平凡な大学生ミフネイゾウはキーパーソンの夢を見るか 作:ココロ☆ソーダ☆クエン酸
第6話 メモ帳には書けるのに
* 三枝ハル
薄い青色のメモ帳を開いたまま、私はしばらく手を止めていた。
机の上には、シャープペンシルと消しゴムと、今日提出する予定のプリントが置いてある。教科書も開いている。予習をするつもりだった。少なくとも、鞄から教科書を出した時までは、そのつもりだった。
でも、さっきから目で追っているのは教科書の文字じゃない。
メモ帳の最初のページ。
喫茶グリーンベルに、また行く。
悟くんと、もう少し話す。
写真を見せてもらえるかもしれない。
自分で書いた三行を見下ろして、朝からずっと困っている。何を書いたのかは分かる。どうして書いたのかも、たぶん分かる。けれど、それを今日の私が本当に実行できるのかは、まったく別の問題だった。
「……もう少し、って何」
小さく呟いてから、私はすぐに口を閉じた。
もう少し話す。
便利な言葉だと思った。踏み込みすぎていない。重くもない。告白でもない。今すぐ何かを決める言葉でもない。でも、何もしないままでいるよりは少しだけ前を向いている気がする。
だから、昨日の私はこの言葉を選んだのだと思う。
問題は、朝になって読み返すと、その「少し」が急に遠く見えることだった。
悟くんと話したい。
それはある。
けれど、それをそのまま口にしたら、どうなるんだろう。
悟くんともっと話したいです、なんて言ったら、それはもう告白に近いのではないか。いや、さすがに考えすぎだと思う。思いたい。でも、考えすぎだと分かっていても、考えるのをやめられるなら最初からメモ帳なんて必要ない。
私はシャープペンシルを持ち、ページの下の方に小さく書いた。
話題候補。
その下に、少し間を空けてから、さらに書いていく。
喫茶店のこと。
おじいさんのこと。
コーヒーのこと。
小さい頃の写真のこと。
最後の一行を書いた瞬間、喫茶グリーンベルの空気が戻ってきた。古い木の匂い。少しかすれたベルの音。薄いけれど温かかったコーヒー。カウンターの中で表情のうるさい未船さん。奥で静かに厳しいことを言う悟くんのお父さん。そして、窓際に座っていた悟くん。
昨日まで、あの店はただの閉じた喫茶店だった。
商店街の端にある、看板の名前だけ知っている場所。いつも扉が閉まっていて、窓の向こうが薄暗くて、自分とは関係がないと思っていた場所。
なのに、一度入っただけで、そこはもう知らない場所ではなくなった。
そのことが少し怖くて、少し嬉しい。
「ハル、朝ごはん冷めるよ」
部屋の外から母の声がした。
「今行く」
返事をしてから、私はもう一度だけメモ帳を見る。
悟くんと、もう少し話す。
写真を見せてもらえるかもしれない。
文字にすると、できそうに見える。
でも、文字にできることと、実際に言えることは違う。
それを私は、たぶん誰よりもよく知っていた。
学校では、いつも通りの時間が流れた。
授業を受け、ノートを取り、友達と昼食を食べる。昨日の雨が嘘のように空は晴れていて、窓から入る光が机の端に白く落ちていた。教室の中は、いつものざわめきで満たされている。誰かが小テストの範囲を聞き、誰かが購買のパンを買い損ねたと嘆き、誰かが週末の予定を話していた。
私もその中にいた。
普通に返事をして、普通に笑って、普通にノートを取る。
けれど、ふとした瞬間に喫茶グリーンベルのことを思い出す。
前は、寄り道なんてあまりしなかった。帰るなら帰る。買うものがあるなら買う。それだけだった。けれど今は、商店街の端にある古い喫茶店のことを、用もないのに思い出している。
たぶん、用はある。
あるのだけれど、それを何と呼べばいいのかが分からない。
「ハル、聞いてる?」
昼休み、隣の席の友人に声をかけられて、私ははっと顔を上げた。
「え、聞いてる。ごめん、何だっけ」
「絶対聞いてないやつじゃん」
「ごめん」
「最近ぼーっとしてるよね。何かあった?」
何かあった。
その言葉に、すぐ答えられなかった。
あったといえば、あった。閉店していた喫茶店が開いていた。そこに悟くんがいた。コーヒーを飲んだ。また来てもいいと言った。次に開く日を聞いた。プロローグという名前を、いい名前だと思った。
