平凡な大学生ミフネイゾウはキーパーソンの夢を見るか 作:ココロ☆ソーダ☆クエン酸
扉のベルが鳴った。
かすれて、少し遅れて、それでも確かに。
未船イゾウは顔を上げた。
喫茶グリーンベルの古い扉の向こうに、少女が立っていた。
制服の肩が濡れている。前髪の先から、水滴が落ちた。片手には鞄。もう片方の手には、スマートフォン。雨に追われるように入ってきたのか、少し息が上がっている。
三枝ハルだった。
画面越しに見た少女が、今、目の前にいる。
イゾウの心臓が跳ねた。
来た。
本当に来た。
主人公候補が、喫茶プロローグに。
窓際の席で本を読んでいた春日井悟が、顔を上げた。
「ハル?」
その声に、少女も目を向ける。
「え、悟くん……?」
驚きと、少しの気まずさが、雨の匂いと一緒に店内へ入ってくる。
イゾウの頭の中で、用意していた台詞が一斉に立ち上がった。
君を待っていた。
ここに来たということは、君もまた始まりを求めているのだろう。
雨の日は、心の声がよく聞こえる。
全部、駄目だ。
絶対に駄目だ。
初対面の大学生が雨宿りに来た高校生へそんなことを言ったら、始まるのは物語ではなく通報である。
イゾウは、それらを全部飲み込んだ。
目の前の三枝ハルは、物語の主人公候補である前に、雨に濡れた女の子だった。
肩が冷えている。
髪から水が落ちている。
息が少し乱れている。
なら、最初にすることは決まっていた。
「あの」
ハルが、不安そうに店内を見た。
「すみません、雨が強くなってきて……少しだけ、雨宿りしてもいいですか」
イゾウは、カウンターの下に置いていたタオルを取った。
そして、できるだけ普通の声で言った。
「どうぞ。これ、よかったら使ってください」
ハルは少し驚いた顔をした。
それから、遠慮がちにタオルを受け取る。
「ありがとうございます」
「温かいコーヒー、淹れますね」
言ってから、イゾウはカウンターの内側で小さく息を吐いた。
意味深な台詞は、まだいらない。
物語を始める必要も、まだない。
今はただ、雨に濡れた客にタオルを渡し、温かい飲み物を出す。
奥では、春日井武が何も言わずに見ていた。
悟は、少しだけ戸惑った顔でハルを見ている。
AIも、黙っていた。
珍しく。
喫茶グリーンベルの古い扉の外では、雨が降り続いている。
そして、喫茶プロローグの最初の客は、静かにカウンター席へ腰を下ろした。
ハルは鞄を膝に置き、濡れた前髪をタオルで軽く押さえた。
その仕草は丁寧だった。
店の中を見回す視線には、驚きと遠慮が混じっている。閉店していたはずの古い喫茶店が、今日はなぜか開いている。しかもそこに、知り合いの少年がいる。状況が分からないのは当然だった。
イゾウだって、昨日までこの店のカウンターに立つことになるとは思っていなかった。
「ハル、風邪ひくぞ」
悟の声がした。
ハルは少しだけ肩を揺らした。
「大丈夫。ちょっと濡れただけだから」
「ちょっとって、肩まで濡れてる」
「うん。でも、そんなに寒くはないよ」
その言葉を聞いて、イゾウはカウンターの下へ手を伸ばした。
昨日の準備中、武が出してくれた小さな膝掛けがある。
イゾウはそれを取り出し、カウンター越しに差し出した。
「よかったら、これもどうぞ」
「あ、すみません。本当にありがとうございます」
「いえ。今日は試験開放みたいなものなので、遠慮しなくて大丈夫です」
試験開放。
自分で言っておきながら、少し変な言葉だと思った。
ハルも少し首を傾げている。
それに気づいた悟が、窓際から説明した。
「ここ、俺のじいちゃんの店だったんだ。今は閉まってるんだけど、今日は少しだけ開けてる」
「そうなんだ……」
ハルは店内を見回した。
悟のおじいさんの店。
その情報が、彼女の中でどう受け止められたのか、イゾウには分からない。
ただ、ハルの視線がさっきよりも少し丁寧になったことだけは分かった。
ただの雨宿りの場所ではなく、誰かの記憶が残っている場所として、店を見直しているように見えた。
「知らなかった。悟くんのおじいさん、喫茶店してたんだね」
「うん。小さい頃は、よくここにいた」
