平凡な大学生ミフネイゾウはキーパーソンの夢を見るか   作:ココロ☆ソーダ☆クエン酸

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第3話 秘密基地を喫茶店にするな

 

 

 喫茶店を開く。

 

 その言葉には、未船イゾウにとってかなりのロマンがあった。

 

 古びた木製の扉。低く鳴るベル。少し暗めの照明。カウンター越しに漂うコーヒーの香り。悩める主人公がふらりと立ち寄り、店主が意味深に微笑みながら、温かい飲み物と一緒に人生のヒントを出す。

 

 完璧だ。

 

 どう考えてもキーパーソンである。

 

 勇者に剣を渡す老人、魔法少女に契約を迫る妖精、探偵に情報を流すバーのマスター。そういう存在の現代日本版として、喫茶店のマスターはあまりにも強い。場所を持つ者は強い。物語において「いつでもそこにいる人」は、それだけで意味がある。

 

「つまり、俺は喫茶店のマスターになる」

 

 観測区画で腕を組み、イゾウは高らかに宣言した。

 

『資格、経験、店舗、衛生管理、営業許可、仕入れ、人員、資金、接客訓練、調理技術、清掃計画、収支計算が不足しています』

 

「一息で夢を殺すな」

 

 AIの返答は、いつも通り容赦がなかった。

 

 観測区画の中央では、黒と金の輪がゆっくりと回転している。物語機構は、先ほど提示した候補者――三枝ハルの情報を、最低限の範囲で表示したままだった。

 

 雨の日の駅前。

 

 送信されないメッセージ。

 

 言葉を飲み込んだまま歩き出す少女。

 

 イゾウが最初に関わると決めた物語は、世界の危機ではなく、学園恋愛だった。

 

 正直に言えば、拍子抜けした部分はある。

 

 だが、それ以上に、妙な緊張があった。

 

 相手は怪物ではない。敵組織でもない。宇宙からの侵略者でもない。片想いに迷う、普通の少女だ。だからこそ、雑に扱えない。派手な事件なら、派手な力で対処すればいい場面もあるかもしれない。だが、人の言葉や気持ちに関わるなら、雑な演出はそのまま暴力になる。

 

 だから、場所が必要だった。

 

 急かさず、誘導しすぎず、けれど一人で抱え込みすぎない場所。

 

 イゾウの中で、その答えが喫茶店だった。

 

「別に本格営業じゃなくていいんだよ。まず一日だけとか、試験的に開けるとか、そういう感じで。問題なければ、同じ形でもう何回か。ほら、物語でもあるじゃん。期間限定で現れる不思議な店」

 

『現実の営業行為には、各種法令及び衛生上の基準が関係します』

 

「分かってる。分かってるから、現実的にできる範囲を探すんだよ」

 

『候補地を検索しますか』

 

「して」

 

 言ってから、イゾウは少し身構えた。

 

 前回の主人公候補検索で、いきなり七億四千万という数字を見せられたばかりだ。喫茶店候補地も、膨大な数を出されるかもしれない。空き店舗、レンタルスペース、コミュニティ施設、知り合いの家、大学周辺の店。検索条件を間違えれば、また情報の海に溺れる。

 

『検索条件を指定してください』

 

「まず、三枝ハルの生活圏に近いこと。学校や駅から不自然じゃなく立ち寄れる場所」

 

『条件受理』

 

「それから、俺が一日だけでも関われる可能性がある場所。いきなり新規開業は無理だから、元喫茶店とか、休業中の店とか」

 

『条件受理』

 

「あと、雰囲気」

 

『定義が不明瞭です』

 

「出たな」

 

 イゾウは額を押さえた。

 

 雰囲気。

 

 それは大事だ。非常に大事だ。喫茶店というものは、飲み物を出すだけの場所ではない。少なくともイゾウの中ではそうだった。椅子の軋む音、棚に並んだカップ、古いレコード、少し曇った窓、雨の日にやけに似合う照明。そういうものが、主人公の心をゆっくりほどいていく。

 

 だが、AIにとっては数値化しづらいらしい。

 

「えっと……古いけど清潔感があって、静かで、雨の日が似合って、常連客がいそうで、でも初めて来た人も拒まない感じ」

 

『主観的評価項目が多数含まれます』

 

「だろうな」

 

『近似条件として、旧喫茶店、木製内装、低照度、駅徒歩圏内、休業中、地域評価における落ち着いた印象、を設定します』

 

「できるじゃん」

 

『完全ではありません』

 

