廃工場を脱出したフロストノヴァたちは、工業地区の奥へ伸びる搬送路を必死に走っていた。
資材運搬用の広い道路には錆びた貨物車両や崩れた足場が放置され、両側には操業を停止した工場と倉庫が立ち並んでいる。照明の大半は消えていたが、遠方で燃える建物の炎が夜空を赤く染め、壁面や配管へ不規則な影を揺らしていた。
負傷者を乗せた簡易担架は、動けるレユニオン兵とスノーデビル小隊が交代で運んでいる。既に何人もの仲間を廃工場で失い、逃げ延びた者たちにも無傷な者はほとんどいなかった。
「止まるな! 次の区画まで走れ!」
スノーデビル小隊の隊員が叫び、遅れ始めた者の腕を取って前へ引く。
その最後尾を守るフロストノヴァは、追ってくる黒蓑へ向けて冷気を放ち続けていた。道路の表面を厚い氷が覆い、建物の間を結ぶ配管や足場が白く凍結する。足場を失った黒蓑が屋根から滑り落ち、鋼線を壁へ射出して体勢を立て直したところへ、レユニオンの弩兵が矢を放った。
黒蓑は空中で身体を捻って回避し、別の建物へ飛び移る。
彼らは正面からフロストノヴァのアーツを受けようとはしなかった。屋根、窓、排気塔、地下へ通じる整備口へ分散し、僅かな隙を見つけて異なる方向から距離を詰めてくる。
「前方、二つに分かれているぞ!」
隊列の先頭から声が飛ぶ。
搬送路は、巨大な資材倉庫を前に左右へ分岐していた。左側は製鉄プラントに近い大通りへ、右側は古い排水設備と地下資材庫へ繋がっている。
「左へ進め!」
フロストノヴァが即座に命じた。
左側の道であれば、ダキールとトゥシャンが展開していた製鉄プラントへ近づくことができる。二人との通信は依然として繋がらなかったが、黒蓑の妨害を抜ければ、ヴァレリウスやロドスへも連絡が届く可能性があった。
隊列が分岐点へ差しかかる。
先頭のスノーデビル小隊が左折し、フロストノヴァもそれに続こうとした時、倉庫の屋根から複数の黒い円筒が投げ込まれた。
「ッ!? 伏せろっ!!」
爆発と共に白煙が噴き出し、分岐点全体を覆い隠す。冷気で煙を吹き飛ばそうとしたフロストノヴァの耳へ、鋼鉄の切断される音が届いた。
頭上に設置されていた貨物用クレーンが大きく傾く。
黒蓑が支持鋼線を切断したのだ。
巨大なクレーンの腕と吊り下げられていた鉄材が、轟音を上げて道路へ落下した。石畳が砕け、砂塵と火花が煙へ混じり、左右の道を隔てるように鋼鉄の瓦礫が積み重なる。
フロストノヴァは咄嗟に氷壁を作り、落下した鉄材が負傷者を押し潰すのを防いだ。それでも隊列の全てを守ることはできず、数名のレユニオン兵が崩れた足場へ巻き込まれた。
「姉さん!?」
「私は無事だ。人数を確認しろ!」
煙の向こうから報告が返ってくる。
だが、ファウストを運んでいた担架と、傍を離れなかったメフィストの姿が見当たらない。
「ファウストはどこだ!」
「右側へ押し出された、狙撃部隊も一緒だ!」
瓦礫の反対側から、途切れ途切れの声が聞こえた。
ファウストの担架を運んでいた狙撃兵たちは、クレーンの崩落を避けるため右側の道へ逃げ込んでいた。その後を追うように、複数の黒蓑が屋根から降りていく。
フロストノヴァは進路を変えようとしたが、左側の建物からも新たな黒蓑が姿を現した。彼らは鋼線を道路へ張り、負傷者を運ぶ隊列の退路を塞いでいる。
「姉さん、ここで止まれば全員囲まれる!」
「だが、ファウストたちが――」
「こちらも負傷者を抱えている! 今は進むしかない!!」
フロストノヴァは奥歯を噛み締めた。
瓦礫を氷で破壊しようとすれば時間がかかる。その間に、黒蓑は残った負傷者へ襲いかかるだろう。ファウストたちを助けるために戻れば、自分たちも包囲される。
「ファウスト!」
通信端末へ呼びかけるが、返ってくるのは激しい雑音だった。
フロストノヴァは僅かな迷いの後、左側の道へ向き直る。
「進め! 生きて製鉄プラントへ辿り着く!」
スノーデビル小隊が負傷者を運び、再び走り出す。
フロストノヴァは最後に一度だけ瓦礫の向こうを振り返った。
「生き延びろ、ファウスト……」
呟きは爆発と金属音へ呑み込まれ、彼女たちの姿は左側の搬送路へ消えていった。
分断されたファウストたちは、地下資材庫へ通じる傾斜路を下っていた。
彼を乗せた担架を運んでいるのは、生き残った狙撃部隊の四人だけだった。全員が負傷し、そのうち一人は黒蓑の刃を受けた脇腹を手で押さえながら走っている。
メフィストは担架のすぐ隣を進み、何度もファウストの顔を覗き込んでいた。
「ファウスト、聞こえる?」
「聞こえている……」
「もう少しだからね。フロストノヴァたちと合流して、チェルノボーグに戻ればタルラ姉さんが君を治してくれるよ。右腕だって元に戻る。腰の傷も、全部……」
「前を見ろ、イーノ」
