ヴァレリウスとの通信が途切れると、廃工場の内部には機械の低い唸りと、負傷者たちの押し殺した呻き声だけが残された。
壁際に並べられた簡易担架の上では、戦闘で傷ついたレユニオン兵たちが身を横たえている。割れた窓から入り込む夜風は、錆と煤に染みついた工場の臭いを僅かに揺らし、その中へ血液と消毒薬代わりの酒精の匂いを混ぜていた。
ダキールは通信装置から手を離し、周囲へ視線を巡らせた。
「ヴァレリウスは、お前たちの一時的な保護を認めた」
その言葉にフロストノヴァは僅かに息を吐いた。周囲のスノーデビル小隊やレユニオン兵からも、安堵とも戸惑いともつかない気配が漏れる。
「ただし、決定権は俺たちだけにあるわけではない。ロドスのドクターにも話を通す必要がある」
「分かっている」
「それまではここを動くな。武器も、必要がない限り構えるな」
ダキールの機械処理された声には、疑念を挟む余地のない重さがあった。
レユニオン兵の何人かが不満げに顔を動かしたものの、反論する者はいなかった。工業地区で彼が何をしたのか、その場にいた兵士から既に聞かされている。矢を受けても傷一つ負わず、巨大な鎚で武装した者たちを粉砕した緑色の巨人へ、今さら武器を向けようとする者はいなかった。
トゥシャンが廃工場の出入り口へ顔を向ける。
「私たちは一度、近衛局の前へ姿を見せる」
フロストノヴァが彼を見る。
「……何故だ」
「我々はレユニオンの残党を捜索していることになっている。揃って長時間姿を消せば、近衛局に不審を抱かれる。この場所へ彼らの注意が向く事態は避けなければならない。長くは離れん」
ダキールはアサルトキャノンの弾倉を確認し、背部へ固定したサンダーハンマーへ手を伸ばした。武器を置いていく気はないらしい。
「何かあれば、すぐに通信を入れろ。近衛局に見つかった場合は抵抗するな。俺たちが戻るまで話を引き延ばせ」
「お前たちは、近衛局と戦わないのか」
フロストノヴァの問いに、トゥシャンが答える。
「彼らは現在の協力者だ。こちらから敵対する理由はない」
「仮に、私たちを引き渡せと言われても?」
僅かな沈黙が生まれた。
「その時は、ヴァレリウスとドクターの判断を仰ぐ。だが、少なくとも彼らの判断が下されるまで我々は一度保護した者を見捨てるつもりはない」
トゥシャンの返答は慎重であり、フロストノヴァは何も言わなかった。
トゥシャンはそれ以上の説明をせず、ダキールと共に廃工場を出ていく。二つの巨体が鋼鉄製の扉を潜り、装甲靴の足音が徐々に遠ざかっていった。
完全に音が聞こえなくなると、工場内にいたレユニオン兵の一人が小さく呟いた。
「本当に……行ったのか」
「ああ、そのようだな……」
「俺たちを、ここへ残して?」
別の兵士が、閉ざされた出入り口へ疑わしげな目を向ける。
「近衛局に売るつもりじゃないのか。俺たちを一か所に集めておいて、あとは連中に場所を教えれば済む」
「そのつもりなら、ここへ連れてくる必要がない」
スノーデビル小隊の隊員が反論する。
「工業地区で武器を捨てさせ、近衛局へ引き渡せばよかった。あの二人なら、私たち全員を力ずくで拘束できる」
「なら何故だ。こっちは奴らの仲間と何度も戦っているんだぞ」
答えられる者はいなかった。
ダキールとトゥシャンの判断は、レユニオン兵にとってあまりにも理解しがたいものだった。数時間前まで敵として武器を向け合っていた者たちを、所属ではなく行いによって判断すると告げ、ほとんど見返りも求めず保護を受け入れた。
戦場で敵を粉々にした同じ手で、負傷した感染者を支え、雨風を凌げる場所へ運んだ。その矛盾は、彼らの基準を知らない者には不可解にしか映らない。
「緑の巨人は、前にもそうだった。彼等はチェルノボーグでレユニオン兵を庇っている。少なくとも、敵であるという理由だけで命を奪う者たちではない」
