平凡な大学生ミフネイゾウはキーパーソンの夢を見るか 作:ココロ☆ソーダ☆クエン酸
序章 第1話 宇宙船拾得、あるいは何も起きない一年
未船イゾウは、特別な人間ではなかった。
少なくとも、本人はそう思っていた。
大学に通い、講義を受け、課題に追われ、空いた時間には動画を見たり、漫画を読んだり、ゲームをしたりする。普通の大学生として分類するには、少しだけ妄想癖が強く、少しだけ物語に対する憧れが重い。だが、それでも現実的には、ただの大学生だった。
主人公ではない。
勇者でもない。
異世界から召喚されたわけでも、魔法の才能に目覚めたわけでも、秘密組織に狙われているわけでもない。もちろん、名家の生まれでもなければ、古代文明の末裔でもなく、幼少期に謎の老人から力を授かった記憶もない。
強いて言うなら、物語が好きだった。
ただ、それだけだった。
ただし、その好きの方向が、少しだけ面倒だった。
「主人公ってさ……いいよな」
ある日の夕方、大学の講義棟を出たイゾウは、誰に聞かせるでもなくそう呟いた。
五月の風は少しぬるく、講義を終えた学生たちが、駅へ向かう者、サークル棟へ向かう者、友人とどこかへ消えていく者に分かれて流れていた。イゾウはその流れの端を、リュックを片方の肩に引っかけたまま歩いていた。
主人公。
物語の中心にいて、事件に巻き込まれ、誰かと出会い、何かを選び、世界なり自分なりを変えていく存在。
もちろん、それはかっこいい。嫌いではない。むしろ好きだ。
だが、イゾウが本当に憧れているのは、少し違っていた。
「でも、主人公そのものよりさ……主人公の前に現れる謎の人物の方が、ちょっと良くないか?」
彼の隣を歩いていた友人はいない。返事をしてくれる相手もいない。なのでイゾウは、自分で自分に返事をするしかなかった。
「いい。めちゃくちゃいい」
主人公が道に迷った時、ふと現れて意味深な言葉を残す人物。
物語の裏で何かを知っていて、時には試練を与え、時には助言し、時には悪役のように振る舞いながらも、最後には「あれもまた、必要なことだったのだ」とか言い出す人物。
黒幕。
案内人。
師匠。
支援者。
敵なのか味方なのか分からない、やたら情報量の多い大人。
イゾウは、そういう存在が好きだった。
別に自分が世界を救いたいわけではない。巨大な敵と正面から殴り合いたいわけでもない。選ばれし勇者として人々の期待を一身に背負いたいかと言われれば、できれば背負いたくない。重そうだからだ。責任という言葉は、響きだけで肩が凝る。
だが、誰かの物語の重要人物にはなりたい。
主人公の人生において、「あの人との出会いがすべての始まりだった」と言われるような存在。
そういう立ち位置に、イゾウは弱かった。
その欲望は、中学生の頃から変わっていない。
ノートの端には謎の組織名を書いた。自作の紋章を描いた。架空の権限名や、意味深な台詞を考えた。高校生になる頃には流石に表には出さなくなったが、消えたわけではない。ただ、心の奥で静かに発酵していただけである。
大学生になっても、それは変わらなかった。
講義中、教授の話を聞きながら、もしこの講堂の地下に古代遺跡があったらどうするかを考えた。レポートを書きながら、もし自分が秘密組織の端末を拾ったらどう動くかを考えた。駅のホームで電車を待ちながら、もしこの瞬間に異世界からの通信が入ったら、最初の一言は何にすべきかを考えた。
そして大抵、現実には何も起きなかった。
講堂の地下に遺跡はなかった。
レポートは普通に提出期限を過ぎかけた。
駅には普通に電車が来た。
通信は入らず、スマホには大学のポータルサイトからの事務連絡が届いた。
現実とは、だいたいそういうものである。
「……わかってるよ。わかってるけどさ」
コンビニの前で足を止めたイゾウは、財布の中身と相談しながらため息をついた。今日の目的は、晩飯と、ついでに甘いものを買うことだった。課題の締め切りが近い時、人間は糖分を欲する。少なくともイゾウはそうだった。
店内に入り、弁当売り場を眺め、棚の前で数分悩み、結局無難な唐揚げ弁当と、期間限定のプリンを手に取る。会計を済ませて外へ出る頃には、空は紫がかった暗さを帯びていた。
ここで何かが起これば、かなりそれっぽい。
