キングダム:穿紅の閃光 〜神速の槍と無敵の拳で中華を穿つ〜 作:キング・クリムゾン!!
夜哭隊を退けた穿紅軍の夜営地に、地を揺らす重低音の足音が響き渡る。
風が止み、虫の声が消え、ただ圧倒的な「死」の気配だけが、山林の闇から染み出すように周囲を支配していった。
暗闇を割って現れたのは、尋常ならざる巨躯を持つ一人の男だった。
ボロを纏い、髪を振り乱し、その手には人間の胴体ほどもある巨大な大矛が握られている。男の瞳には感情というものが存在せず、ただ天の理そのものを体現したかのような、絶対的な虚無と圧倒的な武の圧力が宿っていた。
男の名は龐煖(ほうけん)。自らを求道者(ぐどうしゃ)と呼び、武の頂点を極めるためだけに生きる、趙軍の真の総大将にして「武神」であった。
「……虫ケラどもが、騒がしいな」
龐煖が静かに大矛を横一文字に振るった。
ただそれだけの動作で、凄まじい暴風が巻き起こり、前方にいた秦国の歩兵十数人が、甲冑ごと肉片に変えられて吹き飛んだ。悲鳴を上げる暇さえ与えぬ、天災の如き絶対的な蹂躙。
「ひ、引き付けろ! 陣形を維持……がはっ!?」
鉄の防衛隊の兵たちが必死に盾を構えようとするが、龐煖の歩みが進むたび、拓が補強したはずの頑強な盾が紙細工のように破壊され、兵たちが宙を舞う。
「みんな、下がれ! 梁、全員を後退させろ! こいつは……人間の枠を超えている!」
副将の鉄が、かつてない恐怖に顔を歪めながら叫んだ。
壊滅していく夜営地の中央、赤々とした松明の炎に照らされながら、一人の若き百人将が、その怪物の前に立ち塞がった。
肩に巻かれた赤布を激しく揺らし、左腕には漆黒の『鋼鉄の管』。右手には、鉄刀木の複合槍を、一寸のブレもなく真っ直ぐに構えている。
穿紅軍を率いる貫であった。
貫の全身の毛穴から、流水岩砕拳の極限の呼吸による白い気が立ち上る。これまでに経験したことのない、魂が凍りつくような威圧感を前にしながらも、貫の瞳は驚くほど冷徹に、そして澄み渡っていた。
新しく出会う、この中華の歴史における最大の絶望に対し、貫は己の存在と、穿紅軍の全ての執念を刻み込むべく、戦場全体を震わせるような凛とした、淀みのない声を響かせた。
「初めてお目にかかる。秦国軍総司令直轄、特殊遊撃百人隊『穿紅軍』を率いる百人将、貫(かん)だ。我が家に伝わる古流武術『流水岩砕拳』の呼吸法と、この左腕の『鋼鉄の管』、数多の戦場を共にした仲間の知恵が宿る鉄刀木の槍を以て、いかなる天災をも穿ち止める。貴様が武神ならば、俺はその理を穿つ者だ」
貫の傲る高ぶることのない、しかし絶対的な決意に満ちた自己紹介を聞き、龐煖の虚無の瞳が、初めて微かに動き、貫の姿を捉えた。
「……ふむ。虫ケラの中に、僅かに天の息吹に触れた者がいるな。だが、それも我が武の前の塵に過ぎん」
龐煖が一歩を踏み出し、大矛を頭上高くに掲げた。
その瞬間、周囲の空気が一気に収縮し、巨大な質量が降ってくるかのような錯覚が夜営地を包む。
ズガアァァァッ!!!
天を割るような轟音とともに、大矛が振り下ろされる。
まともに受ければ、肉体はおろか魂まで粉砕される一撃。
(流水岩砕拳――極流・剛天受け流し)
貫は一歩も退かず、限界まで体幹を沈め、左腕の『鋼鉄の管』の側面を大矛の刃へと接触させた。
キィィィィィィィン!!!!