「いいよ。完全じゃなくて」

 

 検索が始まった。

 

 観測区画の空間に、地図情報と候補店舗らしい画像が浮かんでいく。いくつかは明らかに駄目だった。駅から遠い。内装が明るすぎる。休業中ではなく普通に営業している。外観がチェーン店にしか見えない。物語の舞台にするには、少し現実が強すぎる。

 

 その中で、一つの候補が表示された。

 

 古い商店街の端。

 

 駅から徒歩十分ほど。

 

 現在は閉店中。

 

 木製の扉。小さな窓。色あせた緑色の看板。

 

 看板には、かすれた文字でこう書かれていた。

 

 喫茶グリーンベル。

 

「……これだ」

 

 イゾウは思わず呟いた。

 

 理由を説明しろと言われると困る。

 

 だが、見た瞬間に思った。

 

 ここだ、と。

 

 店の前には、古い街灯がある。雨の日なら、きっと光が滲むだろう。窓は少し小さく、中の様子は外からは見えすぎない。けれど閉じきっているわけでもない。扉の上には、たぶん昔は鳴っていたであろう小さなベルがついている。

 

 主人公が迷い込む場所として、申し分ない。

 

『当該店舗は、三年前に閉店しています。現在の所有者は春日井武。年齢四十七歳。旧店舗所有者の相続人です』

 

「春日井武さん」

 

『はい。旧店舗名は喫茶グリーンベル。先代店主は春日井武の父、春日井悟の祖父にあたる人物です』

 

「……待って、春日井悟?」

 

 表示された名前に、イゾウは目を止めた。

 

 春日井悟。

 

 三枝ハルの周辺情報に、すでに出てきていた名前だった。細かい関係までは表示していない。表示しないと決めた。けれど、彼女の転機に近い人物であることだけは分かっている。

 

『春日井悟は、春日井武の子です。喫茶グリーンベルには幼少期から出入りしていた記録があります』

 

「ハルちゃんの近くにいる人の、家の店……」

 

 偶然と言うには、少し出来すぎている。

 

 だが、物語機構が提示した候補地としては、むしろ当然なのかもしれない。三枝ハルが立ち止まる可能性のある場所。春日井悟の記憶に残っている場所。閉じたままになっている、誰かの祖父の喫茶店。

 

 イゾウは、古い緑色の看板を見つめた。

 

「連絡は取れる?」

 

『公開情報、地域記録、登記情報から、所有者への接触経路の推定は可能です。ただし、個人情報の扱いには注意が必要です』

 

「そこはちゃんとする。いきなり宇宙船経由で押しかけたりしない」

 

 イゾウは言い切った。

 

 言い切ったあとで、自分が今いる場所が宇宙船であることを思い出し、少しだけ説得力に不安を覚えた。

 

 翌日、イゾウは商店街にいた。

 

 空は曇っていたが、雨はまだ降っていない。アーケードの一部は古く、店の半分ほどはシャッターを下ろしている。営業している店もあるにはあるが、どこか時間がゆっくりしていた。新しい街の賑わいではなく、長く使われて、少しずつ人通りが減っていった場所の空気がある。

 

 その端に、喫茶グリーンベルはあった。

 

 実際に見ると、写真よりも小さい。

 

 そして、写真よりも古い。

 

 木製の扉には細かな傷があり、ガラスには薄く埃がついている。緑色の看板は色が抜け、文字の端が少し剥げていた。けれど、不思議と寂れているだけには見えなかった。

 

 閉じている。

 

 けれど、終わりきってはいない。

 

 そんな印象だった。

 

「……いいな」

 

『主観的評価を確認』

 

 左耳のイヤーカフから、AIの声が聞こえた。

 

 イゾウは反射的に耳元を押さえそうになり、慌てて手を下ろした。スパイ映画なら格好いい仕草かもしれないが、普通の商店街でやれば少し怪しい。

 

「今のは記録しなくていいから」

 

『記録済みです』

 

「お前ほんとそういうとこだぞ」

 

 小声で返してから、イゾウは喫茶グリーンベルの隣にある古い文具店へ向かった。AIが調べたところ、春日井武は現在、この文具店の奥にある住居部分にいることが多いらしい。元々は喫茶店と文具店の両方が春日井家の持ち物で、今は喫茶店だけが閉じられているという。

 

 文具店の扉を開けると、小さな鈴が鳴った。

 

