同じ頃、近衛局本部から北西へ数区画離れた感染者居住区では、夜の闇に紛れるようにして複数のレユニオン部隊が集まりつつあった。
龍門の華やかな中心街から隔てられたその一帯には、古い集合住宅や閉鎖された工場、無許可で増築された住居が隙間なく立ち並んでいる。舗装の剥がれた道路には壊れた生活用品や放置された露店が散乱し、建物の壁面には感染者を排斥する落書きと、それを塗り潰すように描かれたレユニオンの紋章が重なっていた。
住民の多くは、既に逃げ出している。
近衛局の避難誘導に従った者もいれば、感染者であることを理由に拘束されるのを恐れ、さらに奥深くへ身を隠した者もいる。人の姿が消えた路地には、遠くから聞こえる爆発音と警報だけが反響していた。
その一角にある、廃棄された診療所。
割れた窓を布と木板で塞いだ建物の中で、メフィストは床へ膝をついていた。
「ファウスト……」
震える声で、何度目になるかも分からない名前を呼ぶ。
ファウストは古い診察台の上に横たえられていた。ヴァロクスのガルバニックライフルに撃ち抜かれた右腕は、肩口から指先まで感覚を失い、皮膚の下では今も不規則な痙攣が続いている。
狙撃部隊の兵士が衣服を裂いて作った布を傷口へ巻き、出血を止めようとしていたが、白い布はすぐに赤黒く染まった。弾丸そのものは腕を貫通しているものの、傷は弾道の周囲だけに留まっていない。異常な筋収縮によって血管と神経が広範囲に損傷し、右肩の関節も半ば外れていた。
「もっと強く縛れ。血を止めろ」
ファウストが掠れた声で命じる。
「しかし、これ以上は腕が……」
「構わない。切り落とすことになっても、死ぬよりはましだ」
「そんなの駄目だよ!」
メフィストが叫び、止血を行う兵士の腕を掴んだ。
「僕が治す。僕なら治せるんだ。いつもみたいに、僕のアーツを使えば……」
「やめろ、イーノ」
ファウストは荒く息を吐きながら、メフィストへ顔を向ける。
「さっきから何度も試しただろう」
「次は上手くいくよ。さっきは邪魔されたから集中できなかっただけで、今度こそ――」
「俺の腕に、お前のアーツが上手く作用していない」
ファウストの言葉に、メフィストの口が止まる。
傷口の周囲には淡い光が残っていた。メフィストは撤退中から何度も治療のアーツを使っていたが、損傷した神経と筋肉は思うように再生しなかった。傷口を塞ごうとする度に筋肉が激しく痙攣し、かえって出血が増えることさえあった。
ヴァロクスの撃ち込んだ弾丸は、肉体が本来持っている電気化学反応そのものを利用して破壊を広げている。傷ついた組織を強引に活性化させるメフィストの治療は、その破壊を再び引き起こす結果となっていた。
「でも、僕が治さないと……」
メフィストは血に濡れた手を見下ろした。
「ファウストが死んじゃう。君がいなくなったら、僕は……」
「死なない。だから、まず部隊をまとめろ。ここに留まり続ければ近衛局に包囲される。お前が指揮を取れ」
ファウストは言い切ったが、その顔からは血の気が失われている。
「僕が……?」
メフィストは診療所の中を見渡した。
生き残った狙撃部隊だけではない。龍門各地から逃げてきたレユニオン兵が、建物の中や周囲の路地に集まっている。負傷者の呻き声が途切れることなく続き、壁際では包帯も足りないまま応急処置が行われていた。
その全員が、幹部であるメフィストの指示を待っている。
だが、メフィストは何も言えなかった。
近衛局本部で見た光景が、頭から離れない。
何度でも立ち上がるはずだった家畜を、身体の内側から破壊したガルバニック弾。目に見えない狙撃兵を一人ずつ正確に撃ち抜いた機械眼。そして、自分の心の奥にある依存さえ見抜き、ファウストの腕を狙った赤い外套の機械兵。
あの一発で、メフィストのアーツも、思考も、全てが止められた。
「……無理だよ」
少年はファウストの診察台へ縋りついた。
「僕は、ファウストを治さないといけないんだ。指揮なんて、今はできないよ」
「メフィスト」
「君が死んじゃうかもしれないのに、他の奴らなんてどうでもいいじゃないか……」
周囲にいたレユニオン兵が視線を逸らす。
普段の彼らであれば、メフィストの言葉へ露骨な嫌悪を示したかもしれない。しかし今は、その言葉に反発するだけの気力を残している者さえ少なかった。
診療所の外から、雪を踏むような微かな音が聞こえた。
季節外れの冷気が、開け放たれた扉から流れ込んでくる。湿った床の表面が白く曇り、散らばっていた血液が薄い氷に覆われた。
路地に立っていたレユニオン兵たちが、一斉に道を開ける。
白い外套を纏い、長い耳を揺らす少女が診療所へ入ってきた。その後ろにはスノーデビル小隊の隊員たちが続き、彼らの装備にも細かな氷の結晶が付着している。
「フロストノヴァ……」
ファウストが目を開く。
フロストノヴァは返事をせず、まず診察台に横たわる彼の状態を確認した。血に染まった包帯、動かない右腕、浅く速い呼吸。重傷であることは一目で分かった。
「撃たれたのか」
「ああ。近衛局本部にいた機械兵だ」
「赤い外套の男か」
「知っているのか?」
「ああ、噂の青い巨人の仲間だ」
フロストノヴァはファウストの右腕へ手を近づけた。傷口に直接触れることはせず、周囲を覆うように冷気を流し込む。
包帯の上から薄い霜が広がり、血管と損傷した筋肉が冷やされていく。完全な治療にはならないが、出血を抑え、組織がさらに損傷する速度を遅らせることはできる。
「長くは持たない」
フロストノヴァが告げる。
「このまま戦えば、失血で倒れる。右腕も、適切な治療を受けなければ残せないかもしれない」
「そんな……」
メフィストの顔が青ざめる。
「お前なら治せるだろ? フロストノヴァ、ファウストを助けてよ。タルラ姉さんだって、ファウストが死ぬことなんて望んでない!」
「私は医者ではない。出血を抑える程度しかできない。今の私たちに、その余力があるように見えるか?」
冷たい声に、メフィストは言葉を失った。
フロストノヴァは彼を見下ろす。近衛局本部を混乱へ陥れた幹部の姿はなく、目の前にいるのは傷ついた大切な人から離れられずに震えている一人の少年だった。