けれど、それを全部説明すると、たぶん大げさになる。
自分の中では大きいのに、人に話すと小さく聞こえそうなことほど、言葉にするのが難しい。
「ちょっと、寄り道する場所ができた」
「寄り道?」
「うん。商店街の方に、喫茶店があって」
「喫茶店? ハルってそういうとこ行くんだ」
「最近、少しだけ」
友人は少し意外そうにしたあと、にやっと笑った。
「へえ。ひとりで?」
その聞き方に、私は一瞬だけ返事を遅らせてしまった。
失敗した、と思った時にはもう遅い。
「……ひとり、の時もある」
「ふうん?」
「なに」
「べつにー」
友人の顔に、分かりやすく面白がっている色が浮かぶ。私はお弁当の卵焼きを箸でつつきながら、視線を逸らした。ここで慌てると、余計に何かあると思われる。だが、落ち着こうとするほど、逆に顔が熱くなる。
「本当に、普通の喫茶店だから」
「普通の喫茶店にそんな顔する?」
「どんな顔」
「今の顔」
「見ないで」
友人は笑ったが、それ以上は追及してこなかった。軽くからかうけれど、踏み込みすぎない。そういう距離感に、私は何度も助けられている。
机の下で、私は鞄の中のメモ帳に触れた。
話すこと。
話さないこと。
まだ話せないこと。
その境目を、私はいつも探している気がした。
* 未船イゾウ
未船イゾウは、喫茶グリーンベルのカウンターの内側で、真剣な顔をしていた。
正確には、真剣な顔をしようとしていた。
もっと正確に言うなら、本人は真剣な顔をしているつもりだったが、春日井武から見ると、どうやら「顔がうるさい」に分類される表情らしかった。
「顔」
「まだ何もしてないんですが」
「もう出ています」
「予兆で叱られることある?」
イゾウは頬を押さえた。
今日は次の試験開放に向けた準備日だった。正式な営業ではない。看板も大きく出さない。メニューも最小限。けれど、一度きりではない以上、前回と同じように何となく開けるわけにはいかない。
イゾウには、やるべきことが山ほどあった。
カップの確認。
テーブルの拭き直し。
床の掃除。
コーヒーの練習。
入口の黒板の文言。
席の配置。
そして、余計なことを言わない訓練。
最後の項目だけ、難易度が異様に高い。
『対象者・三枝ハルの再来店可能性は維持されています』
左耳のイヤーカフからAIの声がした。
「分かってる」
『春日井悟との接触機会を増加させる座席配置案を提示しますか』
「提示しない」
イゾウの返事は早かった。
提示してほしい。
ものすごく提示してほしい。
悟が座る場所、ハルが座りやすい場所、視線が自然に合う角度、会話が始まりやすい距離。そんなものをAIが計算してくれるなら、見たいに決まっている。
だが、見たら使う。
そして使ったら、たぶん店ではなく舞台装置になる。
「席は普通にする。悟くんが座りたい場所に座って、ハルちゃんが座りたい場所に座る。それでいい」
『了解しました。介入補助を制限します』
「ただし、掃除しやすい配置は教えて」
『了解しました』
「それはいいんだ」
『清掃効率は対象者の意思決定に直接干渉しません』
「判断基準が冷静」
イゾウは布巾を持ち、カウンターを拭き始めた。
彼の中では、喫茶プロローグ計画は着実に進んでいた。
ただし、その進行内容は、本人が当初想定していたものとだいぶ違う。
もっとこう、裏から運命を動かす感じを想像していた。意味深な助言。偶然を装った導き。主人公が迷った時にだけ現れる謎のマスター。そういう役割に憧れていた。
だが、現在の主な活動はカップ洗浄と床拭きである。
「俺は物語の裏側で動く男……」
『現在の主活動は水垢除去です』
「裏側だろ」
『厨房設備の裏側ではあります』
「そういう意味じゃない」
小声で言い返しながら、イゾウはシンクを磨いた。
春日井武は、そんなイゾウを少し離れたところから見ていた。何かを言いたそうで、けれどすぐには言わない。イゾウはその沈黙に少し慣れ始めている。
「未船さん」
「はい」
「店を、誰かのために開くと言いましたね」
「はい」
「なら、誰かのために見える場所だけ綺麗にするのではなく、誰かが見ない場所も綺麗にしてください」