 棚にはノート、封筒、鉛筆、のり、色紙、昔ながらの事務用品が並んでいる。奥のカウンターには、短く髪を刈った男性が座っていた。四十代後半くらいだろう。作業着の上にエプロンをつけ、伝票のようなものを確認している。

 

 男性は顔を上げ、イゾウを見た。

 

「いらっしゃい」

 

 低いが、穏やかな声だった。

 

 この人が春日井武だろう。

 

 イゾウは、妙に緊張している自分に気づいた。

 

 相手は魔王ではない。秘密組織の幹部でもない。ただの商店街の文具店主であり、閉じた喫茶店の所有者だ。だが、自分の最初の計画は、この人に断られた瞬間に終わる。

 

 宇宙船も、AIも、物語機構も、こういう場面では何の役にも立たない。

 

 口を開くのは、自分だ。

 

「あの、すみません。春日井武さんで合ってますか」

 

「そうですが」

 

「未船イゾウと言います。突然すみません。少し、隣の喫茶グリーンベルのことでお話があって来ました」

 

 春日井武は、伝票を置いた。

 

 動作は穏やかだったが、目だけは少し慎重になった。

 

「店のこと?」

 

「はい」

 

「買いたいって話なら、断ってます。貸したいって話も、基本は受けてないんです」

 

「あ、いえ、そういう大きい話ではなくて」

 

 イゾウは慌てて首を振った。

 

 買う。

 

 借りる。

 

 その単語が出てきただけで、現実の重さが急に増した。こちらはまだ「ちょっと雰囲気のある喫茶店を一日だけ」くらいの感覚だったのだと、少し恥ずかしくなる。

 

 武は、黙って続きを待っていた。

 

 その沈黙が、逆に逃げ道を塞ぐ。

 

 イゾウは息を吸った。

 

「一日だけ、喫茶店として使わせてもらえないかと思って」

 

「一日?」

 

「はい。正確には、まず一日だけです。いきなり営業再開とか、店を借りるとか、そういう大きい話じゃありません。武さんの立ち会いのもとで、試験的に少しだけ店を開けられないかと思って」

 

 イゾウは、そこで一度言葉を切った。

 

 自分で口にしながら、これがただの思いつきでは済まない話だと分かってきた。店を開けるということは、場所を動かすということだ。閉じていた記憶に触るということでもある。

 

「もしその一日で問題がなければ、同じ形で、もう何度か開けられたらと思っています。もちろん、無理ならそこで終わりで大丈夫です。正式な営業再開にしたいわけではありません」

 

 武は、すぐには答えなかった。

 

 その沈黙に、イゾウは少しだけ背筋を伸ばす。

 

「ただ……あの店が、すごく良い場所に見えて。誰かが少し立ち止まれる場所になるんじゃないかと思ったんです」

 

 言いながら、自分でも言葉が足りないと思った。

 

 すごく良い場所。

 

 誰かが少し立ち止まれる場所。

 

 それだけで伝わるわけがない。

 

 だが、何をどう説明すればいいのか分からなかった。宇宙船で主人公候補を検索して、片想いに迷う少女のために喫茶店を開きたい、などと言えるはずもない。言ったら終わりだ。

 

「喫茶店が好きなんですか」

 

 武が尋ねた。

 

 イゾウは少し考えた。

 

 好きかと聞かれると、難しい。

 

 コーヒー豆に詳しいわけではない。喫茶店巡りが趣味だったわけでもない。サイフォンとドリップの違いも、説明しろと言われたら怪しい。

 

 好きなのは、たぶん喫茶店そのものというより、物語の中に出てくる喫茶店だ。

 

 だが、それをそのまま言っても軽く聞こえる気がした。

 

「喫茶店というか……誰かが少し立ち止まれる場所が好きです」

 

 武の目が、ほんの少し細くなった。

 

「立ち止まれる場所」

 

「はい。何かを決める前に、少しだけ座れる場所というか。すぐ答えを出せって急かされない場所というか」

 

 言葉にしてみると、思っていたよりも本音に近かった。

 

 主人公候補。

 

 三枝ハル。

 

 送信されなかったメッセージ。

 

 そういうものを抜きにしても、自分はそういう場所に憧れていたのかもしれない。

 

 武はしばらく黙っていた。

 

 それから、店の奥へ声をかけた。

 

「悟。ちょっと来てくれ」

 

 イゾウの背筋が、わずかに伸びた。

 

 悟。

 

 春日井悟。

 

 三枝ハルの転機に近い人物。

 

 その名前が、このタイミングで出てきた。

 