ファウストの声は弱く、呼吸の間隔も不規則になっていた。右腕に巻かれた包帯は既に赤黒く染まり、腰へ新たに巻かれた布からも血が滲み続けている。フロストノヴァの冷気によって一時的に抑えられていた出血も、移動を続けたことで再び悪化していた。
「黒い装束の連中はまだ追ってきている」
狙撃兵の一人が背後を確認する。
傾斜路の上に、複数の黒い影が現れた。彼らは一定の距離を保ちながら、逃走先を塞ぐために左右へ散開している。
「止まるな!」
狙撃兵が矢を放つ。黒蓑は壁面へ射出した鋼線で身体を引き上げ、矢を回避した。そのまま天井近くの配管を蹴り、担架を運ぶ一団の前方へ回り込もうとする。
このままでは追いつかれる。
メフィストは周囲を見回した。地下資材庫へ続く道は一直線で、身を隠せる場所もほとんどない。後方には黒蓑が迫り、前方にも別働隊が回り込んでいる可能性がある。
「嫌だ……こんなところで終わるなんて、嫌だよ」
メフィストの口から掠れた声が漏れた。
「メフィスト」
「ファウストは死なない。僕たちは、ここから出るんだ。タルラ姉さんのところへ帰って、それから……」
「俺のことはいい。お前だけでも逃げろ」
メフィストの表情が固まる。
「な、何を言ってるの?」
「この傷ではもう走れない。俺を運んでいれば、お前たちも追いつかれる」
「やめてよ」
「担架を置け。お前たちは先へ――」
「やめろって言ってるだろ!」
少年の叫びが地下通路へ響いた。
ファウストは目を閉じ、苦痛を押し殺すように息を吐く。
「ならば、俺の言うことを聞け。アーツを使うな」
メフィストが息を止めた。
「お前が何を考えているのかは分かっている。近衛局本部で使ったアーツを、ここでも使うつもりだろう」
「僕のアーツなら、黒い奴らを止められる」
「止められない。お前はまた、仲間を壊すだけだ」
「壊してなんかいないよ。僕は治してるんだ。痛くても動けるようにして、死にそうでも立てるようにしてあげてる。僕がいなければ、みんな何もできずに死んでいたじゃないか」
「自分の意思を奪われ、敵も味方も分からなくなった者を、生きているとは言わない!」
「でも、ファウストを守れる!!」
メフィストは担架へ縋りつき、血の気を失ったファウストの顔を覗き込んだ。
「みんなが僕たちの邪魔をするんだ。ロドスも、近衛局も、あの機械の男も、黒い服の奴らも。だったら、全部いなくなればいい。僕の家畜に襲わせて、その間に二人で龍門から逃げればいいんだよ」
「やめろ、メフィスト」
「ロドスも龍門も壊してしまえば、誰も僕たちを追えない。家畜を増やせば、この都市のどこにだって行ける。感染していない奴らも、源石を植えつければ僕のアーツが届くようになる。そうしたら、もっと仲間を増やせるんだ」
「それ以上、仲間を道具にするな」
「ファウストが生きるためだよ!!」
メフィストはファウストの制止を振り切り、胸元へ両手を当てた。
淡い白光が指の隙間から漏れ出す。
彼の周囲へ白い粒子が舞い上がり、その中にリーベリの羽を思わせる光の欠片が混じる。地下通路に存在する源石結晶が呼応するように明滅し、壁面の配管や床へ積もった埃が細かく震え始めた。
「メフィスト!」
ファウストが止めようとするが、動く左腕にはメフィストへ届くだけの力も残っていなかった。
白い粒子は地下通路を抜け、工業地区へ広がっていく。
近衛局本部でメフィストのアーツを受けた後、龍門各地へ分散していたレユニオン兵。戦闘から逃れ、建物の陰へ身を隠していた者。負傷して路地へ倒れ、仲間の救援を待っていた者。メフィストの指示から離れ、別の部隊へ合流しようとしていた者。
彼らの身体へ残っていたアーツが、一斉に活性化した。
体表へ露出していた源石結晶が脈打ち、周囲の筋肉が不自然に膨張する。裂けた傷口から白い粒子が漏れ、痛みに呻いていた者たちの目から意思の光が失われていった。
彼らは立ち上がった。折れた脚を引きずり、裂けた筋肉を無理に動かし、聞き取れない呻き声を漏らしながら、最も近くにいる生きた者へ向かって歩き始める。
近衛局も、地区警察も、ロドスも、レユニオンも区別しない。
自らの身体から突き出した源石結晶を素手で掴み、肉ごと引き剥がす。傷口から血を流しながら、それを周囲の者へ投げつける。鋭い結晶に触れた者の皮膚が裂け、粉末となった源石が傷口へ入り込むと、メフィストのアーツが新たな感染者の神経と筋肉へ食い込んでいった。
まだ自我を残している者は恐怖に叫び、結晶を引き抜こうとする。しかし、侵食された組織が白く輝き始めると、身体は本人の意思に逆らって立ち上がった。
群れが増えていく。
黒蓑の数名が地下通路の入口から降り、ファウストたちを包囲しようとした時、その背後から異様な足音が押し寄せてきた。
