結界を破壊し、姿を現わしたネトリンの屋敷。
愛奪の魔幹部なる男の住処。その実態は、魔女であるヒコさんの実験に付き合わされ続けた俺から見ても、悪趣味と形容せざるを得ないものであった。
屋敷の外にある大きな庭を通りがかる際に襲ってきたのは、恐らくネトリンの部下であろう青肌の男達と犬や猫、牛や馬といった飼われていたであろう家畜たち。
時間も惜しいし、ここにいる動物の大体に罪はないと思うので、部下の方だけ一撃一倒で片付けてから庭を越えて、そして堂々と正面の扉から押し入った。
屋敷内にそこら中に転がっていたのは、大人子供関係なく尊厳を捨て去った人達の成れの果て。
隣に同じ町で暮らした者の骸があることさえ目に入らず、痩せ細りながらもただ自らの情欲を満たすべく、ネトリンの名を力なく呟きながら耽るといった見ていられない様ばかり。
最早人としての良心さえ失った、それらを通り過ぎようとしたのだが。
俺が入り口の境界を越えたその瞬間、一斉に手を止めてこちらを睨み付けてきた後、ゆらりと立ち上がってこちらへ向かってきたのだ。
恐らくどこかで余裕ぶり、ほくそ笑んでいるネトリンが指示したのだろう。
身も心も踏みにじられ、かつて憎悪した存在の名を上の空で呟きながら向かってくる様は、最早人でありながらも屍人と呼ぶほかないほど哀れで。
外の動物共々、ひと思いに殺してやるのも慈悲だとは思うが、それでもそうする気にはなれず。
ただただ目の前の存在を不快に感じながら、気絶させていきながら虱潰しで奥へと進み、そうしてついに目的であるネトリンのいる部屋へと辿り着いた。
「やあやあ、見事。そこまで楽しめない余興だったよ、名も知らない人間くん?」
「おかげ様で最悪の気分だ。こんなにも胸糞悪くなったのは、あの人に会うまでの、何もかもが打ち止めだったあの頃以来だ」
「そうかい。ま、君のくだらない過去なんてどうでもいい。わざわざ語らないでくれないかな?」
椅子のそばに執事らしき初老の男を侍らせた声の主、テーブルに酒の入ったグラスを置いた男。
質の良さそうな椅子がくるりと回してこちらを向いたネトリンは、パチパチと、嫌に室内に響く拍手をしてくる。
その余裕綽々と言わんばかりの態度に、ただでさえ不愉快極まりなかったというのに、その薄ら笑いが一層心をざわつかせてくるので言葉を荒くなってしまうが、ネトリンはどうでもいいと鼻で笑うのみ。
……本当にむかつくやつだが、おかげで遠慮せずに殴れるというもの。
だから拳よ。どうか、どうかもう少しだけ我慢しておくれ。その猛りを、少しだけ抑えておくれ。
「それで人間、わざわざ何しに来たのかな? たまたま結界を見つけたから乗り込んでみた……そんな愚かな冒険心ってわけでもなさそうな面をしているけど?」
「さて、理由は四つほどあるが……まあ、迎えに来たんだ。気ままで我が儘な黒猫をな」
ゆっくりと椅子から立ち上がり、蛇の尻尾を揺らしながらこちらへ歩いてくるネトリン。
余裕綽々の男の問いに答えてやれば、ネトリンは意味が分からないとばかりに考え込んでしまう。
「猫、猫、猫……ああ、なるほど。さてはお前、さっきの俺の町から出ようとした旅人だな? ハハッ、そういやそんな顔してたっけな! ごめんよ、まったく覚えてなかったわ!」
俺の目前、わざわざ拳の射程距離に踏み込み終えたネトリンは、ようやく思い出したのか顔に手を当て
こちらに汚い唾が飛ぶほどの大笑いをしてきやがった。
……理由、一つ追加だな。
「そうかいそうかい、あのキュートな猫ちゃんを、唯一無二の旅の連れを取り返しに来たってわけかい。くぅー、泣かせるねぇ! あの町の連中でここまで来てくれたのはたった一人だぜ? あー、そいつは確か一人息子に殺されちまったのが面白かったから罰は三人で済ませたが、そしたら誰も来なくなっちまった。人間ってのは本当に情けない、そうは思わないか?」
「どうでもいいな。もうすぐお昼の良い時間なんだ。こんな蛇足は手早く済ませ、女将の持たせてくれたランチにありつきたいんだ」
「……そうかい。そんなに時間が惜しいってなら、何もかんも気にならなくしてやるよ。嗚呼、俺もそろそろ本腰を入れなきゃと思っていたし、そうだ! 虜になったお前が率いた
俺が見上げながら吐き捨ててやると、ネトリンは少し苛立たしげに魔力を解き放つ。