フロストノヴァが静かに言った。
「それでも――」
兵士が言葉を続けようとしたその時、何かが空気を切った。
それはごく小さな音であり、金属の軋みと負傷者の呼吸に紛れほとんどの者はそれを聞き取ることができなかった。
話していたレユニオン兵の首元に、赤い線が浮かび上がる。
「――え?」
男が自分の喉へ手を当てた。
次の瞬間、指の隙間から血が噴き出した。
切断された頸動脈から飛び散った鮮血が隣の兵士の顔を濡らす。男は何が起きたのかも理解できないまま膝をつき、喉から空気の漏れる音を立てて床へ倒れ込んだ。
「敵襲!」
スノーデビル小隊の一人が叫ぶ。
戦闘可能な者たちが一斉に武器を構え、負傷者を守るように円陣を作った。弩兵が窓へ照準を向け、術師が源石を握り締める。
だが、薄暗い廃工場の中に動く者は見当たらない。
錆びついた加工機械。長年使われていない搬送設備。天井から垂れ下がる鎖と、半ば崩れた作業用の足場。窓の外にも人影はなかった。
「どこだ!?」
「外から撃たれたのか!」
「違う、傷が深すぎる!」
倒れた兵士の首には、刃物で切り裂かれたような傷が残っている。
フロストノヴァはその場から動かず、工場全体へ意識を広げた。冷えた空気の流れと人間の呼吸が生み出す微かな熱。
(天井付近で、何かが揺れている……?)
彼女はゆっくりと顔を上げた。
照明の消えた天井近くに、物資運搬用のリフトが停止している。その鉄骨の上に、闇とほとんど見分けのつかない黒い人影が数体、身体を低くしていた。
顔も装備も、全てが黒い布に覆われている。
その一人の手には細いワイヤーが握られ、先端に取りつけられた薄い刃から血液が滴っていた。
「上だ!」
フロストノヴァが叫ぶ。
弩兵が反射的に矢を放つ。
だが黒い影は、矢が届くより早くリフトから身を投げ出した。落下する途中で天井の鉄骨へワイヤーを射出し、振り子のように軌道を変える。
矢は空を切り、天井へ突き刺さった。
別の黒い人影が、工場の奥にある出入り口の前へ音もなく降り立つ。それと同時に、正面の鋼鉄製扉にも外側から閂の下りる音が響いた。
側面の通用口。
崩れかけた搬入口。
屋根へ通じる整備階段。
全ての逃げ道に、黒い装束の者たちが姿を現す。
フロストノヴァは通信端末を取り出した。
「ダキール、聞こえるか。こちらは――」
だが、耳元に返ってきたのは激しい雑音だった。
回線を変えるが、反応はない。
周囲に散らばった黒い装束の一人が、腰につけた小型の機器へ触れている。そこから発せられている不可視の妨害波が、工場周辺の通信を遮断していた。
「お前たちが、感染者居住区で虐殺をしていた部隊か」
フロストノヴァの問いに、黒い装束の者たちは答えなかった。
ただ武器を抜き、負傷者たちを囲む円を徐々に狭めていく。
湾曲した短刀や細い長剣、投射器のついた鋼線。どの武器にも、所属を示す紋章は刻まれていない。それでも、彼らの動きには明確な統率があった。互いに声を交わすことなく、誰がどの方向から攻撃し、誰が退路を塞ぐのかを理解している。
「負傷者を中央へ!」
スノーデビル小隊が動いた。
「術師は上を見ろ! ワイヤーを張らせるな!」
冷気を纏ったアーツが天井へ放たれる。
鉄骨へ薄い氷が広がり、ワイヤーを固定していた黒い装束の者が体勢を崩した。そこへレユニオンの弩兵が矢を放つ。
黒い人影は片腕をワイヤーへ絡ませたまま身体を捻り、矢を外套の端に掠めさせながら着地した。
別の影が頭上を通過する。
天井から斜めに張られた鋼線を滑り降り、円陣の内側へ飛び込んできた。
「来るぞ!」
盾を構えたレユニオン兵が前へ出る。
黒い装束の者は盾へ正面からぶつからなかった。踏み込む直前に鋼線を巻き取り、身体を横へ跳ねさせる。そのまま壁面を二歩駆け、盾兵の頭上を越えた。
刃が閃き、盾兵の背後にいた術師の胸部が切り裂かれて血飛沫が工場の床へ散った。
