平凡な大学生ミフネイゾウはキーパーソンの夢を見るか   作:ココロ☆ソーダ☆クエン酸

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第2話 主人公適性検索、該当者多すぎ問題

 

「主人公候補を探そう」

 

 言った瞬間、未船イゾウは自分の声が少し震えていることに気づいた。

 

 観測区画の中央に浮かぶ黒と金の輪が、静かに回転している。宇宙船の窓の向こうには、相変わらず星の海が広がっていた。だが、さっきまでただの背景だったそれが、今はまるで舞台の幕のように見える。

 

 ついに始まる。

 

 一年近く何も起きなかった末に、ようやく。

 

 自分の前に、物語の入口が開いたのだ。

 

『主の求める詩篇を綴る検索条件を提示せよ』

 

 声がした。

 

 AIのものではない。

 

 低く、妙に芝居がかった、黒と金の輪そのものが喋っているような声だった。

 

「待って!? この偉そうなのが物語機構……喋るのか!?」

 

『然り。我が名は物語機構。人類史の蒐集、編集を行い、正しき進化を促す者なり』

 

「喋り方まで偉そう……!」

 

『検索条件を提示せよ』

 

「あ、はい」

 

 圧に負けた。

 

「条件って、具体的には?」

 

『対象範囲、年齢、地域、危険度、社会影響度、ジャンル傾向、介入許容度、転機発生予測時期などを指定可能である』

 

「待って待って。一気に現実の書類っぽくするな」

 

 イゾウは片手を上げた。胸の中ではまだ、主人公候補という単語が火花のように弾けている。なのに出てくる項目があまりにも実務的だった。神話みたいな名乗りをした直後に、役所の申請フォームみたいな項目を並べられても困る。

 

「もっとこうさ、あるだろ。選ばれし者を探す儀式感みたいな」

 

『条件未設定では、検索精度が著しく低下する』

 

「情緒より精度か」

 

『然り』

 

「そこは普通に肯定するのかよ」

 

 イゾウは黒と金の輪を見上げた。

 

 物語機構。

 

 現実世界に存在する個体の中から、物語的転機を迎える可能性のある人物を検索・観測する機構。AIはそう説明した。

 

 言ってしまえば、主人公候補を探すシステム。

 

 そんなものを目の前にして、冷静でいられるわけがない。

 

「じゃあ、まずは広めに検索してみよう。主人公っぽい人」

 

『定義が不明瞭である』

 

「だよな」

 

 イゾウも言った瞬間にそう思った。

 

 主人公っぽい人。

 

 便利な言葉ではあるが、あまりにも雑である。物語における主人公など、ジャンルによってまるで違う。勇者もいれば、探偵もいる。魔法少女もいれば、普通の高校生もいる。何なら、ただ朝ご飯を作るだけの人が主人公の作品だってある。

 

 だが、だからこそ面白い。

 

 誰かにとっての物語は、別の誰かにとっては日常かもしれない。逆もまた然りだ。

 

「じゃあ……物語的な転機を迎えそうな人。本人の選択次第で、人生が大きく変わりそうな人」

 

『条件を受理した。対象範囲を提示せよ』

 

「とりあえず地球全部」

 

『検索を開始する』

 

 黒と金の輪が、わずかに速度を上げた。

 

 中心に浮かんでいた光点が増える。ひとつ、ふたつ、十、百、千。数えることが馬鹿らしくなる速度で光が増え、観測区画の空間が、まるで夜空を内側からひっくり返したような眩しさに満たされていく。

 

 イゾウは、思わず一歩引いた。

 

「……多くない?」

 

『該当個体数、増加中』

 

「いや、増加中って言われても」

 

『一次条件該当個体、およそ七億四千万』

 

「多いって!!」

 

 叫んだ声が、観測区画に虚しく響いた。

 

 七億四千万。

 

 それはもう候補というより、だいたい人類である。

 

『補足する。現実世界において、人生の転機を迎える可能性は極めて一般的である。進学、就職、恋愛、病気、事故、死別、出産、移住、創作活動、犯罪被害、社会的挫折、偶発的出会い――』

 

「やめろやめろやめろ。情報の厚みが急に人生」

 

 イゾウはこめかみを押さえた。

 

 そうだ。

 

 考えてみれば当然だった。

 

 物語の主人公候補など、現実にはいくらでもいる。本人にとって人生が変わる瞬間なら、それは誰にでも訪れる。世界を救うかどうかだけが物語ではない。受験に落ちることも、告白することも、仕事を辞めることも、誰かと別れることも、本人にとっては十分に転機だ。

