平凡な大学生ミフネイゾウはキーパーソンの夢を見るか   作:ココロ☆ソーダ☆クエン酸

6 / 7
第一章ラブコメ編
第6話 メモ帳には書けるのに


 

 

* 三枝ハル

 

 薄い青色のメモ帳を開いたまま、私はしばらく手を止めていた。

 

 机の上には、シャープペンシルと消しゴムと、今日提出する予定のプリントが置いてある。教科書も開いている。予習をするつもりだった。少なくとも、鞄から教科書を出した時までは、そのつもりだった。

 

 でも、さっきから目で追っているのは教科書の文字じゃない。

 

 メモ帳の最初のページ。

 

 喫茶グリーンベルに、また行く。

 

 悟くんと、もう少し話す。

 

 写真を見せてもらえるかもしれない。

 

 自分で書いた三行を見下ろして、朝からずっと困っている。何を書いたのかは分かる。どうして書いたのかも、たぶん分かる。けれど、それを今日の私が本当に実行できるのかは、まったく別の問題だった。

 

「……もう少し、って何」

 

 小さく呟いてから、私はすぐに口を閉じた。

 

 もう少し話す。

 

 便利な言葉だと思った。踏み込みすぎていない。重くもない。告白でもない。今すぐ何かを決める言葉でもない。でも、何もしないままでいるよりは少しだけ前を向いている気がする。

 

 だから、昨日の私はこの言葉を選んだのだと思う。

 

 問題は、朝になって読み返すと、その「少し」が急に遠く見えることだった。

 

 悟くんと話したい。

 

 それはある。

 

 けれど、それをそのまま口にしたら、どうなるんだろう。

 

 悟くんともっと話したいです、なんて言ったら、それはもう告白に近いのではないか。いや、さすがに考えすぎだと思う。思いたい。でも、考えすぎだと分かっていても、考えるのをやめられるなら最初からメモ帳なんて必要ない。

 

 私はシャープペンシルを持ち、ページの下の方に小さく書いた。

 

 話題候補。

 

 その下に、少し間を空けてから、さらに書いていく。

 

 喫茶店のこと。

 

 おじいさんのこと。

 

 コーヒーのこと。

 

 小さい頃の写真のこと。

 

 最後の一行を書いた瞬間、喫茶グリーンベルの空気が戻ってきた。古い木の匂い。少しかすれたベルの音。薄いけれど温かかったコーヒー。カウンターの中で表情のうるさい未船さん。奥で静かに厳しいことを言う悟くんのお父さん。そして、窓際に座っていた悟くん。

 

 昨日まで、あの店はただの閉じた喫茶店だった。

 

 商店街の端にある、看板の名前だけ知っている場所。いつも扉が閉まっていて、窓の向こうが薄暗くて、自分とは関係がないと思っていた場所。

 

 なのに、一度入っただけで、そこはもう知らない場所ではなくなった。

 

 そのことが少し怖くて、少し嬉しい。

 

「ハル、朝ごはん冷めるよ」

 

 部屋の外から母の声がした。

 

「今行く」

 

 返事をしてから、私はもう一度だけメモ帳を見る。

 

 悟くんと、もう少し話す。

 

 写真を見せてもらえるかもしれない。

 

 文字にすると、できそうに見える。

 

 でも、文字にできることと、実際に言えることは違う。

 

 それを私は、たぶん誰よりもよく知っていた。

 

 学校では、いつも通りの時間が流れた。

 

 授業を受け、ノートを取り、友達と昼食を食べる。昨日の雨が嘘のように空は晴れていて、窓から入る光が机の端に白く落ちていた。教室の中は、いつものざわめきで満たされている。誰かが小テストの範囲を聞き、誰かが購買のパンを買い損ねたと嘆き、誰かが週末の予定を話していた。

 

 私もその中にいた。

 

 普通に返事をして、普通に笑って、普通にノートを取る。

 

 けれど、ふとした瞬間に喫茶グリーンベルのことを思い出す。

 

 前は、寄り道なんてあまりしなかった。帰るなら帰る。買うものがあるなら買う。それだけだった。けれど今は、商店街の端にある古い喫茶店のことを、用もないのに思い出している。

 

 たぶん、用はある。

 

