平凡な大学生ミフネイゾウはキーパーソンの夢を見るか   作:ココロ☆ソーダ☆クエン酸

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第4話 君を待っていた、とは言えなかった

 

 

 扉のベルが鳴った。

 

 かすれて、少し遅れて、それでも確かに。

 

 未船イゾウは顔を上げた。

 

 喫茶グリーンベルの古い扉の向こうに、少女が立っていた。

 

 制服の肩が濡れている。前髪の先から、水滴が落ちた。片手には鞄。もう片方の手には、スマートフォン。雨に追われるように入ってきたのか、少し息が上がっている。

 

 三枝ハルだった。

 

 画面越しに見た少女が、今、目の前にいる。

 

 イゾウの心臓が跳ねた。

 

 来た。

 

 本当に来た。

 

 主人公候補が、喫茶プロローグに。

 

 窓際の席で本を読んでいた春日井悟が、顔を上げた。

 

「ハル?」

 

 その声に、少女も目を向ける。

 

「え、悟くん……?」

 

 驚きと、少しの気まずさが、雨の匂いと一緒に店内へ入ってくる。

 

 イゾウの頭の中で、用意していた台詞が一斉に立ち上がった。

 

 君を待っていた。

 

 ここに来たということは、君もまた始まりを求めているのだろう。

 

 雨の日は、心の声がよく聞こえる。

 

 全部、駄目だ。

 

 絶対に駄目だ。

 

 初対面の大学生が雨宿りに来た高校生へそんなことを言ったら、始まるのは物語ではなく通報である。

 

 イゾウは、それらを全部飲み込んだ。

 

 目の前の三枝ハルは、物語の主人公候補である前に、雨に濡れた女の子だった。

 

 肩が冷えている。

 

 髪から水が落ちている。

 

 息が少し乱れている。

 

 なら、最初にすることは決まっていた。

 

「あの」

 

 ハルが、不安そうに店内を見た。

 

「すみません、雨が強くなってきて……少しだけ、雨宿りしてもいいですか」

 

 イゾウは、カウンターの下に置いていたタオルを取った。

 

 そして、できるだけ普通の声で言った。

 

「どうぞ。これ、よかったら使ってください」

 

 ハルは少し驚いた顔をした。

 

 それから、遠慮がちにタオルを受け取る。

 

「ありがとうございます」

 

「温かいコーヒー、淹れますね」

 

 言ってから、イゾウはカウンターの内側で小さく息を吐いた。

 

 意味深な台詞は、まだいらない。

 

 物語を始める必要も、まだない。

 

 今はただ、雨に濡れた客にタオルを渡し、温かい飲み物を出す。

 

 奥では、春日井武が何も言わずに見ていた。

 

 悟は、少しだけ戸惑った顔でハルを見ている。

 

 AIも、黙っていた。

 

 珍しく。

 

 喫茶グリーンベルの古い扉の外では、雨が降り続いている。

 

 そして、喫茶プロローグの最初の客は、静かにカウンター席へ腰を下ろした。

 

 ハルは鞄を膝に置き、濡れた前髪をタオルで軽く押さえた。

 

 その仕草は丁寧だった。

 

 店の中を見回す視線には、驚きと遠慮が混じっている。閉店していたはずの古い喫茶店が、今日はなぜか開いている。しかもそこに、知り合いの少年がいる。状況が分からないのは当然だった。

 

 イゾウだって、昨日までこの店のカウンターに立つことになるとは思っていなかった。

 

「ハル、風邪ひくぞ」

 

 悟の声がした。

 

 ハルは少しだけ肩を揺らした。

 

「大丈夫。ちょっと濡れただけだから」

 

「ちょっとって、肩まで濡れてる」

 

「うん。でも、そんなに寒くはないよ」

 

 その言葉を聞いて、イゾウはカウンターの下へ手を伸ばした。

 

 昨日の準備中、武が出してくれた小さな膝掛けがある。

 

 イゾウはそれを取り出し、カウンター越しに差し出した。

 

「よかったら、これもどうぞ」

 