 奥の住居へ続く戸が開き、高校生くらいの少年が顔を出した。制服姿ではなく、私服だった。落ち着いた顔立ちで、目元には少しだけ眠そうな雰囲気がある。だが、店内に立つイゾウを見ると、すぐに表情を整えた。

 

「なに、父さん」

 

「この人が、グリーンベルをまず一日だけ開けたいそうだ。問題がなければ、同じ形でもう何度か」

 

「グリーンベルを?」

 

 悟の目が、はっきりと変わった。

 

 驚きと、懐かしさと、少しだけ嬉しさ。

 

 その反応だけで、イゾウは分かった。

 

 この少年は、あの喫茶店を本当に好きだったのだ。

 

 悟はイゾウを見た。

 

「あの店、開けるんですか」

 

「できれば、です。もちろん、お父さんが許してくれたらですけど」

 

「……じいちゃんの店が開くなら、俺は嬉しいです」

 

 悟はそう言った。

 

 それは、かなりまっすぐな言葉だった。

 

 イゾウは一瞬、返事に詰まった。

 

 じいちゃんの店。

 

 その言い方だけで、喫茶グリーンベルが単なる空き店舗ではないことが分かる。誰かの祖父が立っていた場所。誰かの子供時代に残っている場所。誰かが閉じたまま、手放せずにいる場所。

 

 自分はそこを、物語の舞台にしようとしている。

 

 その事実が、急に重くなった。

 

 武は、悟の顔を見てから、カウンターの奥にかけてあった鍵を取った。

 

「店、見ますか」

 

「え」

 

「話はそれからで」

 

 喫茶グリーンベルの扉が開く。

 

 鍵が回る音は、思ったよりも硬かった。

 

 武が扉を押すと、上についていた小さなベルが、かすれた音を立てた。長く鳴っていなかったせいか、澄んだ音ではない。少し引っかかって、少し遅れて、けれど確かに鳴った。

 

 中は、薄暗かった。

 

 カウンター席が五つ。二人掛けのテーブルが三つ。奥には小さな棚と、古いレジ。壁には色あせたメニュー表が残っている。椅子には布がかけられ、カウンターの上には埃が薄く積もっていた。

 

 コーヒーの香りはしない。

 

 代わりに、木と埃と、閉じた空気の匂いがした。

 

「……すごい」

 

 イゾウは小さく呟いた。

 

 綺麗ではない。

 

 すぐに営業できる状態でもない。

 

 だが、そこには確かに時間があった。

 

 誰かが座っていた場所。誰かが話していた場所。誰かが黙ってコーヒーを飲んでいた場所。使われていない今でも、その名残が残っている。

 

 秘密基地だ。

 

 そう思いかけて、イゾウは自分で首を振った。

 

 違う。

 

 ここは秘密基地ではない。

 

 誰かの店だった場所だ。

 

「秘密基地みたいだと思いました?」

 

 横から、悟が言った。

 

 イゾウは肩を跳ねさせた。

 

「い、いや」

 

「思いましたよね」

 

「……少し」

 

 誤魔化せなかった。

 

 悟は怒らなかった。ただ、懐かしそうに店内を見回した。

 

「俺も小さい頃、そう思ってました。じいちゃんの店って、なんか秘密基地みたいで。ここに来れば、外とは違う時間が流れてる気がして」

 

 悟はカウンターに近づき、布のかかった椅子を一つ見た。

 

「でも、じいちゃんにはよく怒られました」

 

「怒られた?」

 

「店は秘密基地じゃないって。店主の夢を飾る場所でもないって」

 

 悟の声は静かだった。

 

 けれど、その言葉にはどこか、人から受け取って大事にしてきた重みがあった。

 

「店は、客が時間を使いに来る場所だって」

 

 その言葉は、思ったよりも深く刺さった。

 

 イゾウはカウンターを見た。

 

 自分が思い描いていた喫茶店は、かなり自分に都合が良かったのかもしれない。キーパーソンとして立つ場所。主人公に意味深な言葉をかけるための舞台。自分が「そういう人物」になるためのセット。

 

 だが、悟の祖父が言ったらしい喫茶店は違う。

 

 客が時間を使いに来る場所。

 

 それは、イゾウのための舞台ではない。

 

 武がカウンターの上を指でなぞった。

 

 指先に埃がつく。

 

 それを見て、イゾウは少しだけ背筋を伸ばした。

 

「まず一日だけ、試験的に使いたいと言いましたね」

 

「はい」

 