黒蓑が振り返ると、白い粒子を纏ったレユニオン兵の一団が互いを押し退けながら傾斜路を下ってくる。先頭の一人が肩から突出していた源石結晶を掴み、黒蓑へ投げつけた。
黒蓑が即座に散開すると、結晶は床へ突き刺さって砕け黒い粉末を周囲へ撒き散らした。外套へ粉末を受けた一人が、躊躇なく汚染された布を切り離す。別の黒蓑が短刀で群れの首を切り裂いたが、致命傷を受けても相手は止まらない。喉から血を流しながら腕を伸ばし、血に濡れた源石結晶を黒蓑の胸元へ押しつけようとする。
「……一時退避」
黒蓑は攻撃を中止し、鋼線を使って通路上部へ退いた。
感染者との近接戦闘を続ければ、装備の隙間へ源石を押し込まれる危険がある。ファウストたちの包囲よりも、感染の回避を優先せざるを得なかった。
「ほら、見てよ」
メフィストが笑う。
その顔には安堵と興奮が入り混じり、先ほどまでの怯えは消えていた。
「僕の家畜は強いだろ? 黒い奴らだって逃げた。これならロドスも近衛局も全部止められるよ。龍門をめちゃくちゃにして、その間に僕たちは逃げるんだ」
ファウストは、通路を埋め尽くす群れを見た。
かつて自分たちと共に戦い、食事を分け合い、タルラの言葉を信じてレユニオンへ加わった者たちが、メフィストの命令だけで自らの身体を破壊し、敵味方の区別もなく襲いかかっている。
「お前は……何をしたのか分かっているのか」
「僕たちを助けたんだよ?」
ファウストの声は弱かったが、その言葉には明確な怒りがあった。
「……違う。お前は仲間を見捨てた。俺一人を助けるために、何人死なせるつもりだ」
「ファウストさえ生きていればいい!!」
「俺は、そんなことを望んでいない」
メフィストの笑みが消える。
「……嘘だ」
「嘘じゃない」
「だ、だって僕には君しかいないんだよ? 君までいなくなったら、僕はどうすればいいのさ!?」
「だからといって、他の全員をお前と同じ目に遭わせるな」
メフィストは何かを言い返そうとしたが、ファウストが再び咳き込み、口元から血を流したため、すぐに担架へ縋りついた。
「話さなくていいよ。もう安全だから、今度こそ僕が治す。さっきより強くアーツを使えば――」
「触るな」
ファウストは残った左手で、メフィストの手を払い除けた。
「俺の傷に、お前のアーツは使うな」
拒絶されたメフィストは呆然と自分の手を見つめる。その周囲を、呼び集められた群れの足音と呻き声が満たしていた。
工業地区の上空を低く通過したサンダーホークから、ブレイズが飛び降りた。
後部ハッチを蹴るようにして宙へ躍り出ると、落下の途中で建物の壁面へチェーンソーの刃を食い込ませる。鋸歯が火花を撒き散らしながら煉瓦を削り、落下速度を弱めたところで壁を蹴り、路上へ着地した。
その背後でサンダーホークが機首を上げる。
推進器の轟音と共に高層建築の間へ上昇し、ヴァレリウスとドクターをウェイ・イェンウのもとへ運ぶため、龍門の中心部へ飛び去っていった。
ブレイズが立ち上がると、数十メートル先の交差点に黒い巨体が現れた。
アイゼンヴァルトは、工業地区へ向けて全力で走っていたらしい。装甲靴が道路を踏み砕き、周囲へ細かな石片を弾き飛ばしている。
「アイゼンヴァルト!」
ブレイズの声を聞き、黒いアスタルテスが速度を落とした。
「ロドスの増援か」
「ブレイズ。さっき通信で聞いたでしょ?」
「名称は記憶している」
アイゼンヴァルトの右手にはチェーンソードが握られている。分厚い刀身の外周を鋸歯が囲み、ブレイズの武器より小型であるものの、人間が扱うには明らかに巨大だった。
ブレイズは彼の武器を見て、僅かに目を輝かせる。
「君もチェーンソーを使うんだ?」
「チェーンソードだ」
「似たようなものでしょ。刃を回して、当たった相手を切り刻むんだから」
「貴様の武器は、工具を大型化して戦闘へ転用したものに見える」
「え、喧嘩売ってる?」
「構造上の差異を述べただけなのだが」
せっかく同じ種類の武器を使う者を見つけたと思ったブレイズは、不満げに眉を寄せた。
「……少しくらい話の分かる奴かと思ったのに」
「雑談のために呼ばれたのではないはずだ。保護対象の位置を特定する」
「分かってるよ。いちいち無愛想だねぇ」
ブレイズがチェーンソーを肩へ担ぎ、二人が移動を始めようとした、その時だった。
近くの路地から、十数人のレユニオン兵が飛び出してきた。武器を持っている者もいたが、戦うための隊列は組んでいない。互いを突き飛ばすように走り、何人かは背後を振り返りながら恐怖に叫んでいる。
ブレイズとアイゼンヴァルトは、ほぼ同時に武器を構えた。
チェーンソーとチェーンソードが起動し、二つの駆動音が重なる。アイゼンヴァルトの左手はボルトピストルへ伸び、ブレイズもアーツを使えるよう足を開いた。
「止まれ!」
ブレイズが警告する。