イゾウはシンクの奥を見た。
確かに、まだ少し汚れが残っている。
地味だ。
非常に地味だ。
だが、たぶんこういうところなのだろう。
誰かが戻ってきてもいい場所を作るというのは、戻ってきた人に気の利いた台詞を言うことではなく、戻ってきた時にカップが綺麗で、テーブルが拭かれていて、椅子ががたつかないようにしておくことなのだ。
「……了解しました」
イゾウは頷いた。
『作業意欲の上昇を確認』
「今いい感じだったから、数値化しないで」
『了解しました』
物語の裏方は、今日も水垢と戦っていた。
* 春日井悟
段ボール箱の中には、思ったよりもたくさんの写真が入っていた。
祖父の店がまだ普通に開いていた頃の写真。カウンターの中に立つ祖父。まだ若い父。今よりずっと小さい自分。常連だった人たちの集合写真。店の前で撮ったらしい、少し色あせた写真。
春日井悟は、それを一枚ずつ机の上に並べながら、少しだけ困っていた。
ハルが見たいと言ったのは、小さい頃の自分の写真だ。
昨日の言い方は、たぶん何気ないものだったと思う。
小さい頃の悟くん、ちょっと見たい。
言った本人も、言ったあとで驚いていた。
だから、深い意味はないのかもしれない。
でも、深い意味がなかったとしても、言われた側には残る。
「……これ、持ってくのは無理だろ」
悟は一枚の写真を裏返した。
写っていたのは、祖父の店のカウンターで、ミルクを大量に入れたコーヒーを飲んでいる幼い自分だった。口元に白い跡がついていて、祖父が横で笑っている。
悪い写真ではない。
悪い写真ではないが、見せるには少し恥ずかしい。
では、格好いい写真があるのかと言われると、それはそれでない。
幼い頃の写真に格好いいも何もない。だいたい、どれも丸い。髪型も変だ。父が撮った写真は妙に正直で、祖父が撮った写真は距離が近い。
悟はため息をついた。
それでも、写真を探している自分がいた。
持っていかなければいいだけだ。
忘れたと言えばいい。
変な写真しかなかったと言えば、それで済む。
けれど、ハルに「見つけたら持ってくる」と言った。だから、何か一枚くらいは持っていきたい。
その理由を、あまり深く考えたくなかった。
襖の向こうから、父の声がした。
「写真、あったかい?」
「あるにはあるけど」
悟は机の上に広げた写真を見下ろした。
あるにはある。
ただ、見せていいものと、見せたらしばらく後悔しそうなものが混ざっている。小さい頃の写真なのだから幼いのは当然なのだが、それを三枝ハルに見せるとなると、当然で済ませられない気がした。
「見せられるものかな?」
「そこが難しい」
父は部屋に入ってきて、机の上の写真を見た。少しだけ目を細める。その表情は、懐かしんでいるようにも、困っているようにも見えた。
「懐かしいなぁ」
「父さん、この写真知ってる?」
「もちろん。父がよく撮ってたからね」
父は一枚の写真を手に取った。
祖父がカウンターの中に立ち、幼い悟がカウンター席で両手を伸ばしている写真だった。おそらく、ミルクを入れすぎたコーヒーを欲しがっているところだ。写真の中の自分は、今の悟から見ると、ずいぶん無防備な顔をしていた。
「これとか、いいと思うけど」
「それは……ガキっぽすぎる」
悟は思わず顔をしかめた。
幼い頃の写真に向かってガキっぽいも何もない。そんなことは分かっている。分かっているが、だからといって平気で見せられるかは別の話だった。
父はその反応を見て、少しだけ口元を緩めた。
「今さら幼い頃の写真に、今の年相応さを求めるのかい?」
「そうだけど」
「見栄……かな?」
「言い方」
悟は少しだけぶすっとした。
父の言い方は柔らかい。責めているわけではない。けれど、柔らかいからこそ逃げ場がない時がある。昔からそうだった。父は強く踏み込んではこないが、こちらが自分で気づいてしまうくらいの距離に、言葉を置いてくる。
父は笑うでもなく、写真を机に戻した。
「三枝さんに見せるのかな?」
「……たぶん」
「嫌なら、見せない選択肢もあるよ」
「嫌ってわけじゃない」
悟は写真の角を指先で軽く押さえた。
嫌ではない。
ただ、恥ずかしい。
恥ずかしいのに、少し見せたい。