「あ、すみません。本当にありがとうございます」

 

「いえ。今日は試験開放みたいなものなので、遠慮しなくて大丈夫です」

 

 試験開放。

 

 自分で言っておきながら、少し変な言葉だと思った。

 

 ハルも少し首を傾げている。

 

 それに気づいた悟が、窓際から説明した。

 

「ここ、俺のじいちゃんの店だったんだ。今は閉まってるんだけど、今日は少しだけ開けてる」

 

「そうなんだ……」

 

 ハルは店内を見回した。

 

 悟のおじいさんの店。

 

 その情報が、彼女の中でどう受け止められたのか、イゾウには分からない。

 

 ただ、ハルの視線がさっきよりも少し丁寧になったことだけは分かった。

 

 ただの雨宿りの場所ではなく、誰かの記憶が残っている場所として、店を見直しているように見えた。

 

「知らなかった。悟くんのおじいさん、喫茶店してたんだね」

 

「うん。小さい頃は、よくここにいた」

 

 悟の声は、学校で話している時とは少し違うのだろう。

 

 イゾウは学校での悟を知らない。

 

 だが、今の声がこの店に馴染んでいることは分かった。

 

 ハルはカップを待つ間、膝の上の鞄に手を添えていた。

 

 指先が、鞄の口に少し触れている。

 

 物語機構が最低限の情報として表示していた言葉が、イゾウの脳裏をよぎった。

 

 三枝ハル。

 

 伝えたい言葉や、やりたいことをメモ帳に書いて整理する傾向あり。

 

 メモ帳。

 

 おそらく、あの鞄の中にある。

 

 見たい。

 

 いや、見てはいけない。

 

 イゾウは視線をドリッパーへ落とした。

 

 彼女が何を書いているかを、イゾウが勝手に知る必要はない。

 

 それはハルのものであって、主人公候補の設定資料ではない。

 

 カウンターの中で、イゾウはドリッパーを前にした。

 

 正直、手つきは少し危なかった。ペーパーフィルターの端を整え、粉の量を確認し、細口のポットを持ち上げる。そのたびに、本人の顔だけが妙に真剣になる。

 

 奥の席で見ていた武は、淹れ方そのものに細かく口を出すわけではない。

 

 武には、先代店主だった父のような技術はない。

 

 だから喫茶グリーンベルを自分で継がなかったのだと、昨日聞いた。

 

 ただし、舌は肥えている。

 

 父のコーヒーを飲んで育った人間の舌が、イゾウの未熟さを容赦なく見抜く。

 

「薄いですね」

 

 昨日から何度も聞いた言葉だった。

 

「武さん、今そこは見逃すところでは?」

 

「味は見逃すものではありません」

 

「厳しい」

 

「父のコーヒーは、もっと香りが立っていました」

 

 その言い方は、技術者の指導というより、昔の味を覚えている人の感想だった。

 

 だからこそ、少し刺さった。

 

 ハルが、思わず小さく笑った。

 

 その笑い声に気づいて、イゾウは顔を上げる。

 

 緊張で固まっていた彼女の肩が、ほんの少しだけ下がっていた。

 

 やった。

 

 そう思った瞬間、イゾウは危うくにやけそうになった。

 

 すぐに表情を整える。

 

 整えようとして、たぶん整えきれていない。

 

 ハルの目が、少しだけ不思議そうにこちらを見た。

 

 変な人だと思われたかもしれない。

 

 まあ、変な人ではある。

 

 イゾウは慎重に湯を注いだ。

 

 習った通り。

 

 動画で見た通り。

 

 昨日何度も失敗した通り。

 

 完璧にはほど遠い。けれど、少なくとも雑にはしたくなかった。

 

 やがて、カップから湯気が上がる。

 

「どうぞ」

 

 ハルは両手でカップを包んだ。

 

 指先に熱が移ったのか、少しだけ表情が緩む。

 

「ありがとうございます」

 

「熱いので、気をつけてください」

 

「はい」

 

 それだけの会話だった。

 

