移動都市チェルノボーグは、荒野をゆっくりと進み続けていた。
天災によって崩壊した市街区の大部分は今も放棄されたままであり、動力区画の各所からは黒煙が上がっている。それでも都市としての機能が完全に失われたわけではなく、稼働可能な区画へレユニオンの兵力と物資を集中させることで、巨大な移動拠点として利用されていた。
その中枢に位置するコントロールルームには、都市が荒野を踏みしめる度に低い振動が伝わってくる。
かつてはウルサスの官僚や技術者が働いていた広大な室内には、チェルノボーグの各区画を示す計器や制御盤が並び、正面の大型画面には現在地と龍門周辺の地形が表示されていた。破損した機器の代わりにレユニオンが持ち込んだ通信装置が据え付けられ、壁際では複数の兵士が各部隊から送られてくる報告を整理している。
その中央に、タルラは立っていた。
白銀の髪が制御盤から放たれる淡い光を受け、冷たい輝きを帯びている。背筋を伸ばし、両手を背後で組んだ姿には、レユニオンの指導者として揺るぎない威厳があった。
少なくとも、外から見える姿だけは以前と変わらない。
だが、その肉体の奥に本来のタルラが表出する余地は、既にほとんど残されていなかった。
意識の深層へ追いやられた少女に代わり、長い年月をかけて人の営みを渡り歩いてきた不死の黒蛇が、その瞳を通して世界を見ている。
コントロールルームの扉が開いた。
冷気を纏ったフロストノヴァと、巨大な盾を携えたパトリオットが室内へ入る。二人の姿を見た通信兵たちは作業の手を止めかけたが、すぐに視線を端末へ戻した。
タルラは振り返らなかった。
「……戻ったか」
「ああ」
フロストノヴァが答える。
「鍵の確保は失敗したそうだな」
「私たちが到着した時には、もうロドスが彼女を連れて移動していた。追跡も試みたが、龍門近衛局と行動を共にしていたため、少数の部隊では手を出せなかった」
「遊撃隊まで投入しても、か」
責めるような口調ではなかった。
それがかえって、フロストノヴァの胸に引っかかった。
以前のタルラであれば、まず負傷者の数を尋ねたはずだった。作戦が失敗した理由を確認するにしても、帰還した兵士たちの状態を知ろうとしただろう。
今の彼女が気にしているのは、結果だけだった。
「龍門には、想定外の戦力が、複数存在した」
パトリオットが答える。
「黒い装甲の、巨人。そして、青い巨人と、その仲間たちだ」
「黒い装甲の巨人については報告を受けている。レユニオンの部隊を襲撃し、術師を優先的に殺害していた異形だろう」
「異形ではない」
パトリオットの返答に、タルラが僅かに顔を動かした。
「あれは、青い巨人と、同種の戦士だ。思想も、所属も異なるようだが」
「そうか」
タルラはそれ以上、黒い騎士について尋ねなかった。
その反応もまた、二人の疑念を強める。
黒いアスタルテスは、龍門へ展開していたレユニオン兵を何人も殺害している。パトリオットと直接交戦し、遊撃隊の作戦行動にも大きな影響を与えた。
それにもかかわらず、タルラの関心は黒い騎士へ向いていない。
彼女が排除を命じたのは、最初から青い巨人だけだった。
フロストノヴァとパトリオットは、龍門からチェルノボーグへ戻るまでの間に何度も話し合っていた。
ヴァレリウスから知らされた、タルラの精神に別の存在が巣食っているという事実。
二人とも、彼の言葉を完全に信じたわけではない。しかし、これまで感じてきた違和感と、チェルノボーグでタルラが見せた異常な変貌を考えれば、根拠のない妄言として切り捨てることもできなかった。
だからといって、本人を正面から問い詰めるつもりもなかった。
もしヴァレリウスの推測が正しければ、目の前に立っているのはタルラではない。彼女の身体を奪った存在へ、自分たちが正体に気付いていると明かすことになる。
最悪の場合、この場で戦闘になる可能性もあった。
タルラの姿をした存在は、チェルノボーグでヴァレリウスと互角に近い戦いを繰り広げている。フロストノヴァとパトリオットが二人で挑んだとしても、周囲の兵士を巻き込まずに制圧できる保証はない。
