DARK SOULS : 滑稽な鉄のなかで、生者は泣く 作:水色蛍
年中、どこからか美味い麦酒の匂いと、収穫を祝う陽気な鐘の音が聞こえてくる国。
人々はその地を「歓楽の国カタリナ」と呼び、旅人たちはその豊かさを羨んだ。
しかし、その賑やかな市街から少し離れた高台にある、石造りの古い武家屋敷だけは、いつも独特の静寂に包まれていた。
ザザッ、と砂を噛むような鋭い足音が響く。
庭に設けられた練兵場で、身の丈ほどもある巨大な大剣――ツヴァイハンダーを平然と振り回している男がいた。
その男が纏う鎧は、遠目から見れば、まるで巨大な玉ねぎか、あるいは樽のように丸く、滑稽極まりない形状をしていた。
周囲の国々の騎士たちは、その姿を「玉ねぎ頭」と嘲笑したが、カタリナの騎士たちはそれを実力と誇りで撥ね退けてきた。
男の名はジークマイヤー。
「お父様、足元が疎かになっています」
木陰の縁側に腰掛け、その重々しい太刀筋をじっと見つめていた少女――まだ十代半ばのジークリンデが、硬質な声をかけた。
ジークマイヤーは動きを止め、丸い鉄兜の奥からガハハと豪快な笑い声を響かせた。
「これは手厳しい! だがな、リンよ。この丸き鎧の真髄は、敵の刃をすべてその曲面で逃がすことにある。多少の隙など、この鉄の厚みが帳消しにしてくれるわ!」
そう言って大剣を肩に担ぎ直した父の姿を、ジークリンデは冷ややかな、しかしどこか誇らしげな目で見つめていた。
カタリナの騎士は頑固で、そして誰よりも家族を愛する。
それが彼女の知る世界のすべてだった。
だが、そんな穏やかな日々は、ある日の夕暮れ、唐突に終わりを告げた。
訓練を終え、衣服を脱ぎかけた父の左肩の裏――そこに、不気味な黒い真円の痣が浮かび上がっていた。
「ダークリング」。
世界の終わりと共に現れる、死ねぬ呪いの刻印。
それを見た母は、小さく息を呑み、手にした湯浴みの布を床に落とした。
ジークマイヤーは一瞬だけ背中を硬直させたが、すぐにまた、いつものように大笑いしてみせた。
「いや、参ったな! どうやら神々の国が、この私を名指しで招待したらしい。ガハハ、仕方のないことだ。カタリナの騎士の真価を、本場で見せつけてくるさ」
翌朝、父は大きな荷物と大剣を背負い、まだ朝霧の晴れぬ門出へと歩き出した。
カタリナにおいて、呪われた不死は国を去らねばならない。それが法律であり、名誉を重んじる騎士の掟だった。
父は一度も振り返らなかった。
その背中が、どこか小さく震えているように見えたのは、朝霧の冷気のせいだけではなかった。
父が去ってから、家は急速にその色を失っていった。
祝祭の鐘の音は相変わらず街に響いていたが、屋敷の練兵場に響くのは、今やジークリンデ一人が振るうバスタードソードの風切り音だけだった。
「ハッ……、フゥ……!」
彼女の肌は、父のそれとは違い、どこまでも滑らかで瑞々しい。
ダークリングの兆候など、どこにもない。
彼女は呪われていない「生者」であった。
死ねばそれっきりの、ただの人間の肉体。
しかし、彼女が繰り返す打ち込みの鋭さは、月日を追うごとに、去っていったどの不死の騎士よりも冷徹な殺気を孕むようになっていった。
左手に掲げた、突刺用の鋭い突起を持つ「ピアスシールド」が、架空の敵の刃を完璧にいなす。
彼女は、父の置いていったカタリナの剣技のすべてを、その生身の肉体に叩き込んでいた。
それと反比例するように、母の身体は病の床に深く沈んでいった。
夫が向かったのは、生者が生きて帰れぬという、化け物どもの巣窟「ロードラン」。
便りがあるはずもなかった。
街の人々は、ジークマイヤーはとうに亡者となり、どこかの溝で腐り果てたのだろうと噂し合った。
その噂が耳に入るたび、母の頬は痩せこけ、呼吸は浅くなっていった。
ジークリンデは、看病の合間も決して剣を手放さなかった。
ある日、薬を運んできた彼女の手を、母の細く干からびた指が、弱々しく握り締めた。
「リン……私の、可愛い娘」