振り返った盾兵が武器を振るうより早く、黒い影は再びワイヤーに引かれて宙へ逃れる。
「止まれぇっ!」
レユニオン兵が矢を連射する。
しかし、黒い装束の者たちは地面を走らない。天井、壁面、放置された機械の上を次々に移り、常に異なる角度から攻撃を仕掛けてくる。
ワイヤーが床近くを走り、一人の兵士の足首へ巻きついた。
身体が勢いよく引かれ、男が仰向けに倒れる。そのまま円陣の外側へ引きずり出され、待ち構えていた別の黒蓑が喉へ刃を突き立てた。
一人、また一人と負傷者を守っていた者たちが、ほとんど反撃することもできずに斃れていく。
「固まるな! 奴らに狙いを絞らせる!」
フロストノヴァが冷気を放つと、床の上を白い霜が走り、ワイヤーの一本を凍りつかせた。動きを阻害された黒い装束の者へ、スノーデビル小隊が集中攻撃を加える。
氷の槍が外套を貫き、相手の身体を背後の壁へ縫いつけた。
だが、残った者たちは仲間を助けようともしなかった。倒れた者を無視し、負傷者の中央へ向けて攻撃を続ける。
彼らの目的は制圧でも拘束でもなく、この場所にいる感染者を、一人残らず殺すことだった。
「ファウスト……」
メフィストは簡易担架の横で身を縮めていた。
周囲で何人倒れようと、彼の目はファウストから離れない。メフィストのアーツによって無理に立たされていた兵士たちもいない今、彼自身には敵の接近を防ぐ術がほとんどなかった。
頭上から、黒い影が落ちてくる。
短刀の切っ先がメフィストの首へ向けられていた。
「メフィスト!」
ファウストが叫ぶ。
動かない右腕を胸元へ抱えたまま、左手だけで外套の内側から小型の弩を引き抜いた。
既に弦は引かれ、矢が装填されているが、照準を合わせる時間はなかった。
ファウストは担架から半身を起こし、ほとんど感覚だけで引き金を絞る。
放たれた矢が黒い装束の肩へ突き刺さった。
身体を回転させながら落下していた相手の軌道が崩れ、短刀がメフィストの頬を浅く切って床へ突き立つ。
「伏せろッ!」
ファウストがメフィストを左腕で引き寄せる。
その直後、別の黒い装束が機械の陰から現れた。ファウストは反応したが、負傷した身体では避けきれなかった。長剣の刃が彼の腰を横切り、衣服と肉が裂けて血が担架の上へ広がった。
「ぐっ……!」
ファウストの身体が崩れ落ち、メフィストが彼を抱き留めた。
「ファウスト……? ファウスト!」
「騒ぐな……傷は、浅い」
そう答えた声には力がなかった。
ヴァロクスに撃ち抜かれた腕からの出血だけでも、ファウストの身体は限界に近づいている。新たに腰へ負った傷は内臓まで達していないものの、戦闘を続けられる状態ではなかった。
黒い装束の者が倒れた二人へ再び刃を向けた瞬間mその足元が白く染まった。
相手が異変へ気づいた時には、両脚が膝まで氷に包まれていた。
「私の前で、これ以上仲間へ触れるな」
フロストノヴァの声と共に、工場内の温度が急激に低下した。
彼女の周囲を白い粒子が渦巻く。
吐き出される息が瞬時に凍り、床に溜まった血液の表面へ薄氷が広がる。錆びついた機械が軋み、天井から垂れ下がる鎖に霜が纏わりついた。
黒い装束の者たちが、一斉に距離を取ろうとする。
フロストノヴァは両手を広げた。
解き放たれた冷気が、工場の一角を呑み込む。
床から巨大な氷柱が突き上がり、放置されていた加工機械ごと通路を塞いだ。鉄骨へ張られたワイヤーが凍結して次々と断裂し、天井を移動していた黒い装束の者たちが足場を失う。
二人が氷壁へ巻き込まれ、腰から下を凍りつかされた。
別の一人は寸前で飛び退いたものの、外套の端が氷に捕らえられる。迷うことなく布を刃で切り落とし、機械の陰へ身を隠した。さらには工場の壁が冷気に耐えられず、内側から大きく亀裂を走らせる。
閉鎖された区画全体に、急激な温度低下が広がっていった。