「一日でも、店は店です。掃除もいる。火を使うなら確認もいる。飲み物を出すなら衛生もいる。人を入れるなら、何かあった時に責任もある」

 

「……はい」

 

「雰囲気だけで喫茶店はできません」

 

 武の声は厳しかった。

 

 けれど、突き放すだけの声ではなかった。

 

「コーヒーは淹れられますか」

 

「練習します」

 

「今は?」

 

「……動画で見たことはあります」

 

 武と悟が、同時に黙った。

 

 沈黙が痛い。

 

「動画で見たことがある、ですか」

 

 武が言った。

 

「はい」

 

「包丁を動画で見たことがある人間に、台所を任せたいと思いますか」

 

「思わないです」

 

「そういうことです」

 

 何も言い返せなかった。

 

 AIが言う正論とは違う。人間が、店を守ってきた家の人間が言う正論は、逃げ場がない。

 

 イゾウは肩を落とした。

 

 自分はやはり、喫茶店を「雰囲気」で見ていたのだ。

 

 物語の舞台として。

 

 キーパーソンの配置場所として。

 

 だが、その舞台には掃除があり、許可があり、練習があり、責任がある。

 

「すみません。考えが甘かったです」

 

 イゾウは頭を下げた。

 

 武は、何も言わなかった。

 

 悟も黙っていた。

 

 店内の古い時計は止まっていた。外の商店街から、遠く自転車のブレーキ音が聞こえる。閉じた喫茶店の中で、イゾウは頭を下げたまま、少しだけ唇を噛んだ。

 

 駄目だったか。

 

 そう思った。

 

 その時、悟が言った。

 

「でも、開くなら、見たいです」

 

 イゾウは顔を上げた。

 

 悟は、少し照れたように視線を逸らした。

 

「じいちゃんが亡くなってから、ここ、ずっと閉じてたから。父さんも手放せないし、俺も開けてほしいって簡単には言えなかった。でも、一日だけでも開くなら……嬉しいです」

 

 その言葉は、イゾウに向けられているようで、半分は店に向けられているようだった。

 

 武は息を吐いた。

 

「甘いが、悪いとは言ってない」

 

 イゾウは、今度こそ武を見た。

 

「まず一日だけなら、営業ではなく試飲会に近い形にします。私が管理者として立ち会う。金は取らない。出すのはコーヒーと紅茶程度。食べ物は出さない。火は私が見る。あなたは掃除と接客と、コーヒーの練習」

 

「え」

 

「その一日で問題がなければ、同じ形でもう数回だけ開けることは考えます」

 

 武は、そこで少しだけ店内を見回した。

 

「ただし、勘違いしないでください。私はこの店を正式に再開するつもりはありません。父の店を、私が継げるわけでもない」

 

 その声には、諦めとは違う重さがあった。

 

 手放せない。

 

 けれど、簡単に動かすこともできない。

 

 喫茶グリーンベルは、そういう場所なのだと分かった。

 

「それでも、閉じたまま埃をかぶらせ続けるだけが正しいとも思っていません。だから、試すだけです」

 

 武はイゾウを見た。

 

「やりますか」

 

 問いは短かった。

 

 だが、そこには逃げ道がなかった。

 

 イゾウは一瞬だけ、宇宙船のことを思い出した。観測区画。物語機構。三枝ハル。喫茶プロローグ計画。自分は確かに、勢いで計画名までつけた。

 

 だが、今問われているのは、ロマンではない。

 

 掃除をするか。

 

 練習をするか。

 

 責任の一部を持つか。

 

 その程度の現実だ。

 

 だからこそ、答えるべきだった。

 

「やります」

 

 イゾウは言った。

 

「やらせてください」

 

 武は、少しだけ頷いた。

 

「なら、まず掃除です」

 

 そこから、喫茶プロローグ計画は一気に現実になった。

 

 そして現実は、かなり埃っぽかった。

 

 椅子を動かし、布を外し、テーブルを拭き、床を掃く。棚の中のカップを確認し、使えるものと使えないものを分ける。古いフィルターを処分し、シンクを磨き、窓を拭く。木の床には細かな傷があり、カウンターの隅には昔の染みが残っていた。

 

 イゾウは、開始三十分で息が上がった。

 

「喫茶店って、もっと優雅なものでは」

 

「客から見えるところだけは」

 

 武は容赦なく雑巾を渡してきた。

 

 イゾウは受け取るしかなかった。

 

 左耳のイヤーカフから、AIの声が聞こえる。

 

『心拍数の上昇を確認』

 

「励まして」

 