 あるのだけれど、それを何と呼べばいいのかが分からない。

 

「ハル、聞いてる?」

 

 昼休み、隣の席の友人に声をかけられて、私ははっと顔を上げた。

 

「え、聞いてる。ごめん、何だっけ」

 

「絶対聞いてないやつじゃん」

 

「ごめん」

 

「最近ぼーっとしてるよね。何かあった?」

 

 何かあった。

 

 その言葉に、すぐ答えられなかった。

 

 あったといえば、あった。閉店していた喫茶店が開いていた。そこに悟くんがいた。コーヒーを飲んだ。また来てもいいと言った。次に開く日を聞いた。プロローグという名前を、いい名前だと思った。

 

 けれど、それを全部説明すると、たぶん大げさになる。

 

 自分の中では大きいのに、人に話すと小さく聞こえそうなことほど、言葉にするのが難しい。

 

「ちょっと、寄り道する場所ができた」

 

「寄り道?」

 

「うん。商店街の方に、喫茶店があって」

 

「喫茶店? ハルってそういうとこ行くんだ」

 

「最近、少しだけ」

 

 友人は少し意外そうにしたあと、にやっと笑った。

 

「へえ。ひとりで?」

 

 その聞き方に、私は一瞬だけ返事を遅らせてしまった。

 

 失敗した、と思った時にはもう遅い。

 

「……ひとり、の時もある」

 

「ふうん?」

 

「なに」

 

「べつにー」

 

 友人の顔に、分かりやすく面白がっている色が浮かぶ。私はお弁当の卵焼きを箸でつつきながら、視線を逸らした。ここで慌てると、余計に何かあると思われる。だが、落ち着こうとするほど、逆に顔が熱くなる。

 

「本当に、普通の喫茶店だから」

 

「普通の喫茶店にそんな顔する?」

 

「どんな顔」

 

「今の顔」

 

「見ないで」

 

 友人は笑ったが、それ以上は追及してこなかった。軽くからかうけれど、踏み込みすぎない。そういう距離感に、私は何度も助けられている。

 

 机の下で、私は鞄の中のメモ帳に触れた。

 

 話すこと。

 

 話さないこと。

 

 まだ話せないこと。

 

 その境目を、私はいつも探している気がした。

 

* 未船イゾウ

 

 未船イゾウは、喫茶グリーンベルのカウンターの内側で、真剣な顔をしていた。

 

 正確には、真剣な顔をしようとしていた。

 

 もっと正確に言うなら、本人は真剣な顔をしているつもりだったが、春日井武から見ると、どうやら「顔がうるさい」に分類される表情らしかった。

 

「顔」

 

「まだ何もしてないんですが」

 

「もう出ています」

 

「予兆で叱られることある?」

 

 イゾウは頬を押さえた。

 

 今日は次の試験開放に向けた準備日だった。正式な営業ではない。看板も大きく出さない。メニューも最小限。けれど、一度きりではない以上、前回と同じように何となく開けるわけにはいかない。

 

 イゾウには、やるべきことが山ほどあった。

 

 カップの確認。

 

 テーブルの拭き直し。

 

 床の掃除。

 

 コーヒーの練習。

 

 入口の黒板の文言。

 

 席の配置。

 

 そして、余計なことを言わない訓練。

 

 最後の項目だけ、難易度が異様に高い。

 

『対象者・三枝ハルの再来店可能性は維持されています』

 

 左耳のイヤーカフからAIの声がした。

 

「分かってる」

 

『春日井悟との接触機会を増加させる座席配置案を提示しますか』

 

「提示しない」

 

 イゾウの返事は早かった。

 

 提示してほしい。

 

 ものすごく提示してほしい。

 

 悟が座る場所、ハルが座りやすい場所、視線が自然に合う角度、会話が始まりやすい距離。そんなものをAIが計算してくれるなら、見たいに決まっている。

 

 だが、見たら使う。

 

 そして使ったら、たぶん店ではなく舞台装置になる。

 

「席は普通にする。悟くんが座りたい場所に座って、ハルちゃんが座りたい場所に座る。それでいい」

 

『了解しました。介入補助を制限します』

 

「ただし、掃除しやすい配置は教えて」

 