この規模のアーツを使えば遠巻きにでも確実に近衛局捉えられ、隠れている意味は失われる。それでも、ここで力を惜しめば仲間たちは全員殺される。
「立てる者は負傷者を運べ!」
フロストノヴァが叫んだ。
「西側の壁を破る。黒い装束を相手にするな。脱出を優先しろ!」
スノーデビル小隊がファウストの担架へ駆け寄る。メフィストは血に濡れた手で彼の腰を押さえながら、担架の脇から離れようとしなかった。
「ファウスト、目を開けてよ。僕を見て。死んだら駄目だ。君までいなくなったら、僕は……」
「まだ……死んでいない」
ファウストは荒い呼吸の合間に答える。
フロストノヴァは西側の壁へ片手を向けた。氷が煉瓦と鉄板の隙間へ入り込み、急速に膨張して轟音と共に壁の一部が外側へ崩れた。
外の空気が吹き込み、その向こうに工場地帯の細い裏道が姿を現す。
「行け!」
生き残ったレユニオン兵たちが、負傷者を支えながら穴へ殺到する。
その背後で、氷に閉ざされた黒い装束の者たちが刃を振るい始めていた。表面へ亀裂が走り、凍結した足場が少しずつ砕かれていく。
足止めできる時間は長くない。
フロストノヴァは最後まで工場内に残り、仲間たちが脱出するのを見届けながら、再び冷気を集めた。
その頃、ダキールとトゥシャンは工業地区外周に設けられた近衛局の臨時検問所へ姿を見せていた。製鉄プラント周辺の戦闘は既に終息し、道路には武器を取り上げられたレユニオン兵が座らされている。近衛局隊員と地区警察が負傷者の移送を進め、その向こうでは、炎上した倉庫に向けて消防部隊が放水を続けていた。
「北側の廃工場群を確認した。小規模な戦闘の痕跡はいくつか発見したが、現在活動中のレユニオン部隊は確認していない」
トゥシャンの報告を受け、近衛局の現地指揮官は二人の巨体を見上げながら頷いた。
「ご協力に感謝します。封鎖区画については当局が引き継ぎますので、お二人は引き続き、主要道路へ逃れた残党の捜索をお願いします」
「了解した」
ダキールが短く答えて踵を返す。報告そのものは数分で終わり、二人は近衛局の視界から離れると、先ほど通ってきた大通りではなく、フロストノヴァたちを待たせている廃工場へ続く裏路地へ進路を変えた。
「通信はどうだ」
「依然として応答がない。周波数を変えても同じだ。工業設備による干渉ではなく、意図的に遮断されている可能性が高い」
トゥシャンの兜内部では、複数の周波数を用いた呼び出しが繰り返されていた。しかし、フロストノヴァたちからの返答はなく、返ってくるのは不規則な雑音だけだった。
「急ぐぞ」
ダキールが歩調を速め、トゥシャンも続く。
二人が建物の間に挟まれた細い裏路地へ入った時、前方の屋根から黒い人影が音もなく降り立ち、それとほぼ同時に背後からも複数の足音が響いた。
黒い装束を纏った者たちが、路地の両端と周囲の屋根を塞いでいる。全員が刃物や鋼線を射出する器具へ手を添えていたものの、武器を二人へ向けてはいなかった。攻撃の意思を明確に見せないまま、廃工場へ続く進路だけを封じている。
「何者だ」
ダキールがアサルトキャノンの砲身を僅かに持ち上げると、正面に立つ黒い装束の男が抑揚のない声で答えた。
「龍門当局の命令を執行する者だ。貴官らは龍門の敵性勢力を不当に庇護している。ただちに保護を中止し、対象の所在を明らかにされたい」
トゥシャンの機械眼が僅かに明滅した。フロストノヴァたちの存在は、既に当局側へ知られている。それも、近衛局とは異なる情報経路を通じて把握されているらしい。
「所属を示せ」
「回答の必要はない」
「我々は龍門近衛局及びロドスと共同作戦中だ。正規の命令であるなら、確認可能な識別情報を提示せよ」
「貴官らに開示する権限はない」
黒い装束の者たちは依然として攻撃を仕掛けず、道を開ける様子も見せなかった。その意図を察したダキールの声が低くなる。