それ以上に、まだタルラ本人を救い出す方法が見つかっていなかった。
フロストノヴァは表情を変えず、正面の大型画面へ視線を向けた。
画面には龍門の外壁と、その周囲へ展開しているレユニオン部隊の位置が示されている。複数の部隊との通信は途絶え、後退を始めている部隊も少なくなかった。
「一つ、聞きたい」
「何だ」
「何故、あの青い巨人にそこまで固執する?」
コントロールルームに漂っていた空気が、僅かに変化した。
近くで作業していた通信兵が一瞬だけ顔を上げる。だが、タルラが反応を示さないことを確認すると、何も聞かなかったように作業へ戻った。
タルラはゆっくりと振り返った。
その瞳が、フロストノヴァを正面から捉える。
「我々の脅威だからだ」
短い答えだった。
フロストノヴァは、その中に含まれていた言葉を聞き逃さなかった。
レユニオンの脅威ではない。感染者の脅威とも言わなかった。
我々──その言葉が誰を指しているのか、タルラは明らかにしなかった。
「青い巨人は、チェルノボーグで我々の作戦を妨害した。多くの兵士を退け、ロドスの撤退を成功させ、私自身にも傷を負わせた。今はさらに複数の同胞と飛行兵器を手に入れ、再びロドスと行動を共にしている」
「強いから殺すのか」
「敵対する可能性のある強者を放置する理由はない」
「本当にそれだけか?」
フロストノヴァの問いに、タルラの表情は変わらなかった。
「……何が言いたい」
「あの黒い巨人も、レユニオンの兵士を殺した。パトリオットと戦い、龍門の作戦を妨害した。それなのにお前は彼について何も聞こうとしない」
「所在も目的も不明な者と、既にロドスへ協力している者を同列に扱うことはできない」
「青い巨人を殺せという命令は、彼がロドスへ戻ったと分かる前から出されていた」
タルラの瞳が僅かに細くなった。
周囲の温度が上がったわけではない。それでも、フロストノヴァは炎に近づいた時のような圧迫感を覚えた。
「──エレーナ」
呼びかける声は穏やかだった。
「お前は、私の判断が間違っていると言いたいのか」
「理由を聞いているだけだ」
フロストノヴァは退かなかった。
タルラの内側に何がいるのか、それを口にするつもりはない。今はただ、相手が青い巨人を恐れる理由を、どこまで隠し通そうとするのか確かめようとしていた。
「青い巨人は、感染者を、無差別には殺さない」
それまで黙っていたパトリオットが口を開いた。
タルラの視線が、今度は彼へ向けられる。
「チェルノボーグでは、ロドスを守るために、我々と戦った。龍門でも、目的が衝突したため、敵対した。だが、感染者そのものを、排斥する意志は見られなかった」
「だから安全だと?」
「安全とは、言っていない」
パトリオットは巨大な盾の上端へ両手を置き、タルラを見据えた。
「あれは、強大だ。考え方も、我々とは異なる。必要なら、躊躇なく殺すだろう。だが、理性的でもある。交渉が可能で、理由なく敵対することもない」
パトリオットは、龍門の路地で交わした言葉を思い返していた。
ヴァレリウスは、遊撃隊へ武器を向けられても即座に攻撃しなかった。タルラから捕縛か殺害を命じられていると告げられた後も、交渉の余地を残していた。
タルラの内側に別の存在がいるという情報を明かした時も、レユニオン全体を敵と見なしてはいなかった。
「我々の目的を、根本から妨げる存在とは、思えない。少なくとも、現時点では」
「随分と高く評価したものだ」
タルラの口元に薄い笑みが浮かぶ。
「一度刃を交えただけで、相手の本質を理解したつもりか」
「刃を交えたからこそ、分かることもある」
パトリオットは静かに答えた。
「彼は、戦士だ。殺戮を好む者ではない」
「戦士であるからこそ危険なのだ」
タルラは大型画面の前へ歩み寄ると、龍門の外壁を示す映像へ指を伸ばした。
「あの者は、この世界のどの勢力にも属していない。ロドスへ協力しているのも、一時的に利害が一致しているからに過ぎないだろう。利害の一致だけでロドスに協力している者が、いつまで他者の命令に従い続けると思う?」
画面上に表示されていたロドス側の推定展開地点へ、指先が触れる。
