平凡な大学生ミフネイゾウはキーパーソンの夢を見るか   作:ココロ☆ソーダ☆クエン酸

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第5話 戻ってきてもいい場所

 

 

 初回の試験開放は、成功だったのか。

 

 未船イゾウには、まだよく分からなかった。

 

 三枝ハルは雨宿りをして、温かいコーヒーを飲み、春日井悟と少しだけ話した。そして帰り際に、また来てもいいですか、と言った。起きたことだけを並べれば、それだけだ。告白はしていない。劇的な事件も起きていない。雨の中で泣きながら走り出すこともなければ、悟がその背中を追いかけることもなかった。宇宙船の観測区画で“主人公候補”という言葉を見た時に想像していた展開と比べれば、拍子抜けするほど静かだった。

 

 けれど、静かだから軽いわけではない。

 

 そのことを、イゾウは少しだけ分かり始めていた。

 

「初回接触、評価は?」

 

 その夜、イゾウは宇宙船の観測区画にいた。巨大な窓の向こうには、相変わらず星の海が広がっている。地球は遠く、青白い光の点として映っていた。喫茶グリーンベルの古い木の匂いも、雨音も、薄いコーヒーの湯気もここにはない。けれど、イゾウの頭の中には、まだあの店の時間が残っていた。

 

 かすれたベルの音。濡れた制服の肩。ハルがカップを両手で包んだ仕草。悟が「ハルが雨宿りできたから」と言った時の、あの微妙な沈黙。どれも大事件ではない。それでも、簡単に処理していいものではなかった。

 

『対象者・三枝ハルの入店時緊張反応は、退店時点で低下。春日井悟との会話回数は、観測前平均と比較して増加。再来店意思を示す発言を確認』

 

「つまり、成功?」

 

『評価は保留します』

 

「そこは成功って言ってほしいんだよなあ」

 

『対象者本人の選択は継続中です』

 

 AIの答えは、いつも通り冷静だった。それは、たぶん正しい。イゾウは観測区画の床に座り込んだ。ここ一年で、宇宙船の床に座ることへの抵抗はかなり薄れている。よく考えると太陽系外縁航行体の観測管理区画で床に座っているのだが、慣れとは恐ろしい。

 

「本人の選択、か」

 

 ハルが何を言うか。悟が何を返すか。二人がどう近づくか。それは、イゾウが決めることではない。

 

 宇宙船を拾った時、自分は何か特別な役目を与えられたのだと思った。物語機構を知った時には、誰かの人生の転機に関われることに浮かれた。けれど、喫茶グリーンベルを借りようとして、現実では場所ひとつ動かすにも誰かに頭を下げ、掃除をし、責任を持たなければならないことを知った。そしてハルが店に来た時、イゾウが最初にすべきだったのは、運命を語ることではなく、濡れた肩にタオルを渡し、温かいコーヒーを出すことだった。

 

 何もしなかったわけではない。ただ、物語を動かすようなことは何もしなかった。それなのに、やけに疲れていた。

 

『補足情報を表示しますか』

 

「何の?」

 

『三枝ハルの未送信メッセージ、メモ帳記載傾向、春日井悟に対する発話候補、及び成功確率予測』

 

「表示しない」

 

 返事は、自分でも驚くほど早かった。少し前の自分なら、たぶん見たがっただろう。いや、正確には今でも見たい。見たいに決まっている。未送信メッセージ。メモ帳。発話候補。成功確率予測。そんなものを見れば、ハルが何に迷っているのか、何を言いたいのか、どうすれば悟との距離が近づくのか、分かってしまうのかもしれない。だが、分かってしまったら、それを使わずにいられる自信が、イゾウにはまだなかった。

 

「見たら、たぶん俺は使う」

 

『その可能性はあります』

 

「そこは否定してくれてもいいんだぞ」

 

『あなたは、物語的演出欲求及び介入欲求が高い傾向にあります』

 

「言い方」

 

 言い方はひどい。だが、間違ってはいない。イゾウは両手で顔を覆った。自分は、誰かの役に立ちたい。それは嘘ではない。けれど、自分が役に立ったと感じたい、という欲もある。誰かの物語において、「あの人がいたから」と言われたい。黒幕でも、案内人でも、喫茶店のマスターでもいい。主人公ではなくていいから、重要人物にはなりたい。