「……タルラから命令を受けている」
フロストノヴァは診療所にいる全員へ聞こえるよう、僅かに声を大きくした。
「メフィストとファウストを回収し、龍門内部に残る部隊を集め、指定された経路から撤退させろとのことだ。ここに集まった部隊だけではない。周辺の残存兵も合流させる」
その言葉を聞き、壁際に座り込んでいたレユニオンの指揮官が立ち上がった。
「撤退か……」
男の頭部には汚れた包帯が巻かれ、左腕は簡素な添え木で固定されている。鎧の胸部には大きな亀裂が走り、火薬と血液の臭いが染みついていた。撤退という言葉を口にした声音には安堵よりも、ここまでして何も得られなかったことへの苦々しさが滲んでいる。
「そうするしかない。もう龍門の中心部では戦えん」
診療所の壁際では、その言葉を裏付けるように何人もの負傷兵が呻いていた。包帯も薬品も不足し、まともに武器を握れる者さえ数えるほどしかいない。この場にいる誰もが、攻勢を続けるだけの力が既にレユニオンには残されていないことを理解していた。
「各部隊の状況を報告しろ」
フロストノヴァが促す。感情を抑えた平坦な声だったが、長い耳は周囲から聞こえてくる一言一句を拾うように僅かに動いていた。
「俺の部隊は東部第三区へ向かった。近衛局が奇襲を受けて崩れていると聞いていたから、俺たちだけでも地区を押さえられるはずだった」
指揮官は拳を握り締める。そこから先を語ることを躊躇するように一度俯き、乾いた唇を舐めてから続けた。
「だが、青い巨人と黒い巨人が降ってきた」
診療所の中が静まった。呻いていた負傷兵の何人かまでが顔を上げる。その二つの呼び名だけで、彼らが何を指しているのか理解したのだ。
「黒い方が一人で突っ込んできた。銃を撃ちながら、唸る剣で前衛を切り刻んでいった。俺たちが数で囲もうとしても止まらない。矢もアーツも、あの鎧にはほとんど通らなかった」
指揮官の声が僅かに震える。恐怖を恥じるように奥歯を噛み締めたが、脳裏に焼き付いた光景までは消せなかった。
「奴は、逃げられる者を最初から全員殺そうとはしなかった。代わりに一人を捕まえ、部隊の正面まで引きずってきた。見せつけるように剣を振り上げて……俺たちの目の前で、そいつを引き裂いた」
チェーンソードの鋸歯へ巻き込まれた肉体が、血飛沫と共に砕けていく。その場にいた者たちの記憶へ焼きついた光景を思い出し、指揮官は顔を歪めた。
「次は誰だと、そう言うように俺たちを見ていた。戦意を失って逃げる者は深追いせず、武器を持って向かっていった者だけを殺した。残った兵は、誰も前へ出られなかった」
それは衝動的な虐殺ではなかった。敵の心を折り、より短い時間で戦線を崩壊させるために、意図的に残虐さを見せつけた。アイゼンヴァルトの狂信と冷酷さは、兵力差以上の圧力となってレユニオン兵へ襲いかかったのだ。
そして、それはアイゼンヴァルトが考えた、最も犠牲者を少なく敵を無力化する方法でもあった。
「恐怖を使って、部隊を崩したのか」
フロストノヴァの問いに、指揮官は重々しく頷いた。
「ああ。あいつは俺たち全員を殺す必要がないと知っていた。一人を残酷に殺せば、残りが勝手に逃げ出すと分かっていたんだ」
「青い巨人も恐ろしかった。重装兵が何人いても、盾ごと押し返された。術師を先に潰し、前衛が崩れたところへ近衛局を突入させてくる。連中は、あの巨人の後ろにいれば自分たちが傷つかないと分かっていた」
別の兵士が続ける。
「こちらの動きを読まれていた。力だけじゃない……俺たちは、最初から何をしても勝てなかったんだ」
指揮官が項垂れる。
工業地区から逃れてきた部隊も、状況は同じだった。
「こっちは緑色の巨人が二人だ」
製鉄プラントで戦った兵士が、傷ついた脚を引きずりながら前へ出る。
「一人は矢を何本受けても傷一つつかない。術師のアーツも、もう一人の周りに現れた見えない壁に全部止められた。地面を殴っただけで足場が砕け、そこへ近衛局と警官隊が押し寄せてきた」
フロストノヴァはチェルノボーグでレユニオン兵を庇い、そしてタルラに焼かれた巨人とその仲間を思い出した。そして、問いかける。
「だが、奴らは最初から皆殺しにしていたわけではないだろう」
「……ああ」
兵士は答えにくそうに目を伏せる。
「武器を捨てた者や、動けなくなった者は殺さなかった。殴られた奴らも多くは気を失っただけだ。だが……民間人を襲っていた部隊は違った」
「何があった」
「奴らは感染者への差別に怒っていた。非感染者に、自分たちが味わった苦しみを返してやるんだと言っていた。女や子供も関係なく、逃げ遅れた奴らを襲って……そこへ緑の巨人が来た」
男の喉が動く。
「鎚を持った方は、民間人を逃がした後で、襲っていた兵士を粉々にした。もう一人も、拳の一撃で何人も纏めて潰した。生き残った奴らは、武器を捨てて逃げるしかなかった」
フロストノヴァの表情は変わらなかった。
「民間人を庇ったのだな」
「ああ。怪我をした女と子供を抱えて、警官隊へ渡していたらしい」
「ならば、以前と変わっていない……」
チェルノボーグで、緑色の巨人たちは自らの危険を顧みず、ロドスとレユニオンの間に取り残された者を守った。彼らは敵へ容赦しないが、戦う力のない者まで見境なく殺すことはなかった。
フロストノヴァ自身も、ヴァレリウスたちと対峙し、その判断を聞いている。
戦場では冷酷な選択を行う。必要と判断すれば、敵を躊躇なく殺す。それでも彼らの中には、少なくとも守るべき者と殺すべき者を分ける基準が存在していた。
「待ってくれ」
診療所の奥にいた、別の部隊の指揮官が声を上げた。
彼の外套には複数の切り傷が残り、頬には乾いた血がこびりついている。傷の位置は浅いが、男の表情には先ほどの指揮官たちとは異なる恐怖が浮かんでいた。
「巨人だけじゃない。黒い装束の部隊がいる」
「黒い巨人ではなく?」
「違う。身体の大きさは普通だ。全員が頭から足まで黒い服を着て、顔も隠していた。近衛局の制服じゃない。レユニオンの紋章も、龍門の徽章もなかった」