「強大な武力と、この世界には存在しない技術を持ち、さらに仲間を集め始めている。今は数人であっても、次に何人が現れるかは分からない。あの飛行兵器と共に、より大規模な戦力が現れる可能性もある」
「それは、彼の意志で起きているわけではない」
「それを証明できる者がいるのか?」
フロストノヴァは答えられなかった。
「青い巨人と同時期に、見たこともない生物がチェルノボーグへ現れた。別の場所でも同様の怪物が確認されているという報告がある。奴の存在と異変に関連がないと、どうして断言できる?」
「ならば、捕らえて、調べるべきだ」
パトリオットが言う。
「最初から、殺害を命じる理由には、ならない」
タルラの指が止まった。
ほんの一瞬だった。
すぐに指を画面から離し、何事もなかったように二人へ向き直る。
「あれほどの相手を生け捕りにするために、どれだけの犠牲が必要になる。ミスター、貴方自身が戦ったのなら理解しているはずだ」
「理解している」
「ならば、排除できる時に排除するべきだ。あの者がロドスへ技術を与え、龍門やウルサスと協力関係を築いた後では遅い。感染者へ友好的に見えることと、レユニオンの障害にならないことは同じではない」
タルラは淀みなく言葉を並べていく。
どれも完全に間違っているわけではなかった。
ヴァレリウスがレユニオンへ協力する保証はない。ロドスと行動している以上、再び戦場で対峙する可能性は高く、その戦闘能力がレユニオンにとって重大な脅威であることも事実だった。
だが、フロストノヴァとパトリオットが知りたいのは、危険性の説明ではない。
タルラが他の全てを後回しにしてまで、ヴァレリウスの死を求める理由だった。
ミーシャの確保と同じ時期に、別働隊を使って所在を追わせるほどの執着。ティラニッドによって部隊が襲撃されている最中でさえ、戦闘が終われば彼を殺すと言い切った異常な敵意。
黒い騎士については簡単な報告だけで済ませたにもかかわらず、青い巨人について語る時だけは、理由を幾つも重ねて排除の正当性を強調する。
ヴァレリウスが語った存在は、タルラの内側にいる。
そして、その存在は自分の正体を見抜いた者を恐れている。二人の中で、疑念は確信に近いものへ変わりつつあった。
それでも、今は踏み込めない。
確証がなく、タルラを救う方法もなく、周囲には事情を知らないレユニオン兵がいる。この場で指導者を糾弾すれば、組織そのものが内側から崩れかねなかった。
「説明は、理解した」
パトリオットが答える。
納得したとは言わなかった。タルラも、その違いには気付いているはずだった。
だが、彼女が何かを言うより早く、コントロールルームの奥から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「タルラ様!」
通信端末の前に座っていた兵士が立ち上がる。
片耳へ押し当てた受信機からは雑音が漏れ、背後の機器では受信を示す光が明滅していた。
「龍門に残っている部隊から、緊急報告です」
「話せ」
「スカルシュレッダーの部隊が、Wの傭兵部隊と共同で近衛局の護送車列を襲撃。拘束されていた鍵の奪還に成功しました」
「鍵……」
フロストノヴァが呟く。
「鍵は生きているのか?」
「はい。負傷はしているようですが、命に別状はありません。現在はWの部隊が用意した経路を通り、龍門外部の合流地点へ移動中です。近衛局が追跡していますが、スカルシュレッダー隊が後方を攪乱しているため、今のところ捕捉はされていません」
報告を聞き終えたタルラの口元に、笑みが浮かんだ。
先ほどまでフロストノヴァたちへ向けていた形だけのものではない。待ち望んでいた駒が、ようやく手元へ戻ってきたことを喜ぶ笑みだった。
「よくやった」
タルラは大型画面へ向き直る。
龍門の全体図が表示され、外壁や市街区、近衛局の拠点と推定される複数の地点が次々と強調されていく。
「スカルシュレッダーには、鍵を確実に護送するよう伝えろ。Wには追撃部隊の排除を任せる。ただし、鍵を傷つけることは許さない」