そう考えた時点で、イゾウは自分に少し呆れた。
コンビニ帰り。
夕暮れ。
人気の少ない道。
手にはビニール袋。
こういう時、物語なら何かが落ちている。謎の石、古びた本、見知らぬ鍵、あるいは血まみれの少女。
もちろん現実には、そう都合よく物語の導入など転がっていない。
そう思いながら角を曲がった瞬間、イゾウは足を止めた。
路地の端に、何かが落ちていた。
「……いやいやいや」
思わず声が出た。
それは、小さな立方体だった。
手のひらに収まりそうなサイズ。黒とも銀ともつかない不思議な色をしていて、街灯の光を受けるたび、表面に薄い線のようなものが浮かんでは消える。金属にも見えるし、石にも見える。プラスチックの玩具には見えないが、かといって高級そうな機械にも見えない。
明らかに、ただの落とし物ではなかった。
イゾウは周囲を見回した。
誰もいない。
車の音は遠く、住宅の窓には夕食時の明かりが灯っている。世界は普段通りで、ここだけが妙に浮いていた。
「……拾うなよ」
イゾウは、自分に向かって言った。
こういうものを拾うから物語が始まる。
逆に言えば、こういうものを拾うとろくなことにならない。
物語の登場人物なら拾う。だが、物語の登場人物は大抵、その後ひどい目に遭う。謎の組織に追われ、化け物に襲われ、知らない使命を押しつけられ、日常を失う。
イゾウは賢明な大学生である。
だから拾わない。
そう思って一歩通り過ぎ、二歩進み、三歩目で止まった。
「……いや、でも」
振り返る。
立方体はまだそこにある。
拾わなければ、何も起きない。
何も起きない人生を否定したいわけではない。普通の日々は大切だ。単位も大切だし、家賃も大切だし、健康も大切だ。分かっている。分かっているのだが。
もし、これが本当に物語の始まりだったら。
そう考えた瞬間、足は勝手に戻っていた。
「拾うだけ。拾って、警察に届けるだけ。そう、善良な市民として」
自分への言い訳を口にしながら、イゾウはしゃがみ込んだ。
立方体に手を伸ばす。
指先が触れた。
その瞬間。
世界が、音を失った。
「――――」
街灯の光が伸びた。
アスファルトの黒が遠ざかった。
ビニール袋の感触が手から消え、代わりに、身体の奥を細い針で貫かれるような、冷たい感覚が走る。痛みではない。けれど確かに、何かが自分を通り抜けた。
視界が白く染まる。
いや、白ではない。星の色だった。
無数の光点が、イゾウの周囲に広がっていた。上も下もない。前も後ろもない。自分が立っているのか、浮いているのかも分からない。ただ、信じられないほど遠くまで、暗い空間と星の光が続いている。
そして、声がした。
『接続を確認』
女声とも男声ともつかない、冷静な声だった。
『現地知的生命体との接触プロトコルを開始。言語解析完了。暫定翻訳系、適用。個体認識開始』
「……は?」
イゾウは、間抜けな声を出した。
それ以外に出せる声がなかった。
星空の中心に、線が走る。黒い空間に、白い図面が描かれていくように、輪郭が浮かび上がった。巨大な構造物。船。いや、船というには大きすぎる。都市、というにも形が違う。細長く、複数の環状構造を持ち、光の筋をまとった何かが、暗黒の中に静かに存在していた。
宇宙船。
そうとしか言いようがなかった。
『対象個体、未登録。生体情報照合中。接触媒体との適合率、基準値以上。暫定管理者権限の付与を提案』
矢継ぎ早に言われても分からない。それどころか、何かが勝手に始まりそうな気配に、焦燥感だけが滲み出る。
「え、ちょ、待っ……」
『承認処理を開始』
静止の声も掠れて、上手く発音できない。心だけが先を走り、口がついていかなかった。
「いや俺、承認してな――」
『暫定管理者権限を付与しました』
そうやって、ただ慌てているうちに、何かが終わったらしい。
「早い!!」
思わず叫んだ声が、星空に吸い込まれる。
次の瞬間、イゾウの足元に床が生まれた。
透明にも黒にも見える、硬い材質の床。周囲には無数の光の線が流れ、遠くには巨大な窓のようなものが見える。その向こうには、見たこともない星の海が広がっていた。
イゾウは、その場に立っていた。
手には、まだコンビニの袋があった。