『運動不足の改善機会です』

 

「そういうんじゃなくて」

 

『清掃範囲は残り七十二パーセントです』

 

「絶望を数値化するな」

 

 小声で抗議しながら、イゾウは窓を拭いた。

 

 布でこすると、曇っていたガラスが少しずつ透明になる。外の商店街が見えた。通り過ぎる人の姿。向かいの店の看板。灰色の空。

 

 その向こうに、三枝ハルが歩いてくるかもしれない。

 

 そう思うと、手が少しだけ速くなった。

 

 途中から、悟も掃除に加わった。

 

 学校はどうしたのかと聞くと、今日は休みだと言われた。そう言われてみれば休日だった。宇宙船で物語機構を見ていた時間感覚が、少しだけ怪しくなっている。

 

 悟は慣れた手つきで、棚の奥から古いカップを出していく。

 

「これ、じいちゃんが好きだったやつです」

 

「使っていいの?」

 

「父さんがいいって言えば。俺は、使われた方が嬉しいと思います」

 

 悟はカップを光にかざした。

 

 そこには、イゾウがまだ知らない時間があった。

 

 掃除が終わる頃には、腕が重くなっていた。

 

 しかし店は、確かに変わっていた。

 

 埃をかぶっていたカウンターに木の色が戻り、窓から入る光が少し柔らかくなった。椅子もテーブルも古いままだが、布を外すと、閉じ込められていた場所が息をし直したように見えた。

 

 武と悟は、それを黙って見ていた。

 

「少し、店に戻ったな」

 

 武の声は小さかった。

 

 イゾウは返事をしようとして、やめた。

 

 今の言葉は、軽く受け取っていいものではない気がした。

 

 代わりに、もう一度カウンターを拭いた。

 

 次は、コーヒーだった。

 

 ただし、武はコーヒーの淹れ方を細かく教えてくれるわけではなかった。

 

 豆と器具を用意し、残っていた古いメモを見せてはくれた。先代店主である父が使っていたらしい、粉の量や湯の温度、簡単な手順が書かれたメモだった。けれど、武自身がその通りに淹れられるわけではないらしい。

 

「父のようにはできません」

 

 武は短く言った。

 

「だから、この店を継がなかったんです」

 

 その言葉に、イゾウは何も返せなかった。

 

 継がなかった。

 

 継げなかった。

 

 その違いを、簡単に聞いていい気がしなかった。

 

 それでも、武は味を知っていた。

 

 父のコーヒーで育った舌が、イゾウの未熟さを容赦なく見抜く。

 

 イゾウが動画とメモを頼りに一杯目を淹れると、武は一口飲んで、しばらく黙った。

 

「薄いですね」

 

「えっ」

 

「父のコーヒーは、もっと香りが立っていました」

 

「具体的な改善点は」

 

「分かりません」

 

「分からないのに厳しい!」

 

「味は分かります」

 

「一番逃げ場がないやつだ」

 

 イゾウは肩を落とした。

 

 自分が喫茶店のマスターになる道は、想像以上に遠い。

 

 ただ、武の言葉は技術指導ではなかった。

 

 昔の味を覚えている人の、真っ直ぐな感想だった。

 

 だからこそ、少し刺さった。

 

 悟が横から、古いメモを覗き込んだ。

 

「じいちゃん、こういうの残してたんだ」

 

「店を閉める時、捨てられなかった」

 

 武はそう言って、カウンターに置かれた古いメモを指先で押さえた。

 

 イゾウは、もう一度ドリッパーの前に立った。

 

「もう一回やります」

 

「お願いします」

 

 何度も淹れた。

 

 そのたびに違う失敗をした。

 

 湯の勢い。時間。粉の量。手の震え。焦り。イゾウの中にある「喫茶店のマスターっぽさ」は、現実の手元ではほとんど役に立たなかった。

 

 だが、少しずつ分かった。

 

 コーヒーを淹れるというのは、台詞を言うことではない。

 

 格好つけることでもない。

 

 目の前の粉と湯とカップに、ちゃんと手をかけることだ。

 

 その積み重ねの先に、ようやく一杯がある。

 

「……キーパーソン、地味だな」

 

 イゾウが呟くと、悟が首を傾げた。

 

「キーパーソン?」

 

「い、いや、こっちの話」

 

 キーパーソン。

 

 物語の重要人物。

 

 それはもっと、意味深な言葉を言う存在だと思っていた。

 

 けれど、今のイゾウがしているのは掃除と練習だ。

 