その目が光った瞬間、ネトリンから溢れ出る不快な魔力の波動。
あの町でヒコさんに放ったものと同じ、マジカルチ◯ポを超えたなどと豪語した魅了魔法に他ならなかった。
……やっぱりこの程度か。こんなもので、マジカルチ◯ポを超えたとは。はあっ。
「さあ話は終わりだ。……そうだセーバス、罰としてあの黒猫と殺し合わせるのはどうだろうな? 好きなんだよね、俺の褒美のために好き合った者同士が醜く殺し合うショーがさ」
「はい。ネトリン様に逆らったのですから、むしろそのような温情に感謝すべきホオッ──!!」
これ以上は聞くに堪えないと、先に執事の男をぶん殴ってやれば簡単に消し飛んでしまう。
なるほど。やはりパワーは上がっているのか、それとも今のジジイが脆いだけか。
まあどちらでもいいことだ。それより、ああ、やっとまともに見られる顔になってくれたじゃないか。愛奪の魔幹部さんよ。
「……な、何故だ! 何故お前には俺の魅了が通用しない……!? 俺の魅了は、
「……これが、こんなのが、マジカルチ◯ポを超えたと豪語する、最強の魔法なのか?」
「な、馬鹿にしてんじゃねえぞ! ならば食らえよ最大出力、全部駄目になって壊れちまえ!」
忠を尽くした執事の死ではなく、自身の魔法が破られたことに怒りを露わにするネトリン。
そんな哀れな男に一つ問いを投げてやれば、額に血管を浮き上がらせ、全身を震わせながら先ほどとは比較にならない濃さの魔力の波動を部屋中に放出してきた。
──だが。
「……拍子抜けだな。やはり、その程度の偽物だったか」
「ば、馬鹿な……!! そんな、そんな馬鹿な……!!」
全力だったのだろう、絶対だと自負していた魔法が効かず。
あり得ないと狼狽し出したネトリンは、化け物を見るかのような目をしながら後退っていく。
確信した。魔王などという存在は知らないが、この程度では魔女や俺ですら魅了するにたり得ない。
本物のマジカルチ◯ポはそんなものではない。
本物のマジカルチ◯ポはその程度などではない。
本物のマジカルチ◯ポは、お前なんかの魅了じゃ足下にも及ばない。
万物の魅了などほど遠く、所詮は常人を拐かすだけにしか使えない詐欺紛いのペテン魔法。
その程度でマジカルチ◯ポを超えたなどと、声高々に発するだけで恥も良いところ。このチンケな魅了をかの混沌の女神に向ければ、鼻で笑うことさえされずに吹き散らされるだろうよ。
もういい、俺の理由は済んだ。──残りの理由のために、とっとと終わりにしてしまおう。
「な、何者なんだお前は……!! まあいい!! こうなりゃ素直に力で殺してやるよ、死ねぇ!」
声を荒げ、爪を長く鋭く伸ばしながらこちらを引き裂こうと向かってくるネトリン。
鈍く煌めく爪。魔力の圧縮されたそれは人の肉など造作もなく、鉄さえ簡単に引き裂けそうなほど。
だがそんな何一つ興味のない、戦闘の技なんてどうでもよく。
見所などない男の爪。捉えている攻撃を食らってやる道理もなく、魔力込めて放った拳はその爪を砕きながらネトリンの腹に突き刺さり、そのまま座っていた椅子の方向へと殴り飛ばした。
「く、クソがッ、食らえよ我が極炎!! 心さえ燃え尽きるほどの業火を!! 魂まで灼く灼熱を!!」
当然勢いは椅子で止まることはなく。
そのまま屋敷の壁に激突し、外まで放り出されたネトリンは激昂しながら、その手に紫の炎を集約させてこちらへと放ってくる。
なるほど、確かにこれは熱い。
以前マジカルチ◯ポの研究の最中、ヒコさんが悪ふざけで俺のを燃やしてきたことがあったが、温度や苛烈さはそれ以上だ。
あのときの俺であれば、この前までの俺であれば、少し冷や汗を掻いて対策していたかもしれない。
まあもっとも不思議なことに、この新しい体と魔力では、そうしなくても大丈夫という確信があった。
「ハハ、ハハハッ! ザマアない! これがネトリン様の炎! ネトリン様の情熱……はあっ!? はあーっ!?」
「……ま、こっちは中々だったな。おかげでせっかくの一張羅が燃えちゃったじゃんか」
そうして不思議と屋敷へ広がることのない、床に燃え広がる紫炎の中。
ネトリンの勝利に酔った大笑いは、炎を超えながら近づいていく俺の姿で徐々になくなり、欠けた爪の人差し指で震えながら、露わになってしまったビッグマグナムを指してくる。
確かに肉体は無事だったが、せっかくの服はまあ見るも無惨。