先頭のレユニオン兵は二人の姿に一瞬怯んだものの、立ち止まることなく叫んだ。
「た、助けてくれ!」
「……何?」
「後ろから来る! 仲間が……仲間だった奴らが、全員おかしくなった!」
レユニオン兵たちは二人へ攻撃しようとも、脇を抜けて逃げようともしなかった。アイゼンヴァルトの黒い装甲の前へ転がるように跪き、武器を投げ捨てる。
「頼む、殺さないでくれ! あいつらを止めてくれ!!」
アイゼンヴァルトはボルトピストルを構えたまま、意識を路地の奥へ向けた。
多数の足音が近づいてくる。規則性はなく、歩幅も速度も異なっていたが、同じ方向へ向かう熱源の数は急速に増えている。壁や障害物へぶつかっても進路を変えず、互いの身体を踏みつけながら押し寄せていた。
やがて、白い粒子を纏った一団が路地の暗がりから姿を現した。
レユニオンの装備を身につけている。
だが、その目には敵を見定める意思も、恐怖も残っていない。骨折した脚や切断されかけた腕を引きずり、口から意味を成さない呻き声を漏らしながら、目の前にいる全ての者へ向かってくる。
体表からは巨大な源石結晶が突出し、皮膚と装備を内側から裂いていた。先頭の一人は胸元の結晶へ手をかけ、肉ごと引き剥がすと、逃げてきたレユニオン兵へ向けて投げつける。
アイゼンヴァルトが一歩前へ出た。
源石結晶が黒い胸甲へ直撃し、鋭い破片を周囲へ撒き散らす。セラマイト装甲には浅い傷すら残らず、砕けた源石の粉末も密閉されたパワーアーマーの内部へ入り込むことはなかった。
「防御の外へ出るな」
アイゼンヴァルトは背後のレユニオン兵へ命じた。
「え……?」
「聞こえなかったか。そこから動くな」
彼の視線は押し寄せる群れへ向けられている。
「以前の敵兵とは行動が異なる。戦術、自己保存、敵味方の識別を全て失っているな」
「メフィストとかいう幹部のアーツだね」
ブレイズが群れを見据えた。
「近衛局本部で見た。あの白い粒子で、傷ついたレユニオン兵を無理矢理立たせてた」
「ならば、あれは既に知性を捨てた獣だ。排除する」
「異論なし!」
アイゼンヴァルトが地面を蹴った。
黒いパワーアーマーが、群れの中央へ突入する。先頭の一人が両腕を伸ばした瞬間、横薙ぎに振るわれたチェーンソードが胸部へ食い込み、回転する鋸歯が源石結晶ごと胴体を切断した。
切り裂かれた身体が左右へ倒れるより早く、次の二人がアイゼンヴァルトへ掴みかかる。彼は左肩から体当たりを加え、一人を背後の群れへ突き飛ばすと、もう一人の頭部へボルトピストルを向けた。
銃声が路地を震わせる。ボルト弾が顔面へ突き刺さり、直後に炸裂した。頭部を失った身体が倒れ、その背後にいた数人も爆発と骨片を浴びてよろめく。
そこへブレイズが飛び込んだ。
「こっちも忘れないでよ!!」
振り下ろされたチェーンソーが群れの肩口へ食い込み、腰まで一気に切り裂く。回転する刃へ血液と源石片が巻き込まれ、赤黒い飛沫となって周囲へ撒き散らされた。ブレイズは一人を斬り倒した勢いを利用して身体を回転させ、横から迫った別の相手へ柄を叩き込む。相手が怯んだところへ蹴りを加え、続けて刃を胴体へ押しつけた。
源石結晶が投げ込まれ、ブレイズが回避しようとした時、黒い巨体が彼女との間へ割り込んだ。結晶がアイゼンヴァルトの肩当てへ当たって砕け、黒い粉末が装甲表面を覆う。
「君、それ大丈夫なの?」
「装甲は完全に密閉されている。貴様は接触を避けろ」
「ありがと!!」
ブレイズは彼の背後へ入り、反対側から接近していた群れを斬り払った。
二人は打ち合わせもないまま、背中を合わせる形で戦い始めた。アイゼンヴァルトは装甲の防御力を利用して正面から群れを受け止め、身体から引き剥がされた源石結晶を自らの装甲で防ぐ。ブレイズはその背後と側面を守り、素早い動きで包囲しようとする個体を次々と切り倒していった。
ブレイズが低い姿勢からチェーンソーを振り上げ、一人の身体を宙へ浮かせる。そこへアイゼンヴァルトがチェーンソードを薙ぎ払い、空中の身体と背後にいた二人をまとめて切断した。
アイゼンヴァルトがボルトピストルを撃ち、路地の奥で源石結晶を引き剥がそうとしていた個体を吹き飛ばす。その爆発で動きの止まった群れへ、ブレイズがアーツを纏わせた刃を突き込んだ。高熱と回転刃に晒された身体が切り裂かれ、床へ倒れていく。
互いの戦い方も、思想も、所属する世界さえ異なる。
それでも、敵の群れを前にした動きには不思議なほど無駄がなかった。片方が踏み込めば、もう片方が死角を埋める。射線が開けばブレイズが姿勢を下げ、アイゼンヴァルトがその頭上からボルト弾を撃ち込む。アイゼンヴァルトが複数の敵を押し留めれば、ブレイズが横から切り崩して突破口を広げる。