「了解しました」
「それから、各地区へ散った部隊に帰還命令を出せ。龍門内部に潜伏している者は、そのまま現地で待機させろ。外部に展開している部隊は物資と負傷者を回収し、指定した区域へ集結させる」
兵士たちが一斉に動き始めた。
通信装置が次々と起動し、各部隊を呼び出す声がコントロールルームへ重なる。
タルラはパトリオットとフロストノヴァへ振り返った。
「二人も準備を整えろ」
「何の、準備だ」
「近いうちに、龍門へ大規模な攻撃を仕掛ける」
タルラの背後で、画面に映し出された龍門の外壁が赤く染められていく。
「今回のような小規模な浸透ではない。レユニオンの主力を投入し、外壁と市街地を同時に攻撃する。龍門近衛局にも、ロドスにも、立て直す時間は与えない」
「今の部隊は、消耗している」
フロストノヴァが言う。
「負傷者も多い。すぐに次の攻撃を始めれば、戦えない者まで前線に出ることになる」
「だから、近いうちにと言った。必要な時間は与える」
「どれだけだ」
「鍵の状態を確認してから決める。あれを利用できる状態であれば、龍門の守りを崩すことも難しくない」
タルラは再び画面へ視線を戻した。
「チェルノボーグも、いつまでもこの場所に留めておくつもりはない」
パトリオットの仮面の奥で、目が僅かに細められた。
その言葉の意味を問い返そうとしたが、タルラは既に二人との会話を終えたつもりらしい。通信兵へ次の指示を出し、龍門周辺へ展開する部隊の再配置を始めている。
「命令は以上だ」
拒否を許さない声だった。
パトリオットはしばらくその背中を見つめた後、槍を持ち上げる。
「了解した」
フロストノヴァも僅かに遅れて頷いた。
「……分かった」
二人は並んでコントロールルームを出た。扉が閉ざされ、通信兵たちの声が遠ざかる。
薄暗い通路を歩きながら、フロストノヴァは振り返らずに尋ねた。
「どう思う?」
「疑念は、深まった」
パトリオットの答えは短かった。
「青い巨人を、殺すために、理由を、作っている、ように、聞こえた」
「私にもそう聞こえた」
二人の歩調は止まらない。
通路の各所では、命令を受けたレユニオン兵たちが慌ただしく動き始めている。弾薬箱を運ぶ者、負傷者を医療区画へ移す者、次の出撃に備えて武器を点検する者。
彼らはタルラを信じていた。
感染者を率い、ウルサスへ立ち向かい、自分たちに未来を与えてくれる指導者だと信じている。
その信頼を、証拠もなく壊すことはできなかった。
「今は、従う」
パトリオットは言った。
「だが、見極める。タルラの中に、何がいるのか。そして、それが、我々をどこへ導こうとしているのか」
フロストノヴァは無言で頷いた。
その背後では、閉ざされたコントロールルームの扉を隔てて、チェルノボーグの進路を示す線が少しずつ龍門へ近づけられていた。
ウルサス帝国北西部。
地図上には小規模な観測施設として記載されているだけのその建物は、地上から見れば、雪原の中に建てられた古びた要塞にしか見えなかった。
だが、地上部分は施設全体の一部に過ぎない。
分厚い永久凍土を掘り抜いた地下には、幾層もの研究区画と収容施設が広がっている。各階層は装甲隔壁によって分断され、許可を持たない者が最深部へ到達することはできない。
扉を一枚通過する度に、身分証明と生体情報の確認が行われる。通路の天井には監視装置と自動弩が並び、非常時には区画全体を焼却するための高熱源石装置まで備えられていた。
その最も深い場所に、未知の生物が収容されている。
観察室と実験区画を隔てる防弾ガラスは、龍門近衛局が使用する盾よりも遥かに厚く、複数の源石術による防護処理が施されていた。
その向こう側で、巨大な生物が拘束されている。
人間より遥かに大きな躯体。全身を覆う紫色のキチン質の甲殻。背中から伸びる節足と、四本の腕。異様に発達した頭部の外殻からは角状の突起が伸び、その奥にある小さな眼が、防弾ガラスの外側を絶えず観察している。
ティラニッド・ウォリアー。
人類を捕食し、その遺伝情報すら次の進化へ利用する銀河外生命体。その中でも、下位個体を統率するシナプス能力と高い知性を与えられた指揮個体だった。