その気持ちを、どう説明すればいいのか分からなかった。
ハルが店に来るようになってから、祖父の店の記憶が少し違って見える。自分と家族だけの思い出だった場所に、別の誰かの視線が入ってきた。最初は不思議だった。けれど、嫌ではなかった。
むしろ、少し嬉しかった。
「ハル、店の話ちゃんと聞いてくれるから」
そう言うと、父は少しだけ黙った。
「そうだね」
短い返事だった。
でも、否定ではなかった。
悟は写真の中から一枚を選んだ。祖父の店のカウンターに座る、小さい頃の自分。口元にミルクの跡はついていない。横に祖父の手が少しだけ写っている。
格好よくはない。
けれど、見せられないほどではない。
「これにする」
「良いと思うよ」
父はそう言って、ほんの少しだけ笑った。
* 三枝ハル
週末の商店街は、平日の放課後より少しだけ人が多かった。
買い物袋を持った人。自転車を押す人。古本屋の前で足を止める人。花屋の店先で小さな鉢植えを選んでいる人。歩き慣れた場所のはずなのに、喫茶グリーンベルへ向かっていると思うだけで、全部の景色が少し違って見える。
鞄の中には、薄い青色のメモ帳が入っている。
今日、話したいことは書いてきた。
写真、見つかった?
コーヒー、今日は薄くないかな。
この店、週末以外も開くの?
どれも普通の質問だと思う。
思いたい。
けれど、普通の質問を普通に言うのが一番難しい時もある。
喫茶グリーンベルの前まで来ると、小さな黒板が出ていた。
本日試験開放中。
その端に、小さく「プロローグ」と書いてある。
私はその文字を見て、少しだけ安心した。
昨日もあった文字。
未船さんがつけたらしい名前。
始まる前の場所。
そう思ったら、扉を開けるのがほんの少しだけ怖くなくなった。
ベルが鳴る。
かすれて、少し遅れて、それでもちゃんと鳴る音。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中から、未船さんが顔を上げた。今日も表情が少し忙しい。けれど、昨日より少しだけ喫茶店の人らしく見える。たぶん、本人には言わない方がいい。
「こんにちは」
私は頭を下げて、店内を見た。
悟くんは窓際の席にいた。
その前に、小さな封筒が置かれている。
私がそれに気づいたのと、悟くんが私に気づいたのは、たぶんほとんど同時だった。
「ハル」
「うん。来た」
昨日も言った言葉だった。
でも、今日は少しだけ意味が違う気がした。
雨に追われたわけではない。
たまたま入ったわけでもない。
今日は、自分で来た。
「今日もコーヒーで大丈夫ですか」
未船さんが聞いてくる。
「あ、はい。お願いします」
「本日は昨日より香りが改善されている予定です」
「予定なんですね」
「予定です」
未船さんは真面目な顔で頷いた。
奥にいた悟くんのお父さんが、静かに言う。
「まだ父の味には遠いです」
「武さん、提供前から評価を下げないでください」
「事前説明です」
「厳しい」
思わず笑ってしまった。
店の中の空気が、少しだけ柔らかくなる。
私は昨日と同じカウンター席に座りかけて、ふと窓際の悟くんを見た。封筒がある。たぶん、写真だ。たぶん、私が聞いたから持ってきてくれた。
カウンター席に座れば、未船さんと話しやすい。
窓際に行けば、悟くんと話しやすい。
私は一瞬迷った。
メモ帳には、席のことなんて書いていない。
こういう小さなところで、いつも困る。
「ハル、こっち来る?」
悟くんが言った。
私は少しだけ息を止めた。
先に言ってくれた。
安心したのに、少し悔しい。自分で行ってもよかったのに、と思う。でも、言ってくれて嬉しい。
いろいろな気持ちが一度に来て、返事が少し遅れた。
「うん。行く」
私は窓際の席に向かった。
未船さんがカウンターの中で一瞬だけ何かを堪えるような顔をした。悟くんのお父さんがそれを見て、何も言わずにカップを拭いている。何だったのかは分からない。分からないけれど、たぶん未船さんは今日も何かを言わないでいる。
席につくと、悟くんが封筒を指で軽く押した。
「写真、見つけた」
「本当に?」
「うん。変すぎないやつを選んだ」
「変なやつもあったんだ」
「それは言わない」