 けれど、今はそれくらいでちょうどいい気がした。

 

 何かを聞かない。

 

 何かを言わせようとしない。

 

 雨宿りに来た客へ、温かいものを出す。

 

 それだけでいい。

 

 ハルはコーヒーを一口飲んだ。

 

 少し間があった。

 

 その間に、イゾウの心臓が妙に緊張する。

 

 おいしいと言われたい。

 

 いや、嘘でも気を使わせたくない。

 

 でもできれば、おいしいと言われたい。

 

「……おいしいです」

 

 そう言われた瞬間、イゾウはあからさまにほっとした顔をしてしまった。

 

 奥の武が、静かにカップを持ち上げる。

 

「まだ薄いですね」

 

「武さんが甘くない」

 

「コーヒーは、甘くない方が味わい深いものです」

 

「うまい……」

 

 言い返せない種類の返答だった。

 

 ハルは少し目を丸くして、それから小さく笑った。

 

「でも、温かいです」

 

 その一言で、イゾウの肩から少し力が抜けた。

 

 雨音が強くなる。

 

 外の世界が少し遠くなる。

 

 喫茶グリーンベルの中だけ、時間がゆっくりになったようだった。

 

 未船イゾウは、カウンターの内側で必死に黙っていた。

 

 これは自分でも驚くほど大変だった。

 

 三枝ハルが目の前にいる。

 

 主人公候補。

 

 第一号。

 

 物語機構が示した、本人の選択によって転機が成立する可能性が高い少女。

 

 その少女が、雨に濡れて喫茶プロローグに入ってきた。しかも春日井悟も同じ空間にいる。状況だけ見れば、これ以上ないほど「始まり」っぽい。

 

 言いたい。

 

 ものすごく言いたい。

 

 雨の日にしか開かない店、とか。

 

 ここに来たのも何かの縁ですね、とか。

 

 人は迷った時ほど温かいものを飲むべきなんです、とか。

 

 全部言いたい。

 

 だが、全部言わない。

 

 春日井武と悟の言葉が、まだ胸に残っている。

 

 店は客が時間を使いに来る場所。

 

 客の行き先を決めない。

 

 自分がいいことを言っていることに酔うな。

 

 それらの言葉は、イゾウの口元をぎりぎりで押さえ込んでいた。

 

『発話抑制に成功しています』

 

 左耳からAIの声がした。

 

「今、褒めてる?」

 

『はい』

 

「もっと褒めて」

 

『ただし、顔面表情に過剰な演出欲求が出ています』

 

「褒めてから刺すな」

 

 小声で返したつもりだったが、ハルが少しこちらを見た。

 

 イゾウは慌てて咳払いした。

 

「すみません。独り言です」

 

「独り言なんですか?」

 

「はい。多めです」

 

「多め」

 

 ハルがまた少し笑った。

 

 その笑い方は、まだ遠慮がちだった。

 

 けれど、店に入ってきた時よりも肩の力は抜けている。

 

 イゾウはそれだけで、少し胸が熱くなった。

 

 やった。

 

 何も言っていないのに、少し役に立っている気がする。

 

 その気持ちに酔いかけて、すぐに自分で止めた。

 

 危ない。

 

 今のも多分、酔いの入口だ。

 

 カウンターの奥で武がこちらを見ている気がした。実際に見ていた。無言だが、言いたいことは分かる。

 

 酔うな。

 

 イゾウは背筋を伸ばした。

 

「ハル、今日、こっちの方に用事?」

 

 悟が聞いた。

 

 ハルはカップを持つ手を少し止めた。

 

「うん。ちょっと……文具店に寄ろうかなって」

 

「文具店?」

 

「メモ帳が、もうすぐなくなりそうだったから」

 

 イゾウの耳が、ぴくりと反応した。

 

 メモ帳。

 

 やはり、鞄の中にあるのだろう。

 

 見たい。

 

 いや、見てはいけない。

 

 イゾウは視線をカップへ落とした。

 

 悟は何気なく頷いた。

 

「ハル、よく何か書いてるよな」

 