「退け。一度だけ言う、俺たちの進路を塞ぐな」
「敵性勢力の庇護を中止せよ」
「彼らは我々の保護下にある。少なくとも、ヴァレリウスとドクターの判断が下されるまで、貴様らに引き渡すつもりはない」
「それは龍門当局への敵対行為と見なされる可能性がある」
ダキールが一歩踏み出すと、黒い装束の者たちは即座に散開し、路地の壁面と屋根へ配置を変えた。刃先こそ向けていないものの、鋼線の射出器にはいつでも作動できるよう指が掛けられている。
「……ダキール」
トゥシャンの制止に、ダキールは苛立ちを押し殺しながら答えた。
「分かっている」
目の前の者たちを排除するだけなら難しくない。
アサルトキャノンを放てば路地ごと薙ぎ払うことができ、トゥシャンがカタフラクティ型ターミネーター・アーマーの重量を乗せて突進すれば、包囲など数秒で崩壊する。
だが、それを実行すれば龍門側の戦力へ危害を加えたことになる。
正体を明かさず、近衛局の指揮系統に属している証拠も示さないとはいえ、彼らは龍門当局の命令で動いていると明言していた。ここで血を流せば、ヴァレリウスたちと龍門との協力関係そのものを破壊しかねない。
黒い装束の者たちは、その事情を理解していた。攻撃を仕掛ければアスタルテスから反撃を受けるが、進路を塞ぐだけなら、二人は容易に手を出せない。相手はダキールたちの立場を利用し、時間だけを奪おうとしていた。
その時、トゥシャンの兜内部に周辺温度の異常を告げる警告が表示された。
廃工場のある方角から、自然現象ではあり得ない速度で冷気が広がり始めている。建物の隙間を抜けてきた風には細かな氷晶が混じり、工場群の奥では、白い霧が夜空へ向けて立ち昇っていた。
「ダキール」
「ああ、俺にも分かる」
フロストノヴァがアーツを使った。それも、周囲への露見を避けられない規模で。
「……あそこでは何が起きている」
トゥシャンが黒い装束の者へ問いかけたが、返された声に感情はなかった。
「貴官らが知る必要はない」
「我々は負傷者を保護している。その者たちへの攻撃を行っているのか」
「敵性感染者の処理は、龍門当局の内政に属する」
その言葉を聞いた瞬間、ダキールの手が背部のサンダーハンマーへ伸びた。
鎚頭に組み込まれた回路が淡く輝き、起動しかけた破壊力場が空気を低く震わせる。
「奴らは武器を置いた! 負傷して動けぬ者まで敵と呼ぶのか!」
機械処理された怒声が狭い路地を揺らした。黒い装束の者たちは身構えたものの、先に攻撃しようとはしない。
「ダキール、抑えろ」
「分かっていると言った!」
ダキールはハンマーから手を離したが、その巨体から発せられる怒気は隠しようがなかった。彼が理性を保っているうちに、トゥシャンが正面の黒い装束を見据える。
「我々は龍門と敵対する意思を持たない」
「ならば、ここで待機されたい」
「だが、一度保護下に置いた者を見捨てるつもりもない」
両者の間に、刃物よりも鋭い緊張が走った。
黒い装束の者たちは攻撃せず、ダキールとトゥシャンも龍門との関係を考えれば武力を行使できない。その膠着が続く間にも、廃工場の方角から漂う冷気は濃くなり、夜空へ昇る白い霧の量も増していた。
東部第三区では、戦闘の音が急速に減りつつあった。
レユニオンの主要部隊は既に撤退し、残されたのは統率を失った小集団だけとなっている。近衛局は主要道路を封鎖したうえで建物を一つずつ確認し、負傷者と投降者の回収を進めていた。
アイゼンヴァルトは近衛局から指示された区域の東端を、単独で進んでいた。黒いパワーアーマーには血液と煤がこびりつき、右手のチェーンソードにも戦闘の跡が残っている。回転を止めた鋸歯から赤黒い液体が滴り、彼が一歩進む度に、石畳へ小さな染みを作った。