男は周囲を見回し、声を潜める。
「感染者居住区の南側で遭遇した。奴らは何も言わず、俺たちを襲ってきた。気づいた時には前を歩いていた兵が倒れていた。刃物で喉を切られ、後ろにいた奴も胸を貫かれた」
「待ち伏せか」
「いや、待ち伏せなんていう表現は生ぬるい……あれは掃討だった!」
指揮官は首を振った。
「奴らは俺たちだけを狙っていたんじゃない。周辺に隠れていた感染者も殺していた。レユニオンとは無関係の老人も、逃げようとした女もだ。感染者だと分かれば、誰であろうと容赦しなかった」
周囲の兵士たちから、低いざわめきが上がる。
「奴らも、異世界から来た巨人の仲間に違いない。巨人たちが表で近衛局を助け、黒い部隊が裏から感染者を皆殺しにしているんだ」
「違う」
フロストノヴァは即座に否定した。
「何故そう言い切れる!?」
「青い巨人たちは、無関係な感染者まで殺すような人間ではない」
「だが、黒い巨人は俺たちの仲間を見せしめに殺した!」
「武器を持って戦っていた者だろう」
指揮官が黙る。
「彼らはレユニオンに味方しているわけではない。こちらが攻撃すれば、敵として殺す。だが、報告にある黒い部隊は戦闘へ参加していない感染者まで排除している。行動の基準が違う」
フロストノヴァは黒い装束の集団について考える。
龍門内部で、近衛局とは異なる装備を持ちながら組織的に活動している。敵味方の区別ではなく、感染者であるか否かを基準として殺害し、目撃者を残そうとしない。
異世界から来た者たちよりも、龍門の地理と感染者居住区の構造を熟知している可能性が高い。何より、近衛局が大規模な戦闘を続けている最中にもかかわらず、独自の命令系統で動いている。
「……別の勢力だ」
フロストノヴァは辿り着いた結論を口にする。
「龍門側の部隊である可能性が高い。近衛局が存在を把握しているかは分からないが」
「龍門が、感染者の処分を始めたということか……?」
「まだ断定はできない。だが、巨人たちの仲間だと決めつける根拠もない」
その時、診療所の外からスノーデビル小隊の隊員が駆け込んできた。
「姉さん」
隊員は周囲の者に聞かれないよう声を抑えたが、その表情には明らかな焦りが浮かんでいる。
「……どうした」
「撤退経路を確認してきた。タルラから指定された北部第三連絡路だが……既に近衛局が展開している」
「規模は?」
「少なく見積もっても数百、装甲車両も複数ある。連絡路に通じる大通りにはバリケードが築かれ、術師部隊と弩兵が配置されている。周辺の高所にも監視員がいる」
診療所の空気が重くなる。
「別の道から迂回はできないのか?」
レユニオンの指揮官が問う。だが、報告に戻ったスノーデビルは即座に首を横へ振った。
「大部隊が通れる道は、ほとんど塞がれている。小さな路地なら抜けられるかもしれないが、負傷者を運びながら全員で移動するのは無理だ。それに、黒い装束の部隊がどこにいるのかも分からない」
診療所に集まった者たちの視線が、自然と床に横たわる負傷者へ向かった。自力で歩けない者だけでも少なくない。彼らを置き去りにするのでなければ、狭い裏路地を利用して少人数ずつ脱出するという選択肢は最初から存在しなかった。
「なら、指定された経路を突破するしかない」
「この戦力でか?」
別の兵士が声を荒らげた。拳を壁へ叩きつけ、積もった埃をぱらぱらと床へ落とす。
「各地区から逃げてきたばかりだぞ。術師も重装兵も半分以上を失った。ファウストは重傷で、メフィストもこの状態だ。近衛局の大部隊と正面からぶつかれば全滅する!」
誰も反論できなかった。
議論を始めた兵士たちをよそに、フロストノヴァは黙っていた。怒号と負傷者の呻きが飛び交う中、ただ一人だけ周囲から切り離されたように、頭の中でタルラから受けた命令をもう一度思い返す。
メフィストとファウストを回収すること、龍門内部の残存部隊を可能な限り集結させること、そして指定された経路から撤退すること。
命令を受けた時点で、タルラは経路上に近衛局が展開していることを知らなかったのか。龍門各地で戦闘が続いている以上、状況が短時間で変化した可能性はある。だが、それだけでは説明できない違和感が残る。
撤退経路は一つに限定され、別の経路を選ぶ裁量は与えられていない。疲弊した残存部隊を一か所へ集め、その先には近衛局の大部隊が待っている。フロストノヴァが命令に従えば、レユニオンの残存兵と龍門近衛局は正面から激突する。
勝敗がどうなろうと、多数の犠牲が出る。そしてその中には、自分とスノーデビル小隊も含まれていた。
「そういうことか……」
フロストノヴァの奥歯が、僅かに軋む。
その小さな呟きを拾ったスノーデビル小隊の一人が、不安げに彼女を見る。
「姉さん……?」
「タルラは、私たちを帰すつもりがない」
一瞬、誰もその意味を理解できなかった。やがて数人の表情から血の気が引き、診療所の空気が別種の緊張へ塗り替えられていく。
「何を言って……」
「指定された道は……端から撤退経路なんてものではなかった」
フロストノヴァは淡々と告げた。しかし、その声音の底には押し殺した怒りがあった。
「タルラが、俺たちを殺そうとしているっていうのか?」
誰かが信じられないというように問い返す。するとフロストノヴァではなく、ファウストの狙撃部隊の生き残りが壁へ背を預けたまま口を開いた。
「今のタルラなら、そう考えてもおかしくない」
その言葉を皮切りに、周囲から一斉に反発が噴き出した。
「馬鹿な。俺たちはレユニオンだぞ!」
「だから何だ」
騒めきを切り裂くような冷たい声だった。フロストノヴァの視線を正面から受けた兵士が思わず口を噤む。
「チェルノボーグで何人が死んだ。龍門へ入ってから、どれだけの部隊が目的も知らされず戦わされた。タルラは、彼らを救おうとしたか」
誰も答えられない。
かつてのタルラであれば、仲間を意味もなく死地へ送ることはなかった。自ら先頭に立ち、感染者を守るために剣を振るい、犠牲を減らそうとした。
だが、今の彼女は違う。