「うん。書かないと、まとまらなくて」

 

「授業のメモとは違うやつ?」

 

「うん。言いたいこととか、やりたいこととか。あと、言わない方がよさそうなこととか」

 

 ハルはそう言って、少し困ったように笑った。

 

 その笑い方には、冗談の形をした本音が混じっているように見えた。

 

 悟はそれを茶化さなかった。

 

「いいと思う。俺、考えないで喋って後悔することあるし」

 

「悟くんは、そういうの少なそうだけど」

 

「あるよ。普通に」

 

「そうなんだ」

 

「ある」

 

 会話はそこで少し途切れた。

 

 雨音が入ってくる。

 

 ハルは鞄の口に、ほんの少しだけ手を触れた。

 

 メモ帳を出すのかもしれない。

 

 イゾウは、今度こそ見ないようにした。

 

 カップを拭く。

 

 そこに意識を集中する。

 

 見ないことも、たぶん仕事だ。

 

 しばらくして、ハルの手は鞄から離れた。

 

 メモ帳は出てこなかった。

 

 その代わり、彼女はコーヒーをもう一口飲んだ。

 

「この店、また開くの?」

 

 ハルが尋ねた。

 

 悟は一度、父の方を見た。

 

 武はすぐには答えなかった。代わりに、イゾウを見た。

 

 イゾウはなぜか背筋を伸ばした。

 

 自分が答えるべきなのか、違うのか、瞬時に判断がつかなかった。

 

 だが、武は静かに言った。

 

「今日は試しに開けているだけです。正式に再開する予定は、今のところありません」

 

「そうなんですね」

 

 ハルの声に、少しだけ残念そうな響きが混じった。

 

 少なくとも、イゾウにはそう聞こえた。

 

 悟がそれを聞いて、窓の外を見た。

 

「でも、今日だけでも開いててよかった」

 

「どうして?」

 

「ハルが雨宿りできたから」

 

 言ったあとで、悟は少しだけ気まずそうに目を逸らした。

 

 ハルはカップを持ったまま固まった。

 

 イゾウも固まった。

 

 武は黙っていた。

 

 AIも黙っていた。

 

 店内の雨音だけが、やけに大きく聞こえる。

 

 悟の言葉は、たぶん何気ないものだった。

 

 深い意味を込めたわけではない。

 

 少なくとも、本人はそういう顔をしている。

 

 けれど、ハルには十分だったらしい。

 

 耳のあたりが、少し赤くなっていた。

 

「……うん」

 

 ハルは小さく答えた。

 

「私も、開いててよかった」

 

 それ以上は言わなかった。

 

 けれど、イゾウにはそれで十分だった。

 

 少なくとも、今の言葉はメモ帳を見ずに出た。

 

 それはきっと、ほんの少しだけ大きい。

 

 イゾウはカウンターの内側で、心の中だけで拳を握った。

 

 いい。

 

 今の、すごくいい。

 

 何がどういいのかは分からないが、物語が一ミリ動いた感じがする。

 

 言いたい。

 

 今の言葉を大切にしてください、とか。

 

 その一歩が、きっとあなたの物語を、とか。

 

 ものすごく言いたい。

 

 イゾウはカップを洗った。

 

 無言で。

 

 悟が少し不思議そうにこちらを見る。

 

「未船さん、カップすごい洗ってますね」

 

「今、洗うことで自我を保ってる」

 

「自我?」

 

「こっちの話です」

 

 武が奥で小さく息を吐いた。

 

「カップは割らないように」

 

「はい」

 

 イゾウは慎重にカップを置いた。

 

 しばらくして、雨は少し弱くなった。

 

 ハルは窓の外を見てから、名残惜しそうにカップを置く。

 

「そろそろ、行きます」

 

「まだ降ってるけど、大丈夫?」

 

 悟が言うと、ハルは少し笑った。

 

「うん。さっきより弱くなったし。文具店にも寄りたいから」

 

「あ、文具店なら隣」

 

「うん。知ってる」

 

 ハルは立ち上がった。

 