『了解しました』

 

「それはいいんだ」

 

『清掃効率は対象者の意思決定に直接干渉しません』

 

「判断基準が冷静」

 

 イゾウは布巾を持ち、カウンターを拭き始めた。

 

 彼の中では、喫茶プロローグ計画は着実に進んでいた。

 

 ただし、その進行内容は、本人が当初想定していたものとだいぶ違う。

 

 もっとこう、裏から運命を動かす感じを想像していた。意味深な助言。偶然を装った導き。主人公が迷った時にだけ現れる謎のマスター。そういう役割に憧れていた。

 

 だが、現在の主な活動はカップ洗浄と床拭きである。

 

「俺は物語の裏側で動く男……」

 

『現在の主活動は水垢除去です』

 

「裏側だろ」

 

『厨房設備の裏側ではあります』

 

「そういう意味じゃない」

 

 小声で言い返しながら、イゾウはシンクを磨いた。

 

 春日井武は、そんなイゾウを少し離れたところから見ていた。何かを言いたそうで、けれどすぐには言わない。イゾウはその沈黙に少し慣れ始めている。

 

「未船さん」

 

「はい」

 

「店を、誰かのために開くと言いましたね」

 

「はい」

 

「なら、誰かのために見える場所だけ綺麗にするのではなく、誰かが見ない場所も綺麗にしてください」

 

 イゾウはシンクの奥を見た。

 

 確かに、まだ少し汚れが残っている。

 

 地味だ。

 

 非常に地味だ。

 

 だが、たぶんこういうところなのだろう。

 

 誰かが戻ってきてもいい場所を作るというのは、戻ってきた人に気の利いた台詞を言うことではなく、戻ってきた時にカップが綺麗で、テーブルが拭かれていて、椅子ががたつかないようにしておくことなのだ。

 

「……了解しました」

 

 イゾウは頷いた。

 

『作業意欲の上昇を確認』

 

「今いい感じだったから、数値化しないで」

 

『了解しました』

 

 物語の裏方は、今日も水垢と戦っていた。

 

* 春日井悟

 

 段ボール箱の中には、思ったよりもたくさんの写真が入っていた。

 

 祖父の店がまだ普通に開いていた頃の写真。カウンターの中に立つ祖父。まだ若い父。今よりずっと小さい自分。常連だった人たちの集合写真。店の前で撮ったらしい、少し色あせた写真。

 

 春日井悟は、それを一枚ずつ机の上に並べながら、少しだけ困っていた。

 

 ハルが見たいと言ったのは、小さい頃の自分の写真だ。

 

 昨日の言い方は、たぶん何気ないものだったと思う。

 

 小さい頃の悟くん、ちょっと見たい。

 

 言った本人も、言ったあとで驚いていた。

 

 だから、深い意味はないのかもしれない。

 

 でも、深い意味がなかったとしても、言われた側には残る。

 

「……これ、持ってくのは無理だろ」

 

 悟は一枚の写真を裏返した。

 

 写っていたのは、祖父の店のカウンターで、ミルクを大量に入れたコーヒーを飲んでいる幼い自分だった。口元に白い跡がついていて、祖父が横で笑っている。

 

 悪い写真ではない。

 

 悪い写真ではないが、見せるには少し恥ずかしい。

 

 では、格好いい写真があるのかと言われると、それはそれでない。

 

 幼い頃の写真に格好いいも何もない。だいたい、どれも丸い。髪型も変だ。父が撮った写真は妙に正直で、祖父が撮った写真は距離が近い。

 

 悟はため息をついた。

 

 それでも、写真を探している自分がいた。

 

 持っていかなければいいだけだ。

 

 忘れたと言えばいい。

 

 変な写真しかなかったと言えば、それで済む。

 

 けれど、ハルに「見つけたら持ってくる」と言った。だから、何か一枚くらいは持っていきたい。

 

 その理由を、あまり深く考えたくなかった。

 

 襖の向こうから、父の声がした。

 

「写真、あったかい?」

 

「あるにはあるけど」

 

 悟は机の上に広げた写真を見下ろした。

 

 あるにはある。

 

 ただ、見せていいものと、見せたらしばらく後悔しそうなものが混ざっている。小さい頃の写真なのだから幼いのは当然なのだが、それを三枝ハルに見せるとなると、当然で済ませられない気がした。