 

 その欲望は善意に似た顔をして、たぶん何度も顔を出す。だから、見ない。今はまだ。

 

「必要最低限だけでいい。危険がないか、困ってないか、それだけ」

 

『了解しました。詳細情報の表示を制限します』

 

「頼む」

 

 イゾウは深く息を吐いた。観測区画の中央には、黒と金の輪が淡く浮かんでいる。物語機構。それは静かに回転していた。

 

『観測は継続される』

 

 低く、芝居がかった声が響く。

 

『されど、主よ。観測とは、時に干渉の前奏なり』

 

「不穏なこと言うな」

 

『見た者は、見ぬ者ではいられぬ』

 

「それは……まあ、そうだけど」

 

 見たら、気になる。知ったら、関わりたくなる。関わったら、もっと動かしたくなる。きっと、そういうものなのだろう。だからこそ、線を引かなければならない。イゾウは物語機構を見上げ、少しだけ考えてから言った。

 

「でも、今は喫茶店だ」

 

『喫茶店』

 

「そう。喫茶店。世界を救うんじゃなくて、告白を成功させるんでもなくて、まずは、戻ってきてもいい場所を作る」

 

 言葉にすると、妙に地味だった。だが、不思議と悪くなかった。

 

 翌日、イゾウはまた喫茶グリーンベルにいた。

 

 正式な営業ではない。武の立ち会いのもとで、試験的に数回だけ開けてみる。そのうちの二回目だった。看板は大きく出していない。入口の横に、小さな黒板が置かれているだけだ。

 

 本日試験開放中。

 

 その端に、イゾウが小さく書いた「プロローグ」の文字がある。武はそれを見て、少しだけ目を細めた。

 

「名前に酔わない」

 

「小さく書いたのでセーフでは?」

 

「顔がアウトです」

 

「顔の判定厳しくないですか」

 

「表情に“名付けた感”が出ています」

 

「そんな判定あります?」

 

 悟が窓際で小さく笑った。その笑い方は、昨日よりも少しだけ自然だった。彼も今日また来ている。手伝いというより、祖父の店が開いていることを確認しに来ているようにも見えた。棚を拭いたり、カップを並べたり、入口のベルを軽く直したりしている。慣れた手つきではないが、居場所を知っている動きだった。

 

 イゾウはドリッパーの前で、先代店主の古いメモをもう一度見直した。動画で見た知識、昨日の失敗、時々AIから飛んでくる「温度が超過しています」「湯温に対する理想抽出時間を下回っています」という管理ログ、そして武の「薄いですね」という容赦のない味への評価。それらを頼りに粉を入れ、細口のポットを持ち上げる。

 

 まだ上手くはない。けれど、昨日よりは少しだけ手順を覚えたつもりだった。湯を急がない。粉の膨らみを見る。顔をうるさくしない。

 

 最後の項目だけ、難易度が高い。

 

 イゾウは息を整え、ゆっくりと湯を注いだ。

 

「顔」

 

「まだ何も言ってないのに」

 

「出ています」

 

「武さん、顔だけで会話しないでください」

 

 武は何も言わず、イゾウが淹れたコーヒーを一口飲んだ。沈黙。イゾウは、その沈黙に慣れ始めていた。

 

「昨日よりは、少し香りがあります」

 

「おお!」

 

「ただ、まだ薄いです」

 

「喜ばせてから落とす」

 

「事実です」

 

「AIみたいなこと言う」

 

 左耳のイヤーカフからAIの声がした。

 

『比較対象として不適切です』

 

「そこ拾うな」

 

 武が怪訝そうにこちらを見る。イゾウは咳払いした。

 

「独り言です。多めの」

 

「減らしてください」

 

「努力します」

 

 そんなやり取りをしていると、扉のベルが鳴った。

 

 イゾウは顔を上げる。三枝ハルだった。今日は雨ではない。それでも、彼女は来た。鞄を両手で持ち、少しだけ迷うように店内を覗いている。昨日のように雨に追われているわけではないし、息も乱れていない。けれど、入っていいのかを確かめるような遠慮は残っていた。

 

 イゾウの胸が、静かに跳ねる。

 

 戻ってきた。

 

 雨に追われたからではなく、自分の足で。その事実が、思ったよりも嬉しかった。

 