だが、ウルサスの研究員たちがその名を知るはずもない。
彼らにとって、目の前の存在は辺境へ突如として現れた、分類不能の大型感染生物に過ぎなかった。
ウォリアーの四肢には、艦船の係留にも用いられる太い拘束具が取り付けられている。甲殻の隙間へ複数の固定器具が打ち込まれ、首と胴体は金属製の枠へ強く押さえつけられていた。
床下からは鎮静剤が絶えず送り込まれているが、それでも怪物は拘束を解こうと動き続けている。
太い腕が引かれる度に鎖が軋み、固定装置の基部が僅かに浮き上がる。甲殻と金属が擦れ合う音が実験区画へ響き、観察室の計器には拘束具へかかる負荷が表示されていた。
「素晴らしい」
白衣を纏った初老の研究員が、感嘆したように呟く。
「投与した鎮静剤は、雪原の大型源石獣を数頭まとめて眠らせられる量です。それでもなお、これだけの力を発揮できるとは」
彼の隣には、黒い外套を纏った人物が立っていた。
顔は奇怪な仮面によって完全に覆われ、外套の隙間から覗く装備には、ウルサス帝国でも限られた者しか使用を許されていない意匠が刻まれている。
皇帝の利刃──皇帝の命によって帝国の敵を葬り、必要とあれば国境の外に存在する脅威すら人知れず消し去る者。
この研究所に勤務する者たちであっても、その正体を知ることは許されていなかった。
「この度は、感謝の言葉もありません」
研究員はウォリアーから視線を離し、利刃へ深く頭を下げた。
「辺境へ出現した個体群を制圧しただけでなく、これほど研究価値の高い個体を生け捕りにしてくださるとは。死体だけでも未知の発見が期待できましたが、生体反応を維持した状態でなければ調査できない項目も数多くあります」
「感謝は不要だ」
仮面の内側から、低くくぐもった声が返ってくる。
「帝国の領土を荒らす敵を排除した。それだけのことだ」
「それでも、帝国の生物研究は大きく前進するでしょう。この生物の筋組織、神経構造、甲殻の強度、驚異的な再生能力。その全てを解明できれば、軍事だけでなく源石医療にも応用できる可能性があります」
利刃は答えなかった。
防弾ガラスの向こう側にいる怪物を、仮面越しに見つめ続ける。
辺境で初めてこの生物と対峙した時から、言葉では説明し難い異質さを感じていた。凶暴な源石生物とは違う、飢えた野獣とも違う。
個々の生物として動いているように見えながら、全てが同じ意志に従っていた。
複数の個体が異なる方向から攻撃を仕掛けても、そこに連携の乱れはなく、一体の巨大な生物が幾つもの肉体を同時に動かしているようだった。
そして、利刃の内側に封じられたものは、彼らを前にして僅かに怯んだ。
サーミの地で遭遇する邪悪とも異なる。生命でありながら、個体としての魂がひどく希薄で、その背後には底を知ることのできない巨大な影が広がっていた。
この世界に存在してはならないもの……長く生かしておけば、いずれ取り返しのつかない災厄を招く。
戦場で感じたその予感は、研究所へ運び込まれた今も消えていなかった。
「何故、殺さない」
利刃が尋ねる。
研究員は一瞬だけ言葉に詰まった。
「先ほど申し上げた通り、研究には生きた個体が必要です。もちろん、危険性は理解しております。この区画の防護設備は帝国最高水準であり、拘束が一つ破損した時点で内部へ高濃度の神経毒を放出します」
「毒が効く保証はない」
「既に複数の薬剤へ反応することは確認しています」
「今は、だ」
利刃の言葉に、研究員の表情から笑みが僅かに薄れた。
「この生物は、戦闘の途中で変化した。先に使用した攻撃が、後の個体には通じにくくなっていた」
「短時間で環境へ適応したと?」
「そう考えるべきだ」
「それが事実なら、なおさら研究する価値があります」
研究員の瞳に浮かんだのは恐怖ではなく、強い好奇心だった。
「変化の仕組みを突き止め、我々の技術として再現できれば、ウルサスの兵士はどのような環境でも戦えるようになる。陛下も、この可能性をお認めになったからこそ、生体研究を許可されたのです」
利刃はそれ以上何も言わなかった。