悟の声は、学校で話している時とは少し違うのだろう。
イゾウは学校での悟を知らない。
だが、今の声がこの店に馴染んでいることは分かった。
ハルはカップを待つ間、膝の上の鞄に手を添えていた。
指先が、鞄の口に少し触れている。
物語機構が最低限の情報として表示していた言葉が、イゾウの脳裏をよぎった。
三枝ハル。
伝えたい言葉や、やりたいことをメモ帳に書いて整理する傾向あり。
メモ帳。
おそらく、あの鞄の中にある。
見たい。
いや、見てはいけない。
イゾウは視線をドリッパーへ落とした。
彼女が何を書いているかを、イゾウが勝手に知る必要はない。
それはハルのものであって、主人公候補の設定資料ではない。
カウンターの中で、イゾウはドリッパーを前にした。
正直、手つきは少し危なかった。ペーパーフィルターの端を整え、粉の量を確認し、細口のポットを持ち上げる。そのたびに、本人の顔だけが妙に真剣になる。
奥の席で見ていた武は、淹れ方そのものに細かく口を出すわけではない。
武には、先代店主だった父のような技術はない。
だから喫茶グリーンベルを自分で継がなかったのだと、昨日聞いた。
ただし、舌は肥えている。
父のコーヒーを飲んで育った人間の舌が、イゾウの未熟さを容赦なく見抜く。
「薄いですね」
昨日から何度も聞いた言葉だった。
「武さん、今そこは見逃すところでは?」
「味は見逃すものではありません」
「厳しい」
「父のコーヒーは、もっと香りが立っていました」
その言い方は、技術者の指導というより、昔の味を覚えている人の感想だった。
だからこそ、少し刺さった。
ハルが、思わず小さく笑った。
その笑い声に気づいて、イゾウは顔を上げる。
緊張で固まっていた彼女の肩が、ほんの少しだけ下がっていた。
やった。
そう思った瞬間、イゾウは危うくにやけそうになった。
すぐに表情を整える。
整えようとして、たぶん整えきれていない。
ハルの目が、少しだけ不思議そうにこちらを見た。
変な人だと思われたかもしれない。
まあ、変な人ではある。
イゾウは慎重に湯を注いだ。
習った通り。
動画で見た通り。
昨日何度も失敗した通り。
完璧にはほど遠い。けれど、少なくとも雑にはしたくなかった。
やがて、カップから湯気が上がる。
「どうぞ」
ハルは両手でカップを包んだ。
指先に熱が移ったのか、少しだけ表情が緩む。
「ありがとうございます」
「熱いので、気をつけてください」
「はい」
それだけの会話だった。
けれど、今はそれくらいでちょうどいい気がした。
何かを聞かない。
何かを言わせようとしない。
雨宿りに来た客へ、温かいものを出す。
それだけでいい。
ハルはコーヒーを一口飲んだ。
少し間があった。
その間に、イゾウの心臓が妙に緊張する。
おいしいと言われたい。
いや、嘘でも気を使わせたくない。
でもできれば、おいしいと言われたい。
「……おいしいです」
そう言われた瞬間、イゾウはあからさまにほっとした顔をしてしまった。
奥の武が、静かにカップを持ち上げる。
「まだ薄いですね」
「武さんが甘くない」
「コーヒーは、甘くない方が味わい深いものです」
「うまい……」
言い返せない種類の返答だった。
ハルは少し目を丸くして、それから小さく笑った。
「でも、温かいです」
その一言で、イゾウの肩から少し力が抜けた。
雨音が強くなる。
外の世界が少し遠くなる。
喫茶グリーンベルの中だけ、時間がゆっくりになったようだった。
未船イゾウは、カウンターの内側で必死に黙っていた。
これは自分でも驚くほど大変だった。
三枝ハルが目の前にいる。
主人公候補。
第一号。
物語機構が示した、本人の選択によって転機が成立する可能性が高い少女。
その少女が、雨に濡れて喫茶プロローグに入ってきた。しかも春日井悟も同じ空間にいる。状況だけ見れば、これ以上ないほど「始まり」っぽい。
言いたい。
ものすごく言いたい。
雨の日にしか開かない店、とか。
ここに来たのも何かの縁ですね、とか。
人は迷った時ほど温かいものを飲むべきなんです、とか。
全部言いたい。
だが、全部言わない。