「いらっしゃいませ」

 

 イゾウはできるだけ普通に言った。言えた。今度は「待っていた」とは言わなかった。ハルは少しだけ笑って、頭を下げる。

 

「こんにちは」

 

 悟が窓際から顔を上げた。

 

「ハル」

 

「うん。来た」

 

 短い会話だった。それだけなのに、イゾウはカップを落としそうになった。来た。今、来たと言った。自分で来た。すごい。何がすごいのかは説明できないが、すごい。

 

『対象者の再来店を確認』

 

「分かってる」

 

 イゾウは小声で返した。

 

『過剰反応を確認』

 

「分かってる」

 

『顔面表情に――』

 

「分かってるから」

 

 ハルがカウンター席に座る。昨日と同じ席だった。膝の上に鞄を置き、少しだけ店内を見回す。昨日よりも視線がゆっくりだった。場所を確認するというより、戻ってきた場所をもう一度見るような視線に見えた。もちろん、それはイゾウの勝手な解釈かもしれない。それでも、そう見えたこと自体が嬉しかった。

 

 イゾウはコーヒーを淹れる準備をした。

 

「今日もコーヒーで大丈夫ですか」

 

「あ、はい。お願いします」

 

「昨日より少しは良くなってる予定です」

 

「予定なんですね」

 

「予定です」

 

 ハルが小さく笑い、悟もつられるように笑った。イゾウは、それだけで少し報われたような気持ちになる。危ない。また酔いそうだ。イゾウはすぐにドリッパーへ意識を戻した。客の人生に酔うな。自分が何かを変えた気になるな。できることは、今、目の前の一杯を雑にしないことだけだ。

 

 コーヒーを出すと、ハルは両手でカップを包んだ。今日は雨で冷えているわけではない。それでも、その仕草は昨日と少し似ていた。

 

「いただきます」

 

 ハルが一口飲む。その短い間に、イゾウの意識はカップの縁と彼女の表情に吸い寄せられそうになる。見すぎるな、と自分で自分に言い聞かせた直後、ハルが少しだけ目元を緩めた。

 

「……昨日より、香りがする気がします」

 

「本当ですか」

 

 思わず前のめりになったところで、武が奥から静かに言う。

 

「顔」

 

「はい」

 

 イゾウは姿勢を戻した。

 

「ありがとうございます。まだ薄いそうですが」

 

「薄いんですか?」

 

「武さん判定では」

 

 ハルが武を見る。武はカップを持ち上げ、少しだけ香りを確かめるようにしてから答えた。

 

「父の味には遠いです」

 

「おじいさんの味、ですか」

 

「はい。私は、父ほど上手く淹れられません。味だけは覚えていますが」

 

 武の声は静かだった。その言葉を聞いたハルが、少しだけ背筋を伸ばす。イゾウは横目でそれを見て、彼女はこういう言葉をきちんと聞くのだと思った。そこへ、悟が懐かしそうに口を開く。

 

「俺も、じいちゃんのコーヒーの味は覚えてる。苦かったけど、変に落ち着いた」

 

「小さい頃から飲んでたの?」

 

「ミルク多めで。じいちゃんには、コーヒーというより牛乳だって言われてたけど」

 

「ちょっと見たい」

 

「何を?」

 

「小さい頃の悟くん」

 

 言ったあと、ハルは一瞬だけ固まった。悟も固まった。イゾウも固まった。武は、静かにカップを置いた。AIは黙っていた。店内に、沈黙が落ちる。

 

 今の言葉は、たぶんハルの口から自然に出たものだった。メモ帳を見ていない。準備した感じもない。だからこそ、言った本人が少し驚いたように見える。

 

「あ、変な意味じゃなくて」

 

 ハルが視線を落とす。悟は少し耳を赤くしながら、慎重に言葉を返した。

 

「いや、変じゃないけど。写真なら、家にあるかも」

 

「そ、そうなんだ」

 

「見る?」

 

「え」

 

「いや、今じゃなくて」

 

「うん」

 

 二人の会話はぎこちない。ぎこちないのに、切れてはいない。イゾウは、カウンターの下で拳を握りそうになったが、どうにか布巾を握ることで耐えた。布巾なら許される。たぶん。

 

『対象者発話に自発性の上昇を確認』

 

 AIの声がした。

 