こういうのは戦闘経験の少なさによる油断が招いた結果か。戦闘などなるべくしたくはないが、するとなったら気をつけなければな。
「ば、馬鹿な、この俺の、ネトリン様の極炎魔法を喰らって肉体が残るはずが……なん、だ、その馬鹿みたいな
「ヒコさん命名、マジカルなチ◯ポだ。間違ってもマジカルチ◯ポじゃないから、それだけ覚えて散ってくれ」
何を言ってるのか分からないが、これ以上、お前の戯言に興味などない。
だから強く床を踏み込み、自分も化け物のくせにまるで化け物を見るかのように怯え、戦意さえ失ったネトリンの懐へと潜り、どうにも力に溢れた拳を振り上げる。
拳に直撃したネトリンは天井を破壊し、屋根で止まることなく、天まで届き星になり、そしてしばらく待てば勢いよく墜落という形で戻ってきた。
ピクピクと、落ちてきたネトリンは床へ逆さまに突き刺さり、下半身がピクピクと震えるだけ。
決着はついた。女将への宿賃には十分、マジカルチ◯ポなどと名乗られてむかついた仕返しにも十分。これ以上俺が手を下す理由は、もうない。
それにしても、手心を加えずに殴り上げたつもりだったが、それでもまだ息はあるとは……魔幹部などというだけあって、存外にしぶといな。
見たことない種族だが、相当にタフな生態をしているらしい。或いはこの男が、愛奪の魔幹部が種族の中でも特別強力な個体というだけか。まあ、所詮はどうでもいいことか。
どのみちこいつはもう手遅れだ。放っといたってどうせ死ぬ。
このまま俺の拳によっての死を待つことなく、負傷で衰弱する前に、今すぐにも人の手で。
「ん、あれ、私、は……ああ、あああああッ!!!」
「俺は、一体、そうだ、俺は、俺は……!」
落下の衝撃音を目覚ましに、ネトリンの魅了が解けたのか、次第に目を覚ましていく人々。
この分なら通路で気絶させた人達も起きてくるだろう。
ま、皮肉にもやつの魅了のおかげで生き長らえていた人達が、支えを失った後にどうなるかまでは分からないが、そこまでの面倒は見切れない。というより、俺に救う手立てはない。
それにしても、効力を失えば元に戻るとは、つくづく偽物らしい中途半端っぷりだ。
本物のマジカルチ◯ポであれば、一度堕とせば例えすべてがなくなったとて魂が堕ちているはずだというのに。万物への魅了ということで少しは期待してしまったが、やはりマジカルチ◯ポへのヒントなど、そんな簡単に転がっているわけもないか。
まあいい。知るべきことは知り終えたし、ここに来た理由も一つを残して消化した。
あとは残った最後の目的。あの我が儘で気まぐれで、自分のことしか頭にない師匠の機嫌が悪くなる前に、迎えに行くとしようか。
別に屋敷を虱潰しに探さずとも、彼女の居場所など簡単に分かる。
ヒコさんに俺の居場所が筒抜けなように、その逆も然り。
俺が弟子になってすぐ、ヒコさんがこの魂に刻んできた特殊な魔法傷。肉体が再構成されたあとでも変わらず残っているこの繋がりが、互いの居場所を教え合っているのだから。
ふらりふらりと、力を振り絞ってネトリンのいる部屋に向かう者。
魅了魔法が解け、長い悪夢から覚めたように眠る者。
自らの犯した過去を、愛した者を裏切った業に苦しみ悶える者。
それらとすれ違いながら、中心に天蓋付きの大きなベッドが置いてある部屋に辿り着き。
部屋の端にあった謎の柱のてっぺんに付けられた板の上に、お目当てだった黒猫の姿はあった。
「迎えに来ましたよ。良い加減起きてください、ヒコさん」
「ふわぁ……んん、ああ、やっと来たのか。遅すぎて寝ちゃった……んん? 何だお前、元の姿に戻ってるじゃないか。見慣れた暑苦しいマッチョで勃たせてる姿は、まるで女を犯さんと迫る変態のようだぞ?」
声を掛けると、グググと体を伸ばしながら目を覚ました黒猫は、ひょいと地面へと着地する。
そして謎の煙と共に姿を変え、数日ぶりに人の姿へと戻ったヒコさんは、目覚めついでに自身の銀の髪を軽くかき上げてから、その生気のない黒い瞳をこちらへと向けながらそんなことを言ってきた。
……なるほど、だから少し目線が上がっていたり、ミシミシと懐かしい感覚があると思ったが、マイフレンドマッスルが返ってきてくれていたのか。
嗚呼、たった一月だというのにひどく懐かしい。
あまりに懐かしすぎて涙が出そう……あれ?
