DARK SOULS : 滑稽な鉄のなかで、生者は泣く 作:水色蛍
生者が足を踏み入れるには、その地はあまりにも高潔で、あまりにも残酷だった。
白亜の都アノール・ロンド。
神々が去り、幻影の光だけが虚しく照らす大理石の回廊を、ジャラリ、ジャラリと、場違いに重苦しい鉄の音が進んでゆく。
カタリナの騎士鎧を纏ったジークリンデは、鉄兜の狭い格子窓から、足元に転がる乾いた死体を一瞥した。
それはかつて自分と同じようにカタリナを立ち、理性を失って久しい、名も無き亡者騎士の成れの果てだった。
鎧の隙間から覗く皮膚は完全に干からび、衣服の切れ端のように薄汚れている。
(お父様も、もう……あのように?)
一瞬だけ脳裏をよぎった不吉な影を、彼女は首を振って強引に打ち消した。
彼女は不死ではない。死ねばそれっきりの、ただの生者だ。
センの古城の忌々しい振り子刃を潜り、大聖堂の梁を渡る細い足場で竜狩りの大弓の強襲をかわしたのも、すべては奇跡などではなく、ただの偶然と、父に叩き込まれた頑強なカタリナの剣技によるものだった。
疲弊しきった生身の筋肉が、鎧の裏側で悲鳴を上げている。
傷口から流れる血は赤く、あたたかい。
それが、彼女がまだ「人間」であることの唯一の証拠だった。
行く先々で、カタリナの「玉ねぎ頭」の目撃談を耳にした。
崖っぷちで腕を組んで考え込んでいた、溶岩の這う廃都へ向かった、道に迷って途方に暮れていた――。
そのどれもが、彼女の知る、あの「仕方のない父親」の姿そのものだった。
父は今もなお、やせ我慢と無謀な冒険の途上にいる。
完全に理性を失うまでの、ほんの僅かな猶予のなかで。
父の足跡を追い、彼女が辿り着いたのは、光と狂気が乱反射する「公爵の書庫」であった。
白大理石の壁は巨大な結晶の群生によって引き裂かれ、床には青白い魔力の残光が不気味に燻っている。
入ってきた途端、生者の肌を刺すような、凍てつく冷気が鎧の隙間から滑り込んできた。
ザザ、ザザザ……。
不快な摩擦音が、結晶の庭の奥から響いた。
姿を現したのは、透き通るような青い岩石で形作られた異形の怪物――「クリスタルゴーレム」の群れだった。
光を浴びて美しくきらめくその巨躯は、しかし侵入者を容赦なく圧殺するための、狂える公爵の防衛機構であった。
「ハッ……!」
ジークリンデは迷わずバスタードソードを引き抜き、両手で構えた。
一体のゴーレムが、結晶の重い腕を振り下ろす。
彼女はカタリナの曲面鎧の性能を信じ、あえてその一撃を肩口で受け流した。
キィィンと耳を劈く金属音が響き、衝撃を逸らされた怪物の体勢が崩れる。
その隙を逃さず、渾身の力で剣を叩きつけた。
結晶の破片が飛び散り、怪物の硬質な肉体がひび割れる。
だが、ここは呪われた地ロードラン。
生者の限界は、あまりにも唐突に訪れた。
背後の物陰から、もう一体のゴーレムが音もなく迫っていたのだ。
気づいたときには遅かった。
激しい衝撃が背中を襲い、ジークリンデの身体は結晶の地面へと激しく叩きつけられた。
丸い鉄兜が石にぶつかり、視界が火花を散らして暗転する。
生身の肺から酸素が強制的に絞り出され、激しい吐血が兜の内部を汚した。
「ガ、あ……っ……」
立ち上がろうとするが、手足が鉛のように重い。
追い打ちをかけるように、ゴーレムの放った青白い魔力の奔流が彼女を包み込んだ。
それは肉体を破壊する炎ではなく、すべてを静止させる「呪詛の冷気」であった。
彼女の美しいカタリナの鎧が、またたく間に青い結晶の膜に覆われてゆく。
関節が凍りつき、指先の一本すら動かせなくなる。
怪物たちの歪んだ巨躯が、彼女を囲むようにして迫ってくる。
ゴーレムの胸部が不気味に裂け、そこから放たれる凍てつく光が、ジークリンデの意識を暗黒の底へと引きずり落としていった。
死への恐怖よりも先に、母の遺言を果たせぬ無念が、凍りゆく胸の奥で冷たく燃えていた。
どれほどの刻が流れただろうか。
結晶の檻に閉じ込められたジークリンデの意識は、暗い霧の中を彷徨っていた。
入ってくる空気は凍りつき、自らの体温が徐々に失われてゆくのが分かった。
生者たる彼女の命の火は、今や風前の灯火であった。
(ここまで、ですか……。お父様、私は……)
そのとき、結晶の壁の向こうから、鈍い、しかし圧倒的に力強い「鉄の音」が響いた。
それはカタリナの陽気な足音ではない。
もっと泥臭く、無慈悲で、数え切れないほどの死線を越えてきた者だけが持つ、不穏な足音だった。
ドゴォンッ!!!