「分かってる」

 

『発話候補への外部誘導は未実施』

 

「してない。してないぞ」

 

『現在のところ』

 

「不穏な補足やめろ」

 

 小声のやり取りを聞いたハルが、こちらを見る。

 

「未船さん、また独り言ですか?」

 

「はい。今日も多めです」

 

「慣れてきました」

 

「慣れない方がいいかもしれない」

 

 ハルは少し笑った。その笑い方が、昨日よりも自然に見えた。イゾウは、また危うく酔いそうになる。何もしていないのに。いや、何もしていないからこそ、場所が少しずつ人の会話を受け止め始めている。それを自分の手柄だと思うのは、きっと早い。けれど、何も感じないのも嘘だった。

 

 しばらく、店の中にはそれぞれの時間が流れた。ハルはコーヒーを飲みながら、ときどき悟と短い会話をする。悟は本を開いているが、昨日よりもページをめくる速度が遅い。武は奥の席で静かに帳面を見ている。イゾウはカップを拭き、コーヒーの練習をし、時々AIに小声で刺される。派手なことは何もない。だが、それでよかった。少なくとも、今日のところは。

 

 やがて、ハルが鞄に手を伸ばした。薄い青色のメモ帳が、少しだけ見える。

 

 イゾウは視線を逸らした。

 

 見ない。見たい。けれど見ない。

 

 カウンターの上に置かれたカップを拭き、布巾の端を整え、必要のない動作を必要そうな顔で行う。ハルはメモ帳を取り出しかけたようだったが、開かなかった。ほんの少しだけ表紙に指を置いたあと、また鞄の中へ戻す。イゾウはそれを直接見たわけではない。視界の端で、青色が消えたのを見ただけだ。だが、それだけで十分だった。

 

 ハルは顔を上げ、悟を見る。

 

「悟くん」

 

「なに?」

 

「この店、また開く日って、分かる?」

 

 悟は、ハルの質問の意図を測りかねたのか、少しだけ考えてから武の方を見た。イゾウにも、その一瞬の間が分かった。店の予定を聞かれただけなのか、自分に会える日を聞かれたのか。たぶん悟自身にも、まだ判断がついていない。

 

「父さん」

 

「次は週末です。あくまで試験的にですが」

 

 武が答えると、ハルは小さく頷いた。

 

「じゃあ、その日も来てもいいですか」

 

 イゾウは、手の中の布巾を強く握った。

 

 来てもいいですか。

 

 昨日も聞いた言葉。けれど、今日は少し違う気がした。昨日は雨宿りの延長だった。今日は、次に来る日を聞いた。それは、この場所を一度きりの偶然ではなく、戻ってきてもいい場所として見始めているように思えた。もちろん、それをイゾウが決めつけてはいけない。だが、そう見えた。少なくとも、そう願いたくなった。

 

 武は静かに頷いた。

 

「構いません」

 

「ありがとうございます」

 

 ハルは少しだけほっとしたように見えた。悟はカップを見つめていた。何か言おうとして、言わない。その表情を見て、イゾウは思った。悟にも、言えないことがあるのだろう。ハルだけではない。主人公候補として表示されたのはハルだ。だが、物語の中にいるのは一人ではない。悟にも、武にも、閉じた店にも、それぞれの時間がある。そこへ自分は、後から入ってきた。そのことを忘れてはいけない。

 

「未船さん」

 

 ハルに呼ばれて、イゾウは少し背筋を伸ばした。

 

「はい」

 

「コーヒー、次も飲めますか」

 

「もちろんです。味は、たぶん少しずつ改善予定です」

 

「予定」

 

「予定です」

 

 ハルは笑った。

 

「じゃあ、楽しみにしてます」

 

 その言葉に、イゾウはすぐ返事をしようとして、少しだけ止まった。

 

 楽しみにしてます。

 

 店にまた来る理由が、一つ増えた。悟と話すためだけではない。雨宿りでもない。コーヒーを飲みに来る。未熟で、薄くて、武に毎回刺されるコーヒーでも。それを楽しみにすると言われた。

 

 イゾウは、できるだけ普通に頷いた。

 

「頑張ります」

 

 声が少しだけ真面目になった。武がこちらを見る。顔がうるさい、と言われるかと思った。だが、何も言われなかった。それが少しだけ嬉しかった。

 

