平凡な大学生ミフネイゾウはキーパーソンの夢を見るか 作:ココロ☆ソーダ☆クエン酸
* 三枝ハル
写真を見せてもらった日の夜、私はメモ帳を開いた。
机の上には、今日の宿題と、シャープペンシルと、消しゴムと、まだ開いていない英語のワークがある。やるべきことは分かっている。明日提出するプリントもあるし、小テストの範囲も確認しなければならない。
でも、最初に開いたのは教科書ではなく、薄い青色のメモ帳だった。
悟くんの小さい頃の写真を見た。
かわいいと言ってしまった。
また、と言ってもらえた。
帰り道に考えていた通り、私はその三行を書いた。書いてから、しばらくその文字を眺める。字はいつもより少しだけ小さい。誰かに見せるものではないのに、なぜか小さく書いてしまった。
悟くんの小さい頃の写真。
色あせた紙の中で、今よりずっと幼い悟くんがカップを持っていた。横には、おじいさんの手が写っていた。顔は全部写っていなかったけれど、その手だけで、そこに誰かがいたのだと分かった。
あの写真を見せてもらえたことが、嬉しかった。
ただ写真が見られたからではない。
悟くんが、見せてもいいと思ってくれたことが嬉しかった。
そこまで書こうとして、私はシャープペンシルを止めた。
嬉しかった。
その言葉は、メモ帳には書ける。けれど、悟くんにそのまま言えるかと考えると、急に近くなりすぎる。
写真、嬉しかった。
言葉としては変ではない。むしろ普通だと思う。でも、私が言うと、普通では済まない気がする。どうしてそうなるのかは分からない。分からないけれど、胸の奥が勝手にうるさくなる。
私はページの下に、少し間を空けてから書いた。
次に言うこと。
写真、見せてくれてありがとう。
嬉しかった。
学校でも、話しかけられたらいい。
三行目を書いた瞬間、難易度が一気に上がった気がした。
喫茶グリーンベルでは、少し話せた。悟くんと向かい合って、写真を見て、変なことを言って、恥ずかしくなって、それでも会話が途切れなかった。あの店では、言葉が少しだけ前に出た。
でも、学校は違う。
教室には、他の人がいる。友達がいる。悟くんの友達もいる。廊下で話せば誰かに見られるかもしれないし、昼休みに声をかければ何を話しているのか聞かれるかもしれない。
喫茶グリーンベルなら言えることが、学校では言えなくなる。
それはたぶん、場所のせいだけではない。
私が、そうしている。
「……学校でも、か」
書いた文字を見て、私は小さく息を吐いた。
消すかどうか迷った。
でも、消さなかった。
言えるかどうかは分からない。
でも、言いたいことではある。
メモ帳は、私のかわりに言葉を置いておいてくれる。置いた言葉を、いつか自分で持てるようにするために。
そう思いたかった。
翌日の学校は、いつも通りだった。
朝の教室には、少し眠そうな声と、机を動かす音と、誰かが提出物を忘れたと騒ぐ声が混じっていた。私は自分の席に座り、鞄から教科書とノートを出した。ついでにメモ帳の位置を確かめる。鞄の内ポケット。いつも通り、すぐ手が届く場所。
悟くんは、少し遅れて教室に入ってきた。
教室の空気が変わったわけではない。誰かが振り向いたわけでもない。悟くんは普通に友達に挨拶をして、自分の席へ向かう。いつも通りの朝だった。
なのに、私だけが少しだけ息を止めている。
写真、見せてくれてありがとう。
昨日、メモ帳に書いた言葉が頭に浮かぶ。
今なら言えるかもしれない。悟くんが席につく前に、少しだけ呼び止めればいい。おはよう、と言って、そのあとに昨日の写真のことを言えばいい。
たぶん、それだけ。
それだけなのに、教室では一歩目が遠かった。
「ハル、おはよ」
先に声をかけてきたのは、隣の席の友人だった。
「おはよう」
「今日、小テストあるの覚えてる?」
「……忘れてた」
「やっぱり」
友人が笑う。私は慌てて教科書を開き、範囲を確認した。助かった。助かったけれど、その間に悟くんはもう席についてしまった。
声をかけるタイミングが、流れていく。
いつものことだ。
少し迷っただけで、言葉の置き場所がなくなる。
授業中、私は板書を写しながら、何度か悟くんの方を見そうになった。そのたびに、ノートへ視線を戻す。見るだけなら何も起きない。でも、見ると何か考えてしまう。考えると手が止まる。手が止まると、友人に気づかれる。