 誰かの転機に関わるために、まずカップを洗い、床を拭き、コーヒーを淹れる。

 

 地味だ。

 

 だが、その地味さを飛ばしたら、たぶん場所はできない。

 

 夕方になる頃には、イゾウの腕はだいぶ疲れていた。

 

 武はカウンターの中で、古い椅子に座った。悟は窓際の席で、拭き終わったメニュー表を見ている。イゾウも向かいの席に座った。店内には、何度も淹れたコーヒーの香りが残っていた。

 

「まず初日は、明後日ですね」

 

「明後日」

 

「明日は仕込みと確認。明後日、午後から夕方まで。看板は出さない。偶然来た人と、こちらが声をかける何人かだけ。あなたの言う“立ち止まれる場所”を試すには、そのくらいが限界です」

 

「ありがとうございます」

 

 イゾウは頭を下げた。

 

 本当に、ありがたかった。

 

 武と悟にとっては、閉じた店を一時的に開けることになる。面倒もある。思い出もある。簡単に触られたくない場所でもあるだろう。

 

 それでも、まず一日。

 

 そして、その一日が店を傷つけず、誰かの時間を乱さないものになるなら、もう数回だけ。

 

 喫茶プロローグは、正式な開店ではない。

 

 閉じた喫茶グリーンベルを、少しだけ開けてみる試みだった。

 

「ただし」

 

 武の声が少し低くなった。

 

「一つ、覚えておいてください」

 

「はい」

 

「開けるより、閉める方が難しい」

 

 イゾウは瞬きをした。

 

「店の話ですか?」

 

「店も、話もです」

 

 武は、止まった時計を見上げた。

 

「父がよく言っていました。何かを始めるのは、案外勢いでできる。店を開ける。人を呼ぶ。話を聞く。背中を押す。そういうのは、気分が乗ればできる」

 

 武の声は静かだった。

 

 だが、その静けさの奥に、長く受け継がれてきた言葉の重さがあった。

 

「だが、閉めるのは難しい。どこで終わらせるか。どこから先は自分の役目じゃないのか。客が帰る時、余計な言葉を足さずに見送れるか」

 

 イゾウは黙って聞いていた。

 

「マスターってのは、いいことを言う人間じゃない。客の行き先を決めない人間だ」

 

 その言葉が、胸に刺さった。

 

 客の行き先を決めない。

 

 それは、イゾウが物語機構の前で決めた方針と同じ場所にある言葉だった。

 

 相手の選択を奪わない。

 

 相手の気持ちを操作しない。

 

 結末を自分が決めない。

 

 宇宙船で言った時より、武の言葉の方がずっと現実に近かった。

 

 悟が、窓際から小さく言った。

 

「じいちゃん、よく言ってました。マスターは、客の人生に酔うなって」

 

「客の人生に酔うな……」

 

「自分がいいことを言っているとか、誰かを導いてるとか、そういう気持ちよさに酔うなって。客は店主の台詞を聞くために生きてるわけじゃないからって」

 

 イゾウは唇を結んだ。

 

 まるで、自分の中の黒幕願望を見透かされたようだった。

 

 だが、不思議と嫌ではなかった。

 

 むしろ、最初にこの店に来てよかったと思った。

 

「覚えておきます」

 

「忘れると思いますよ」

 

 悟が、少しだけ笑った。

 

「信用ないなぁ」

 

「俺も何回も忘れて、そのたびにじいちゃんに怒られたんで」

 

 悟はそう言ってから、少しだけ懐かしそうに目を伏せた。

 

「だから、忘れた時に思い出せるようにしておけばいいんだと思います」

 

 その言葉を、イゾウは胸の奥にしまった。

 

 翌日、準備はさらに現実的になった。

 

 カップの数を確認し、使える椅子を選び、メニューを絞った。コーヒー、紅茶、ホットミルク。食べ物はなし。料金は取らない。あくまで武立ち会いのもとでの試験的な場開き。看板には「本日試験開放中」とだけ書く。

 

 イゾウは、何度も「喫茶プロローグ」と書きたがった。

 

 だが、武に止められた。

 

「名前に酔わない」

 

「刺さる言葉が多い」

 

「まず客が座れるかどうかです」

 

 正論だった。

 

 イゾウは黒板の端に、小さく「プロローグ」とだけ書いた。

 

 武はそれを見て、まあそのくらいならいい、という顔をした。悟は少し笑っていた。

 

 そして、当日。

 

 雨が降った。

 