春日井武と悟の言葉が、まだ胸に残っている。
店は客が時間を使いに来る場所。
客の行き先を決めない。
自分がいいことを言っていることに酔うな。
それらの言葉は、イゾウの口元をぎりぎりで押さえ込んでいた。
『発話抑制に成功しています』
左耳からAIの声がした。
「今、褒めてる?」
『はい』
「もっと褒めて」
『ただし、顔面表情に過剰な演出欲求が出ています』
「褒めてから刺すな」
小声で返したつもりだったが、ハルが少しこちらを見た。
イゾウは慌てて咳払いした。
「すみません。独り言です」
「独り言なんですか?」
「はい。多めです」
「多め」
ハルがまた少し笑った。
その笑い方は、まだ遠慮がちだった。
けれど、店に入ってきた時よりも肩の力は抜けている。
イゾウはそれだけで、少し胸が熱くなった。
やった。
何も言っていないのに、少し役に立っている気がする。
その気持ちに酔いかけて、すぐに自分で止めた。
危ない。
今のも多分、酔いの入口だ。
カウンターの奥で武がこちらを見ている気がした。実際に見ていた。無言だが、言いたいことは分かる。
酔うな。
イゾウは背筋を伸ばした。
「ハル、今日、こっちの方に用事?」
悟が聞いた。
ハルはカップを持つ手を少し止めた。
「うん。ちょっと……文具店に寄ろうかなって」
「文具店?」
「メモ帳が、もうすぐなくなりそうだったから」
イゾウの耳が、ぴくりと反応した。
メモ帳。
やはり、鞄の中にあるのだろう。
見たい。
いや、見てはいけない。
イゾウは視線をカップへ落とした。
悟は何気なく頷いた。
「ハル、よく何か書いてるよな」
「うん。書かないと、まとまらなくて」
「授業のメモとは違うやつ?」
「うん。言いたいこととか、やりたいこととか。あと、言わない方がよさそうなこととか」
ハルはそう言って、少し困ったように笑った。
その笑い方には、冗談の形をした本音が混じっているように見えた。
悟はそれを茶化さなかった。
「いいと思う。俺、考えないで喋って後悔することあるし」
「悟くんは、そういうの少なそうだけど」
「あるよ。普通に」
「そうなんだ」
「ある」
会話はそこで少し途切れた。
雨音が入ってくる。
ハルは鞄の口に、ほんの少しだけ手を触れた。
メモ帳を出すのかもしれない。
イゾウは、今度こそ見ないようにした。
カップを拭く。
そこに意識を集中する。
見ないことも、たぶん仕事だ。
しばらくして、ハルの手は鞄から離れた。
メモ帳は出てこなかった。
その代わり、彼女はコーヒーをもう一口飲んだ。
「この店、また開くの?」
ハルが尋ねた。
悟は一度、父の方を見た。
武はすぐには答えなかった。代わりに、イゾウを見た。
イゾウはなぜか背筋を伸ばした。
自分が答えるべきなのか、違うのか、瞬時に判断がつかなかった。
だが、武は静かに言った。
「今日は試しに開けているだけです。正式に再開する予定は、今のところありません」
「そうなんですね」
ハルの声に、少しだけ残念そうな響きが混じった。
少なくとも、イゾウにはそう聞こえた。
悟がそれを聞いて、窓の外を見た。
「でも、今日だけでも開いててよかった」
「どうして?」
「ハルが雨宿りできたから」
言ったあとで、悟は少しだけ気まずそうに目を逸らした。
ハルはカップを持ったまま固まった。
イゾウも固まった。
武は黙っていた。
AIも黙っていた。
店内の雨音だけが、やけに大きく聞こえる。
悟の言葉は、たぶん何気ないものだった。
深い意味を込めたわけではない。
少なくとも、本人はそういう顔をしている。
けれど、ハルには十分だったらしい。
耳のあたりが、少し赤くなっていた。
「……うん」
ハルは小さく答えた。
「私も、開いててよかった」
それ以上は言わなかった。
けれど、イゾウにはそれで十分だった。
少なくとも、今の言葉はメモ帳を見ずに出た。
それはきっと、ほんの少しだけ大きい。
イゾウはカウンターの内側で、心の中だけで拳を握った。
いい。
今の、すごくいい。
何がどういいのかは分からないが、物語が一ミリ動いた感じがする。
言いたい。