唐揚げ弁当とプリンが入っているはずの袋である。
その存在があまりにも日常的すぎて、逆に現実感が薄れた。
「……どこ?」
『太陽系外縁航行体、観測管理区画です』
「たいようけいがいえん」
理解が追いつかず、舌足らずな発音だけが口から漏れた。
『はい』
「宇宙船?」
『地球言語における近似表現としては、宇宙船で問題ありません』
イゾウは、ゆっくりと深呼吸した。
落ち着け。
落ち着くんだ、未船イゾウ。
これはおそらく、人生最大級の異常事態である。いや、最大級どころではない。普通の人生なら一生に一度も起きない。というか、人類史的にもだいぶ大きい。コンビニ帰りの大学生が太陽系外縁の宇宙船に接続されるなど、ニュースになれば世界が揺れる。
だが、ここで慌ててはいけない。
こういう時、重要なのは最初の振る舞いだ。
物語の導入で、主人公がどう反応するかは大切である。
いや、自分は主人公ではなく、キーパーソン側を志望しているのだが、それでも第一印象は重要だった。
「……なるほど」
イゾウは、できるだけ低い声を出した。
「つまり、俺が選ばれたということか」
『選定ではなく、接触媒体との偶発的適合です』
渾身の作ったそれらしい声での独り言を、バッサリと否定された。
「言い方」
『事実です』
こちらのツッコミにも、にべもない言葉が返ってくる。
「そこはもう少し、情緒を持ってくれてもよくない?」
『情緒補正を希望しますか』
「いや、急に補正されても怖い」
イゾウの拒否を受けても、声の調子は何ひとつ変わらなかった。情緒を足すでもなく、冗談を返すでもなく、AIはそのまま事務手続きを再開する。
『本船管理、及び船主活動補助・統括用AIです。暫定管理者であるあなたの補助を担当します』
「本船管理……船主活動補助AI……」
なんだか、何がとは言えないけれど、とにかく刺さるフレーズだった。
『以後、AIと呼称して問題ありません』
「雑だな」
思わず字面のロマン性に恍惚を浮かべかけた思考が、一瞬で塗りつぶされた。
こういう時のAIとかは普通、識別名称とか、コードネームとか、かっこいい設定がつくものだろう。そんな不満が反映された文句だった。
『識別に支障はありません』
イゾウは額を押さえた。
天井を見上げ、深い、深い溜め息を吐き出す。
しかしそんな態度とは裏腹に、頭の中では混乱と恐怖、そしてそれらを遥かに凌ぐ歓喜の感情が乱痴気騒ぎしていた。肩を組んで踊り明かし、大フィーバーだ。
宇宙船。
AI。
暫定管理者権限。
コンビニ帰り。
プリン。
情報量が多すぎた。
「えっと……俺の身体は?」
『地球上に存在しています。現在のあなたは、接触媒体を通じた意識接続状態です。肉体側には簡易行動補助を適用済みです』
「……待って。情報が三つくらい一気に来た」
つまり、意識だけが宇宙船にあり、身体は地球で勝手に動いているらしい。理解した瞬間、イゾウの背筋に冷たいものが走った。
「俺の身体を勝手に歩かせるな!!」
『路上で停止した場合、通行人から異常と判断される可能性が高いためです』
「理屈は分かるけど怖い!!」
叫びながら、イゾウは宇宙船の床にしゃがみ込んだ。
膝が震えている。
これは物語の始まりかもしれない。そう思った。確かに思った。思っていた。だが、実際に来られると怖い。非常に怖い。人間、妄想している時と現実に発生した時では、覚悟の種類が違う。
だが、それでも。
イゾウの口元は、少しずつ緩んでいた。
宇宙船。
AI。
暫定管理者。
どう考えても、これは始まりだった。
自分の人生に、ついに物語がやってきた。
「……来た」
『何がでしょうか』
「来たんだよ」
イゾウは立ち上がった。
さっきまで震えていたくせに、今度は無駄に大げさな動きで、星の海を見上げる。巨大な窓の向こうで、知らない光が瞬いていた。地球から見上げる星空とは違う。空気の揺らぎも、街の明かりもない、むき出しの宇宙だった。
彼は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「俺の物語が……!」
『現在、あなたを中心とした物語的事象は確認されていません』
「黙ってて」
『了解しました』
AIは黙った。
本当に黙った。