 その日の試験開放は、静かに終わった。

 

 ハルは帰る前に、カウンターの上に置かれた小さな黒板を見た。

 

 本日試験開放中。

 

 その端に、小さく書かれた「プロローグ」の文字。

 

「プロローグ?」

 

 ハルが呟いた瞬間、イゾウの心臓が跳ねた。ついに気づかれた。いや、小さく書いたのは自分だ。気づかれたい気持ちがなかったと言えば嘘になる。だが、いざ気づかれると恥ずかしい。

 

「えっと、その」

 

 説明しようとした瞬間、頭の中にいくつもの台詞が浮かんだ。物語の始まりの前に立ち寄る場所。君が自分の言葉を選ぶための場所。ここは君のプロローグ。全部駄目だ。重い。怖い。通報に近い。

 

 イゾウが言葉を選べずにいると、悟が先に言った。

 

「未船さんが、名前つけたがったんだ」

 

「悟くん!?」

 

「父さんに止められて、小さく書いた」

 

「説明が的確でつらい」

 

 ハルは小さく笑った。

 

「いい名前だと思います」

 

 イゾウは固まった。

 

「え」

 

「プロローグ。始まる前の場所、みたいで」

 

 ハルはそれだけ言うと、少し照れたように視線を逸らした。

 

「すみません。勝手に」

 

「いえ」

 

 イゾウは首を振った。

 

「ありがとうございます」

 

 それ以上は言わなかった。言えなかった、の方が正しい。その言葉だけで、十分だった。

 

 喫茶プロローグ。イゾウが勝手につけた名前。キーパーソンになりたいという欲望から始まった名前。それを、ハルがいい名前だと言った。まだ何も始まっていない。告白もない。転機もない。物語機構が判定するような大きな変化は、きっとまだ起きていない。それでも、この場所は少しだけ意味を持った。少なくともイゾウには、そう思えた。

 

 ハルが店を出ていく。悟はまた少しだけ見送って、途中で視線を戻した。前よりも自然に。前よりも少しだけ名残惜しそうに。イゾウは追いかけなかった。余計なことも言わなかった。ただ、扉のベルが鳴り終わるまで見送った。

 

 そのあとも、喫茶グリーンベルにはぽつぽつと人が訪れた。

 

 商店街の古本屋の店主が、様子を見に来たと言ってカウンターに座った。近所の花屋の女性は、昔のグリーンベルを懐かしそうに眺め、コーヒーを一口飲んでから「まだ若い味ですね」と笑った。イゾウはそれが褒め言葉なのか判断に迷い、武に視線を送ったが、武は何も助けてくれなかった。

 

 夕方近くには、制服姿の若い警察官も扉を開けた。

 

「新しく出来た店ですか? 本官はこの辺りの巡回を担当していまして、この前まで閉まっていたので気になりまして」

 

 真面目すぎるほど真面目な口調に、イゾウは一瞬だけ背筋を伸ばした。何も悪いことはしていない。していないはずだ。宇宙船は持っているが、それは今この場では関係ない。たぶん関係ない。

 

「い、いらっしゃいませ。正式営業ではなく、試験開放中です」

 

「なるほど。地域交流の一環ですね」

 

「たぶんそうです」

 

「たぶん?」

 

 警察官が首を傾げ、武が奥から静かに「余計なことを言わない」と視線だけで告げてきた。イゾウは慌ててコーヒーを淹れた。警察官はそれを丁寧に飲み、少し考えてから「温かいです」と言った。味について触れなかったことが逆に刺さった。

 

 さらに閉店間際、疲れた顔の私服の女性が一人、ふらりと入ってきた。

 

「まだ、入れますか」

 

「どうぞ。試験開放なので、メニューは少ないですが」

 

「温かいものなら何でも。博物館と大学の板挟みで、今日はちょっと……」

 

 女性はそう言って、苦笑しながらカウンターに座った。詳しい事情は分からない。分からないが、大変そうなことだけは分かった。イゾウは、そこで余計なことを聞かなかった。聞きたかった。何なら「板挟みとは、二つの世界の境界に立つ者の宿命ですね」とか言いたかった。だが、言わなかった。

 

 代わりに、コーヒーを出した。

 

 女性はそれを飲み、しばらく黙ってから言った。

 