 朝から空は重く、昼過ぎには細い雨が商店街を濡らし始めた。アーケードの端から落ちる雫が、古いタイルを叩く。喫茶グリーンベルの窓にも、斜めの雨粒が細く流れていた。

 

 店内には、温かい空気があった。

 

 掃除されたカウンター。

 

 並べられたカップ。

 

 小さく書かれたメニュー。

 

 武は奥で静かに座り、悟は窓際の席で本を読んでいた。手伝いというより、久しぶりに開いた祖父の店に居たかったのだろう。イゾウはカウンターの内側に立っていた。

 

 喫茶プロローグ。

 

 正式な看板はない。

 

 誰もその名前を知らない。

 

 それでも、イゾウにとってここは、確かに喫茶プロローグだった。

 

「緊張してますね」

 

 悟が言った。

 

「してる」

 

「いいこと言おうとしてる顔です」

 

「悟くんまで刺してくるの?」

 

「じいちゃんの受け売りです」

 

 イゾウは頬を押さえた。

 

 頭の中には、いくつもの台詞が浮かんでいた。

 

 君を待っていた。

 

 ここに来たということは、君もまた始まりを求めているのだろう。

 

 雨の日は、心の声がよく聞こえる。

 

 全部、駄目だ。

 

 武に聞かれたら、たぶん店から追い出される。

 

 AIにも言われている。

 

『過剰な演出は、対象者に不審感を与える可能性があります』

 

「分かってる」

 

 イゾウは小声で返した。

 

『また、初対面の相手に対して「君を待っていた」と発言した場合、偶然性の否定及び監視の示唆として受け取られる可能性があります』

 

「言わないから」

 

『推奨します』

 

 イゾウは深呼吸した。

 

 誰かを導く場所。

 

 そう思うと、どうしても格好つけたくなる。

 

 だが、ここは自分の舞台ではない。

 

 客が時間を使いに来る場所だ。

 

 客の行き先を決めない場所だ。

 

 雨音が、窓を叩いている。

 

 その時だった。

 

 扉のベルが鳴った。

 

 かすれて、少し遅れて、それでも確かに。

 

 イゾウは顔を上げた。

 

 扉の向こうに、少女が立っていた。

 

 制服の肩が濡れている。前髪の先から、水滴が落ちた。片手には鞄。もう片方の手には、スマートフォン。雨に追われるように入ってきたのか、少し息が上がっている。

 

 三枝ハルだった。

 

 画面越しに見た少女が、今、目の前にいる。

 

 イゾウの心臓が跳ねた。

 

 来た。

 

 本当に来た。

 

 主人公候補が、喫茶プロローグに。

 

 悟が本から顔を上げた。

 

「ハル?」

 

 その声に、ハルも目を向けた。

 

「え、悟くん……?」

 

 驚きと、少しの気まずさが、雨の匂いと一緒に店内へ入ってくる。

 

 イゾウの頭の中で、用意していた台詞が一斉に立ち上がった。

 

 君を待っていた。

 

 ここは、君の物語が始まる場所だ。

 

 さあ、言葉を選ぶ時だ。

 

 イゾウは、それらを全部飲み込んだ。

 

 目の前の三枝ハルは、物語の主人公候補である前に、雨に濡れた女の子だった。

 

 肩が冷えている。

 

 髪から水が落ちている。

 

 息が少し乱れている。

 

 なら、最初にすることは決まっていた。

 

「あの」

 

 ハルが、不安そうに店内を見た。

 

「すみません、雨が強くなってきて……少しだけ、雨宿りしてもいいですか」

 

 イゾウは、カウンターの下に置いていたタオルを取った。

 

 そして、できるだけ普通の声で言った。

 

「どうぞ。これ、よかったら使ってください」

 

 ハルは少し驚いた顔をした。

 

 それから、遠慮がちにタオルを受け取った。

 

「ありがとうございます」

 

「温かいコーヒー、淹れますね」

 

 言ってから、イゾウはカウンターの内側で小さく息を吐いた。

 

 意味深な台詞は、まだいらない。

 

 物語を始める必要も、まだない。

 

 今はただ、雨に濡れた客にタオルを渡し、温かい飲み物を出す。

 

 武が奥で、何も言わずに見ていた。

 

 悟は、少しだけ戸惑った顔でハルを見ていた。

 

 AIも、黙っていた。

 

 喫茶グリーンベルの古い扉の外では、雨が降り続いている。

 

 そして、喫茶プロローグの最初の客は、静かにカウンター席へ腰を下ろした。

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