「キモいから感慨深げに触るのはよせ……何だ、元に戻ったな」
魔力が抜けていけば、同様に筋肉が失われていく感覚。
そうしてやがて身体は、最近ようやく慣れてきた金髪美少年へと戻ってしまう。
どうやら、元の身体に戻れるのは魔力を解放したときだけらしいな。
戻れるとわかって嬉しいような、限定的なのが悲しいような。……鍛錬を重ねれば、元の姿のまま生活出来たりするのだろうか。
「ふむ、その珍妙な変化は後で研究するとして……しかし随分遅かったな、私の娯楽よ。あまりに遅いので私は二度寝してしまったぞ、後で罰を与えるからな」
「割と急いだんですけどね。ところでヒコさん、人に戻ったなら服くらい着てくださいよ」
「今更全裸などさしたる恥にもならんがな。ま、確かこの性臭さの中で裸体を晒すのは相応に恥か。……仕方ないな」
開幕お仕置き宣言してきた厳しい師匠は、やれやれと髪を掻きながら何もない空へと手を伸ばす。
すると空に開いたのは、怪しげな雰囲気を漂わせる歪な穴。
『穴』とヒコさんが呼ぶ、自身の空間を構築する高度な収納魔法。そんな空間の入り口に躊躇なく手を入れたヒコさんは、家のタンスから服を引っ張るような雑さで白衣と眼鏡を取り出した。
「まあこんなもんでいいか。どうだマニス? これがずっと昔に寄った街で流行っていた、裸白衣に眼鏡のリケージョスタイルとかいうやつだ。何でも敢えて眼鏡にかけて汚すのがツウの楽しみ方だったらしいぞ?」
「へえ。一層恥ずかしくないですか?」
「さあ。ま、どうせ猫になるまでの繋ぎだ。羽織っていれば適当でいいだろうよ」
クルリと回り、白衣の裾を靡かせてから満足したように頷くヒコさん。
相変わらず色々雑な人だと思いながら、そういえばと気になっていたことを思い出した。
「で、どうしてわざと魅了にかかったんですか?」
「なあに、どっかの弟子が興味ありげにしていたからな。どうせお前じゃ魔法の構造把握など出来ないだろうし、せっかくだから体験して学んでやろうと思ってな」
気になっていたことを尋ねてみれば、ヒコさんは案の定な答えを、予想していただろと言わんばかりにあっけらかんと答えてくれる。
最初にネトリンに会った際、どうして一切の抵抗さえせず魔法にかかったのかと疑問だったか、やっぱりそういう理由か。どうせ死なないからと、興味があれば経験してみる悪癖は健在のようだ。
もちろん、ヒコさんの言葉を字面通りに取ってはいけない。
俺のためという理由も嘘ではないのかもしれないが、大部分を占める根底は知的好奇心が故。弟子が弟子なら、師はそれ以上に師なのだ。
「確かに並の魅了ではなかったが、所詮は術も使い手も理に則した程度。もう百年ほど真摯に磨けば届くやもしれんが、今のままではこの拒絶の魔女は疎か、そこいらの魔女にすら十全な効果は得られずに終わるだろうよ」
「じゃあ、どうしてわざわざ操られたふりを?」
「戯け、どうせお前が目印があった方がわかりやすいだろう? ……まあ、結局は或いはと期待してしまっただけだ。一時の感傷でしかないよ」
期待外れも良い所だったと。
ヒコさんはそんなつまらなそうな、ないものを見るような寂しげな表情を浮かべてしまう。
ヒコさんの、拒絶の魔女が追い求める最終目標。
それは自身の死。心身共に老いと死から切り離れ、生物の理から外されてしまった我が師が最も強く焦がれるもの。
万物さえ魅了し、精神と尊厳を消し去り、ある意味では『死』をもたらすほどの魔法に可能性を抱くのは当たり前の話か。
……少しだけ悔しい。いつものことだけど、俺がいるんだからよそ見はしないで欲しいものだ。
「さて、そろそろ行くぞ。これ以上、こんな汚らしい場所などいたくもない。とっととやることやって、あの女将の作った昼飯にありつくとしよう」
「は、はあ……えっとヒコさん? 行く場所ってどこへ?」
「決まってるだろ。あのクソ野郎、汚らしい手でこの私を撫でやがったんだ。例えリンチで骸に成り果ててようと、一回はやり返しておかなきゃ気が済まないよな?」
付いてこいと命じてきたヒコさんに尋ねると、立ち止まってから振り向きながら、にたりとちょっと怖くもあるほどの愉しげな笑みを浮かべてくる。
……嫌なら撫でさせなきゃ良かったのに。うん、やっぱりヒコさんはヒコさんだな。