それはそれで寂しかった。
だが、その時のイゾウには、それさえも輝いて見えた。冷静なAI。謎の宇宙船。暫定管理者。これで何も起きないはずがない。起きない方がおかしい。
きっと、敵が来る。
あるいは、使命が告げられる。
宇宙の危機かもしれない。古代文明の遺産かもしれない。地球に迫る災厄かもしれない。イゾウ自身が戦う必要はない。むしろ戦闘能力などない。だが、主人公を見つけ、導くことならできるかもしれない。
イゾウは、その夜、宇宙船の観測区画でずっと星を見ていた。
弁当は、地球の自宅に戻ってから冷めた状態で食べた。
プリンは少しぬるくなっていた。
それでも、味はやけに甘かった。
そこから、一週間が過ぎた。
何も起きなかった。
「……まあ、準備期間だよな」
イゾウは自分に言い聞かせた。
宇宙船と接続されてからというもの、彼の日常は少し変わった。左耳に取り付ける小さなイヤーカフ型の端末を通じて、AIと会話できるようになった。立方体は、どうやら位相接続媒体というものらしく、イゾウの部屋の机の上に置かれている。
宇宙船との接続方法は、一つではなかった。
イヤーカフ型の端末を通じて、地上にいながらAIと会話することはできる。簡単な検索や生活補助、低権限の観測ならそれで足りた。肉体を地球側に置いたまま、意識だけを船内の観測区画へ投影することもできる。初めてこの船に来た時のイゾウがそうだった。
けれど、それで何でもできるわけではない。
船内設備を実際に動かすこと、生産区画で何かを作ること、位相転移や現地干渉を伴う作業には、船主本人の生体認証が必要になる。つまり、肉体ごと宇宙船へ上がらなければならない。
意識だけで済むのは、あくまで見ること、聞くこと、話すこと、考えることまで。現実に何かを動かすなら、本人がそこにいなければならないらしい。
もちろん、地球側のどこからでも自由に行き来できる便利ワープではない。安全な接続点から船へ上がることはできても、船から地上の任意地点へ降りた後、そこから即座に戻るには、また別の条件がいる。
その時のイゾウは、まだその制限を実感していなかった。
ただ、宇宙船の観測区画に立ち、星を見ながらAIと話す時間だけは、妙に気に入っていた。地上の端末で済む用件でも、わざわざ船へ上がる理由としては十分だった。
秘密基地感がある。
それは、未船イゾウにとってかなり重要なことだった。
AIに質問すれば、かなりのことを答えてくれる。
だが、その答えは大抵、イゾウが期待したものとは違っていた。
「なあAI、地球に迫ってる危機とかないの?」
『常時複数存在します』
「えっ」
『気候変動、資源分配、戦争リスク、感染症、経済格差、宇宙線、地殻変動、隕石衝突確率の長期的上昇――』
並べられた単語の重さに、イゾウは反射的に黙った。確かに危機ではある。危機ではあるのだが、彼が欲しかった導入はそういう現実の重みに真正面から殴られる類のものではなかった。
「そういう現実的に重いやつじゃなくて」
『指定が不明瞭です』
「もっとこう、宇宙怪獣とか、侵略艦隊とか、封印されし古代兵器とか」
『現時点で該当事象は確認されていません』
期待していた単語が一つも返ってこない。イゾウは、観測区画の床に視線を落とした。
「ないのか……」
『はい』
さらに一ヶ月が過ぎた。
何も起きなかった。
イゾウは講義に出た。課題を出した。たまに忘れた。AIに生活リズムを指摘された。
『睡眠時間が不足しています』
「大学生はみんなこんなもんだろ」
『一般化による正当化は推奨されません』
言い返せなかった。こういう時のAIは、下手な教授よりも容赦がない。
「うるさいな」
『カフェイン摂取量が増加しています』
イゾウは端末から目を逸らした。机の上には、開けたばかりの缶コーヒーがある。証拠品としてはあまりにも強かった。
「課題が悪い」
『課題はあなたに摂取を命じていません』
「正論やめろ」
さらに三ヶ月が過ぎた。
何も起きなかった。
イゾウは宇宙船の使い方にも慣れてきた。観測窓から地球を見たり、船内の構造を少しずつ歩いたり、AIから宇宙船の機能について説明を受けたりした。
転移。
観測。
物質分析。
環境制御。
記録保存。
ホログラム投影。