仲間の命を盤上の駒として扱い、必要であれば幹部さえ切り捨てる。メフィストの残虐な行為を止めることもなく、むしろ恐怖と混乱を広げるために利用している。
フロストノヴァは通信端末を取り出し、チェルノボーグへ回線を繋ごうとした。呼び出し信号が何度か続いた後、返ってきたのは激しい雑音だけだった。
「父さん……」
通信の向こうにいるはずの父の姿を思い浮かべる。
タルラが自分を処分しようとしているのなら、パトリオットも安全とは限らない。彼もまた、タルラの変化へ疑念を抱き、それを隠そうとしていなかった。
今すぐチェルノボーグへ戻りたい。だが、そのためには龍門から生きて脱出しなければならない。
フロストノヴァは目を閉じ、短く息を吐いた。冷気が唇から白い霧となって漏れ、診療所の床へ薄い霜を広げる。
正規の撤退経路は塞がれ、感染者居住区には正体不明の黒い部隊が入り込んでいるファウストは重傷を負い、メフィストは戦力として数えられない。集まったレユニオン兵の多くも疲弊し、近衛局の包囲を正面から突破できる状態ではなかった。
残された選択肢は、ほとんどない。
その中で、フロストノヴァの脳裏に二つの緑色の巨体が浮かんだ。
チェルノボーグで、自分たちの仲間を庇った戦士。工業地区でレユニオン兵と戦いながら、逃げ遅れた母子を助けたと報告された巨人たち。
彼らがロドスと行動を共にしている以上、味方ではない。それでも、少なくとも話を聞かずに感染者を殺す者たちではなかった。
「工業地区へ向かう」
フロストノヴァが告げた。
「……何?」
「緑の巨人が二人、製鉄プラント周辺に展開している。彼らと接触する」
レユニオン兵たちから、一斉に反対の声が上がる。
「正気か! そいつらに、俺たちの仲間が何人殺されたと思っている!」
「自分から敵のところへ行くつもりか!?」
「捕まるか、その場で殺されるだけだ!」
だが、フロストノヴァは冷静に反論した。
「指定された経路へ進めば確実に近衛局と戦うことになる。それに、あの封鎖線をこちらの戦力では突破できない。黒い部隊に背後から襲われれば、退くこともできなくなる」
「だからといって巨人に助けを求めるのか! レユニオンの誇りはどうなる!」
「誇りでファウストの出血が止まるのか」
男が言葉に詰まる。
「誇りがあれば、負傷者を運んで近衛局の包囲を突破できるのか。ここにいる全員を生きてチェルノボーグへ帰せるのか」
「それは……」
「緑の巨人たちは、戦う意思のない者を無条件に殺してはいない。民間人を守り、投降した者を近衛局へ引き渡している。交渉できる可能性はある」
「可能性だけだろう!」
「そうだ」
フロストノヴァは否定しなかった。
「だが、指定された道に可能性はない」
診療所が静まり返る。
「私は工業地区へ向かう。スノーデビル小隊も同行する。メフィストとファウスト、歩けない負傷者を連れていく」
「タルラ姉さんの命令に逆らうの……?」
メフィストが顔を上げた。
ファウストの手を握ったまま、怯えと不信の混じった目でフロストノヴァを見ている。
「タルラ姉さんは、指定された道から撤退しろって言ったんだよ。別の場所へ行ったら、タルラ姉さんが……」
「その命令に従えば、ファウストは死ぬ」
メフィストの表情が固まる。
「近衛局との戦闘になれば、重傷者を守りながら突破することはできない。お前のアーツで無理に動かせば、傷がさらに悪化する」
「……嫌だ」
「なら黙ってついてこい」
メフィストはファウストへ視線を落とし、それ以上何も言わなかった。
フロストノヴァは周囲のレユニオン兵たちを見渡す。
「反対する者に、同行を強制するつもりはない。タルラから指定された撤退経路は分かっているはずだ。近衛局の大部隊へ挑みたい者は、好きに行けばいい」
彼女の言葉を受け、誰も動かなかった。
「どうした。レユニオンの誇りを示したいのだろう」
冷たく突き放すような言葉に、指揮官たちは互いの顔を見る。
近衛局の大部隊が待ち構える道へ、自ら進みたい者などいない。巨人に対する恐怖と不信はあっても、少なくとも工業地区には僅かな交渉の余地が残されている。
やがて、東部第三区から逃れてきた指揮官が肩を落とした。
「……分かった。俺たちも行く」
それに続き、他の部隊も渋々ながら同意する。
「負傷者を運ぶ担架を用意しろ」
同意したレユニオン兵達を目にし、フロストノヴァが命じた。
「動ける者は前後の警戒に回れ。レユニオンの紋章を隠し、近衛局の部隊と遭遇しても先に攻撃するな。黒い装束の部隊を見つけた場合は、戦闘を避けてすぐに報告しろ」
スノーデビル小隊が動き出す。
ファウストは簡易担架へ移され、メフィストはその脇から離れようとしなかった。診療所の周囲に集まっていた兵士たちも、重い足取りで隊列を作り始める。
フロストノヴァは一人、チェルノボーグのある方角を振り返った。龍門を囲む高層建築と炎に遮られ、その姿を見ることはできない。
(父さん……)
胸中で呼びかけても、答えは返らなかった。
フロストノヴァは不安を押し殺し、工業地区へ向けて歩き始めた。
黒蛇が用意した死地から逃れ、仲間を生きて帰すために。そして、一寸先に残された僅かな希望へ手を伸ばすために。
感染者居住区から離れた龍門上空を、一機のサンダーホークが飛行していた。
重い機体は高層建築の間を縫うように進み、主翼下の推進器が夜の空気を震わせている。装甲に覆われた機首の下では龍門の街路が流れ、各地で上がる炎と黒煙が、都市の照明へ混じっていた。
近衛局本部を発ったハルト、ヴァロクス、ブレイズの三人は、ミーシャ奪還作戦から帰還するドクターたちとの合流地点へ向かっていた。
操縦席にはヴァロクスが座り、機体の制御系へ神経接続を行っている。複数の補助腕が計器と操縦桿を操作し、機械眼にはサンダーホークの各種情報と龍門の地形が重ねて表示されていた。
後部の兵員区画では、ハルトが壁面の座席へ腰を下ろしている。
近衛局本部を離れる前に最低限の処置を受け、亀裂の入った胸部装甲の下には固定用の包帯が巻かれていた。骨折には至っていないものの、深い打撲によって呼吸の度に鈍い痛みが走る。