 

「見せられるものかな?」

 

「そこが難しい」

 

 父は部屋に入ってきて、机の上の写真を見た。少しだけ目を細める。その表情は、懐かしんでいるようにも、困っているようにも見えた。

 

「懐かしいなぁ」

 

「父さん、この写真知ってる?」

 

「もちろん。父がよく撮ってたからね」

 

 父は一枚の写真を手に取った。

 

 祖父がカウンターの中に立ち、幼い悟がカウンター席で両手を伸ばしている写真だった。おそらく、ミルクを入れすぎたコーヒーを欲しがっているところだ。写真の中の自分は、今の悟から見ると、ずいぶん無防備な顔をしていた。

 

「これとか、いいと思うけど」

 

「それは……ガキっぽすぎる」

 

 悟は思わず顔をしかめた。

 

 幼い頃の写真に向かってガキっぽいも何もない。そんなことは分かっている。分かっているが、だからといって平気で見せられるかは別の話だった。

 

 父はその反応を見て、少しだけ口元を緩めた。

 

「今さら幼い頃の写真に、今の年相応さを求めるのかい?」

 

「そうだけど」

 

「見栄……かな?」

 

「言い方」

 

 悟は少しだけぶすっとした。

 

 父の言い方は柔らかい。責めているわけではない。けれど、柔らかいからこそ逃げ場がない時がある。昔からそうだった。父は強く踏み込んではこないが、こちらが自分で気づいてしまうくらいの距離に、言葉を置いてくる。

 

 父は笑うでもなく、写真を机に戻した。

 

「三枝さんに見せるのかな?」

 

「……たぶん」

 

「嫌なら、見せない選択肢もあるよ」

 

「嫌ってわけじゃない」

 

 悟は写真の角を指先で軽く押さえた。

 

 嫌ではない。

 

 ただ、恥ずかしい。

 

 恥ずかしいのに、少し見せたい。

 

 その気持ちを、どう説明すればいいのか分からなかった。

 

 ハルが店に来るようになってから、祖父の店の記憶が少し違って見える。自分と家族だけの思い出だった場所に、別の誰かの視線が入ってきた。最初は不思議だった。けれど、嫌ではなかった。

 

 むしろ、少し嬉しかった。

 

「ハル、店の話ちゃんと聞いてくれるから」

 

 そう言うと、父は少しだけ黙った。

 

「そうだね」

 

 短い返事だった。

 

 でも、否定ではなかった。

 

 悟は写真の中から一枚を選んだ。祖父の店のカウンターに座る、小さい頃の自分。口元にミルクの跡はついていない。横に祖父の手が少しだけ写っている。

 

 格好よくはない。

 

 けれど、見せられないほどではない。

 

「これにする」

 

「良いと思うよ」

 

 父はそう言って、ほんの少しだけ笑った。

 

* 三枝ハル

 

 週末の商店街は、平日の放課後より少しだけ人が多かった。

 

 買い物袋を持った人。自転車を押す人。古本屋の前で足を止める人。花屋の店先で小さな鉢植えを選んでいる人。歩き慣れた場所のはずなのに、喫茶グリーンベルへ向かっていると思うだけで、全部の景色が少し違って見える。

 

 鞄の中には、薄い青色のメモ帳が入っている。

 

 今日、話したいことは書いてきた。

 

 写真、見つかった?

 

 コーヒー、今日は薄くないかな。

 

 この店、週末以外も開くの?

 

 どれも普通の質問だと思う。

 

 思いたい。

 

 けれど、普通の質問を普通に言うのが一番難しい時もある。

 

 喫茶グリーンベルの前まで来ると、小さな黒板が出ていた。

 

 本日試験開放中。

 

 その端に、小さく「プロローグ」と書いてある。

 

 私はその文字を見て、少しだけ安心した。

 

 昨日もあった文字。

 

 未船さんがつけたらしい名前。

 

 始まる前の場所。

 

 そう思ったら、扉を開けるのがほんの少しだけ怖くなくなった。

 

 ベルが鳴る。

 

 かすれて、少し遅れて、それでもちゃんと鳴る音。

 