 膝掛けを丁寧に畳み、タオルも軽く整えてカウンターに置く。

 

「ありがとうございました。コーヒー、おいしかったです」

 

「まだ薄かったです」

 

 イゾウが正直に言うと、ハルは少し目を丸くしてから笑った。

 

「でも、温かかったので」

 

 それは、たぶん慰めだった。

 

 けれど、悪くなかった。

 

「また、来てもいいですか」

 

 ハルが言った。

 

 イゾウは即答しそうになり、武を見た。

 

 武は少し考えてから頷いた。

 

「今日のような形でなら、もう何度か開けることはできます」

 

「じゃあ、また来ます」

 

 その言葉に、悟の表情が少し明るくなった。

 

 ハルはそれを見て、すぐに視線を逸らした。

 

 イゾウはまたカップを洗いたくなった。

 

 だが、もう洗うカップがなかった。

 

 扉のベルが鳴る。

 

 ハルは軽く頭を下げて、雨の商店街へ出ていった。

 

 悟は窓から、その背中を少しだけ見送っていた。

 

 見送りすぎないように、途中で視線を戻した。

 

 そのぎこちなさが、年相応で、妙にまぶしかった。

 

 店内に、雨音が戻る。

 

 イゾウはゆっくり息を吐いた。

 

「……何もしてないのに、疲れた」

 

「何もしなかったから疲れたんじゃないですか」

 

 悟が言った。

 

「悟くん、結構刺すね」

 

「じいちゃんの受け売りです」

 

「おじいさん強いな」

 

 武がカウンターの奥から言った。

 

「何もしないでいるのは、店主には大事です。余計なことを言わない。勝手に決めない。客が帰る時に追いかけない」

 

 イゾウは、ハルが出ていった扉を見た。

 

 追いかけない。

 

 今の自分には、それも仕事なのだと思った。

 

 主人公候補が来た。

 

 悟と会話した。

 

 少しだけ笑った。

 

 また来ると言った。

 

 それだけで十分なのかもしれない。

 

 いや、本当はもっと何かしたい。

 

 もっと動かしたい。

 

 もっと物語らしい何かを起こしたい。

 

 だが、それは今ではない。

 

 少なくとも、今ではないはずだ。

 

『初回接触終了。対象者の緊張度は入店時より低下。再来店可能性、上昇』

 

 AIの声が聞こえた。

 

「成功?」

 

『評価は保留します』

 

「そこは成功って言ってよ」

 

『対象者本人の選択は継続中です』

 

 イゾウは少し黙った。

 

 対象者本人の選択。

 

 そうだ。

 

 これは成功か失敗かを今決めるものではない。

 

 ハルが何を言うか。

 

 悟が何を返すか。

 

 二人がどう距離を取るか。

 

 それはまだ、これからの話だ。

 

 イゾウはカウンターの上に置かれた、ハルが使ったカップを見た。

 

 温かかったので。

 

 その言葉を思い出す。

 

 意味深な台詞を言わなくても、できることはある。

 

 今日のところは、それでいい。

 

「次までに、コーヒー、もう少し練習する」

 

 イゾウが言うと、武は頷いた。

 

「それがいいです。父の味には、まだ遠いですから」

 

「遠いどころか、見えてもいない気がする」

 

「そこからですね」

 

「はい」

 

 悟は窓の外を見た。

 

「ハル、メモ帳買えたかな」

 

 その何気ない呟きを、イゾウは聞き逃さなかった。

 

 ハルのメモ帳。

 

 言葉を整理するための場所。

 

 いつか彼女が、そのメモ帳を開かずに言葉を出す時が来るのだろうか。

 

 そんなことを考えかけて、イゾウは首を振った。

 

 まだ早い。

 

 そこまで決めるな。

 

 客の行き先を決めるな。

 

 イゾウはもう一度、カップを洗った。

 

 今度は、自我を保つためではない。

 

 次に誰かが来た時、ちゃんと温かいものを出せるように。

 

 喫茶グリーンベルの外では、雨が少しずつ弱くなっていた。

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