道の先には、整備された市街地とスラム街を隔てる境界がある。高層建築はそこで途切れ、代わりに老朽化した住居と廃材で作られた小屋が並び始めていた。街灯の多くは消え、通りには燃え残った荷車や、逃げる途中で捨てられた家財道具が散乱している。
その路地の奥で人影が動いたため、アイゼンヴァルトはチェーンソードを起動した。低い駆動音と共に鋸歯が回転を始めると、建物の陰から一人のレユニオン兵が姿を現した。
若い男だった。鎧は裂け、片脚から血を流している。両手で握った鉈は激しく震え、構えも完全に崩れていたが、その背後には十数人の感染者が身を寄せ合っている。老人や負傷した女性、幼い子供もおり、誰もレユニオンの武器や装備を身につけていない。スラム街から逃げ遅れた住民であることは明らかだった。
「来るな……」
男は彼らを庇うように立ち、掠れた声を絞り出した。
「こいつらは戦っていない、レユニオンじゃない。俺だけでいい……彼らには手を出すな」
アイゼンヴァルトは震える兵士を見下ろし、チェーンソードを構えたまま命じた。
「武器を捨てろ」
「何?」
「オナーガードより、投降者及び非戦闘員の殺傷は禁じられている。武器を捨て、抵抗をやめれば命は奪わん」
レユニオン兵は困惑した様子でアイゼンヴァルトを見上げた。
東部第三区で黒い巨人が行った戦いについて、彼も既に聞いているのだろう。仲間を人前で引き裂き、残った兵士たちの戦意を奪った戦士が、投降すれば助けると告げている。その言葉をすぐには信じられずにいたが、背後の感染者を守るには従うほかなかった。
「本当に……?」
「同じ言葉を二度言わせるな」
男の鉈がゆっくりと下がり、背後の感染者たちから安堵の息が漏れる。その中の一人がアイゼンヴァルトの背後へ視線を向け、何かに気づいたように顔から血の気を失った。
「後ろ――」
警告が終わるより早く、小さな円筒がアイゼンヴァルトの足元へ転がった。
直後、白い煙が爆発的に噴き出し、濃密な煙幕が路地を埋め尽くして、レユニオン兵と感染者たちの姿を完全に覆い隠した。
アイゼンヴァルトは即座に可視光映像を切り、兜の視覚装置を熱源探知と動体予測へ切り替えた。煙の向こうにレユニオン兵や民間人の輪郭が浮かび、それらを取り囲むようにして、複数の低温の影が現れる。
黒い外套には体温を拡散する加工が施されているらしく、輪郭は途切れ途切れにしか映らなかった。それでも、移動によって煙の密度が変化し、足元の塵や瓦礫が動いている。完全に姿を隠せているわけではない。
最初の影が、武器を下ろしかけていたレユニオン兵へ接近した。刃が胸部を貫き、男は短い呻き声と共にその場へ崩れ落ちる。別の影は感染者の女性へ斬りかかり、咄嗟に頭を庇った腕ごと肩を切り裂いた。
悲鳴が煙の中へ広がる。逃げようとした感染者たちは互いにぶつかり合い、その混乱へ乗じるように、黒い装束の者たちが次々と刃を振るった。彼らはアイゼンヴァルトを攻撃せず、武器を持たない感染者とレユニオン兵だけを優先して殺していた。
「……近衛局ではないな」
装備と戦術の違いに、アイゼンヴァルトは迷わず判断した。
ロドスであれば非戦闘員を無差別に襲う理由はなく、レユニオンが同じ感染者を皆殺しにすることも考えにくい。アイゼンヴァルトは目の前の者たちを、この戦場でまだ正体の判明していない別勢力と判断し、煙幕の中へ踏み込んだ。
黒い装甲が煙を押し分ける。進行方向では小さな熱源が転倒しており、その前に、長剣を振り上げた黒い装束の男が立っていた。
刃が子供へ振り下ろされるより早く、アイゼンヴァルトの左手が相手の腕を掴んだ。アスタルテスの指が外套を押し潰し、その下の肉体へ食い込む。
「オナーガードより、民間人の殺傷は禁じられている。我が眼前で行われる以上、看過することはできん」
黒い装束の男は答えず、捕らえられた腕を強引に引く代わりに、肩を沈めて肘の角度を変えた。同時に外套の留め具を外し、関節を僅かに脱臼させながら、ゆるく作られた袖の内側から腕を引き抜く。
