DARK SOULS : 滑稽な鉄のなかで、生者は泣く 作:水色蛍
世界の最底流。病みと毒、そして巨大な大樹の虚をどこまでも降りた果てに、その場所はあった。
「灰の湖」。
そこは、神々が火を見出すよりも遥か昔、世界がまだ霧に覆われていた時代の名残であった。
見上げるほどに巨大な石の大樹が、果てしない虚空を支える柱のように無数に聳え立っている。足元に広がるのは、波ひとつ立たない黒い鏡のような湖水と、どこまでも白く、冷たく煙る灰の砂浜。
上層の喧騒も、亡者たちの呪わしい叫びも、ここには一切届かない。
ただ、世界の始まりと終わりが同居するような、絶対的な静寂だけが支配する、美しくも酷く孤独な墓所であった。
ザザッ、ザザッ。
白い砂を深く踏みしめる音が、静寂に波紋を広げる。
カタリナの丸い鎧を纏った生者――ジークリンデは、一歩進むごとに、ずしりと重い生身の疲労を感じていた。
ここまでどれほどの死線を越えてきただろうか。
呪われていない彼女の身体は、すでに満身創痍であった。
結晶の冷気に焼かれた皮膚は未だに痛み、鎧の裏の衣服は、乾いた己の血で赤黒く強張っている。
それでも、彼女の足が止まることはなかった。
砂浜の遥か先、大樹の根元に、一つの小さな燠火が見えた。
それは、世界の最果てに灯された小さな篝火。
その揺らめく火の傍らに、彼女がずっと追い求めてきた、あの滑稽なほどに丸い「もう一つの鉄の塊」が佇んでいるのを、彼女の目は確かに捉えていた。
「……お父様」
兜の格子窓の奥で、ジークリンデの瞳に、微かな、しかし生涯で最もあたたかい光が灯った。
しかし、彼女が近づくにつれ、その光は急速に冷え切った絶望へと変わっていった。
篝火の傍らに佇むカタリナの騎士――ジークマイヤー。
その身体からは、かつて練兵場で娘に大笑いしてみせたあの豪快な覇気は、ひとかけらも感じられなかった。
愛剣ツヴァイハンダーは砂に突き立てられ、主の身体は、まるで魂を抜かれた抜け殻のように、ゆらゆらと不気味に揺れている。
「……お、父様……?」
ジークリンデが声をかける。
その音に反応し、丸い鉄兜がゆっくりとこちらを向いた。
だが、その横一文字の鉄格子から覗く瞳には、娘の姿など映っていなかった。
濁り、腐り果て、ただ純粋なソウルへの飢餓だけを爛々と滾らせた、獣の目。
彼の皮膚は土気色を通り越して黒く変色し、鎧の隙間からは、絶望の膿のような黒い体液が滴り落ちていた。
「ガ、アアアあ、あッ……!!」
ジークマイヤーの裂けた喉から、呪わしい亡者の咆哮が放たれた。
彼は砂から大剣を引き抜くと、かつて愛したはずの娘に向けて、容赦のない無慈悲な一撃を振り下ろした。
それは、神話の終焉のなかでひっそりと行われた、最も哀しい親子の決闘であった。
ジークリンデは、涙を流す暇さえ与えられなかった。
襲いかかる父の猛撃。かつてその身に叩き込まれたカタリナの剣技が、今度は牙となって彼女の生身を切り裂こうとする。
彼女は左手の円盾を掲げ、父のツヴァイハンダーを必死にいなした。
凄まじい衝撃が腕の骨を軋ませ、生身の肉体が砂浜へと吹き飛ばされる。
「お父様! 私です! リンです! お母様の、お母様の言葉を……!」
叫びは、白い灰の空へと虚しく吸い込まれてゆく。
亡者となった父に、人の言葉はもう届かない。
彼はただ、目の前にある瑞々しい生者のソウルを貪るためだけに、再び大剣を構えて突進してくる。
ジークリンデは、鉄兜の中で歯を食いしばった。
(ああ、本当に……本当にお前は、仕方のない人だ)
彼女の心から、迷いが消えた。
代わりに胸を満たしたのは、故郷カタリナの残酷な掟と、母の墓前で誓った「血の義務」であった。
これ以上、この高潔だった騎士を、名誉ある父を、化け物として世界の底で腐らせるわけにはいかない。
父が放った、大振りの一撃。
ジークリンデは、それをかわさなかった。
あえて己の左肩でその刃を受け流し、肉が裂ける激痛と引き換えに、父の懐へと鋭く踏み込んだ。
「……ハァアアッ!!」
渾身の叫びと共に、バスタードソードを突き出す。