群れは痛みを感じず、仲間の死にも反応しなかったが、二人の破壊力を前に数を減らしていった。最後の一人が源石結晶を振り上げてブレイズへ向かったところへ、アイゼンヴァルトのチェーンソードが背後から突き込まれる。
鋸歯が胸部を貫き、源石結晶ごと内側から粉砕した。アイゼンヴァルトが刃を引き抜くと、動かなくなった身体が道路へ倒れた。
路地に残ったのは、回転を続ける二つの武器の音と、助けを求めたレユニオン兵たちの荒い呼吸だけだった。
「……終わった?」
ブレイズが周囲を見回す。
「この一団は排除した。だが、同様の反応を複数方向で検出している」
アイゼンヴァルトの兜には、工業地区内で動く熱源が表示されていた。一つの群れを倒しただけで、脅威が消えたわけではない。白い粒子を纏った者たちは各所に散らばり、避難中の住民やレユニオンの残党を襲いながら移動を続けている。
アイゼンヴァルトは、路上で腰を抜かしていたレユニオン兵の前へ歩み寄った。
「説明しろ」
黒い巨体に見下ろされ、男は身体を震わせた。
「な、何を……」
「今の者どもに何が起きた。誰の命令だ」
「分からない。本当に分からないんだ。俺たちは別の部隊と合流しようとしていた。そうしたら、いきなり白い光が広がって……仲間の身体から源石が飛び出した」
男は震える手で、倒れた群れの一人を指した。
「声をかけても返事をしない。近くにいた奴へ襲いかかって、レユニオンの兵士まで殺し始めた。身体から源石を引き抜いて投げて、それが刺さった奴までおかしくなったんだ」
「最初に変化した者は、どの部隊に所属していた」
「メフィストの部隊だ。近衛局本部から逃げてきた連中もいた。だから、たぶん……」
「メフィストが術を使ったってことね」
ブレイズの言葉に、男は怯えながら頷いた。
「以前も似たことはあった。でも、ここまで酷くなかった。敵を攻撃するだけだったはずなのに、今は誰でも襲う。俺たちも、見つかった瞬間に追われた」
ブレイズとアイゼンヴァルトが視線を交わす。
フロストノヴァたちは黒蓑の追撃を受け、既に負傷者を多数抱えている。そこへメフィストの群れが押し寄せれば、救出部隊が到着する前に全滅する可能性があった。
「……フロストノヴァを先に見つけなきゃ」
ブレイズが言った。
「同意する。貴様らはこの場から東へ向かえ」
アイゼンヴァルトはレユニオン兵たちへ告げる。
「先の大通りに近衛局の部隊がいる。武器を捨てた状態を維持し、投降せよ。今の群れと遭遇した場合は戦わずに逃げろ」
「俺たちを殺さないのか……?」
「既に武器を捨てている。オナーガードより、投降者の殺害は禁じられている」
レユニオン兵たちは信じられない様子で彼を見ていたが、アイゼンヴァルトが背を向けると、互いを支えながら東へ向かって走り始めた。
アイゼンヴァルトとブレイズは、工業地区を横断する大通りを走っていた。
アスタルテスの全力疾走は、戦車に匹敵する重量が高速で移動することに等しい。アイゼンヴァルトが道路を蹴る度に石畳へ亀裂が走り、巨大な身体は次の瞬間には数メートル先へ進んでいる。
それでも、ブレイズは遅れなかった。
建物の壁や放置車両を利用し、長い跳躍を繰り返しながら、黒い巨人のすぐ横を走っている。瓦礫に塞がれた場所では低い壁を蹴って飛び越え、アイゼンヴァルトが速度を上げれば、自らも地面を強く蹴って追いついた。
アイゼンヴァルトの赤いレンズが、隣を走る彼女へ僅かに向く。
「生身でこの速度へ追随するか」
「なに? 驚いてるの?」
「一般的な人間の身体能力から、大幅に逸脱している」
「私はロドスのエリートオペレーター。これくらいできなきゃ、名乗ってられないよ」
ブレイズは胸を張るように笑ったが、走る速度は緩めない。
「その分類基準が理解できんな」
「褒めるなら素直に褒めなよ!」
「戦闘能力が有用であることは認めている」
「ふふん、それを最初から言えばいいの!!」
二人の会話はそこで途切れた。
アイゼンヴァルトの兜内部に、周辺温度の異常を知らせる警告が表示される。工業地区全体に火災と機械の排熱が広がる中、一か所だけ温度が急激に低下している区域があった。
「北西へ進路を変える」
「フロストノヴァ?」
「可能性が高い。約一・二キロメートル先で、局所的な温度低下を検出した」
「分かった、急ごう!」
二人は大通りを外れ、資材倉庫の間を抜ける狭い道路へ飛び込んだ。
進むにつれて、周囲の空気が冷たくなっていく。壁面と配管には霜が付き、路上へ流れ出していた水が薄い氷に変わっていた。足元には血痕と折れた武器が残され、その量は進むほど増えている。
やがて、二人は広い貨物集積場へ辿り着いた。
そこには凄惨な光景が広がっていた。
レユニオン兵の大半は既に倒れている。首や胸を切り裂かれ、地面へ横たわった身体から流れ出した血液が、フロストノヴァの冷気によって赤黒く凍りついていた。