向かい側に座ったブレイズが、彼の胸元を見て眉を寄せる。
「本当に平気?」
「何度目だ、その質問は」
「ちゃんと答えないから何度も聞いてるんだけど?」
「痛みはあるが、動ける。医療班にも緊急性は低いと言われた」
「……さっきの機械男と同じこと言ってる」
「俺は実際に撃たれた本人だぞ」
「だから余計に信用できないの。訓練の時もそうだったけど、ハルトって動ける間は何でも大丈夫って言うでしょ?」
「ロドスのオペレーターも似たようなものだと思うが」
ハルトの言葉に、ブレイズは僅かに視線を逸らした。
「……まあ、それは否定しないけど」
近衛局本部での険悪な雰囲気は幾分薄れていたが、操縦席へ続く隔壁を見る彼女の目には、未だ不満が残っている。
「それにしても、あいつをこのまま自由にさせておいて大丈夫なの?」
「……ヴァロクスのことか」
「味方が撃たれるのを黙って観察して、敵の身体を撃ちながら兵器の効果を調べてた奴だよ? 次は何をするか分からないじゃん」
「命令には従う。少なくとも、閣下の指示を無視して勝手に動くことはない」
「そういう問題かな……」
「俺も信用しきった訳じゃないさ。だが、あいつの知識と技術が必要なのも事実だ。近衛局本部でメフィストのアーツを止められたのは、ヴァロクスが仕組みを見抜いたからだ」
ハルトは声を抑えた。
「だからって、何をしてもいいわけじゃない」
「まあ、それは俺も同じ意見だ」
サンダーホークが緩やかに旋回し、機体が僅かに傾く。
その時、ヴァロクスの内部通信装置へ秘匿された信号が届いた。
「暗号化通信を受信。発信者を照合――龍門近衛局、スワイヤー」
ヴァロクスは通常の機内回線から通信を切り離し、直接自身の聴覚処理装置へ接続する。
『機械男、聞こえる?』
「通信状態は良好。要件を述べよ」
『今から伝えることは、他の近衛局隊員には話さないで。チェンに直接伝えてほしいの』
「秘匿を要求する理由は」
通信の向こうで、スワイヤーが僅かに息を詰める。
『アナタたちが本部を発った後、ウェイ長官から新しい指示が来たわ』
「内容を記録する」
ヴァロクスの視界端で記録を示すルーンが点灯する。同時に操縦そのものは補助思考系へ割り振られ、演算能力の一部が通信内容の解析へ移された。
『感染者居住区に残っている近衛局部隊を、全て撤収させろと言われたの。周辺の避難路を封鎖して、一般人も近づけるなと』
「戦術的封鎖及び部隊再配置としては、不自然性は限定的である」
『最後まで聞いて。長官は、以後の処理は〈自分たち〉に任せろと言ったのよ』
その一言で、ヴァロクスの演算処理に新たな分岐が生じた。
機械眼に龍門近衛局の指揮系統が表示される。これまで提供された組織編成、各部隊の権限、龍門上層部との関係、現在確認されている部隊配置。それらが高速で照合され、複数の仮説が組み立てられていく。
「自分たち、との呼称が示す対象は確認したか」
『聞き返そうとしたけど、通信は一方的に切られたわ。近衛局の別部隊を派遣するとも、ロドスへ任せるとも言わなかった』
ヴァロクスの機械指が操縦桿を一定の角度で保持したまま静止する。
「命令は正規の指揮系統を経由しているか」
『ウェイ長官から直接よ。認証にも問題はないわ』
「近衛局以外に、感染者居住区へ展開する公的部隊の存在は」
『私の知る限りではない。だから不気味なのよ』
最後の一言だけ、スワイヤーの声から普段の強気さが薄れた。
『長官の言う自分たちが誰なのか分からない。それに、感染者居住区から近衛局を全て撤収させて、避難路まで封鎖するなんて……龍門の上層部が何を始めるつもりなのか、チェンにも共有しておきたいの』
「要求を理解した」
ヴァロクスは機械的な処理音を発しながら、推察を進める。情報の欠落部分を仮説で補いながら、最も整合性の高いものを選別する。
「提供された龍門の治安維持組織及び行政機構の情報には、現在の命令を実行する部隊が存在しない。近衛局の行動記録にも、該当する予備戦力の徴候は確認できない」
『つまり、どういうこと?』
スワイヤーの問いに対し、ヴァロクスは僅かな間を置いた。躊躇というよりは、推論を事実として誤認させないための単なる精度確認に近いものだった。
「龍門当局、またはウェイ・イェンウ個人の指揮下に、公式編成から秘匿された武装組織が存在する可能性が高い」
通信の向こうで、短い沈黙が生まれた。
『長官直属の秘密部隊……?』
「現段階では推察であり、存在を確定する証拠はない。しかし、近衛局を撤収させた後に別の主体が処理を引き継ぐならば、それを実行する人員が必要となる。感染者居住区の封鎖は、部外者による目撃と介入を防ぐ目的である可能性も考慮すべきだ」
『処理って、何をするつもりなのよ……』
今度の問いに含まれていたのは、疑問だけではなかった。スワイヤー自身、既にいくつかの可能性へ思い至っている。そのどれも口に出したくないからこそ、機械の男へ答えを求めているようにも聞こえた。
「情報不足により判定不能」
ヴァロクスは即答した。
「ただし、貴官が独自に調査を行うことは推奨しない」
『どうして?』
「貴官は近衛局本部において指揮権を有し、内部情報へ接触できる立場にある。その貴官が命令に疑念を持ち、独自に情報を収集していると龍門上層部に把握された場合、権限の制限、任務からの排除、拘束のいずれかが実行される可能性がある」
『私の立場が危うくなると?』
「肯定。秘匿部隊が実在するならば、その存在自体が高度な機密である。指揮官であっても、知る権限を持たない者が接近すれば脅威と見なされる」
スワイヤーはすぐには答えなかった。
普段ならば、機械のような物言いに反発していたかもしれない。しかし今は、ヴァロクスの指摘を軽く扱うことができなかった。
『……じゃあ、私はどうすればいいの』
「表面上は当局の指示に従え。部隊を撤収させ、避難路を封鎖する。ただし、命令の受信記録、撤収時刻、周辺部隊の配置、通信内容を全て保存せよ。独自の偵察部隊は派遣するな」
『見て見ぬふりをしろということ?』