夜の山脈全体に響き渡るような、凄まじい金属摩擦音と火花が炸裂する。
しかし、武神の放つ絶対的な破壊力は、これまでの敵とは次元が違っていた。
管の表面で力を逸らそうとした瞬間、逸らしきれなかった規格外の「怪力」が、管を通じて貫の全身へと伝わる。
「ぐ、うおぉぉぉっ!」
貫の足元の地面が半径数メートルにわたって陥没し、激しい土煙が舞い上がる。拓が魂を込めて作った鋼鉄の管から、摩擦熱による赤い火花が飛び散り、貫の左腕の骨が悲鳴を上げた。
「ほう、我の一撃を受け流すか。だが、次で終わりだ」
龐煖が即座に大矛を返し、横薙ぎの追撃を放とうとする。
その刹那、貫の右腕が、自らの命を削るほどの速度で始動した。
(尾張貫流槍術――管槍・複合穿光「塵殺」)
右手で握られた鉄刀木の柄が、鋼鉄の管の内壁を滑る。
骨がきしむ痛みを流水の呼吸で抑え込み、これまでの人生で最も速く、最も鋭い、一線の光と化した突きが放たれた。
シュバアァァァッ!!!
真空の爆音とともに放たれた槍の穂先は、龐煖の大矛の軌道の内側を完璧にすり抜け、彼の分厚い胸元へと突き刺さった。
ガチィン! と、龐煖が身に纏う硬質な布と肉体がぶつかる音が響く。
鉄刀木の槍は、武神の鋼のような皮膚を割り、その胸元へと僅かに数センチ、深々と突き刺さった。龐煖の胸から、鮮烈な赤い血が滴り落ちる。
「……ぬ!?」
龐煖が驚愕に目を細めた。武神の肉体に、名もなき百人将の槍が、確かに「傷」を負わせたのだ。
「貫ーーーっ!!」
その瞬間、隣接する夜営地から異変を察知して駆けつけていた飛信隊の信が、大剣を振りかざして空中から龐煖へと斬りかかった。
「大王の路を阻む奴は、俺が叩き潰す!!」
さらに闇の底から、羌瘣(きょうかい)が緑穂(りょくすい)を抜き、目にも留まらぬ巫舞(みぶ)のステップで龐煖の足元へと刃を滑らせる。
「チッ、有象無象が次々と……!」
傷を負わされた怒りと、新たな乱入者たちの気配に、龐煖の大矛が大きく荒れ狂った。信の大剣が弾き飛ばされ、羌瘣の身体が血を流して地面を転がる。
「全軍、撤退!! 盾部隊、百人将を救出せよ!!」
軍師の梁が、喉が千切れんばかりの声で口笛を吹き鳴らす。
「そうはさせるかよぉ!」
副将の鉄が、傷ついた身体で再び大盾を並べ、吹き飛ばされた貫の前に立ちはだかった。雷の突撃隊が煙幕を張り、厳が闇の中から矢を放って龐煖の視界を遮る。
「……今日のところは、この傷に免じて免じておいてやる。だが、お前たちの命の灯火、すぐに我が武の糧として消してくれよう」
龐煖は自身の胸の傷を忌々しげに見つめると、無数の秦兵の屍が転がる夜営地を残し、再び不気味に山の闇の中へと消え去っていった。
武神が去った夜営地には、壊滅的な被害と、静かな喘ぎ声だけが残されていた。
穿紅軍も、飛信隊も、これまでにない大打撃を受け、多くの将兵が倒れていた。
「貫……大丈夫か!」
拓が駆け寄り、貫の左腕の鋼鉄の管を外そうとする。管の表面は熱で歪み、内壁には僅かな亀裂が入っていた。鉄刀木の槍も、その凄まじい衝撃で柄が激しくひび割れている。
「ああ……なんとか、生きている。だが、俺の武は……まだあの怪物には届かない」
貫は自身の震える右手を見つめ、唇を噛み締めた。
流水岩砕拳の受け流しすら力づくでねじ伏せる圧倒的な武の暴力。それが、馬陽の地に君臨する真の絶望の姿であった。
初戦の勝利から一転、絶対的な個の武力を前に、かつてない敗北と崩壊の危機に直面した穿紅軍と飛信隊。しかし、貫の瞳の奥にある穿光の炎は、まだ消えてはいなかった。この絶望の夜を経て、若き百人将とその仲間たちは、さらなる限界を超えるための進化を誓うのだった。
次回:第20話 不屈の赤布、進化への鍛鉄