そいつに抱いていた愛を否定させながら、戦果を誇るように味がしなくなるまで抱き続ける。それがネトリンにとって最上の娯楽であり、生存意義であった。
愛の部屋の床に転がるのは──否、ネトリンの屋敷のそこかしこに転がるのは、無数の生き物達。
それはかつてピュアラという名を持っていた町から奪い、堪能し尽くした出涸らし。
人の尊厳である衣類と言葉を捨て、獣の理である本能を捨て、ネトリンに貪られた数回に思いを馳せながら下に耽り、ある者はネトリンの命により彼の部下の慰み者に浸るばかり。
その惨状の中にある人々は最早、かつて自身の足と意思で立っていた者達とは思えないほど、愛に堕ちきった肉の生き物でしかなかった。
「嗚呼、ネトリン様ぁ……。どうか、どうかもう一度ご寵愛を……♡」
「うーん飽きた。お前もう飽きたわ、ほら邪魔」
そうして女は絶頂を迎え、更に愛を賜ろうとしなだれかかろうとしたのだが、退屈そうに欠伸をかいたネトリンは容赦なくベッドから突き落としてしまう。
「ネ、ネトリン様……♡」
「うるさいなぁ。君はもう味しないから、あとは勝手にやっててよ。俺の邪魔にならないようにさ」
ネトリンに、奪った相手をコレクションする趣味はない。
手に入れたときはどれほど惹かれようと、味わい尽くせばそれで終わり。
侵され尽くして愛の従僕と化した存在達に興味などなく、屋敷から追い出すことさえないまま存在しないように目に入れることはさえしない。
「あー猫ちゃん。可愛いね猫ちゃん、君は本当に猫ちゃんだねぇ」
ベッドから降りたネトリンが女を蹴飛ばし、蛇の尻尾を揺らしながら訪れた先は部屋の端。
あの町から最初に猫という生き物を奪ったとき、記念にと頂戴した謎の柱のてっぺんについた板の上で眠りにつく、艶やかな毛並みをした美しい黒猫を見上げながら楽しげに言葉を吐き続けた。
「嗚呼、この俺に靡かないなんて、何て素晴らしい猫ちゃんなのだろう! この猫ちゃんは今、俺の心から楽しませてくれる……あー、君の名前はなんだっけか。ま、思いついたら俺が名付けてあげればいいかな!」
一瞬だけ考える素振りだけして、すぐにどうでもいいと思考を放り捨ててから、翼を広げて跳び上がったネトリン。
ちょうど黒猫と目線がが合うほどに上がったネトリンは、自らの手をゆっくりと伸ばして──。
やがて触れようとした、その瞬間だった。
巨大な風船でも破裂したような音が響いた直後、けたたましいほどの轟音が屋敷を揺らしたのは。
「なんだ何が起きた! 誰か報告してこないか、セーバス!」
「しゅ、襲撃ですネトリン様! 金髪の人間が結界を破壊し、一人で踏み込んできました!」
ネトリンはその手を引き、床へと降りながら怒声を発したと、部屋の扉は大きな音を立てて開く。
ピシッとスーツを着た、ネトリン同様に青の肌を持つ初老の男が狼狽しながら部屋に押し入り、すぐさま跪いて状況を報告した。
「金髪の人間……思い当たりはないな。あの町にそのような余力はないだろうに……さては腕の立つ旅人にでも見つ」
「申し訳ないですが、私には分かりませぬ! ですがやつは幼いとは思えないほど強く、部下達が次々と倒されていっております! このままでは、突破されるのは時間の問題かと!」
顎に手を当てながら、数秒の思考をした後、ネトリンは妙案が浮かんだと口端を吊り上げる。
「……ふふっ、ハハハッ、侵攻前の退屈凌ぎの仕上げにはちょうどいい催しだ。セーバス、
「ネトリン様は、どちらに……!?」
「自室で戻り、酒を片手に見物させてもらうとする。如何に強力と言えど所詮は人、同族相手にはどんな力も鈍る。なあに、それなりに楽しめる演目になるだろうよ」
セーバスと呼ばれた初老の男に指示を出したネトリンは、全裸のまま愛の部屋を一人後にする。
青肌の男の怒りが轟き、誰かの歩みの音がは近づけど、黒猫は未だ目を開けることはなく。
未だ帰らぬ主人を待つかのように、