だから、見ない。
それでも昼休み、廊下で悟くんとすれ違った。
急だった。
購買へ向かう途中、角を曲がったところで悟くんが友達と一緒に歩いてきた。距離は近い。すれ違うだけなら、挨拶をするのが自然だ。
「三枝」
悟くんが先に気づいた。
「あ、悟くん」
名前を呼ばれたのに、返せたのはそれだけだった。
写真、ありがとう。
嬉しかった。
言葉はちゃんと頭の中にある。昨日の夜、何度も書いた。朝も見た。どこをどう言えばいいか、分かっているはずだった。
でも、悟くんの横には友達がいた。
その友達が、何気なくこちらを見る。
たったそれだけで、言葉が細くなる。
「購買?」
悟くんが聞いた。
「うん。お昼、少し足りなくて」
「そっか」
「うん」
会話はそこで終わった。
終わらせたのは、たぶん私だった。
悟くんは何か言いかけたようにも見えた。でも、隣の友達が「行こうぜ」と声をかけて、悟くんは小さく頷いた。
「じゃあ、また」
「うん。また」
また。
喫茶グリーンベルで聞いた時は、あんなに嬉しかった言葉が、学校の廊下では少しだけ遠く聞こえた。
すれ違ったあと、私はしばらく歩く速度を変えられなかった。
言えなかった。
写真、ありがとう。
たったそれだけが言えなかった。
購買でパンを買い、教室に戻る。友人がこちらを見て、少しだけ目を細めた。
「何かあった?」
「何も」
「その何もって、何かあった時の何もだよね」
「……そういう言い方、ずるい」
友人は笑った。
でも、それ以上すぐには聞いてこなかった。
私はパンの袋を開けながら、机の下でメモ帳に触れた。今すぐ開けば、たぶん書ける。学校では言えなかった、と書ける。悔しい、と書ける。どうして喫茶店では言えたのに、と書ける。
けれど、今は開かなかった。
書いたら泣きそうになる気がしたから。
泣くほどのことではない。
たぶん、誰かから見れば本当に小さなことだ。
でも、小さなことほど、自分の中ではうまく扱えない時がある。
* 春日井悟
春日井悟は、昼休みの廊下で三枝ハルとすれ違ったあと、少しだけ気になっていた。
何か言いたそうだった。
たぶん。
自信はない。
ハルはもともと、言葉を選ぶ方だ。何かを言う前に、少しだけ間がある。昨日の喫茶グリーンベルでもそうだった。写真を見て、かわいいと言って、それから慌てて言い直した。あの時の方が、今よりずっと自然だった気がする。
学校では、違った。
悟の横には友達がいた。廊下には他の生徒もいた。たぶん、それだけで話しづらくなったのだろう。そう考えれば納得できる。
けれど、納得できることと、気にならないことは別だった。
「さっきの三枝さん?」
友達が何気なく聞いてきた。
「うん」
「最近、話すんだ」
「まあ、少し」
「へえ」
その「へえ」が妙に引っかかった。
深い意味はないはずだ。友達も本気でからかっているわけではない。ただ、悟の方が勝手に反応してしまう。
「じいちゃんの店に来てて」
「喫茶店の?」
「うん」
「あそこ、また開いたんだ」
「試験的にだけど」
説明しながら、悟は自分でも不思議な気持ちになった。
祖父の店。
閉じたままになっていた場所。
そこにハルが来るようになった。
それを誰かに説明する時、どこまで話せばいいのか分からない。三枝が雨宿りで来た。写真を見せた。小さい頃の自分をかわいいと言われた。そんなことまで言う必要はない。
必要はないのに、胸の中ではそこが一番残っている。
「悟、顔」
「何」
「いや、なんか考えてる顔」
「小テストのこと」
「絶対違うだろ」
友達は笑って先に歩いていった。
悟はその背中を追いながら、ふと昨日の写真のことを思い出した。ハルは写真を丁寧に持っていた。大事なものだと分かっているような持ち方だった。
それが、少し嬉しかった。
学校で話しにくいなら、店で話せばいい。
そう思いかけて、悟は自分で少し驚いた。
店で話せばいい。
喫茶グリーンベルが、いつの間にかそういう場所になっている。教室では言えないことを、店なら少し話せる場所。自分にとっても、ハルにとっても、そうなり始めているのかもしれない。
それは、悪くなかった。