 

 黒と金の輪の中で、無数の光点が瞬いている。

 

 その一つひとつに、誰かの人生がある。

 

 そう思った途端、イゾウは少しだけ黙った。

 

 さっきまで「主人公候補」という言葉に浮かれていた。黒幕になれるかもしれない、キーパーソンになれるかもしれないと、胸が高鳴っていた。

 

 けれど、その候補たちはキャラクターではない。

 

 現実に生きている人間だ。

 

 誰かの娘で、誰かの友人で、誰かの恋人で、誰かの同級生で、誰かの同僚で、誰か自身だ。

 

 選ぶということは、その人の人生に触れるということだった。

 

「……これ、軽く選んじゃ駄目なやつだな」

 

『その判断は妥当である』

 

「その言い方も偉そうなんだよな……」

 

 イゾウは苦笑した。

 

 物語機構は、AIとは違う。冷静というより、大仰。実務的というより、いちいち仰々しい。ただ、それでも返ってくる言葉の中身には、妙な重さがあった。

 

 これを使えば、誰かの転機に関われる。

 

 それは夢だった。

 

 けれど夢は、責任から切り離されている間だけ都合がいい。

 

「絞ろう。まず、俺が関われる範囲」

 

『地域範囲を提示せよ』

 

「日本」

 

『理由を提示せよ』

 

「俺が日本語しか喋れないから」

 

 口に出すと、非常に情けなかった。

 

 宇宙船を拾った大学生。

 

 暫定管理者。

 

 物語機構の使用者。

 

 その最初の絞り込み理由が、外国語能力である。

 

『本船には高精度リアルタイム翻訳機能が存在します』

 

 芝居がかった物語機構の声ではなく、いつもの平坦なAIの声だった。どうやら、船の機能に関する話になると管轄が変わるらしい。

 

「あるの?」

 

『あります』

 

「じゃあ、海外もいけるのでは?」

 

 言った瞬間、イゾウの胸に少しだけ壮大なものが戻った。

 

 世界中から主人公候補を探す。

 

 国境を越えて、文化を越えて、誰かの人生の転機に関わる。かなりそれっぽい。むしろ宇宙船のスケールとしては正しい気がする。

 

 だが、AIはすぐに現実を戻してきた。

 

『ただし、音声翻訳の場合、発話内容と唇の動きにズレが生じます。対面接触時、相手に違和感を与える可能性があります』

 

「……あー」

 

 イゾウは口元に手を当てた。

 

 考えてみれば、確かにそうだ。翻訳音声が完璧でも、口の動きが違えば怪しい。映画の吹き替えですら気になる時があるのに、現実でそれをやれば不自然さは避けられない。

 

『加えて、文化圏ごとの作法、宗教観、社会制度、言語外コミュニケーションへの理解不足が、接触時の不審要素となる可能性があります』

 

「急に俺の社会性を殴るな」

 

『補足事項を提示します。あなたの英語能力は日常会話未満で、社交能力は必要最低限です』

 

「言い方ァ!」

 

 観測区画に、イゾウの悲鳴が響いた。

 

 事実ではある。

 

 事実ではあるが、宇宙船のAIに改めて言われると傷つく。大学の英語単位は取った。取ったが、取ったことと話せることは別問題だった。

 

 イゾウはしばらく目を閉じた。

 

 世界規模の物語。

 

 国境を越える出会い。

 

 グローバルな主人公候補検索。

 

 それらは美しい響きと共に、唇の動きと語学力と必要最低限の社交能力という、やたら現実的な壁に阻まれた。

 

「……国内で」

 

『委細承知した。対象範囲を日本国内に限定する』

 

「今の間、記録しなくていいからな」

 

『記録済みです。船主の発語パターンは本船サーバ内にログとして残ります』

 

 唐突に、AIがとんでもないことを告げてきた。

 

「プライバシーポリシーを守れよ!?」

 

『否定。その要求は管理権限には適用されません』

 

「管理者の人権どこ行った!?」

 

 黒と金の輪が、表示を絞り込んでいく。

 

 無数に散っていた光点が少しずつ減り、日本列島をかたどるような密度に変わる。それでも、光はまだ多い。都市部には星屑のような密集があり、地方にも点々と小さな光が存在していた。

 

『日本国内における一次条件該当個体、約八百四十万』

 

「まだ多いな!?」

 

『人生の転機は一般的である』

 

「それはもう分かったよ!」

 