「否定。情報を失わず、自身の立場を維持することを優先せよと提言している」
ヴァロクスの声に感情はなかったが、導き出した判断は明確だった。
「本件はオナーガード及びドクターへ共有する。政治、軍事、行政の観点から分析を行い、龍門当局の意図を解明する。ウルトラマリーン戦団のオナーガードは、この種の権力構造と秘匿行動の解析に適している」
『チェンにも伝えてくれるのね?』
「貴官の要求通り、本人へ直接伝達する。通信記録も保存済みだ」
『勝手に録音していたの?』
「情報伝達の正確性を確保するために必要な処理だ」
スワイヤーが溜息を漏らす。
『……まあ、今回はいいわ。私からの伝言だと分かるなら、その方が話は早いでしょうし』
「同意する」
『ヴァロクス』
「何か」
『助かったわ。ありがとう』
数秒の沈黙が流れた。
「謝意は不要。貴官の提供した情報には、高い分析価値がある」
『そういうところよ、アナタは』
「発言意図が不明瞭だ」
『もういいわ。チェンをお願い』
通信が切れるとヴァロクスは記録した音声を暗号化し、外部から接触できない内部記憶領域へ移した。
操縦席の後ろから、ブレイズが顔を覗かせる。
「今、誰と話してたの?」
隔壁から身を乗り出したブレイズの視線には、先ほどまでの雑談とは明らかに異なる警戒が宿っていた。
「秘匿情報に該当する。貴官への開示権限は設定されていない」
「またその言い方……こっちは同じ機体に乗って、一緒に行動してるんだけど?」
ブレイズが一歩操縦席へ近づく。しかしヴァロクスは振り向きさえせず、機首方位を微調整した。
「同一空間に存在することは、機密情報への接触権限を付与する根拠にならない」
「何か私たちに関係する話じゃないでしょうね」
僅かに険を帯びた問いにも、ヴァロクスの声調は一切変化しなかった。
「特別督察隊長本人への伝達を要求された情報だ。貴官に説明する必要性はない」
ブレイズの眉がつり上がる。
「さっきのこと、まだ根に持ってるわけ?」
「貴官の行動に対する評価と、情報秘匿は無関係だ」
ヴァロクスにとっては文字通り事実を述べただけなのだろう。しかし、それがかえってブレイズの神経を逆撫でした。
「その割に、随分と感じが悪いじゃん」
「通常状態との差異を否定する」
数秒の沈黙の後、ブレイズが呆れたように目を細めた。
「普段から感じ悪いって自分で認めてるの?」
後部座席でやり取りを聞いていたハルトが、深い溜息を吐いた。
「ブレイズ。スワイヤー警司がチェン特別督察隊長へ伝えてほしいと言った情報なら、今は聞かない方がいい」
「でも、こいつが勝手なことをしてないか気になるでしょ」
「サンダーホークを飛ばしながら、俺たちをどうこうする余裕はないだろう。それに、彼女へ伝えた後なら必要に応じて説明があるはずだ」
「ハルト伍長の判断を支持する」
「ほら、こういう時だけハルトの言葉を利用する」
「合理的な提言を合理的と評価したのみだ」
「ブレイズ、頼む」
ハルトに制止され、ブレイズは不満げに両腕を組む。
「……分かった。近衛局の隊長さんに話すまで待つ」
「了解。不要な追及の停止を確認」
「いちいち言い方が腹立つのよね……」
ヴァロクスは返答せず、サンダーホークの機首を僅かに下げた。
「合流地点へ接近。着陸態勢へ移行する。座席へ戻り、安全装置を固定せよ」
龍門の市街地を抜けた先に、広い運動場が見えてきた。
都市外縁部に設けられたその施設は、普段であれば近隣の学校や住民が利用する場所だった。周囲には低い観客席と照明塔が並び、中央には白線の引かれたグラウンドが広がっている。
今は臨時の集結地点として使用され、近衛局の装甲車両とロドスの輸送車が周辺に停車していた。
グラウンド中央には、ミーシャ奪還作戦から戻った部隊の姿がある。
チェン、ホシグマ、近衛局隊員たち。ロドスのドクターとアーミヤ、Ace、それに作戦へ参加したオペレーターたち。
サンダーホークの接近に気づき、近衛局隊員が空を見上げた。
「着陸地点を確認。周辺人員へ退避警告を送信」
ヴァロクスの操作に従い、サンダーホークがグラウンド上空で静止する。
下方へ向けられた推進器から熱風が噴き出し、地面の砂と細かな石を巻き上げた。近衛局隊員たちが顔を腕で庇いながら後退し、重い機体のために着陸場所を空ける。
着陸脚が地面へ接触すると、重量を受けたグラウンドが僅かに沈み、サンダーホークの巨体が低い駆動音と共に停止した。
後部ハッチが開くより早く、ブレイズは安全装置を外して立ち上がっていた。
「ハルト、行くよ」
「ああ」
ハッチが地面へ下りる。
二人は熱気の残る兵員区画から飛び出し、ドクターたちのいる場所へ駆けていった。
「ドクター!」
ブレイズの声に、黒い外套を纏ったドクターが顔を上げる。
その傍らに、アーミヤが立っていた。
身体に目立った傷はない。衣服には戦闘の埃が付き、指先には乾いた血が僅かに残っていたが、自分自身が重傷を負っているようには見えなかった。
それでも、普段の彼女とは明らかに様子が違う。
長い耳は力なく垂れ、視線は地面へ向けられている。胸元で組まれた両手は微かに震え、ブレイズたちが近づいても、すぐには顔を上げなかった。
「アーミヤCEO……」
「ウサギちゃん、大丈夫?」
ハルトとブレイズが足を緩めながら、アーミヤに声を掛ける。
「……ブレイズさん、ハルトさん」
アーミヤは僅かに顔を上げた。
返事をしようとした唇が動く。しかし声は続かず、やがて小さく頷くだけで再び俯いた。
ハルトはドクターへ視線を向ける。何があった、と問いかけようとして、やめた。
ミーシャの保護に失敗したこと、アーミヤの精神状態が芳しくないこと。通信で伝えられた二つの事実と、目の前にいる彼女の姿だけで、作戦中に何か取り返しのつかないことが起きたのだと察するには十分だった。
「……近衛局本部は奪還した。レユニオンの幹部と狙撃部隊には逃げられたが、本部内に残った敵兵の大部分は動きを止めた。スワイヤー警司も無事だ」
ハルトは作戦結果だけを伝えた。
「そうですか……」
アーミヤは弱々しく答える。