スノーデビル小隊にも複数の死者が出ている。残った隊員たちは傷ついた身体で円陣を組み、その中央にいる負傷者を守っていた。
フロストノヴァは隊列の先頭に立ち、長い耳を力なく垂らしながら荒い呼吸を繰り返している。白い外套は血と埃で汚れ、腕と脇腹には黒蓑の刃による傷が残されていた。
彼女たちの周囲を、十数人の黒蓑が包囲している。
屋根と地上の双方から退路を塞ぎ、間合いを少しずつ狭めていた。フロストノヴァがアーツを放つ度に散開するものの、冷気が弱まれば再び距離を詰めてくる。
スノーデビル小隊は既に限界へ近づいていた。
一人が膝をつき、武器を支えにして立ち上がろうとする。黒蓑の一人がその隙を見逃さず、鋼線を使って頭上から斬りかかった。
その時、轟音が響いた。
黒蓑の顔から指一本分ほど離れた空間を、ボルト弾が通過する。弾丸は背後の鋼鉄製支柱へ突き刺さり、炸裂によって分厚い金属板を内側から吹き飛ばした。
衝撃を受けた黒蓑が着地し、包囲していた者たちが一斉に音のした方向へ顔を向ける。
煙の向こうから、黒い巨体が現れた。右手には唸りを上げるチェーンソード、左手には硝煙を漂わせるボルトピストルが握られている。その傍らには、同じく回転刃を構えたブレイズが立っていた。
「次は外さん。武器を下げ、保護対象から離れろ」
アイゼンヴァルトの赤いレンズが黒蓑を捉える。
黒蓑は動揺を見せなかった。包囲を維持したまま、一人が前へ出る。
「龍門の敵を庇護する行為は認められない。貴官は当局の活動を妨害している」
「ならば、貴様らの身分と指揮系統を公に提示せよ」
「開示する権限はない」
「権限を示さぬ者の要求へ従う理由もない。私は龍門近衛局及びロドスと協力しているが、貴様らは近衛局ではない。近衛局の正規命令として提示されない限り、保護対象の引き渡しには応じん」
アイゼンヴァルトはボルトピストルの照準を下げなかった。
「ロドスからは、フロストノヴァ及び同行する負傷者の確保を命じられている。彼女たちは既に武器を捨て、交戦意思を放棄した投降者だ。オナーガードとロドスの双方が保護を承認している」
「状況は変化した」
黒蓑の指揮官が答える。
「レユニオンのアーツにより、感染者の一部が暴徒化している。暴徒は所属を問わず周囲の者を襲い、自らの身体から源石を引き剥がして投射している。既に複数の新規感染者が発生し、被害は工業地区から周辺区画へ拡大しつつある」
その言葉を聞き、ブレイズは先ほど倒した群れを思い出した。
「だからって、ここにいる人たちまで全部殺すつもり?」
「感染者と暴徒を外見だけで識別することは困難だ。術者の影響範囲と発動条件も判明していない以上、区別を行うつもりはない」
「随分と都合がいい話……最初から全員殺すつもりだったくせに」
「我々の任務内容について、ロドスへ説明する義務はない」
黒蓑の言葉に、ブレイズのチェーンソーが低く唸った。
「ブレイズ」
アイゼンヴァルトが制止し、フロストノヴァへ視線を向ける。
「白い粒子を纏い、敵味方を問わず攻撃する感染者を確認した。心当たりはあるか」
フロストノヴァは荒い呼吸を整えながら頷いた。
「……メフィストだ」
「近衛局本部にいたと報告のあった、白髪の術師か」
「あいつのアーツは、源石に侵された者の肉体へ作用する。傷を無理に塞ぎ、痛みを感じなくさせ、死にかけた者でも動かすことができる。だが、使い方を誤れば自我を奪う」
「今の群れは、その結果ってこと?」
ブレイズが言うと、フロストノヴァの表情が僅かに歪んだ。
「ファウストの身に何かあったのかもしれない。メフィストは追い詰められれば、ファウストを守るために何をするか分からない」
「術者を止めれば、群れも停止する可能性があるか」
「保証はできない。だが、アーツの供給を断てば少なくとも新たな群れは増えないはずだ」
アイゼンヴァルトは黒蓑の指揮官へ向き直った。
「貴様らは暴徒化を理由に、感染者全体の排除を正当化している。ならば、根源であるメフィストを私が止める。暴徒の発生を終息させた場合、貴様らも行動を停止し、フロストノヴァ及び投降者の殺害を中止せよ」
「拒否する」
返答に迷いはなかった。
「メフィストの排除も我々が行う。ロドスは龍門への内政干渉を中止し、当初与えられたレユニオン排除任務のみを継続されたい」
「私はロドスのオペレーターではない」
アイゼンヴァルトの声が低くなる。
黒蓑の指揮官が僅かに顔を動かした。
「私は尊厳の守り手たるヴァレリウスへ、一時的に剣を預けている協力者に過ぎん。龍門との協定にも、ロドスの雇用契約にも従属していない」
黒いアスタルテスが一歩前へ出る。重量を受けた地面に亀裂が走り、ボルトピストルの銃口が黒蓑の指揮官へ向けられた。