皇帝の許可が下りている以上、この場で研究を止める権限は彼にもない。
しかし、胸の奥へ沈んだ不安は残り続けていた。
目の前の研究員たちは、怪物を拘束していると思っている。だが利刃には、怪物が周囲を観察しているように見えた。
やがて、実験が始まった。
天井から複数の機械腕が降下し、ウォリアーの甲殻へ器具を押し当てる。高速で回転する刃が紫色の外殻を削り、耳障りな音と共に火花を散らした。
表面に傷が刻まれても、ウォリアーは悲鳴を上げなかった。四本の腕を拘束具へ叩きつけ、頭部を持ち上げようとするだけだった。
削り取られた甲殻片は密閉容器へ収められ、別の機械腕が外殻の隙間へ太い採取針を突き刺す。黒みがかった体液が管を通って吸い上げられ、その成分が観察室の端末へ表示された。
「細胞の分裂速度が上昇しています」
「損傷を受けた部位へ栄養を集中させているのか?」
「それだけではありません。採取針を刺した周辺の組織が硬化しています。二度目の侵入を防ごうとしているようです」
「薬剤の投与量を増やせ。次はアーツへの反応を見る」
実験区画の床に刻まれた源石回路が起動する。
淡い光が走り、拘束されたウォリアーの身体へ電撃に似たアーツが放たれた。紫色の甲殻が焼け、隙間から煙が立ち昇る。
ウォリアーが初めて大きく身体を仰け反らせた。
拘束具が悲鳴のような音を立て、固定装置の一部に亀裂が走る。観察室へ警告音が響き、護衛の兵士たちが一斉に武器を構えた。
「出力を下げろ!」
「拘束具の第二系統を作動!」
追加の金属枠が床と壁から展開し、ウォリアーの胴体を押さえ込む。鎮静剤の投与量が引き上げられ、怪物の抵抗は徐々に弱まっていった。
研究員たちは安堵の息を漏らしたが、皇帝の利刃だけは動かなかった。
あれは苦痛に反応したのではなく、何かを探していたように見えたのだ。
源石術を受けた瞬間、ウォリアーの意識が、この施設とは異なる場所へ向けられたように感じられた。
「次の実験へ移行します」
若い研究員が告げる。
観察室の中央に座る責任者が頷いた。
「源石との直接干渉を開始しろ」
密閉容器が運び込まれる。
鉛と特殊合金で覆われた容器の内部には、黒い源石結晶が収められていた。加工されたものではなく、活性状態を維持した高純度のオリジニウムであり、防護装備を持たずに近づくだけでも危険な代物だった。
「直接体内へ入れるのか」
利刃が尋ねる。
「はい。源石生物と同じように感染するのか、あるいは異物として排出するのかを確認します。既に採取した組織片を使った実験では、通常の生物とは異なる反応が見られました」
「異なる反応?」
「源石が細胞を侵食する一方で、細胞側も源石へ接続しようとしているのです。詳しい仕組みは分かりませんが、この生物は感染を受け入れ、自らの一部として取り込もうとしている可能性があります」
研究員の声には興奮が混じっていた。
利刃は無言でウォリアーを見る。
怪物は鎮静剤によって動きを鈍らせながらも、未だ意識を失っていない。小さな眼球が密閉容器を追い、内部に収められた源石を見ていた。
まるで、それが何であるかを理解しようとしているようだった。
実験区画の機械腕が容器を開く。
細長く加工された源石結晶が把持され、ウォリアーの胸部へ運ばれていく。別の器具が甲殻の隙間を押し広げ、露出した肉へ切開用の刃を突き立てた。
赤い体液が流れ出し、ウォリアーの身体が激しく動いて四本の腕が拘束具を引き千切ろうとする。
それでも機械腕は止まらない。
切り開かれた組織の奥へ、活性源石が押し込まれた。
傷口が閉じないよう固定器具が展開し、黒い結晶を完全に体内へ埋め込む。周囲の肉が異物を押し出そうと収縮した直後、源石の表面から細い結晶が伸び始めた。
「侵食を確認!」
「速度が速い……通常の感染反応の三倍を超えています!」
黒い結晶がウォリアーの肉体へ根を下ろしていく。
血管に似た管が黒く変色し、その侵食は胸部から肩へ、肩から四本の腕へと広がっていった。紫色の甲殻の隙間から細かな源石結晶が突き出し、内部の組織を破壊しながら成長していく。
研究員たちが次々と数値を読み上げる。