「皆さんが、無事で……よかったです」
ブレイズは彼女の肩へ手を置いた。
いつもであれば、何があったのかを聞いていたかもしれない。だが今は、無理に言葉を引き出すべきではないと分かった。
「そっか。なら、今はそれでいいよ」
ブレイズは普段よりも穏やかな声で告げる。
「話したくなった時に聞かせて。今はちゃんと休んで」
「……はい」
アーミヤがもう一度頷く。
Aceは少し離れた場所からその様子を見守っていた。彼の装備にも戦闘の跡が残り、近くには負傷したオペレーターが座り込んでいる。誰もが消耗していたが、アーミヤを一人にしないよう、それぞれが一定の距離を保っていた。
遅れて、サンダーホークの前部ハッチからヴァロクスが現れた。
赤い外套を夜風になびかせ、金属製の脚部でグラウンドへ降り立つ。周囲を一瞥した複数の機械眼が、負傷者の数、部隊の配置、アーミヤの生体反応を順番に読み取った。
彼はドクターたちへ近づかなかった。
機械眼が捉えたのは、近衛局部隊の中央にいるチェンだった。
チェンは部下から作戦報告を受けながら、持ち帰られた装備と負傷者の移送を指示している。表情は厳しく保たれていたが、その手は刀の柄を強く握り締めていた。
ヴァロクスは彼女へ向け、一直線に歩き始める。
周囲の近衛局隊員が、赤い外套の機械兵へ気づいた。
「止まれ」
一人が前へ出て進路を塞ぐ。
「チェン警司は現在、作戦指揮中だ。要件があるなら、まずこちらへ――」
「本人への秘匿情報伝達を要求する」
「何だと?」
別の隊員も武器へ手を伸ばした。
近衛局本部を救援した味方であることは把握している。それでも、機械腕と異様な装備を持つヴァロクスが、何の説明もなく指揮官へ近づく光景を見過ごすことはできなかった。
ホシグマが二人の間へ入る。
「申し訳ありませんが、ここから先は小官が要件を確認します。チェン隊長へ直接伝える必要があるのなら、その理由を説明して頂けますか」
「発信者スワイヤーより、チェン・フェイゼ本人への直接伝達を要求されている。第三者への開示は許可されていない」
「そう言われましても――」
「構わない」
チェンの声が、ホシグマの背後から聞こえた。
「……隊長」
「スワイヤーからの伝言なら、私が直接聞く。武器を下げろ」
近衛局隊員たちは躊躇しながらも従い、道を開ける。
ヴァロクスはチェンの前で停止した。
「チェン警司、スワイヤー警司より秘匿情報を受領した」
「……内容は」
「音声記録を再生する。周囲の人員を遠ざけよ」
チェンはホシグマへ視線を向ける。
「ホシグマ、少し離れていろ」
「ですが――」
「すぐ近くにいればいい。何かあれば呼ぶ」
「……承知しました」
ホシグマは完全には納得していない様子だったが、他の隊員を連れて数歩下がった。
ヴァロクスの赤い外套の中から、機械の駆動音が聞こえる。
姿を現したのは、人間の頭蓋骨を加工して作られたサーボスカルだった。眼窩には小型の光学装置が埋め込まれ、頭蓋骨の後部から伸びる安定翼と反重力装置が青白い光を放っている。下顎を失った骸骨は空中を漂い、チェンの顔のすぐ横まで近づいた。
チェンの眉が動く。
「……もう少し普通の方法で再生できないのか」
「サーボスカルは情報記録、通信補助、周辺警戒を同時に実行可能な、効率的かつ祝福された機械である」
「そういう説明を求めたわけではないのだが」
「再生を開始する」
チェンの不快感を無視し、サーボスカルの眼窩にある発光部が明滅した。
直後、スワイヤーの声が小さなスピーカーから流れる。
『感染者居住区に残っている近衛局部隊を、全て撤収させろと言われたの。周辺の避難路を封鎖して、一般人も近づけるなと』
音声にはヴァロクスとの会話が、そのまま記録されている。
『最後まで聞いて。長官は、以後の処理は〈自分たち〉に任せろと言ったのよ』
チェンの表情が変わる。
人間の骸骨が近くに浮かんでいることへの不快感は消え、意識の全てがスワイヤーの言葉へ向けられた。
『長官の言う自分たちが誰なのか分からない。それに、感染者居住区から近衛局を全て撤収させて、避難路まで封鎖するなんて……龍門の上層部が何を始めるつもりなのか、チェンにも共有しておきたいの』
再生が終わる。
サーボスカルはチェンの顔から離れ、ヴァロクスの肩の上へ戻った。
「……ウェイ長官からの命令で間違いないのか」
「認証上の異常は存在しないと、スワイヤー警司は証言している」
「感染者居住区に残っている近衛局を、全て撤収させる……」
チェンは感染者居住区の方角へ視線を向けた。
都市の建物に遮られ、ここから状況を見ることはできない。それでも、ウェイが何の理由もなく近衛局を引き上げさせるとは思えなかった。
「お前はどう考えている」
「龍門当局、またはウェイ・イェンウ直轄の秘匿武装組織が存在する可能性が高い」
ヴァロクスはスワイヤーへ伝えた分析を繰り返す。
「近衛局を撤収させ、周辺の避難路を封鎖した後、該当組織が感染者居住区へ展開する。通常の治安維持活動ではなく、外部の目撃を避ける必要がある行動を予定している可能性がある」
「何をするつもりだ?」
「情報不足により判定不能。ただし、処理との表現から、人員の救出及び保護を目的とした行動である可能性は低いと推測する」
チェンの手が刀の柄へ触れる。
その動きを、ヴァロクスの機械眼が捉えた。
「提言。貴官も独自の調査を控えるべきだ」
チェンが鋭い視線を向ける。
「何故だ」
「貴官は龍門近衛局の特別督察隊隊長であり、感染者居住区における作戦行動へ関与する権限を持つ。同時に、上層部の意図に反して動いた場合、最も早く排除対象となる立場でもある」
「私に何も見るなと言うつもりか」
「自身の権限を維持し、情報収集経路を失わないことを優先せよと提言している。貴官が単独で行動すれば、秘匿組織の実在を確認する前に拘束または指揮権を剥奪される可能性がある」
「だから、後はお前たちに任せろと?」
「本件はオナーガード及びドクターへ共有する。オナーガードは軍事指揮のみならず法治、外交、行政機構に関する高度な知識と経験を持つ。彼による分析を実行し、ロドスと共同で龍門当局の意図を解明する」
