男女比1対30の世界で女装潜入中。男とバレても転生者とバレても死ぬ俺の学園生活 作:ヤッくん
「待て」
静かな声だった。さっきまでと同じ、感情の読めない声。
なのになぜか、背筋に冷たいものが走った。
ぴたり、と足が止まった。
(……まずい)
心臓が、一拍跳ねた。
(バレたか? さっきからの言動が不自然すぎたか?「ちっちゃ」と言ったのも、任務書を読んで固まったのも、全部おかしかったはずだ)
(この人はきっと見た目通りの年齢じゃない。人を見る目だって、それ相応のはずで——)
(もしここで「お前、リクじゃないな」と言われたら。俺はなんと答えればいい)
背中に、じわりと汗がにじんだ。
ゆっくりと、振り返る。
エルミアの琥珀色の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
「あれを忘れておるぞ」
(……あれ?)
心臓が、ほっと一拍落ち着いた。
バレていない。どうやら、バレていない。
(よかった……)
安堵したのも束の間。
(あれって、なんだ)
また焦りが戻ってきた。リクの記憶を探る。何も出てこない。
(ダメだ。思い出せない)
ここは——社会人として十数年で身につけた技術を使うしかない。
相手の言葉を繰り返す。それだけで会話は続く。
相手が答えを持っているなら、待てばいい。
「あれ……ですよね」
「そうじゃ。いつものあれじゃ。まさか忘れたとは言わせんぞ」
エルミアが腕を組んで、じっとこちらを見ている。
(いつものあれ……)
もう一度繰り返す。焦りを顔に出すな。
「いつものあれ、ですか……」
静かに、待った。
エルミアの目が、わずかに細くなった。
——少しの間があった。
「『おかあさん、きょうもすきよ。チュっ!』……じゃろうが!」
エルミアが若干得意げな表情で言い放った。
(え? えぇぇぇぇ???ちょ、待て待て待て待て待て)
俺は絶句した。
(いや待て。落ち着いて整理しよう)
幼いころに拾った、と言っていた。つまり育ての親ということか。血はつながっていない。義理の親子だ。
(……それにしては、距離が近くないか)
義理の親子でこれを要求するか。普通。
「おかあさん」呼びはまだわかる。
だが「チュ」はどこから出てきた。
でも——言わないと何をされるかわからない。言うしかない……のか。
覚悟を決めろ、俺。
どうせやるなら、とことんやれ。
社会人時代に散々叩き込まれた話だ。中途半端が一番よくない。やると決めたら全力でやれ。それだけだ。
俺は立ち上がった。
エルミアの前まで、まっすぐ歩いた。
しゃがんで、目線を合わせる。
エルミアが少し目を丸くした。
「……なんじゃ、急に——」
「おかあさん、きょうもすきだよ」
そのまま、顎に手を当てて、少し上に向かせる。そしてエルミアの口に唇を当てた。
ぷちゅ。
一秒。
(……やわらかい)
思ったよりも、ずっと。
マシュマロみたいだ。いや、それより瑞々しくて、ぷるぷるで——
クッション性が高くて、吸いつくような——
(いや待て、こんな状況で冷静に分析している自分……)
くちびるを離す。
「「………………」」
エルミアとクロエが、同時に石になる。
そして、部屋がしんと静まりかえった。
「……っ、っっ……///」
エルミアの顔が、見る見るうちに赤くなっていく。とがった耳の先まで。
「なっ……な、な……ワシは……お前……これは……///」
言葉になっていない。
ローブの袖で口元を押さえて、そのまま椅子にぐるりと背を向けた。
これで良かったんだよな?とりあえず今の緊迫した状況からいち早く抜け出したい。
「……失礼します」
俺は静かに立ち上がった。
クロエが、完全に固まったまま俺を見ていた。目が点になっている。
「で、では、失礼します」
クロエも促されるようにして立ち上がり、部屋を出る。
バタンッ! 分厚い扉が閉まった。
その瞬間、扉の向こうからエルミアの声が聞こえてきた。
「……っ/// な、なんじゃ今の……ワシは育ての親じゃぞ……?なのになんでどきどきしておるんじゃ……///……もしかしてワシのことを、一人の女として……///……たしかに血はつながっておらぬが………」
なにかゴニョゴニョと聞こえたがよくわからなかった。
クロエが唐突にこちらを見た。それから、口を開く。
「……ねえ」
「はい」
「エルミア様がああいう風にふざけるのはいつものことだけど」
なんだ。そういうノリということか。毎回ああいう感じなのね、エルミア様は。
(道理でクロエが動じていないわけだ)
俺は内心でひとつ納得した。
「……あなた、今日おかしいわよ」
クロエが静かに続けた。
「いつもは無視してるのに。なんで今日は——」
(し、しまったぁぁぁ!そうだったのか!)
俺は内心で盛大に頭を抱えた。
そうか。無視するか適当にあしらう方向が正解だったかぁ……
しかし社会人魂よ、よりによってなぜ今ここで目覚めた。
(……思えば前世の会社の飲み会を思い出すな)
罰ゲームで同僚にキスをしたり、カンチョーしたり。男同士の飲み会だとけっこう盛り上がる。
(……その癖が、裏目に出た)
ここは適当にごまかそう。
「……エルミア様の魅力に惹きつけられまして」
「……今後は気をつけなさい。それにしてもゴニョゴニョ」
「……はい?」
「なんでもないわよ。まったく」
クロエは深いため息をついて、歩き出した。
(次からは加減を覚えよう)
俺はその背中を追いながら、静かに誓った。
長い廊下を歩きながら、クロエが俺の顔をまじまじと見て、少し首を傾けた。
「ねえ、リク。あなた、化粧したことある?」
「……は?」
「明日から女の子として学園に入るんでしょ。今夜、私が教えてあげる」
俺は、もう一度天井を仰いだ。
(こ、ことわりてぇ)
長い夜になりそうだった。