刃は、ジークマイヤーの丸い胸当ての、最も薄くなった装甲の隙間へと、深く、深く吸い込まれていった。
肉を貫く鈍い手応えの後、世界の最果てに、完全な静寂が戻った。
ジークマイヤーの動きが止まる。
彼の持つ大剣が手から滑り落ち、白い砂の上に重い音を立てて横たわった。
ジークリンデが剣を引き抜くと、父の巨体は、糸の切れた人形のように、ゆっくりと砂浜へと崩れ落ちていった。
その直後であった。
背後の空間が微かに歪み、一人の騎士が砂を踏み鳴らして姿を現したのは。
それは、公爵の書庫で彼女を結晶の檻から救い出した、あの「名も無き不死」であった。
数々の王のソウルを求め、世界の命運を背負って旅する影。
不死は、砂の上に倒れたカタリナの騎士と、その前に立ち尽くす少女の姿を見て、静かにその足を止めた。
ジークリンデは、名も無き不死の気配に気づきながらも、すぐには振り返らなかった。
彼女は、ゆっくりと自らの丸い鉄兜を外した。
露わになった彼女の顔は、流れ落ちる汗と、そして堰を切ったように溢れ出す涙で濡れそべっていた。
「……ああ、貴公、ですか」
彼女の声は、震えていた。
しかし、その中には、すべての義務を果たし終えた者だけの、酷く哀しい気風が満ちていた。
「……お父様は、最後に正気を失ってしまいました」
ジークリンデは、父の亡骸の傍らにひざまずいた。
その冷たくなってゆく鉄の胸当てに、そっと自らの額を寄り添わせる。
「……だから、私が、終わらせてあげました。カタリナの、掟の通りに……」
彼女の小さな肩が、激しく震え始める。
生者である彼女の涙は、あたたかく、父の煤けた鎧の上に落ちては、白い灰を黒く染めてゆく。
「……お父様、お母様はね、怒っていましたよ。私を置いて、あんな奈落へ行ってしまうなんてって。……でもね、ずっと、貴方の帰りを待っていたの。すぐに道に迷う、仕方のない人だからって……」
彼女は、父の胸の中で、幼い子供のように声を上げて泣き崩れた。
どれほど剣技を極めようとも、どれほど強固な鉄の鎧を纏おうとも、彼女は呪われぬただの少女に過ぎない。
母を失い、そして今、自らの手で父を殺めた彼女の心には、もう何も残されていなかった。
名も無き不死は、何も言わず、ただその哀しい親子の姿を、静かに見守り続けていた。
慰めの言葉など、この終わる世界には存在しない。
ただ、遠くの黒い湖水が、彼女の哭哭を優しく包むように、微かな衣擦れの音だけを返していた。
やがて、ジークリンデは涙を拭い、静かに立ち上がった。
彼女の顔には、もう涙の跡はなかった。
あるのは、すべての因縁を断ち切ったカタリナの騎士としての、冷徹なまでの気高さだけであった。
彼女は、名も無き不死の方を向き、深く頭を下げた。
「貴公……何度も私を、そしてお父様を助けていただき、本当にありがとうございました。貴公の旅に、カタリナの誇り高き祝福があらんことを」
ジークリンデは、父の形見であるツヴァイハンダーを砂から引き抜き、自らの背へと帯びた。
そして、一度も振り返ることなく、白い砂浜の奥――かつて来た、上層へと続く大樹の根元に向かって歩み始めた。
ジャラリ、ジャラリ。
その足音は、以前よりもずっと重く、しかしどこまでも静かだった。
彼女は生者だ。これから再び、亡者たちの蠢く地獄の難所を、生身の身体で登り、故郷カタリナへと帰らねばならない。その途中で力尽き、死ぬかもしれない。
だが、彼女の背中には、もう迷いも焦燥もなかった。
名も無き不死は、その丸い鎧の影が、白く煙る灰の霧の彼方へと消えてゆくのを、じっと見つめていた。
足元に残されたのは、主を失った篝火の微かな燠火と、ジークマイヤーが遺した、小さな青いピアスの破片だけ。
世界は相変わらず、ゆっくりと滅びに向かっている。
神々は去り、火は陰り、多くの者が使命という名の狂気に身を焦がしていく。
だが、この世界の最果てで、確かに一つの「家族の絆」が、そのあまりにも凄惨で、美しい幕引きを迎えた。
降り積む白い灰が、親子の戦いの足跡を、静かに、静かに埋めてゆく。
あとに残されたのは、ただ、永遠に変わることのない、灰の湖の、どこまでも冷たい静寂だけであった。