地球の科学では到底不可能な技術が、そこにはいくらでもあった。
だが、それらを使って何をするのかは、何も決まっていなかった。
「いや、宝の持ち腐れでは?」
『暫定管理者権限では、無制限の運用は不可能です』
「でもさ、俺が選ばれたなら、何かあるだろ」
『選ばれたという表現は正確ではありません』
ここでも否定されるのか、とイゾウは肩を落とした。もう少しくらい、夢を見させてくれてもいいのに。
「そこ否定するの本当にやめて」
『事実です』
さらに半年が過ぎた。
何も起きなかった。
季節は変わった。
イゾウは前期の単位に一喜一憂し、夏休みに少し生活リズムを崩し、後期が始まってまた課題に追われた。宇宙船は相変わらず太陽系外縁にあり、AIは相変わらず冷静で、地球は相変わらず普通に回っていた。
もちろん、世界には事件があった。
ニュースを開けば、事故も災害も政治問題も経済問題も流れてくる。だが、それはイゾウの物語ではなかった。イゾウが宇宙船で関わるような、明確な「始まり」は来なかった。
秘密組織からの接触もない。
異星人からの通信もない。
謎の美少女が窓から落ちてくることもない。
魔法陣が部屋に浮かぶこともない。
宇宙船を狙う敵も現れない。
イゾウは、普通に大学へ行き、普通に帰り、普通に飯を食べ、普通に寝た。
ただし、AIだけはいた。
『本日の歩数は目標値を下回っています』
「物語の導入が来ないからな」
『歩行量との因果関係は不明です』
当然のように切り捨てられた。イゾウはスマホを裏返し、見なかったことにしようとした。
『冷蔵庫内の賞味期限切れ食品を確認しました』
「それは見なかったことにして」
『安全衛生上、推奨されません』
見なかったことにするには、相手が正確すぎた。
『レポート提出期限まで残り十三時間です』
「お前、宇宙船のAIだよな?」
『はい』
「なんでやってることが生活指導なんだよ」
『現在、最も必要性の高い支援であるためです』
痛いところを突かれて、イゾウは天井を見た。
「ぐうの音も出ない」
そんな日々が、続いた。
そして、宇宙船と接続してから、ほぼ一年が経った。
その日、イゾウは観測区画にいた。
巨大な窓の向こうには、いつものように星の海が広がっている。初めて見た時は息を呑んだ光景も、一年も見ていれば、慣れるとまでは言わないが、日常の一部になってしまう。人間の順応力は恐ろしい。
イゾウは床に座り込んでいた。
手元にはコンビニで買った菓子パンがある。宇宙船の観測区画で食べるにはあまりにも生活感が強いが、この一年で彼はそういうことを気にしなくなっていた。宇宙船にいても腹は減るし、課題は出るし、菓子パンはうまい。
だが、その日は限界だった。
「なあ、AI。俺、いつまで待てばいい?」
『質問の対象が不明です』
「物語だよ。事件、使命、運命。主人公、敵、試練、導き。そういうやつ」
『現時点で、あなたを中心とした危機的事象は発生していません』
危機的事象、という言い方がもう違う。イゾウが求めているのは、その単語で処理される何かではない。もっと胸が高鳴って、意味深で、人生が変わるようなものだ。
「一年だぞ」
『接続からの地球時間経過は、三百四十六日です』
「ほぼ一年!! 宇宙船を拾ったんだぞ俺は!」
『正確には、接触媒体を拾得しました』
イゾウは立ち上がった。指摘は正確かもしれないが、今欲しいのは正確さではない。
「そこはどっちでもいい!!」
この一年、彼は待った。かなり待った。たぶん、普通の人間よりは辛抱強く待った。宇宙船を拾った時点で、何かしら起きると思うのは自然なはずだ。というか、起きない方がおかしい。
なのに、何も起きない。
宇宙船はある。
AIもいる。
技術もある。
しかし物語がない。
この状態は、逆に残酷だった。
「普通、こういうの拾ったら何かあるだろ!? なんかこう、地球の危機とか! 選ばれし主人公とか! 宇宙からの侵略者とか! 古代の封印とか! 俺が黒幕っぽく動く余地とか!!」
『黒幕っぽく動く余地』
「復唱するな!!」
『現在、該当する事象は確認されていません』
その冷静さが、今だけは余計に腹立たしかった。イゾウは両手を握りしめ、星の海を睨む。
「じゃあなんで俺に宇宙船なんか渡したんだよ!!」