「いらっしゃいませ」

 

 カウンターの中から、未船さんが顔を上げた。今日も表情が少し忙しい。けれど、昨日より少しだけ喫茶店の人らしく見える。たぶん、本人には言わない方がいい。

 

「こんにちは」

 

 私は頭を下げて、店内を見た。

 

 悟くんは窓際の席にいた。

 

 その前に、小さな封筒が置かれている。

 

 私がそれに気づいたのと、悟くんが私に気づいたのは、たぶんほとんど同時だった。

 

「ハル」

 

「うん。来た」

 

 昨日も言った言葉だった。

 

 でも、今日は少しだけ意味が違う気がした。

 

 雨に追われたわけではない。

 

 たまたま入ったわけでもない。

 

 今日は、自分で来た。

 

「今日もコーヒーで大丈夫ですか」

 

 未船さんが聞いてくる。

 

「あ、はい。お願いします」

 

「本日は昨日より香りが改善されている予定です」

 

「予定なんですね」

 

「予定です」

 

 未船さんは真面目な顔で頷いた。

 

 奥にいた悟くんのお父さんが、静かに言う。

 

「まだ父の味には遠いです」

 

「武さん、提供前から評価を下げないでください」

 

「事前説明です」

 

「厳しい」

 

 思わず笑ってしまった。

 

 店の中の空気が、少しだけ柔らかくなる。

 

 私は昨日と同じカウンター席に座りかけて、ふと窓際の悟くんを見た。封筒がある。たぶん、写真だ。たぶん、私が聞いたから持ってきてくれた。

 

 カウンター席に座れば、未船さんと話しやすい。

 

 窓際に行けば、悟くんと話しやすい。

 

 私は一瞬迷った。

 

 メモ帳には、席のことなんて書いていない。

 

 こういう小さなところで、いつも困る。

 

「ハル、こっち来る?」

 

 悟くんが言った。

 

 私は少しだけ息を止めた。

 

 先に言ってくれた。

 

 安心したのに、少し悔しい。自分で行ってもよかったのに、と思う。でも、言ってくれて嬉しい。

 

 いろいろな気持ちが一度に来て、返事が少し遅れた。

 

「うん。行く」

 

 私は窓際の席に向かった。

 

 未船さんがカウンターの中で一瞬だけ何かを堪えるような顔をした。悟くんのお父さんがそれを見て、何も言わずにカップを拭いている。何だったのかは分からない。分からないけれど、たぶん未船さんは今日も何かを言わないでいる。

 

 席につくと、悟くんが封筒を指で軽く押した。

 

「写真、見つけた」

 

「本当に?」

 

「うん。変すぎないやつを選んだ」

 

「変なやつもあったんだ」

 

「それは言わない」

 

「気になる」

 

「言わない」

 

 悟くんは少し困ったように笑った。

 

 その笑い方を見て、胸の奥が小さく跳ねる。

 

 ちゃんと会話になっている。

 

 昨日より、少しだけ自然に。

 

 悟くんは封筒から一枚の写真を取り出した。

 

 少し色あせた写真だった。

 

 カウンター席に、小さい男の子が座っている。今よりずっと幼くて、髪も少し跳ねていて、両手でカップを持っている。横には、年配の男性の手が写っていた。顔は全部写っていない。でも、その手の感じだけで、優しそうな人だと思った。

 

「これ、悟くん?」

 

「うん」

 

「かわいい」

 

 言った瞬間、悟くんが固まった。

 

 私も固まった。

 

 まただ。

 

 また、先に言葉が出た。

 

「あ、いや、子どもとして」

 

「分かってる」

 

「変な意味じゃなくて」

 

「それも分かってる」

 

 悟くんはそう言いながら、耳を赤くしていた。

 

 私もたぶん赤い。

 

 未船さんがカウンターの中で、ものすごく何かを言いたそうにしているのが視界の端に見えた。けれど、何も言わなかった。代わりに、ものすごい勢いでカップを拭いている。

 

 悟くんのお父さんが静かに言う。

 

「カップは割らないように」

 

「はい」

 

 未船さんの返事だけが妙に早かった。

 

 そのやり取りのおかげで、少しだけ息がしやすくなった。

 