悪くなかったが、少し照れくさかった。
* 未船イゾウ
未船イゾウは、喫茶グリーンベルのカウンターで黒板と向き合っていた。
本日試験開放中。
その文字の下に、何を書くかで悩んでいる。
前回は小さく「プロローグ」と書いた。三枝ハルはそれに気づき、いい名前だと言った。あの瞬間、イゾウは心の中でかなり浮かれた。だが、浮かれた結果、武に「名前に酔わない」と刺された。
今回はどうするべきか。
喫茶プロローグ。
始まる前に立ち寄る場所。
言葉を選ぶための席、あります。
全部、書いた瞬間に重い。
『黒板文言の候補を提示しますか』
左耳のイヤーカフからAIの声が聞こえた。
「一応聞く」
『候補一。本日試験開放中。静かに過ごしたい方も歓迎します』
「悪くない」
『候補二。本日試験開放中。会話、休憩、思考整理に利用可能です』
「事務的」
『候補三。戻ってきてもいい場所です』
「重い」
『候補四。あなたの物語は、まだ始まる前かもしれません』
「絶対ダメ」
『物語機構による候補です』
「やっぱりな!」
イゾウは小声で叫びかけ、慌てて音量を落とした。
武が奥からこちらを見る。
「未船さん」
「はい」
「黒板相手に揉めないでください」
「揉めてはいません。選定中です」
「独り言ですか」
「多めの」
「減らしてください」
「努力します」
イゾウはチョークを持ったまま、黒板を見た。
戻ってきてもいい場所。
その言葉は悪くない。
悪くないが、表に出すと少し強い。ハルが自分でそう思うならいい。悟がそう感じるならいい。武がいつかそう言うなら、きっと意味がある。だが、イゾウが黒板に書いて押し付けるものではない。
考えた末、イゾウは小さく書いた。
本日試験開放中。
コーヒー、少しだけ改善中。
横で見ていた武が、しばらく黙った。
「事実ですね」
「評価が厳しい」
「嘘ではありません」
「そこは褒めてほしかった」
「少しだけ改善中、という表現は正確です」
「正確性への褒め!」
イゾウは黒板を入口に置いた。
派手なことはしない。
言葉を誘導しない。
席を操作しない。
できるのは、店を開けて、カップを洗って、コーヒーを少しだけ改善すること。
つまり今日も、裏方業務である。
「俺は物語の背後に立つ者……」
『現在の主活動は開店準備です』
「背後だろ」
『入口付近です』
「位置情報で返すな」
イゾウは深く息を吐いた。
店の外では、夕方の商店街がゆっくりと色を変え始めていた。
* 三枝ハル
放課後、私はまっすぐ帰るつもりだった。
少なくとも、下駄箱で靴を履き替えるまではそう思っていた。今日は学校で悟くんにうまく話せなかった。だから、喫茶グリーンベルに行っても、またうまく話せないかもしれない。そう思うと、少し怖かった。
でも、帰り道の角で足が止まった。
家へ向かう道。
商店街へ向かう道。
どちらも知っている道なのに、今日は片方だけが少し明るく見える。
私は鞄の中のメモ帳に触れた。
写真、見せてくれてありがとう。
嬉しかった。
学校でも、話しかけられたらいい。
三行目は、失敗した。
でも、一行目と二行目はまだ残っている。
学校で言えなかったなら、店で言えばいい。
そう考えた瞬間、喫茶グリーンベルがただの寄り道ではなくなった。
言えなかった言葉を、もう一度持っていける場所。
そう思ったら、少しだけ歩けた。
商店街の端に近づくと、小さな黒板が見えた。
本日試験開放中。
コーヒー、少しだけ改善中。
その文字を見て、私は思わず笑ってしまった。
未船さんらしい、と思った。
未船さんのことを、まだ全然知らない。けれど、あの人が真剣にふざけているような人だということは、少し分かってきた。たぶん本人はふざけていない。真剣に喫茶店の人になろうとしていて、真剣だから少し変なのだ。
扉を開けると、ベルが鳴った。
かすれて、少し遅れて、それでもちゃんと鳴る。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中に未船さんがいた。今日は昨日より少し落ち着いて見える。気のせいかもしれない。
「こんにちは」
「コーヒー、少しだけ改善中です」
「黒板、見ました」
「宣伝効果あり」
未船さんは小さく頷いた。