アイゼンヴァルトの手には黒い布だけが残った。自由になった男は身体を回転させ、反対の手に握った刃を兜へ叩きつけたが、鋭い刃が残せたのは黒い塗装の上に走る細い傷だけで、その下のセラマイト装甲には届かなかった。
「私を攻撃したな――ならば、貴様は敵だ」
その背後では、別の黒い装束が足音も呼吸もほとんど立てずに接近していた。
だが、アスタルテスの強化された感覚とパワーアーマーの探知装置を完全に欺くことはできない。
アイゼンヴァルトは振り返らず、チェーンソードを握った右腕を後方へ振り抜いた。装甲に覆われた裏拳が背後の男を横から捉え、人体を宙へ浮かせたまま路地の壁へ叩きつける。
地面へ落下した黒い装束の胸部をアイゼンヴァルトの装甲靴が踏み砕いた。肋骨と胸骨を折られながらも男は腰の刃へ手を伸ばそうとしたため、アイゼンヴァルトは足を退けると、その頭部を左手で兜ごと掴んだ。
「抵抗を継続するか」
返答を待たずに指へ力を込める。黒い兜が軋み、その内側にある頭蓋骨が耐えられたのは、ほんの一瞬だった。鈍い破砕音と共に骨と肉が押し潰され、黒い装束の身体は大きく痙攣した後、完全に動かなくなった。
仲間が殺された瞬間、残る黒装束たちは戦闘の継続を諦めた。負傷者も遺体も回収せず、鋼線を屋根や建物の壁面へ撃ち込み、互いに異なる方向へ跳び去っていく。
アイゼンヴァルトは腰のボルトピストルへ手を伸ばしかけたが、煙の中にまだ生存している民間人がいることを思い出し、追撃を断念した。炸裂弾を放てば黒い装束を仕留められる可能性はあるものの、周囲の感染者まで巻き込む危険が高かった。
数秒後、熱源探知から黒い影が消え、風に流された煙幕の向こうから路地の惨状が現れた。地面には先ほどのレユニオン兵と感染者たちが倒れ、生き残った者は僅かしかいない。
アイゼンヴァルトは子供を庇うように倒れていた女性を片手で持ち上げ、傷が致命的でないことを確認すると、壁際へ座らせた。
「動ける者は東へ向かえ。二つ先の大通りに近衛局がいる。武器を持たず、戦闘の意思がないことを示せ。途中で何者かに遭遇しても、この場へ戻るな」
助かった感染者たちは、恐怖の残る目で黒い巨人を見上げた。
その中の一人が何かを尋ねようとしたが、アイゼンヴァルトは短く言葉を重ねる。
「質問は許可していない、行け」
有無を言わせぬ声に押され、生存者たちは互いを支えながら路地を離れていった。
先ほど助けられた子供だけは何度も振り返っていたが、アイゼンヴァルトは応じず、全員が角の向こうへ消えるまでその場で周囲を警戒し続けた。
他に熱源が残っていないことを確認すると、アイゼンヴァルトはチェーンソードを停止させ、兜の固定装置を解除した。圧縮された空気が短く噴き出し、黒い兜の下から、古い傷跡と強化手術の痕が刻まれた大柄な顔が露わになる。
彼は先ほど頭部を潰した黒い装束の遺体へ近づき、片膝をついた。破損した兜と砕けた頭蓋骨が混ざり合い、その周囲には脳と思われる組織が散っている。
アイゼンヴァルトは装甲手袋の指で小さな肉片を拾い上げ、躊躇することなく口へ運んだ。
――アスタルテスの肉体へ移植された第八の器官、オモフォゲア。
脊髄とプレムノール胃の間を結ぶ四本の神経束、ニューロクリーを通じて、摂取した有機物に残された遺伝情報や神経化学的な痕跡を読み取り、それらを記憶や経験として脳内へ再構成するための器官である。読み取れるものは、対象が最後に見た光景だけに限られない。生前に培った感覚や経験、時には身につけていた技能の断片までもが、摂取したアスタルテスの意識へ流れ込む。未知の生物と環境が溢れる辺境惑星において、対象の生態や文化を短時間で理解するために、この能力は大きな価値を持っていた。