「気になる」
「言わない」
悟くんは少し困ったように笑った。
その笑い方を見て、胸の奥が小さく跳ねる。
ちゃんと会話になっている。
昨日より、少しだけ自然に。
悟くんは封筒から一枚の写真を取り出した。
少し色あせた写真だった。
カウンター席に、小さい男の子が座っている。今よりずっと幼くて、髪も少し跳ねていて、両手でカップを持っている。横には、年配の男性の手が写っていた。顔は全部写っていない。でも、その手の感じだけで、優しそうな人だと思った。
「これ、悟くん?」
「うん」
「かわいい」
言った瞬間、悟くんが固まった。
私も固まった。
まただ。
また、先に言葉が出た。
「あ、いや、子どもとして」
「分かってる」
「変な意味じゃなくて」
「それも分かってる」
悟くんはそう言いながら、耳を赤くしていた。
私もたぶん赤い。
未船さんがカウンターの中で、ものすごく何かを言いたそうにしているのが視界の端に見えた。けれど、何も言わなかった。代わりに、ものすごい勢いでカップを拭いている。
悟くんのお父さんが静かに言う。
「カップは割らないように」
「はい」
未船さんの返事だけが妙に早かった。
そのやり取りのおかげで、少しだけ息がしやすくなった。
私はもう一度、写真を見る。
「この手、おじいさん?」
「うん。たぶん」
「顔は写ってないんだね」
「じいちゃん、撮る側だったから。写ってる写真は少ないんだ」
「そっか」
写真の中の悟くんは、カップを大事そうに持っている。
隣に写る手は、カップを支えているようにも、こぼさないように見守っているようにも見えた。
私はその手を見て、喫茶グリーンベルがただの場所ではないことを改めて思った。
悟くんにとっては、小さい頃の時間が残っている場所。
悟くんのお父さんにとっては、お父さんの味が残っている場所。
未船さんにとっては、たぶん何かを始めたい場所。
そして私にとっては、まだ名前がつけられない場所。
戻ってきてもいい場所。
そう言うと、少しだけ近い気がした。
「見せてくれてありがとう」
「うん」
「大事な写真だよね」
「たぶん。でも、見せるの嫌じゃなかった」
悟くんはそう言ってから、自分の言葉に少し驚いたような顔をした。
私はそれ以上、すぐに返せなかった。
嬉しかった。
とても。
でも、嬉しいです、と言うには少し近い。
だから私は、写真を丁寧に封筒へ戻した。
「また、見せてね」
それなら言えた。
悟くんは、少しだけ笑った。
「うん」
* 未船イゾウ
未船イゾウは、カウンターの内側で耐えていた。
これはもう、戦いだった。
三枝ハルと春日井悟が、窓際の席で古い写真を見ている。小さい頃の悟の写真。祖父の店の記憶。過去を共有するアイテム。ラブコメ的には明らかに重要イベントである。
言いたいことは山ほどあった。
思い出は、誰かに見せた時から新しい意味を持つんですね。
写真に写っていない人ほど、今もこの場所に残っているのかもしれません。
これは、二人の距離が一枚分近づいた瞬間ですね。
全部駄目だ。
重い。
邪魔。
そして何より、言った瞬間に武に見られる。
『発話抑制を確認』
「今、俺はかなり頑張ってる」
『肯定します』
「もっと褒めて」
『ただし、カップ拭き動作が過剰です』
「これで自我を保ってるんだよ」
イゾウは小声で返しながら、すでに綺麗なカップをもう一度拭いた。
彼はハルと悟の会話を聞いていた。
聞こえてしまう距離にいる。
けれど、入らない。
入ってはいけない。
喫茶店のマスターなら、ここで気の利いた一言を言えるのかもしれない。だが、春日井家の先代店主が言ったらしい言葉が、イゾウの頭に残っている。
客の人生に酔うな。
客の行き先を決めるな。
今のハルと悟に必要なのは、意味深な助言ではない。
写真を見る時間だ。
それを邪魔しないことだ。
イゾウは、黙ってコーヒーを淹れた。
前より少しだけ香りが立つように。
少なくとも、雑にならないように。
武が横から一口飲み、短く言った。
「少しだけ良くなりました」
「本当ですか」
「少しだけです」
「そこ強調する必要あります?」
「あります」
厳しい。
だが、少しだけ良くなった。