奥にいる悟くんのお父さんが、静かに言う。
「誇大広告にならない範囲です」
「武さん、今日も厳しい」
「事実です」
そのやり取りに少し笑ってから、私は店内を見た。
悟くんは、窓際の席にいた。
今日は本を開いていない。
カップの前で、何か考えているようだった。
私に気づくと、顔を上げる。
「ハル」
「うん」
そこで一度、言葉が止まった。
学校では、ここから進めなかった。
悟くんの横に友達がいたから。
廊下だったから。
他の人に見られそうだったから。
理由はいくつもある。
でも、今は違う。
ここは教室ではない。
喫茶グリーンベルだ。
カウンターの中で未船さんが、何かを言いたそうにしながら必死に黙っている。悟くんのお父さんは、それを見ないふりでカップを拭いている。
私は鞄の中のメモ帳に手を入れた。
開こうと思えば開ける。
でも、今日は開かなかった。
「あの」
悟くんがこちらを見る。
私は息を吸った。
「昨日、写真、見せてくれてありがとう」
言えた。
まず一つ。
悟くんは少しだけ目を開いたあと、柔らかく頷いた。
「うん」
「学校で、言おうと思ったんだけど」
ここで少し、喉が詰まった。
でも、続ける。
「言えなくて。ごめん」
言ってから、私はカップも持っていないのに、手を握りしめていることに気づいた。
悟くんはすぐには答えなかった。
怒っている感じではなかった。困っている感じでもない。ただ、私の言葉をちゃんと受け取ってから返そうとしているように見えた。
「俺も、学校だとちょっと話しにくかった」
「悟くんも?」
「うん。友達いたし」
「そっか」
「うん」
短いやり取りだった。
でも、胸の奥が少し軽くなる。
学校で言えなかったのは、私だけではなかった。悟くんも、少し話しにくかった。それだけで、失敗したと思っていた一日が、少し違って見えた。
「写真、嬉しかった」
気づいたら、二つ目の言葉も出ていた。
悟くんが今度こそ、少し固まる。
私も固まりかけた。
でも、戻らない。
言ってしまった。
だから、言い直さない。
「大事な写真なのに、見せてくれたから」
そこまで言うと、悟くんは視線を少しだけ落とした。
「見せるの、嫌じゃなかったから」
昨日も言ってくれた言葉だった。
でも、今日は少しだけ違って聞こえた。
私は頷く。
「うん」
それ以上は、まだ言えなかった。
でも、十分だった。
未船さんがカウンターの中で、ものすごく静かにカップを拭いている。静かすぎて、逆に不自然だった。
悟くんのお父さんが、低い声で言う。
「未船さん」
「はい」
「カップはもう綺麗です」
「はい」
未船さんはカップを置いた。
そのやり取りで、私と悟くんは少し笑った。
重くなりすぎそうだった空気が、ふっと軽くなる。
それがありがたかった。
未船さんはたぶん、何かを言わないでいてくれている。
それは、少し変だけれど、少し優しい。
「コーヒー、飲む?」
悟くんが聞いた。
「うん」
「今日は少し改善中らしい」
「楽しみ」
「薄かったら?」
「それはそれで、未船さんらしいかも」
カウンターの方で、未船さんが少しだけ傷ついた顔をした。
「聞こえてます」
「すみません」
「いえ、改善中なので」
私は笑った。
笑いながら、鞄の中のメモ帳に触れる。
今日のことは、帰ったらきっと書く。
学校では言えなかった。
でも、店では言えた。
悟くんも、学校では話しにくかったらしい。
写真、嬉しかったと言えた。
きっと、その四行を書く。
でも今は、まだ書かない。
目の前に、言葉を聞いてくれる人がいるから。
* 春日井武
春日井武は、カウンターの奥で二人の会話を聞いていた。
聞くつもりがなくても、聞こえる距離だった。
学校では話しにくかった。
写真が嬉しかった。
言葉にすれば、それだけのことだ。けれど、二人にとってはそれだけではないのだろう。三枝ハルは手を握りしめていたし、悟は返事をするまでに少し時間を置いていた。どちらも、雑に扱っていい言葉ではなかった。
若い二人の会話に、大人が口を挟む必要はない。
ましてや、店主面をした青年が意味深なことを言う必要もない。
武は横目でイゾウを見た。
イゾウはカップを拭いていた。
異様なほど丁寧に。