ただし、脳から得られる情報は整理された記録ではない。意味も順序も定まらない光景、声、感情、そして肉体へ染みついた動作が、脈絡なくアイゼンヴァルトの意識へ流れ込んできた。
暗い訓練場では、顔を隠した者たちが音もなく壁を登り、鋼線を射出して空中で身体の向きを変えながら、標的の首へ刃を滑らせている。足を滑らせた者が床へ落ちても、誰一人として手を差し伸べない。視界が切り替わると、龍門の地図と朱色の印が押された命令書が広がり、その前には黒い外套の集団が一斉に跪いていた。
近衛局は撤収させる。感染者居住区に通じる避難路を封鎖し、外部の者を入れるな。対象がレユニオンに所属しているか否かは問わず、感染者を一人も残すな。
断片的な記憶の中でも、その命令を下した者の名は明確に残っていた。
ウェイ・イェンウ――龍門の執政者。
そして、正規の指揮系統に記録を残すことなく、その意志を実行する直轄の私兵。
「黒蓑、か……」
アイゼンヴァルトは、その名を低く口にした。彼らは近衛局ではないが、龍門当局と無関係な存在でもない。ウェイ・イェンウの命令を受け、表へ出すことのできない任務を遂行するための部隊だ。
そして、流れ込む記憶はそこで終わらなかった。
工業地区の俯瞰図が浮かび、封鎖された製鉄プラントと廃棄された資材加工工場へ印がつけられていく。その場所には、緑色の巨人二体がレユニオン幹部と残存兵を不当に保護下へ置いたとの報告が添えられていた。
任務を受けた黒蓑は二手に分かれている。
一隊は緑色の巨人たちを足止めし、可能な限り交戦を避けながら、龍門との協力関係を理由にその行動を制限する。別働隊は屋根と整備通路から工場へ侵入し、内部にいる感染者とレユニオン幹部を全て排除する手筈となっていた。
緑色の巨人とは、ダキールとトゥシャンに違いない。そして排除対象となったレユニオン幹部は、ヴァレリウスから伝えられていた被保護拘束者を指している。
タルラと、その内側に巣食う何者かについて情報を持つ者たちが、黒蓑によって殺されようとしている。
「……愚かな」
アイゼンヴァルトは立ち上がった。
龍門の感染者が何人死のうと、本来ならばブラックテンプラーである彼にとって重大な問題ではない。彼らは皇帝の民ではなく、人類の帝国へ忠誠を誓っているわけでもないため、その生命を等しく守る義務など持ち合わせていなかった。
しかし、ヴァレリウスはフロストノヴァたちを情報源として一時的に保護することを認めている。タルラに巣食う存在の目的を知り、元の銀河へ帰還する手掛かりを探すうえでも、彼らは利用価値を持つ。その者たちを龍門の私兵に殺されれば、ヴァレリウスたちの目的に明確な不利益が生じる。
さらに黒蓑は彼の眼前でヴァレリウスが手出しを禁止した民間人を殺し、制止したアイゼンヴァルト本人にも刃を向けた。
既に攻撃を受けた以上、彼らを無条件に友軍と見なす理由は失われている。
アイゼンヴァルトは黒い兜を被り直した。固定装置が閉じ、赤いレンズへ視界が戻ると、内部表示にはオモフォゲアから得た記憶を基に工業地区の地図が構築された。黒蓑が襲撃を行っている廃工場までの経路と、撤退時に利用する可能性の高い路地が、赤い線で示されている。
現在の命令は東部第三区に残り、近衛局へ協力してレユニオンの残党を掃討することだった。工業地区へ向かえば明確な命令違反となるが、ここで貴重な情報源を失う方が、彼らにとって大きな損失となる。
「尊厳の守り手には、後で説明するとしよう」
アイゼンヴァルトはボルトピストルの弾倉を確認し、チェーンソードを再び起動した。鋸歯の唸りが死体の並ぶ路地へ響く中、黒い巨体が地を蹴る。最初の一歩で石畳が砕け、パワーアーマーに包まれた身体は、工業地区へ向けて凄まじい速度で走り出した。
命令に背いてでも、ヴァレリウスたちの利益を守るために。
そして、皇帝陛下の天使たる自らを敵として示した黒蓑へ、相応の報いを与えるために。