 イゾウは両手で顔を覆った。

 

 八百四十万。

 

 数としては減った。減ったが、選べと言われて選べる量ではない。人類全部よりはマシ、程度である。

 

「危険度を下げよう。世界の危機とか、命に関わるやつは一旦除外」

 

『危険度低から中。初期社会影響度、低。対象を再抽出する』

 

「あと、俺が最初にやるには……小さい話がいい」

 

 言いながら、イゾウは少し照れた。

 

 小さい話。

 

 宇宙船を拾っておいて、それを言うのかという気もする。だが、今のイゾウにはいきなり世界を救う覚悟などない。黒幕やキーパーソンに憧れてはいるが、現実に誰かの命を背負うのは別だ。

 

 最初は、小さくていい。

 

 誰か一人が、明日を少し違うものにできるような。

 

 その程度の物語がいい。

 

『条件を追加する。初期介入規模、小。社会的波及、限定的。対象者本人の選択による転機成立可能性、高』

 

「本人の選択?」

 

『然り。外部干渉により結果を固定するのではなく、対象者本人の意思決定によって転機が成立する候補である』

 

 イゾウは、そこで少し息を止めた。

 

 本人の選択。

 

 その言葉は、思ったよりも強く胸に残った。

 

 誰かを選ぶ。

 

 誰かに関わる。

 

 なら、その人の選択を奪ってはいけない。

 

 イゾウは黒幕になりたい。キーパーソンになりたい。物語の裏側から、誰かの人生に関わりたい。

 

 けれど、結末を自分が決めたいわけではない。

 

 少なくとも、そうでありたいと思った。

 

「それで」

 

『再検索する』

 

 光点が、さらに減っていく。

 

 数百万から数十万へ。数十万から数万へ。まだ多い。けれど、見え方は変わっていた。ひとつひとつの光が、ただの点ではなく、誰かの輪郭を持ち始める。

 

 観測区画の空間に、断片的な映像が浮かんだ。

 

 夜の駅で、スマートフォンを握りしめる少年。

 

 病院の廊下で、靴紐を結び直す女性。

 

 体育館の隅で、ボールを抱えたまま立ち尽くす少女。

 

 古びたアパートの一室で、机に向かう青年。

 

 雨の歩道橋で、泣きそうな顔をして空を見る誰か。

 

 名前も知らない人々の、ほんの一瞬。

 

 それだけで、胸がざわついた。

 

 物語の始まりは、思ったよりも静かだった。

 

 もっと派手なものだと思っていた。空が割れるとか、魔法陣が浮かぶとか、謎の敵が現れるとか、そういうものを想像していた。

 

 けれど現実の転機は、たぶんもっと小さい。

 

 送信できないメッセージ。

 

 開けられない扉。

 

 言えなかった一言。

 

 行けなかった場所。

 

 誰にも見られないところで握りしめた拳。

 

「……これ、選ぶのきついな」

 

『選定を中止するか』

 

「しない」

 

 イゾウは即答した。

 

 中止はしない。

 

 怖い。責任がある。思ったより重い。

 

 それでも、しないという選択肢はなかった。

 

 ここでやめたら、この一年は本当に何も起きない一年で終わってしまう。宇宙船を拾って、AIに生活指導されて、終わり。それはあまりにも悲しい。

 

「ただ、俺が選んだからって、その人の人生を俺のものにしちゃ駄目だ」

 

『方針として記録するか』

 

「する」

 

 イゾウは黒と金の輪を見つめた。

 

 ここから先、たぶん自分は何度も間違えそうな気がした。憧れが強すぎる。黒幕ごっこが好きすぎる。自分の中の「それっぽさ」を優先して、誰かの大事なものを踏みそうな気がする。

 

 だから、今のうちに言葉にしておく必要があった。

 

「一つ。相手の選択を奪わない」

 

『記録した』

 

「二つ。相手の気持ちを操作しない」

 

『記録した』

 

「三つ。結末を俺が決めない」

 

『記録した』

 

 言い終えてから、イゾウは少しだけ恥ずかしくなった。

 

 何だか大層なことを言っている気がする。しかも言っている場所は宇宙船の観測区画で、相手はAIでもなければ人間でもない、妙に芝居がかった物語機構で、目の前には黒と金の輪が回っている。

 

 けれど、不思議と軽くはなかった。

 

 軽い言葉にしたくなかった。

 

『方針を暫定運用規則として保存した』

 

「暫定か」

 

『現在の権限では、正式規則化はできぬ』

 