誰もが目の前で起きている現象へ意識を奪われていた。
だから、最初は気付かなかった。
先ほどまで拘束を解こうと暴れ続けていたウォリアーが、完全に動きを止めたことに。
源石の侵食が神経組織へ到達する。その瞬間、ティラニッド・ウォリアーの脳内を流れていた微弱な信号が、オリジニウムへ触れた。
転移によって切り離されたシナプスの繋がり。本来であれば、別世界へ隔絶された時点で完全に失われているはずのもの。
チェルノボーグを襲った天災と、〈歪み〉の嵐、そしてシャドウ・イン・ザ・ワープが衝突した時、この世界と遥か彼方の銀河との間には、極めて小さな傷が残されていた。
それは通信路と呼べるほど安定したものではなく、方向も距離も定まらない。大部分のティラニッドはハイヴ・マインドとの接続を失い、指揮する意志のない獣へと変わっていた。
しかし、目の前のウォリアーには、消えかけたシナプスの痕跡が残っていた。
下位個体を統率するために発達した精神構造と、転移の瞬間に晒された〈歪み〉の影響が、切断された繋がりを僅かに保っていた。
そこへ、情報を蓄積し、生命と精神の双方へ干渉するオリジニウムが入り込んだ。
細胞の侵食。
肉体の変異。
アーツを生み出すエネルギー。
源石の内部に保存されていた、言語として表すことのできない膨大な情報。
それらがティラニッドの神経組織へ流れ込み、消えかけていたシナプスの先へ押し出されていく。
ウルサスの研究員たちが、生体実験の成功を喜びながら観察を続ける中、拘束されたティラニッド・ウォリアーの眼球がゆっくりと動いた。
先ほどまでの獣じみた抵抗は消えている。
その小さな眼は、防弾ガラスの向こうに並ぶ研究員たちを一人ずつ確かめるように見つめ、最後に皇帝の利刃へ向けられた。
利刃の内側に封じられた悪魔が、再び身を縮める。
遥か彼方、星々の位置も、時間の流れさえも異なる銀河において、無数のティラニッド艦隊が暗黒の宙を進んでいた。
数え切れないほどの生体艦、惑星の地表を埋め尽くす捕食個体、戦場で死に消化され、次の生命へ作り変えられていく膨大な生体物質。
その全てが、一つの巨大な意志によって結ばれている。
人呼んで
個体という尺度では捉えることのできない、銀河外から訪れた捕食者の集合意識。数兆を超えるティラニッドを身体の一部として扱い、あらゆる生命を喰らい、得られた遺伝情報を次の進化へ利用する果てしない精神。
その意識の中に、針の先よりも小さな刺激が生じた。
通常であれば、他の無数のシナプスに紛れて消えるほど微弱な信号だった。
だが、その信号に含まれていたものは、これまで捕食してきたどの生命とも異なっていた。
自然に生まれた物質ではない、黒い鉱石。
遥かな過去、この世界とは異なる文明によって人工的に作られ、惑星全土へ広がった情報媒体。
接触した生命を侵食し、肉体を結晶へ変えながら、その存在が持つ情報を内部へ取り込むもの。
死者の記憶も、文明の知識も、惑星の歴史さえも蓄積し、通常の物理法則では説明できない現象を引き起こす、物質と情報の境界にある存在。
ハイヴ・マインドは、人間のように驚くことはない。
未知の発見を喜び、知識そのものへ価値を見出すこともない。
それでも、その果てしない意識はオリジニウムに含まれた断片へ触れた瞬間、それが捕食すべきものであると理解した。
源石は、ただの鉱物ではなかった。
生命を変異させる力、エネルギーを生み出す性質、取り込んだ情報を失わずに次の時代へ保存する機能。そして、ハイヴ・マインドの存在する銀河とは異なる場所へ、僅かとはいえ情報を送り届けた性質。
それを取り込めば、ティラニッドは何に変わるのか。
源石が蓄積してきた情報を、遺伝子と同じように利用できるのか。
アーツという現象を、生体器官として再現できるのか。
オリジニウムそのものを、新たなシナプス網や世界を越える道として利用できるのか。
答えはまだ存在しない。
だが、ハイヴ・マインドにとって、答えを得る方法は一つしかなかった。
──それは、ただ喰らうこと。
喰べたい
喰べたい
それが、欲しい