今の言葉を大切にしてください、とか。
その一歩が、きっとあなたの物語を、とか。
ものすごく言いたい。
イゾウはカップを洗った。
無言で。
悟が少し不思議そうにこちらを見る。
「未船さん、カップすごい洗ってますね」
「今、洗うことで自我を保ってる」
「自我?」
「こっちの話です」
武が奥で小さく息を吐いた。
「カップは割らないように」
「はい」
イゾウは慎重にカップを置いた。
しばらくして、雨は少し弱くなった。
ハルは窓の外を見てから、名残惜しそうにカップを置く。
「そろそろ、行きます」
「まだ降ってるけど、大丈夫?」
悟が言うと、ハルは少し笑った。
「うん。さっきより弱くなったし。文具店にも寄りたいから」
「あ、文具店なら隣」
「うん。知ってる」
ハルは立ち上がった。
膝掛けを丁寧に畳み、タオルも軽く整えてカウンターに置く。
「ありがとうございました。コーヒー、おいしかったです」
「まだ薄かったです」
イゾウが正直に言うと、ハルは少し目を丸くしてから笑った。
「でも、温かかったので」
それは、たぶん慰めだった。
けれど、悪くなかった。
「また、来てもいいですか」
ハルが言った。
イゾウは即答しそうになり、武を見た。
武は少し考えてから頷いた。
「今日のような形でなら、もう何度か開けることはできます」
「じゃあ、また来ます」
その言葉に、悟の表情が少し明るくなった。
ハルはそれを見て、すぐに視線を逸らした。
イゾウはまたカップを洗いたくなった。
だが、もう洗うカップがなかった。
扉のベルが鳴る。
ハルは軽く頭を下げて、雨の商店街へ出ていった。
悟は窓から、その背中を少しだけ見送っていた。
見送りすぎないように、途中で視線を戻した。
そのぎこちなさが、年相応で、妙にまぶしかった。
店内に、雨音が戻る。
イゾウはゆっくり息を吐いた。
「……何もしてないのに、疲れた」
「何もしなかったから疲れたんじゃないですか」
悟が言った。
「悟くん、結構刺すね」
「じいちゃんの受け売りです」
「おじいさん強いな」
武がカウンターの奥から言った。
「何もしないでいるのは、店主には大事です。余計なことを言わない。勝手に決めない。客が帰る時に追いかけない」
イゾウは、ハルが出ていった扉を見た。
追いかけない。
今の自分には、それも仕事なのだと思った。
主人公候補が来た。
悟と会話した。
少しだけ笑った。
また来ると言った。
それだけで十分なのかもしれない。
いや、本当はもっと何かしたい。
もっと動かしたい。
もっと物語らしい何かを起こしたい。
だが、それは今ではない。
少なくとも、今ではないはずだ。
『初回接触終了。対象者の緊張度は入店時より低下。再来店可能性、上昇』
AIの声が聞こえた。
「成功?」
『評価は保留します』
「そこは成功って言ってよ」
『対象者本人の選択は継続中です』
イゾウは少し黙った。
対象者本人の選択。
そうだ。
これは成功か失敗かを今決めるものではない。
ハルが何を言うか。
悟が何を返すか。
二人がどう距離を取るか。
それはまだ、これからの話だ。
イゾウはカウンターの上に置かれた、ハルが使ったカップを見た。
温かかったので。
その言葉を思い出す。
意味深な台詞を言わなくても、できることはある。
今日のところは、それでいい。
「次までに、コーヒー、もう少し練習する」
イゾウが言うと、武は頷いた。
「それがいいです。父の味には、まだ遠いですから」
「遠いどころか、見えてもいない気がする」
「そこからですね」
「はい」
悟は窓の外を見た。
「ハル、メモ帳買えたかな」
その何気ない呟きを、イゾウは聞き逃さなかった。
ハルのメモ帳。
言葉を整理するための場所。
いつか彼女が、そのメモ帳を開かずに言葉を出す時が来るのだろうか。
そんなことを考えかけて、イゾウは首を振った。
まだ早い。
そこまで決めるな。
客の行き先を決めるな。
イゾウはもう一度、カップを洗った。
今度は、自我を保つためではない。
次に誰かが来た時、ちゃんと温かいものを出せるように。
喫茶グリーンベルの外では、雨が少しずつ弱くなっていた。