チェンは黙ってヴァロクスを見つめた。
数秒の沈黙の間にも、周囲では負傷者が運ばれ、近衛局隊員が次の命令を待っている。アーミヤはドクターとブレイズに付き添われ、グラウンドの端に停車したロドスの車両へ向かっていた。
「……断る」
チェンが答え、ヴァロクスの機械眼が明滅する。予測していた返答候補の一つではあったが、その確率は決して高く設定されていなかった。
「理由の説明を要求する」
「ここは龍門だ。感染者居住区にいる者も、龍門で暮らしている。近衛局が撤収した後で何が行われるのか、私には確認する責任がある」
チェンは感染者居住区のある方角から視線を戻し、真正面からヴァロクスを見据えた。
「貴官の感情及び責任感は、上層部による排除の可能性を低下させない」
「私に何も見るなと言うつもりか」
低くなった声と同時に、チェンの指が無意識に刀の鍔へ触れる。
「自身の権限を維持し、情報収集経路を失わないことを優先せよと提言している。貴官が単独で行動すれば、秘匿組織の実在を確認する前に拘束または指揮権を剥奪される可能性がある」
「だから、後はお前たちに任せろと?」
「本件はオナーガード及びドクターへ共有する。オナーガードは軍事指揮のみならず法治、外交、行政機構に関する高度な知識と経験を持つ。彼による分析を実行し、ロドスと共同で龍門当局の意図を解明する」
チェンは黙ってヴァロクスを見つめた。
数秒の沈黙の間にも、周囲では負傷者が運ばれ、近衛局隊員が次の命令を待っている。アーミヤはドクターとブレイズに付き添われ、グラウンドの端に停車したロドスの車両へ向かっていた。
ここで機械兵の提案を受け入れれば、安全ではある。少なくとも自分の立場を失う危険を冒さず、ヴァレリウスたちが調べた結果を待つことはできる。だが、それはチェンにとって、自分が守ると決めた都市で起ころうとしていることを他人へ委ねるという意味でもあった。
「……断る」
改めて発せられた声には、先ほど以上にはっきりとした意思が宿っており、チェンは一歩も退くつもりはなかった。
「合理的判断ではない」
「合理的かどうかは、お前が決めることではない」
言葉を遮るように、チェンが言い切った。
「私は近衛局の警司だ。長官の命令であろうと、その結果として龍門の住民が危険に晒される可能性があるなら何も知らないまま従うつもりはない」
ヴァロクスの機械眼が微細に収縮する。人間であれば険しい表情を浮かべていたのかもしれないが、金属の顔から感情を読み取ることはできない。
「権限を失えば、住民を保護する能力も失う」
「だから無謀に飛び込むとは言っていない。だが、お前たちだけに全てを任せて、結果を待つつもりもない」
ヴァロクスは沈黙した。
内部演算装置がチェンの発言と行動傾向を照合する。彼女が警告だけで引き下がる可能性、単独で感染者居住区へ向かう可能性、情報を共有した場合に得られる利益と危険性。感情論として切り捨てるのは容易だったが、チェンが近衛局内部に持つ権限と情報網そのものには利用価値がある。
機械眼の奥で、複数の演算結果が更新された。
「……貴官の提案を再定義する」
「何だ」
チェンが訝しげに眉を寄せる。
「相互の情報交換を維持し、共同で龍門当局の意図を解析する。貴官は入手した命令、部隊配置、上層部の動向を秘匿せず、オナーガード及びドクターへ共有する。我々も分析結果及び新規情報を貴官へ提供する」
「私に勝手な行動をするなという条件つきか」
チェンはすぐにヴァロクスの意図を読み取った。
「単独行動は非効率的かつ危険である。感染者居住区へ向かう場合、事前に情報を共有し、戦力を確保せよ」
「お前たちも同じだ。ロドスやヴァレリウスが何かを掴んだ場合、私に知らせろ。龍門内部で勝手に調査を進め、後から結果だけを伝えることは認めない」
今度はヴァロクスが答えるまでに、ごく短い演算の間が生じた。
チェンはロドスの人間ではなく、まして帝国の指揮系統にも属していない。それでも現地の治安機構を無視して行動するより、情報源として維持した方が効率的であるという結論は変わらなかった。
「要求を受理。相互情報共有を前提とした共同調査に同意する」
「なら決まりだ」
チェンはようやく刀の柄から手を離した。
「まずスワイヤーに、長官の命令へ従うよう伝える。だが、撤収した部隊から現地の状況を聞き、命令が出された時刻と上層部の動きを調べる。それくらいなら問題はないと思うが?」
「直接的な秘匿区域への接近を伴わない情報収集であれば、危険性は許容範囲内と判断する」
「お前の許可を求めたつもりはない」
チェンの眉間に再び皺が寄る。
「発言形式が疑問形であったため、回答した」
「…………そうか」
何か言い返そうとしたチェンだったが、結局それ以上は追及しなかった。機械兵相手に言葉の機微を論じても無駄だと判断したらしい。
「ヴァレリウスには、いつ伝える」
「通信可能状態を確認後、即時。ドクターへの共有は、CEOの精神状態及び現在の作戦指揮状況を考慮し、適切な時点を選択する」
「分かった。私にも経過を伝えろ」
「了解」
ヴァロクスの肩の上で、サーボスカルの眼窩が青白く光る。
チェンはもう一度、感染者居住区の方角を見た。
ウェイの命令、近衛局の撤収、避難路の封鎖。そして、正体を明かされないまま処理を引き継ぐ、何者か。龍門を守るための命令である可能性は残されている。それでも、そのために何が犠牲にされようとしているのかを知らずに、従うことはできなかった。
「ホシグマ」
チェンが呼ぶと、少し離れた場所で待機していたホシグマがすぐに近づいてくる。
「お呼びでしょうか」
「スワイヤーとの回線を繋げ。近衛局本部と感染者居住区から撤収した部隊の記録を確認する」
「承知しました。何かあったのですか?」
チェンは一瞬だけヴァロクスを見る。
「まだ分からない。だから、これから確かめる」
短く答え、運動場に設置された臨時指揮所へ歩き始める。
ヴァロクスも赤い外套を翻し、その後へ続いた。