それだけで、イゾウは今日の裏方業務に意味が生まれた気がした。
* 春日井武
春日井武は、カウンターの奥から若い二人を見ていた。
正確には、見すぎないように見ていた。
三枝ハルは写真を両手で丁寧に持ち、悟は少し照れたように説明している。二人とも、言葉の選び方が不器用だった。踏み込みたいのに踏み込みすぎたくない。聞きたいのに聞きすぎたくない。近づきたいのに、近づいたことを相手に知られるのが怖い。
若い。
そう思った。
同時に、悪くないとも思った。
店が閉じていた三年間、この場所の時間はほとんど止まっていた。父の椅子、父のカップ、父のメモ、父の味。どれも捨てられず、かといって動かすこともできなかった。自分には父のようにコーヒーを淹れる技術がない。店を継ぐ覚悟もなかった。
だから閉じた。
それが間違いだったとは、今でも思わない。
けれど、閉じたままでいることだけが正しいとも、最近は思えなくなっていた。
未船イゾウという青年は、正直に言えば怪しい。
独り言が多い。顔がうるさい。コーヒーは薄い。喫茶店のマスターというものに妙な憧れを持っている。おそらく、父がいたらまず説教から入っただろう。
だが、掃除はする。カップは洗う。指摘すれば直そうとする。根が正直者なのだろう。こちらの言葉を受け入れる善良さを持ち合わせてもいる。
そして、余計なことを言いたそうにしながら、最近はどうにか飲み込むようになってきた。これも、父からの受け売りの言葉を胸に刻んでくれた証なのかもしれない。
それは、少なくとも悪い変化ではない。
「武さん」
イゾウが小声で聞いてきた。
「今日のコーヒー、どうですか」
「少しだけ良くなりました」
「さっき聞きました」
「なら、なぜもう一度聞くのですか」
「もう一回褒められる可能性に賭けました」
「薄いです」
「追加評価で下がった!」
武はカップを置いた。
そのやり取りに、窓際の三枝ハルが小さく笑う。悟も笑う。
父の店に、笑い声が戻っている。
それを聞いて、武は何も言わなかった。
言わない方がいいと思った。
店主は客の行き先を決めない。
父の言葉を、今度は自分が思い出していた。
* 三枝ハル
その日の喫茶グリーンベルは、前より少しだけ店らしく見えた。
カウンターには磨かれたカップが並んでいて、テーブルの上には小さな花が置いてあった。花屋さんが持ってきたものらしい。黒板の文字も、前より少しだけ整っている。未船さんが書いたのか、悟くんのお父さんが直したのかは分からない。
コーヒーは、やっぱり少し薄かった。
でも、昨日より香りがした気がする。
そう言ったら、未船さんはとても嬉しそうな顔をして、すぐに悟くんのお父さんから「顔」と言われていた。
私は笑ってしまった。
ここに来ると、笑う回数が少し増える。
それはたぶん、良いことだと思う。
悟くんとは、写真の話をしたあとも少しだけ話せた。祖父の店のこと。小さい頃はカウンター席が高く感じたこと。ミルクを入れすぎると祖父に笑われたこと。私はほとんど聞いていただけだったけれど、それでも、前より悟くんのことを少し知れた気がした。
帰る前、私は鞄の中のメモ帳に手を触れた。
今日のことを書きたい。
でも、今はまだ開かない。
書くのは帰ってからでいい。
そう思えたことが、少し不思議だった。
「また来ます」
店を出る前に、私は言った。
悟くんが顔を上げる。
「うん。また」
また。
その言葉が返ってきた。
それだけで、帰り道が少し軽くなる。
喫茶グリーンベルの扉を開けると、ベルが鳴った。かすれて、少し遅れて、それでもちゃんと鳴る。外の空気は夕方の匂いがした。商店街の向こうに伸びる道を見ながら、私は鞄の中のメモ帳をもう一度だけ指先で確かめた。
帰ったら書こう。
悟くんの小さい頃の写真を見た。
かわいいと言ってしまった。
また、と言ってもらえた。
たぶん、その三行を書く。
それから、もう一行だけ書くかもしれない。
メモ帳には書けるのに、言葉にするのはまだ少し怖い。
でも今日は、メモ帳を開かなくても少し話せた。
だから、たぶん大丈夫。
まだ、少しだけだけど。
私は喫茶グリーンベルを振り返らずに歩き出した。
振り返らなくても、また行ける場所だと分かっていた。