「そこはちょっとかっこよくしてくれてもいいのに」

 

『事実である』

 

「分かったよ」

 

 イゾウは苦笑した。

 

 その時、黒と金の輪が低く鳴った。

 

 音というより、空間が震えたような感覚だった。表示されていた光点の一つが、ゆっくりと前に出る。輪郭が鮮明になる。名前、年齢、位置、周囲の関係性、転機予測。情報が層になって浮かんでいく。

 

『条件適合度の高い候補を提示する』

 

 表示された名前を、イゾウは読み上げた。

 

「三枝……ハル」

 

 映像が切り替わる。

 

 雨の降る夕方。

 

 学校帰りらしい少女が、駅前の屋根の下で立ち止まっている。手にはスマートフォン。画面には、まだ送信されていない短い文章があった。何度も打ち直された跡がある。送るか、消すか。その間で、指が止まっている。

 

 顔立ちは特別派手ではない。物語の主人公として分かりやすく輝いている、というより、どこにでもいそうな少女だった。制服の袖が少し濡れていて、前髪の先から水滴が落ちそうになっている。彼女は画面を見つめて、結局、送信ボタンを押さなかった。

 

『個体名、三枝ハル。推定ジャンル傾向、学園恋愛。転機発生予測、近接。初期危険度、低。社会的波及、低。本人選択依存度、高』

 

「恋愛」

 

 イゾウは反射的に呟いた。

 

 宇宙船。

 

 AI。

 

 主人公候補検索。

 

 その最初の候補が、恋愛。

 

 拍子抜けしたかと言えば、少しした。だが、がっかりしたわけではなかった。

 

 むしろ、妙に生々しかった。

 

 世界を救うより、好きな人に言葉を届ける方が難しい日だってある。少なくとも、その人にとっては。

 

「この子は、何に迷ってるんだ?」

 

『詳細表示を望むか』

 

 イゾウは口を開きかけて、止まった。

 

 詳細。

 

 見ようと思えば、見られるのだろう。彼女が誰を好きなのか。どんなメッセージを書きかけているのか。相手がどう思っているのか。過去の会話、表情、心拍、予測される成功率。

 

 宇宙船なら、そこまで見えてしまうのかもしれない。

 

 だが、それを見た瞬間、自分はどう動くだろう。

 

 成功率の高い言葉を選びたくならないか。失敗しそうなタイミングを避けさせたくならないか。相手の気持ちを勝手に読み取って、都合のいい状況を作りたくならないか。

 

 それは、支援ではなく操作ではないのか。

 

「……いや、今はいい」

 

『詳細表示を保留する』

 

「必要最低限でいい。何をすればいいかじゃなくて、何をしちゃ駄目かを知りたい」

 

 言いながら、イゾウ自身も少し驚いていた。

 

 こんなに早く、自分でブレーキを踏むとは思っていなかった。もっと浮かれて、もっと見たがって、もっと知りたがると思っていた。

 

 だが、三枝ハルの映像を見た瞬間、少し怖くなったのだ。

 

 彼女は、こちらを知らない。

 

 宇宙船のことも、物語機構のことも、未船イゾウのことも知らない。

 

 そんな相手の人生を、画面越しに覗きすぎるのは、たぶん良くない。

 

『個体名・三枝ハルに対し、直接的な感情誘導、記憶改変、強制的接触機会の生成は非推奨である』

 

「非推奨ってことは、できるのか?」

 

 今度はAIの声が答えた。

 

『権限上、実行不能な項目も含まれます』

 

「そこは全部不能であってくれ」

 

 イゾウは顔をしかめた。

 

 できるかどうかではない。

 

 やっていいかどうかだ。

 

 その違いを、たぶん自分はこれから何度も間違えそうになる。

 

 だから、覚えておかなければならない。

 

「本人が自分で言葉を出せるようにするには……」

 

 映像の中で、三枝ハルはスマートフォンを鞄にしまった。

 

 雨はまだ降っている。

 

 彼女はほんの少し迷ってから、駅とは逆の方向へ歩き出した。古い商店街の方角だった。シャッターの下りた店、明かりの少ない路地、雨に濡れた看板。画面の中の彼女は、どこかへ行きたいようで、どこにも行けないように見えた。

 

 イゾウは腕を組んだ。

 

 自分がこの子の前に現れるとしたら、どういう存在がいいのか。

 

 突然の謎の男。

 

 それは駄目だ。不審者である。

 

 路地裏に立って「君は今、運命の分岐点にいる」とか言う。

 