 私はもう一度、写真を見る。

 

「この手、おじいさん?」

 

「うん。たぶん」

 

「顔は写ってないんだね」

 

「じいちゃん、撮る側だったから。写ってる写真は少ないんだ」

 

「そっか」

 

 写真の中の悟くんは、カップを大事そうに持っている。

 

 隣に写る手は、カップを支えているようにも、こぼさないように見守っているようにも見えた。

 

 私はその手を見て、喫茶グリーンベルがただの場所ではないことを改めて思った。

 

 悟くんにとっては、小さい頃の時間が残っている場所。

 

 悟くんのお父さんにとっては、お父さんの味が残っている場所。

 

 未船さんにとっては、たぶん何かを始めたい場所。

 

 そして私にとっては、まだ名前がつけられない場所。

 

 戻ってきてもいい場所。

 

 そう言うと、少しだけ近い気がした。

 

「見せてくれてありがとう」

 

「うん」

 

「大事な写真だよね」

 

「たぶん。でも、見せるの嫌じゃなかった」

 

 悟くんはそう言ってから、自分の言葉に少し驚いたような顔をした。

 

 私はそれ以上、すぐに返せなかった。

 

 嬉しかった。

 

 とても。

 

 でも、嬉しいです、と言うには少し近い。

 

 だから私は、写真を丁寧に封筒へ戻した。

 

「また、見せてね」

 

 それなら言えた。

 

 悟くんは、少しだけ笑った。

 

「うん」

 

* 未船イゾウ

 

 未船イゾウは、カウンターの内側で耐えていた。

 

 これはもう、戦いだった。

 

 三枝ハルと春日井悟が、窓際の席で古い写真を見ている。小さい頃の悟の写真。祖父の店の記憶。過去を共有するアイテム。ラブコメ的には明らかに重要イベントである。

 

 言いたいことは山ほどあった。

 

 思い出は、誰かに見せた時から新しい意味を持つんですね。

 

 写真に写っていない人ほど、今もこの場所に残っているのかもしれません。

 

 これは、二人の距離が一枚分近づいた瞬間ですね。

 

 全部駄目だ。

 

 重い。

 

 邪魔。

 

 そして何より、言った瞬間に武に見られる。

 

『発話抑制を確認』

 

「今、俺はかなり頑張ってる」

 

『肯定します』

 

「もっと褒めて」

 

『ただし、カップ拭き動作が過剰です』

 

「これで自我を保ってるんだよ」

 

 イゾウは小声で返しながら、すでに綺麗なカップをもう一度拭いた。

 

 彼はハルと悟の会話を聞いていた。

 

 聞こえてしまう距離にいる。

 

 けれど、入らない。

 

 入ってはいけない。

 

 喫茶店のマスターなら、ここで気の利いた一言を言えるのかもしれない。だが、春日井家の先代店主が言ったらしい言葉が、イゾウの頭に残っている。

 

 客の人生に酔うな。

 

 客の行き先を決めるな。

 

 今のハルと悟に必要なのは、意味深な助言ではない。

 

 写真を見る時間だ。

 

 それを邪魔しないことだ。

 

 イゾウは、黙ってコーヒーを淹れた。

 

 前より少しだけ香りが立つように。

 

 少なくとも、雑にならないように。

 

 武が横から一口飲み、短く言った。

 

「少しだけ良くなりました」

 

「本当ですか」

 

「少しだけです」

 

「そこ強調する必要あります?」

 

「あります」

 

 厳しい。

 

 だが、少しだけ良くなった。

 

 それだけで、イゾウは今日の裏方業務に意味が生まれた気がした。

 

* 春日井武

 

 春日井武は、カウンターの奥から若い二人を見ていた。

 

 正確には、見すぎないように見ていた。

 

 三枝ハルは写真を両手で丁寧に持ち、悟は少し照れたように説明している。二人とも、言葉の選び方が不器用だった。踏み込みたいのに踏み込みすぎたくない。聞きたいのに聞きすぎたくない。近づきたいのに、近づいたことを相手に知られるのが怖い。

 

 若い。

 

 そう思った。

 

 同時に、悪くないとも思った。

 