凄まじい破砕音が響き、ジークリンデを閉じ込めていたクリスタルゴーレムの身体が、一瞬にして粉々に打ち砕かれた。
光が差し込む。
崩れ落ちた結晶の破片の向こうに、一人の騎士が佇んでいた。
その者は煤と血に汚れた奇妙な鎧を纏い、手にはまだゴーレムの体液を滴らせた大剣を握っていた。
顔は鉄の兜に覆われて見えない。
だが、その身体から立ち上る、圧倒的なソウルの残滓と、ダークリングの昏い気配――それは、この世界にただ一人しかいないとされる、「選ばれた不死」の輪郭であった。
「……あ、あう……」
結晶の呪縛から解き放たれたジークリンデは、崩れるようにして大理石の床に膝を突いた。
不死の騎士は無言のまま、彼女の前にエストの瓶を差し出した。
生きているかのように揺らめく、あたたかな火の液体。
ジークリンデは震える手でそれを拒み、鉄兜の格子窓から、その名も無き影を見上げた。
「……感謝、いたします。私は、カタリナのジークリンデ……。呪われてはおらぬ、ただの生者です」
彼女は激しく咳き込みながらも、執念だけでバスタードソードを杖代わりにし、その足で立ち上がった。
上級騎士の如き佇まいの不死は、ただ静かに彼女の言葉を待っている。
「貴公……もし旅の途中で、私と同じ、この丸い鎧を着た騎士を見かけませんでしたか? あれは私の父……ジークマイヤー。本当に仕方のない人なのです。放っておけば、すぐに道に迷って、無茶ばかりする……」
不死の騎士は、一瞬だけ兜を傾けた。その微かな動きだけで、彼女は理解した。
この名も無き影は、父に会っている。それも、一度や二度ではない。
「……やはり、生きていたのですね。良かった。おのれお父様、娘にここまで心配をかけるなんて」
ジークリンデの声に、微かな、しかし確かな熱が戻った。
それは生者だけが持つ、感情の灯火であった。
その後、名も無き不死の導きにより、ジークリンデは「火継ぎの祭祀場」の篝火の傍らへと辿り着いた。
すり鉢状の遺跡の底、赤黒い灰のなかで燻る火の温もりが、結晶の魔力に侵されていた彼女の生身の肉体を、ゆっくりと解きほぐしてゆく。
離れた石段の上では、鎖帷子を着た心が折れた戦士が、カタリナの鎧を纏った少女を、薄気味悪い目で見つめていた。
「生身の娘さんが、わざわざ死にに来たか。カタリナの連中は、どいつもこいつも狂っているな」
そんな嘲笑など、彼女にとっては、不死街を吹き抜ける風の音にも満たなかった。
ジークリンデは篝火に手をかざしながら、隣に立つ名も無き不死へと、静かに語りかけた。
「お父様は、火継ぎの祭祀場を離れ、さらに『下』へ向かったのですね。……分かっています。あの人のことだ、また何か無茶な冒険を思いついたに違いありません」
彼女は一度言葉を切り、鉄兜の奥で、小さく、哀しく微笑んだ。
「……ですが、もし、お父様が本当に亡者になってしまったら……。その時は、また私が、殺してあげるだけです」
その言葉には、一切の迷いも、躊躇いもなかった。
それは故郷カタリナの残酷な掟であり、母の遺言を胸に秘めた娘の、最後の愛の形であった。
理性を失い、ただの化け物として世界を彷徨うくらいなら、己の手でその旅路に幕を引く。
生者としてこの地に立ったときから、その覚悟だけは、一瞬たりとも揺らいでいない。
「貴公、色々とありがとうございました。私は、さらに下へ……世界の底へ向かいます」
ジークリンデは篝火の前から立ち上がり、重い足取りで歩み始めた。
目指すは、すべての病みと毒のさらに底、世界を支える大樹の根元――「灰の湖」。
ジャラリ、ジャラリと響く鉄の音は、先ほどよりも一段と冷徹に、そして重く、世界の最果てへと続いていた。
父と娘の、あまりにも凄惨で美しい決着の刻が、すぐそこまで迫っている。