何か言いたいのを、明らかにこらえている顔だった。顔がうるさい。だが、口は閉じている。
成長しているのかもしれない。
少なくとも、喫茶店のマスターに憧れていただけの以前なら、ここで何か言っていただろう。それも、空気にそぐわない、どこか意味深げな言葉を選んで。
武は、少しだけ感心した。
余計なことを言わない。
それは何もしないということではない。客の時間を客のものとして残しておく、ということでもある。
武は小さく息を吐いた。
「未船さん」
「はい」
「カップはもう綺麗です」
「はい」
イゾウがカップを置く。
そのやり取りで、窓際の二人が笑った。
それでいい。
余計な言葉を足さずに、空気だけ少し軽くする。
父ならどうしただろうか、と武は考えた。
たぶん、何も言わずにコーヒーを出しただろう。
そう思ったので、武も何も言わなかった。
* 未船イゾウ
未船イゾウは、今日も耐えていた。
三枝ハルが、学校では言えなかった言葉を喫茶グリーンベルで言った。
写真、見せてくれてありがとう。
嬉しかった。
それはもう、イゾウの中ではかなり大きなイベントだった。物語機構に判定させれば、何らかの数値が動いているに違いない。いや、数値が動いていなくてもいい。イゾウの心が動いている。
言いたい。
今の一言が、きっと次の扉を開きますね。
学校では言えないことを言える場所、それが喫茶プロローグです。
戻る場所が、進む理由になるんです。
全部駄目だ。
完全に店の名前に酔っている。
『発話抑制を確認』
「今日の俺は偉い」
『肯定します』
「記録して」
『記録済みです』
「それはそれで恥ずかしいな」
イゾウは小声で言いながら、コーヒーを淹れた。
今日の一杯は、昨日より少しだけ丁寧にできた気がする。湯を急がない。粉の膨らみを見る。顔をうるさくしない。最後の項目は相変わらず難しいが、少なくとも前よりはましだと思いたい。
ハルと悟の席へ、コーヒーを運ぶ。
「お待たせしました。少しだけ改善中のコーヒーです」
ハルが笑った。
「いただきます」
悟もカップを持つ。
イゾウはその場に留まりそうになり、すぐに離れた。
見届けたい。
だが、見すぎるな。
客の時間を、店員が覗き込むな。
彼はカウンターへ戻り、空のカップを確認するふりをした。
これが裏方。
これがキーパーソン。
いや、今やっていることはほぼ配膳である。
『主活動、配膳及び洗浄』
「言わなくていい」
イゾウは小声で返した。
それでも、悪くなかった。
自分が何かを言わなくても、ハルは言葉を出した。
悟はそれを受け取った。
店は、その場所になれた。
今日のところは、それで十分だった。
* 三枝ハル
帰り道、私はメモ帳を開かなかった。
いつもなら、すぐに書きたくなる。
忘れないように。言葉がどこかへ行ってしまわないように。自分が何を思ったのか、あとで分からなくならないように。
でも今日は、少しだけそのまま歩きたかった。
学校では言えなかった。
喫茶グリーンベルでは言えた。
悟くんも、学校では話しにくかったと言っていた。
それだけのことを、文字にする前に、もう少しだけ胸の中に置いておきたかった。
商店街を抜ける頃、夕方の光が店の看板を横から照らしていた。私は振り返らなかった。振り返らなくても、また行ける場所だと分かっているから。
家に帰ってから、私はメモ帳を開いた。今日のページに、学校では言えなかったこと、でも喫茶グリーンベルでは言えたことを、ひとつずつ確かめるように書いていく。
写真、嬉しかったって言えた。
悟くんも、学校では話しにくかったらしい。
そこまで書いて、私は少しだけ手を止めた。
次に何を書くかは、もう分かっていた。
メモ帳には書ける。
でも、いつか言いたい。
そう書いてから、私はしばらくその一文を見つめた。
今すぐではない。
まだ怖い。
でも、前よりは少しだけ、遠くない気がした。
喫茶グリーンベルに行けば、たぶんまた少し話せる。
学校では言えないことも、あの場所なら少しだけ言える。
それは逃げているのかもしれない。
でも、何も言えないままよりは、ずっといい。
私はメモ帳を閉じた。
胸の中に残った言葉は、まだ全部は外に出ていない。
けれど、今日出せた言葉もある。
だから明日も、たぶん大丈夫。
少しだけなら。