『渡したわけではありません。偶発的接触です』
「知ってる!! 知ってるけど!!」
イゾウは両手を広げた。
星の海に向かって。
宇宙船の静かな観測区画に向かって。
一年分の不満を、全身で叫んだ。
「なにも!! おきない!!!!」
叫びは、広い区画に反響した。
宇宙船は静かだった。
星は瞬いていた。
AIは、数秒沈黙した。
その沈黙が、イゾウにはやけに長く感じられた。
やがて、AIが言った。
『ありますよ』
「……は?」
イゾウは固まった。
今、何と言った。
「あるの?」
『はい』
あまりにも平然と返されて、イゾウは逆に言葉を失いかけた。一年分の叫びを受け止めた返事にしては、温度が低すぎる。
「何が?」
『あなたの希望する表現に近いものです』
「……待て」
イゾウはゆっくりと振り返った。
観測区画の中央に、光が集まり始めていた。白ではない。青でもない。黒と金が混ざったような、不思議な光だった。線が走り、輪が重なり、まるで巨大な歯車か、古い劇場の天蓋のような構造が空間に浮かび上がっていく。
宇宙船の中に、もう一つ別の機構が現れる。
それはAIの無機質な表示とは違っていた。
やたらと大仰で、やたらと意味深で、やたらと「何か始まりそう」な見た目をしていた。
イゾウの心臓が、強く鳴った。
『本船中核補助機構の一つです』
AIが告げる。
『物語機構』
黒と金の輪が、ゆっくりと回転した。
その中心に、無数の光点が生まれる。星ではない。地球上の人間のようにも見えた。光点は互いに線で結ばれ、絡まり、枝分かれし、巨大な網のように広がっていく。
『現実世界に存在する個体の中から、物語的転機を迎える可能性のある人物を検索・観測する機構です』
「……主人公候補」
イゾウの声は、震えていた。
『近似表現としては、主人公候補で問題ありません』
主人公候補。
その言葉が、観測区画の中で輝いた気がした。
イゾウは一歩、光の輪に近づく。
胸の奥に、一年前と同じ熱が戻ってくる。いや、それ以上だった。宇宙船を拾った時には、まだ何が起きるか分からなかった。だが今、目の前にあるものは違う。
主人公候補を探す機構。
つまり、自分が求めていたもの。
主人公の前に現れる何者かになるための、入口。
「……あるなら」
イゾウは、ゆっくりと息を吸った。
怒りとも喜びともつかない感情が込み上げる。
そして叫んだ。
「あるなら最初から言えよ!!!!」
『質問されませんでした』
あまりに淡々とした返答だった。イゾウは一瞬、言葉を失い、それからすぐに一年分の納得のいかなさを取り戻した。
「しただろ!! 何回も!! それっぽいことを!!」
『具体性が不足していました』
「お前ほんとそういうとこだぞ!!」
AIは静かだった。
物語機構は、黒と金の輪を回し続けていた。
イゾウは文句を言いながらも、笑っていた。
我慢できなかった。
一年。
一年、何も起きなかった。
だが、その一年が、ただの空白ではなかったのだと、今は思えた。いや、思いたかった。待たされた分だけ、目の前の光は強く見えた。
イゾウは、物語機構の中心に浮かぶ無数の光点を見つめた。
そこには、まだ知らない誰かがいる。
主人公になるかもしれない誰か。
人生の転機を迎える誰か。
自分の知らない場所で、何かを選ぼうとしている誰か。
イゾウは主人公ではない。
勇者でもない。
世界を救う力もない。
だが、もし誰かの物語に関われるなら。
もし、誰かの前に現れるキーパーソンになれるなら。
それはきっと、彼がずっと夢見ていたものだった。
『検索条件を設定しますか』
AIが問う。
イゾウは、もう一度星の海を見た。
そして、黒と金の機構を見た。
胸の中で、何かがようやく動き出す音がした。
「する」
答えは、驚くほど自然に出た。
「主人公候補を探そう」
物語機構の輪が、静かに光を増した。
これは、世界を救う物語の始まりではない。
選ばれし勇者の旅立ちでもない。
宇宙船を拾った大学生が、最初に手を伸ばしたのは、自分の力でも、世界の危機でもなく、まだ見ぬ誰かの物語だった。
未船イゾウの物語は、ここから始まる。
ただしそれは、彼が主人公になる物語ではない。
少なくとも、この時の彼は、そう思っていた。