「少し薄いですね」

 

「本日、全方位から同じ評価を頂いております」

 

「でも、助かります」

 

 その一言で、イゾウは何も言えなくなった。

 

 助かります。

 

 たったそれだけの言葉で、薄いコーヒーにも役割が生まれるらしい。

 

 その日の試験開放を終えて、イゾウは宇宙船に戻った。

 

 観測区画の窓の向こうでは、星が瞬いている。喫茶グリーンベルの床を拭いた腕はまだ少し重い。コーヒーの匂いが服に残っている気もする。宇宙船の無機質な空気の中で、それだけが妙に地球っぽかった。

 

『本日の試験開放において、対象者・三枝ハルの再来店意思は維持。春日井悟との会話回数は微増。対象者の緊張反応は前回より低下』

 

「恋愛転機は?」

 

『明確な恋愛転機は確認されていません』

 

「そっか」

 

 思ったほど落胆はしなかった。少し前なら、「何も起きてないじゃん」と焦ったかもしれない。だが、今日はそう思わなかった。ハルは来た。悟と話した。メモ帳を開きかけて、開かなかった。また来る日を聞いた。プロローグをいい名前だと言った。ほかにも、何人かの客が来て、薄いコーヒーを飲み、それぞれの時間を少しだけ置いて帰っていった。

 

 それが転機ではないとしても、何も起きていないわけではない。

 

「プロローグってさ、別に急がなくていいんだな」

 

『補足を要求します』

 

「始まる前の場所だからって、すぐ始めなきゃいけないわけじゃないってこと」

 

 イゾウは観測区画の窓の向こうを見た。地球は遠い。だが、そのどこかに喫茶グリーンベルがある。古い扉。かすれたベル。薄いコーヒー。青いメモ帳。言葉になっていない気持ち。通りすがりの人が少しだけ腰を下ろせる場所。

 

「今はまだ、戻ってきてもいい場所があればいい」

 

『方針として記録しますか』

 

「する」

 

『記録しました』

 

 黒と金の輪が、静かに回った。

 

『序詞は急がず』

 

 物語機構の声が響く。

 

『始まりを求める者、まず腰を下ろす場所を得たり』

 

「言い方は大げさだけど、まあ、そういう感じ」

 

『されど主よ。戻る場所は、時に進む理由となる』

 

 イゾウは少しだけ黙った。

 

 物語機構の言葉は、相変わらず芝居がかっている。けれど、たまに変なところで核心を突いてくる。

 

「戻る場所が、進む理由」

 

 悪くない言葉だった。

 

 喫茶プロローグは、まだ正式な店ではない。武の立ち会いのもとで、試験的に少しだけ開いている場所にすぎない。イゾウは店主ではない。コーヒーもまだ薄い。接客もぎこちない。顔もうるさい。独り言も多い。だが、ハルはまた来ると言った。悟もそこにいる。武も、閉じた店を少しだけ開けることを選んだ。通りすがりの客も、少しずつ椅子に座り始めている。

 

 それだけで、今は十分なのかもしれない。

 

「次も、ちゃんとコーヒー淹れよう」

 

『技術向上が必要です』

 

「分かってる」

 

『顔面表情制御も必要です』

 

「それも分かってる」

 

『独り言頻度の低下も推奨します』

 

「それは話しかけてくるお前にも原因あるよね?」

 

『否定します。話しかけている訳ではなく、ログ勧告及び行動警告です』

 

「人はそれを話しかけていると言うんだよ」

 

 課題が多い。

 

 イゾウは床に座り込み、天井を見上げた。宇宙船を拾った。AIがいる。物語機構がある。主人公候補を見つけた。その結果、今の課題はコーヒーと顔と独り言である。

 

 思っていた非日常とは、やはりだいぶ違う。

 

 だが、悪くなかった。

 

 喫茶グリーンベルの外では、明日も誰かが通り過ぎる。その誰かが、いつか扉を開けるかもしれない。ハルが戻ってくるかもしれない。悟が何かを言うかもしれない。イゾウはその時、余計な台詞を飲み込みながら、たぶんまた薄いコーヒーを淹れる。

 

 物語は、まだ始まっていない。

 

 けれど、始まる前の場所はできつつある。

 

 未船イゾウは、そのことに少しだけ満足していた。

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