母の声は、もはや風の鳴き声のように微かだった。
その瞳には、かつて夫を見送ったときと同じ、深い哀愁と、そして諦念の光が宿っていた。
木々が葉を落とし、冷たい冬の雨が石床を濡らす頃、母の最期の刻が訪れた。
部屋の中には、微かなお香の匂いと、死を待つ者特有の、冷え切った空気が澱んでいた。
ジークリンデは母の枕元にひざまずき、その冷たくなっていく手を、自らの温かい両手で包み込んでいた。
「お父様は……本当に、仕方のない人です」
母は、天井の木目を睨むようにして、小さく、しかしはっきりと微笑んだ。
それは夫への呪詛ではなかった。
長年、あまりにも不器用で、楽天家で、いつも自分のやせ我慢のために周囲に迷惑をかけてばかりいた夫に対する、深い、呆れ果てた愛の告白だった。
「私を置いて、あんな奈落へ行ってしまうなんて……。カタリナの騎士などと大口を叩いて、本当は……すぐに道に迷って、途方に暮れるくせに……」
母の目から、一筋の涙が耳元へと流れ落ちた。
「リン、もし……あの人に、追いついたなら……伝えておくれ。私は、ずっと……」
母の言葉は、そこで途切れた。
握り合っていた手の力が、ふっと抜ける。
ジークリンデの手の中に残されたのは、急速に体温を失っていく、ただの肉の塊だった。
部屋の外では、今年も豊作を祝う、カタリナの陽気な鐘の音が遠く響いていた。
その賑やかさが、室内のみすぼらしい静寂をいっそう際立たせていた。
ジークリンデは、泣かなかった。
ただ、母の最期の言葉――「本当に、仕方のない人」という響きが、彼女の胸の奥底へ、錆びついた楔のように深く、深く突き刺さっていた。
カタリナの掟は厳格である。
理性を失い、ただソウルを求めて彷徨う亡者となった者は、もはや人間ではない。
化け物となった身内を、その家族の手で永遠の眠りにつかせること。
それこそが、誇り高き歓楽の国が、裏側に隠し持つ「血の義務」であった。
母の遺言を伝えるために。
そして、あの仕方のない父親が、完全に化け物になってしまう前に、その旅路を終わらせるために。
ジークリンデの心は、凍りつくような決意で満たされていった。
母を、カタリナの美しい麦畑が一望できる、日当たりの良い丘に葬った翌朝。
ジークリンデは、自らの部屋の真ん中に置かれた「それ」を見つめていた。
新調された、一揃いのカタリナの騎士鎧。
父のものと全く同じ、丸く、滑稽で、しかしあらゆる突刺と斬撃を受け流す、実戦において最強を誇る鉄の塊。
彼女は鏡も見ず、長く伸びていた髪をナイフで無造作に切り落とした。
床に散る髪の毛には目もくれず、彼女は重い鉄の装甲を、足元から一つずつ身にまとっていった。
ガチリ、ガチリ、と、冷たい金属の噛み合う音が室内に響く。
呪われていない、死ねばそれっきりの瑞々しい生者の肉体が、誇り高きカタリナの鉄の檻の中へと、完全に密閉されてゆく。
最後に、あの特徴的な丸い鉄兜を両手で持ち上げ、頭から深く被った。
視界は、目の前に開けられた細い横一文字の格子窓だけに制限された。
入ってくる空気は一瞬にして鉄の匂いに変わり、自らの荒い呼吸音が、兜の内部で小さく反響した。
腰のベルトに、使い慣れたバスタードソードを佩く。
左手には、あの鋭い突起を持つ円盾を固定した。
彼女の腕には、ダークリングはない。
奇跡も、死からの蘇生も、彼女には与えられていない。
ただの一度でも刃を貰えば、彼女の旅はその場で完全に終わる。
「……お父様」
鉄格子の向こうから漏れた彼女の声は、低く、そして驚くほど冷徹だった。
「本当に、仕方のない人です。私に、こんな真似をさせるなんて」
屋敷の重い木扉を押し開けると、眩しい冬の陽光が丸い鎧に反射して、青白く輝いた。
街の方からは、今日も変わらず、歓楽の国にふさわしい呑気な歌声が風に乗って聞こえてくる。
ジークリンデは、そのすべてに背を向け、北の果て――亡者たちが蠢く絶望の地「ロードラン」を目指して、一歩を踏み出した。
ジャラリ、と重い鉄の音が、彼女の孤独な葬列の始まりを告げていた。