 駄目だ。通報される。

 

 学校に潜入する。

 

 論外だ。大学生が高校に入り込むのは、だいぶ危ない。

 

 では、どうする。

 

 彼女が自分で立ち止まれる場所。

 

 言葉を整理できる場所。

 

 誰かに急かされず、でも一人で抱え込みすぎない場所。

 

 イゾウの頭の中で、古い物語の場面が浮かんだ。

 

 迷った主人公が、偶然入った喫茶店。

 

 カウンターの向こうにいる、少し変わったマスター。

 

 出された温かい飲み物。

 

 核心は突かない。答えも押しつけない。ただ、主人公が自分の言葉に気づくまで、静かに場所を貸す。

 

 それは、かなりキーパーソンっぽかった。

 

「喫茶店」

 

『喫茶店』

 

「喫茶店だ」

 

 イゾウは、顔を上げた。

 

 物語機構の光が、彼の瞳に映る。

 

「主人公が迷った時に立ち寄る、ちょっと雰囲気のある喫茶店。そこでマスターがさりげなく言うんだよ。答えはもう、君の中にあるんじゃないかな、みたいな」

 

『発言内容の抽象度が高く、実効性は不明である』

 

「うるさいな。雰囲気が大事なんだよ」

 

 イゾウの声には、さっきまでとは違う熱が戻っていた。

 

 世界を救うわけではない。

 

 敵を倒すわけでもない。

 

 最初の物語は、たぶん片想いの女の子が、自分の言葉をどうするかの話だ。

 

 それでも、胸が鳴った。

 

 自分が主人公になるのではない。

 

 誰かが自分の言葉を選ぶ、そのための場所を作る。

 

 それは、イゾウが思い描いていた派手な非日常とは少し違う。いや、かなり違う。もっと爆発とか、組織とか、意味深な暗号とかがあってもよかった。

 

 だが、不思議と悪くなかった。

 

「この子の話を動かすんじゃない。場所を作る。立ち止まれる場所を」

 

『方針を記録する』

 

「計画名もいるな」

 

『必要性は確認できぬ』

 

「ある。こういうのは名前が大事なんだよ」

 

 イゾウは少し考えた。

 

 最初の物語。

 

 始まりの前に立ち寄る場所。

 

 主人公が、自分の物語を始めるかどうかを決める場所。

 

 プロローグ。

 

 その言葉が浮かんだ瞬間、イゾウは小さく頷いた。

 

「喫茶プロローグ」

 

『名称を記録するか』

 

「する」

 

『喫茶プロローグ計画として登録した』

 

 黒と金の輪の傍らに、小さな文字列が浮かび上がる。

 

 喫茶プロローグ計画。

 

 それは、宇宙船を拾った大学生が最初に立てた計画名としては、少し地味だった。

 

 世界救済計画ではない。

 

 侵略阻止作戦でもない。

 

 古代兵器封印任務でもない。

 

 喫茶店を作る計画。

 

 イゾウは自分で少し笑った。

 

「なんか、思ってた非日常と違うな」

 

『中止するか』

 

「しない」

 

 答えは早かった。

 

 違う。

 

 確かに、思い描いていたものとは違う。

 

 だが、胸は鳴っている。

 

 黒幕の玉座でも、秘密組織の司令室でも、世界を救う作戦会議でもない。最初にやることが、片想いに迷う少女のための喫茶店作りだとしても。

 

 それでも、始まりには違いなかった。

 

「やるよ」

 

 イゾウは観測区画の窓の向こう、遠い地球を見た。

 

 そこに三枝ハルがいる。

 

 まだこちらを知らない、物語の候補者がいる。

 

「まずは、喫茶店だ」

 

『具体的実行手順を検討するか』

 

「する」

 

 イゾウは自信ありげに頷いた。

 

 その時点で、彼はまだ知らなかった。

 

 喫茶店とは、雰囲気だけで開けるものではない。

 

 掃除、許可、衛生、設備、仕入れ、金銭、接客。

 

 そして、場所を作るということは、思っているよりもずっと現実的で面倒なことだということを。

 

 宇宙船を拾った大学生が、最初に始めたのは世界を救う計画ではなかった。

 

 秘密組織を作る計画でも、異星人と戦う計画でもなかった。

 

 それは、誰かが自分の言葉を選ぶための、喫茶店を開く計画だった。

 

 思い描いていた非日常とは、だいぶ違う。

 

 けれど、それでも。

 

 未船イゾウの胸は、確かに高鳴っていた。

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