「我が身は、人類の主にして不滅なる神皇陛下が鍛えた死の天使。ブラックテンプラー戦団のイニシエイト、ディートリヒ・アイゼンヴァルトである。現在、私が受けている命令は、フロストノヴァ及び同行者の確保だ」
機械処理された声が、冷え切った貨物集積場へ響き渡る。
「汝らが我が任務を妨げ、皇帝陛下の御意志へ刃を向けるのであれば、敵として容赦なく抹殺する。相手が貴様らだけであろうと、龍門全体であろうと関係はない。私は死ぬまで戦い、大逆者と異端者を一人として生かさん」
「ちょっと、アイゼンヴァルト!」
ブレイズが慌てて彼を見る。
周囲の黒蓑は武器へ手をかけたが、指揮官が片手を上げて制止した。
短い沈黙が流れる。黒蓑は先ほど、アスタルテスの戦闘能力を目の当たりにしている。一人を殺害され、残った者は反撃もできずに撤退を余儀なくされた。さらに工業地区には、別の二体のアスタルテスが存在する。
目の前の黒い巨人が言葉通り龍門との全面戦闘を始めれば、どれだけの犠牲が出るのか見当もつかない。最終的に排除できたとしても、その間に近衛局、黒蓑、そして龍門市民が受ける損害は計り知れなかった。
「……交渉条件を変更しよう」
黒蓑の指揮官が告げた。
「貴官が我々と協力し、暴徒を生み出している術者メフィストを排除するのであれば、作戦終了までフロストノヴァ及びこの場にいる感染者への攻撃を停止する」
「作戦終了後は?」
「メフィストの術と、暴徒化した感染者の状態を確認した後に判断する。貴官には監視をつける。我々の作戦行動を妨害した場合、合意は無効となる」
「受け入れよう」
アイゼンヴァルトは即答した。
「待て。メフィストを排除するとは、殺すという意味か」
フロストノヴァが声を上げる。
「必要であればな」
「保護すると言ったはずだ。メフィストとファウストも、私たちと共にいた」
「停戦の条件は、武器を捨てて攻撃を行わないことだ」
アイゼンヴァルトはフロストノヴァへ顔を向ける。
「メフィストがアーツを用い、龍門とロドス、レユニオンの全てへ無差別攻撃を始めたのであれば、停戦合意を破ったのは奴の方だ。保護を継続する根拠は失われた」
「追い詰められていたんだ。ファウストが死にかけているなら、あいつは正常な判断などできない」
「それで民間人を襲わせる行為が正当化されるのか」
フロストノヴァが言葉を詰まらせる。
ブレイズも険しい表情でアイゼンヴァルトへ向き直った。
「だからって、最初から殺す前提で向かうことはないでしょ。止めて拘束すればいい」
「抵抗をやめるなら拘束する。だが、群れを止めず、アーツによる攻撃を継続するなら排除する」
「メフィストはロドスの敵だったけど、今はフロストノヴァたちと一緒に保護することになってた。勝手に判断していい話じゃない!」
「では問う」
アイゼンヴァルトはブレイズを正面から見下ろした。
「敵の捕虜一人の身を案じるために、龍門の民間人や、貴様の同胞であるロドスのオペレーターを危険へ晒すのか。術者が生きてアーツを使い続ける限り、群れは増える。新たに感染した者も奴の支配下へ入り、さらに多くの者を襲う。それでも、メフィストの安全を優先するか」
「それは……」
「救える可能性を否定するつもりはない。だが、奴を救うために他の者を犠牲にすることは、慈悲とは呼ばん」
ブレイズは反論できなかった。
フロストノヴァも、メフィストを守れとは言い切れない。彼が操る群れによって既にレユニオン兵が襲われ、新たな感染者まで生み出されているなら、放置することはできなかった。
「可能なら、生かしたまま連れてこい」
フロストノヴァが絞り出すように言った。
「約束はしない」
「……それでいい」
黒蓑の指揮官が部下へ短い合図を送る。包囲していた者たちの半数が武器を下げ、残りはフロストノヴァたちを監視できる位置へ留まった。
「術者の推定位置は把握している。先ほどの暴徒が集中している地下資材庫だ」
「案内しろ」
アイゼンヴァルトが答える。
「私も行く」
ブレイズがチェーンソーを肩へ担いだ。
「……貴様は此処に残れ、ブレイズ」
「冗談。フロストノヴァを一人にはさせないよ、この黒いのが何をするか分からないしね」
黒蓑へ視線を向けながら言う。
「合理的な判断だ」
「その言い方、機械男を思い出すからやめて」
黒蓑が地下資材庫へ向けて動き始め、アイゼンヴァルトも後に続く。
フロストノヴァは遠ざかる黒い背中を見つめた。
「メフィスト……」
彼女の呟きに、答える者はいなかった。
地下資材庫の奥にある保守室で、ファウストは横たわっていた。
壊れた作業台の上へ外套を敷き、簡易的な寝台として使っている。周囲には生き残った狙撃部隊が武器を構え、群れと黒蓑の双方を警戒していた。
メフィストはファウストの傍へ膝をつき、何度も名前を呼んでいる。
