キングダム:穿紅の閃光 〜神速の槍と無敵の拳で中華を穿つ〜 作:キング・クリムゾン!!
地平線の彼方まで続く荒野は、すでに数万の足音と砂塵によって覆い尽くされていた。秦国と魏国が互いの威信をかけて激突する、蛇甘平原の戦い。前線へと配置された秦国の歩兵たちの間には、吐き気をもよおすほどの緊張感と、死の臭いが立ち込めていた。
即席で組まされた「伍」という五人組の歩兵たちは、互いの顔を見合わせながら、武器を握る手を血が止まるほど強く締め直していた。
貫は、肩に巻いた鮮やかな赤い布を軽く手で整えると、腰の袋から拓が作ってくれた竹製の「管」を取り出した。それを慣れた手つきで左手に通し、右手には支給されたばかりの安物の槍を携える。
周囲を見渡せば、同じ伍の仲間たちがそれぞれ異なる表情で戦場に対峙していた。
「おい、そこの赤布のガキ。戦場でお洒落のつもりか? 死にたくなけりゃ、余計な色気は捨てて俺の後ろを死ぬ気でついてこい。敵の騎兵が来たら、絶対に陣形を崩すな」
そう苦々しく言い放ったのは、この伍の伍長を務める鉄(てつ)だった。体中に無数の刀傷を持つベテラン兵であり、その眼光は鋭く、冷徹に現実を見据えている。
「ひぃ、ひぃ……無理だよ、鉄さん! あんな数の人間が殺し合う場所に突撃するなんて、僕には絶対に無理だ……!」
実家が鍛冶を齧っていたという大柄な少年、拓(たく)は、支給された盾の後ろで丸くなり、情けない声を上げてガタガタと震えていた。主人公の幼馴染であり、彼が左手に持つ「管」の製作者でもある。
「おいおい、拓! 始まる前から情けねえ声を出すんじゃねえよ! 敵が来たら、この俺が全員ぶちのめしてやらぁ!」
拓の背中をバシバシと叩きながら不敵に笑うのは、野生児のような佇まいの若者、雷(らい)だった。身軽で足が異常に速く、危険を顧みない猪突猛進な性格がその瞳から溢れ出ている。
「雷、大声を出すと体力が無駄になる。……それにしても、そっちの君、その左手の筒は何?」
一番年少でありながら、最も冷静に周囲を観察している少年、梁(りょう)が、貫の左手に視線を留めた。物静かだが、その眼光には確かな知性が宿っている。
「これは俺の『武器』だ。すぐに嫌でも見ることになるさ。それよりみんな、突撃が始まったら、俺の斜め後ろを走ってくれ。正面の敵は、俺がすべて片付ける」
貫が静かにそう告げると、鉄は鼻で笑った。
「大言壮語を吐くガキから死んでいくのが戦場だ。……おい、来るぞ!」
鉄の言葉が号令となったわけではない。しかし、地響きのような音が大地を揺らし始めた。
魏軍の先鋒、装甲騎兵隊がこちらの歩兵陣地に向けて突撃を開始したのだ。鉄の甲冑に身を包んだ巨馬と兵たちが、砂塵を巻き上げながら猛烈な速度で迫ってくる。その圧力は、歩兵にとっては巨大な壁が迫ってくるような絶望感そのものだった。
「うわあああ! 来る、来ちゃうよ!」
拓が悲鳴を上げて盾を構え直す。
「しゃあ! 来やがれ化け物ども!」
雷が槍を構えて前へ飛び出そうとするが、迫り来る騎兵の突撃速度は、人間の走力を遥かに凌駕していた。一騎の魏兵が長大な矛を振りかざし、真っ先に雷の首をハネようと肉薄する。
「雷、下がれ」
貫の静かな声が響いた。
次の瞬間、貫は前へと足を踏み出していた。それは突撃というよりも、驚くほど滑らかな、まるで水面を滑るような歩法だった。流水岩砕拳の体捌き。敵の騎兵が放った凶悪な矛の一撃は、貫の喉元を確実に捉えたはずだった。しかし、貫がわずかに上体を捻ると、矛の刃は彼の赤い羽織の端をかすめることすらできず、虚空を切り裂いた。
「ぬぅっ!? 躱された――」
魏兵が驚愕の声を上げる。しかし、その時にはすでに勝負が決していた。
貫の左手に握られた竹の管が、カチャリと小さな音を立てる。右手で握った槍の柄が、管の内側を摩擦ゼロの滑らかさで滑り落ちた。尾張貫流槍術、極限の一突き。
人間の動体視力を完全に置き去りにする速度で放たれた槍は、魏兵の分厚い胸当ての「継ぎ目」、わずか数寸の隙間を寸分の狂いもなく貫いていた。
グハッ、と短い絶命の声が響く。
次の瞬間には、貫が右手を引き戻し、槍の刃先はすでに元の位置へと収まっていた。あまりの早技に、周囲からはまるで槍が一瞬だけ物理的に伸びて、再び縮んだかのようにしか見えなかった。
どさりと、糸が切れた人形のように魏兵が馬から転げ落ちる。主を失った巨馬が、貫の脇を虚しく通り過ぎていった。
「……は? 今、何が起きたんだ……?」
雷は構えた槍をそのままに、呆然と目の前の光景を見つめていた。自分の命を奪うはずだった騎兵が、一瞬で物言わぬ肉塊に変わっていたのだ。
「槍が……信じられない。あの筒の中で滑らせて、間合いと速度を何倍にも跳ね上げたのか……?」
梁の澄んだ瞳が、驚愕と興奮で激しく揺れていた。貫の放った技のメカニズムを、その高い知性で瞬時に見抜こうとしていた。
「す、凄い……! 本当に僕の作った管で、あんな化け物を一撃で……!」
盾の陰からそれを見ていた拓が、涙目を輝かせながら歓声を上げる。
「おい、お前……今、何をした?」
何人もの死線をくぐり抜けてきた伍長の鉄ですら、その場に釘付けになっていた。これほどまでに洗練され、無駄を削ぎ落とされた殺人術を、彼はこれまでの戦人生で一度も見たことがなかった。大将軍たちの持つ圧倒的な「武力」とは異なる、極限まで研ぎ澄まされた「技術」の暴力がそこにあった。
「言っただろ、鉄さん。正面の敵は、俺がすべて片付けるって」
貫は槍の先端に付着した血を鋭く振り払うと、次々と押し寄せる魏軍の騎兵隊を見据えた。その瞳には、恐怖など微塵も存在しなかった。
「この伍の全員で、生き残るぞ。俺たちの歩いた後ろにだけ、道ができる。行くぞ、穿(うが)て!」
赤い布を戦風に翻し、貫は再び駆け出した。
砂塵と悲鳴が渦巻く蛇甘平原の片隅で、後に中華全土を鮮烈な赤で染め上げる独立遊撃軍『穿紅軍』の、これが確かな第一歩となった。
次回:第2話 紅の胎動