 店が閉じていた三年間、この場所の時間はほとんど止まっていた。父の椅子、父のカップ、父のメモ、父の味。どれも捨てられず、かといって動かすこともできなかった。自分には父のようにコーヒーを淹れる技術がない。店を継ぐ覚悟もなかった。

 

 だから閉じた。

 

 それが間違いだったとは、今でも思わない。

 

 けれど、閉じたままでいることだけが正しいとも、最近は思えなくなっていた。

 

 未船イゾウという青年は、正直に言えば怪しい。

 

 独り言が多い。顔がうるさい。コーヒーは薄い。喫茶店のマスターというものに妙な憧れを持っている。おそらく、父がいたらまず説教から入っただろう。

 

 だが、掃除はする。カップは洗う。指摘すれば直そうとする。根が正直者なのだろう。こちらの言葉を受け入れる善良さを持ち合わせてもいる。

 

 そして、余計なことを言いたそうにしながら、最近はどうにか飲み込むようになってきた。これも、父からの受け売りの言葉を胸に刻んでくれた証なのかもしれない。

 

 それは、少なくとも悪い変化ではない。

 

「武さん」

 

 イゾウが小声で聞いてきた。

 

「今日のコーヒー、どうですか」

 

「少しだけ良くなりました」

 

「さっき聞きました」

 

「なら、なぜもう一度聞くのですか」

 

「もう一回褒められる可能性に賭けました」

 

「薄いです」

 

「追加評価で下がった!」

 

 武はカップを置いた。

 

 そのやり取りに、窓際の三枝ハルが小さく笑う。悟も笑う。

 

 父の店に、笑い声が戻っている。

 

 それを聞いて、武は何も言わなかった。

 

 言わない方がいいと思った。

 

 店主は客の行き先を決めない。

 

 父の言葉を、今度は自分が思い出していた。

 

* 三枝ハル

 

 その日の喫茶グリーンベルは、前より少しだけ店らしく見えた。

 

 カウンターには磨かれたカップが並んでいて、テーブルの上には小さな花が置いてあった。花屋さんが持ってきたものらしい。黒板の文字も、前より少しだけ整っている。未船さんが書いたのか、悟くんのお父さんが直したのかは分からない。

 

 コーヒーは、やっぱり少し薄かった。

 

 でも、昨日より香りがした気がする。

 

 そう言ったら、未船さんはとても嬉しそうな顔をして、すぐに悟くんのお父さんから「顔」と言われていた。

 

 私は笑ってしまった。

 

 ここに来ると、笑う回数が少し増える。

 

 それはたぶん、良いことだと思う。

 

 悟くんとは、写真の話をしたあとも少しだけ話せた。祖父の店のこと。小さい頃はカウンター席が高く感じたこと。ミルクを入れすぎると祖父に笑われたこと。私はほとんど聞いていただけだったけれど、それでも、前より悟くんのことを少し知れた気がした。

 

 帰る前、私は鞄の中のメモ帳に手を触れた。

 

 今日のことを書きたい。

 

 でも、今はまだ開かない。

 

 書くのは帰ってからでいい。

 

 そう思えたことが、少し不思議だった。

 

「また来ます」

 

 店を出る前に、私は言った。

 

 悟くんが顔を上げる。

 

「うん。また」

 

 また。

 

 その言葉が返ってきた。

 

 それだけで、帰り道が少し軽くなる。

 

 喫茶グリーンベルの扉を開けると、ベルが鳴った。かすれて、少し遅れて、それでもちゃんと鳴る。外の空気は夕方の匂いがした。商店街の向こうに伸びる道を見ながら、私は鞄の中のメモ帳をもう一度だけ指先で確かめた。

 

 帰ったら書こう。

 

 悟くんの小さい頃の写真を見た。

 

 かわいいと言ってしまった。

 

 また、と言ってもらえた。

 

 たぶん、その三行を書く。

 

 それから、もう一行だけ書くかもしれない。

 

 メモ帳には書けるのに、言葉にするのはまだ少し怖い。

 

 でも今日は、メモ帳を開かなくても少し話せた。

 

 だから、たぶん大丈夫。

 

 まだ、少しだけだけど。

 

 私は喫茶グリーンベルを振り返らずに歩き出した。

 

 振り返らなくても、また行ける場所だと分かっていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。