「ファウスト。もう少しだけ頑張って、家畜が道を作ってる。もうすぐここから出られるよ」
返事はなかった。
「……ファウスト?」
メフィストは震える手を伸ばし、彼の頬へ触れた。
冷たい。
呼吸はまだ残っているが、胸の動きは極めて小さく、間隔も長くなっていた。右腕と腰からの出血は一時的に止まったように見えるものの、それは血が足りなくなり、心臓の力が弱まったために過ぎない。
メフィストの手に白い光が灯る。
「ぼ、僕が治すから……!! 今度は上手くやる。もっと強く、もっとたくさんアーツを使えば、君の腕も傷も全部治る。だから――」
ファウストの左手が動き、メフィストの手首を掴んだ。
「やめろ……」
「ふ、ファウスト!!」
「もう、いい」
「よくないよ。何を言ってるの!?」
ファウストは目を開いたが、その瞳はメフィストの顔へ焦点を合わせられていなかった。
「俺は……もう助からない」
「……嘘だ」
「自分の身体だ。分かる」
「分かってないよ。僕なら治せるんだ。僕のアーツは人を治すためのものなんだよ。近衛局本部でも、死にかけたみんなを立たせた。だから君だって――」
「イーノ」
本名を呼ばれ、メフィストの言葉が止まる。
「俺の話を聞け」
「……嫌だ」
「聞け……これが最後になる」
「最後なんて言わないでよ!!」
メフィストはファウストの手を両手で握った。
「君は僕を置いていかないって言っただろ? ずっと一緒にいるって、僕が何をしても君だけは傍にいてくれるって……」
「……ああ」
「だったら死なないでよ。僕には君しかいないんだ。タルラ姉さんも、みんなも僕を見捨てた。フロストノヴァだって僕たちと離れた。君までいなくなったら、本当に一人になっちゃうじゃないか」
ファウストの指に、僅かな力が戻る。
「お前は、一人でも生きられる」
「無理だよっ!!!」
「生きろ、イーノ……お前には、まだ選べる」
掠れた声には、怒りも非難も残っていなかった。
「選べないよ。君がいないなら、何を選んだって同じさ!!」
ファウストは息を吸おうとしたが、胸が僅かに動いただけだった。
ファウストの手から力が抜け、メフィストが握っていた左手が作業台の縁から垂れ下がる。
「……ファウスト?」
返事はなかった。
「ねえ、ファウスト」
胸は動かず、浅く続いていた呼吸も止まっている。メフィストは彼の肩を揺すった。
「起きてよ。逃げようよ、僕に生きろって言ったじゃないか。だったら君も一緒に来てよ。僕を置いていかないでよ……!!」
何度呼びかけても、ファウストの目は開かなかった。
メフィストはファウストの身体へ縋りついた。
声にならない息が喉から漏れ、肩が小さく震える。涙はすぐには流れず、目の前で起きたことを理解できないまま、少年は動かなくなった友人の胸へ耳を押し当て続けた。
鼓動は戻らない。
「嘘だ……」
やがて、メフィストの口から乾いた笑い声が漏れた。
「こんなの、嘘だよ。僕のアーツがあるのに、ファウストが死ぬはずない。君はただ疲れてるだけだ。少し治してあげれば、また目を開けるよ」
白い粒子が、再び保守室へ舞い上がる。
狙撃兵の一人が近づこうとした。
「メフィスト、やめろ。ファウストはもう――」
「黙れ!」
アーツの光が激しく明滅し、周囲の源石結晶が呼応する。
「家畜を呼ぶ。もっと集めるんだ。ロドスの医者を捕まえて、ファウストを治させる。僕のアーツで足りないなら、龍門中の医者を連れてくればいい」
「そんな無茶な――ん? おい、近づいてくる者がいるぞ!!」
入口を警戒していた狙撃兵が叫んだ。
保守室へ続く通路の奥から、重い足音が聞こえる。
一歩ごとに床が震え、天井から錆と埃が落ちた。人間が歩く音ではない。群れの不規則な足音とも、黒蓑の静かな動きとも異なる。
暗い通路の奥に、二つの赤い光が浮かび上がった。黒いパワーアーマーを纏った巨人が、チェーンソードを片手に保守室へ入ってくる。
「お前……」
メフィストの顔に、憎悪が浮かんだ。
近衛局本部で、ファウストに致命傷を負わせた機械兵とは違う。それでも、この黒い巨人も同じから来たアスタルテスの一人であり、ファウストと共に逃げる道を阻む敵だった。
「君たちが邪魔をしたから……ファウストが死んだ」
メフィストの周囲へ白い粒子が集まり始める。
「みんな、ここへ来い」
声がアーツへ乗り、地下資材庫の外へ広がっていく。
「近くにいる家畜は全部来い! こいつを殺せぇっ!! ロドスも黒い奴らも、何もかも壊して――」
アイゼンヴァルトが動いた。
メフィストが命令を最後まで言い終えるより早く、黒い巨体が数メートルの距離を一歩で詰める。
「なっ――」
巨大な左手がメフィストの首を掴んだ。
細い身体が、床から軽々と持ち上げられる。両足が宙に浮き、メフィストは苦しげにアイゼンヴァルトの手首を掴んだ。
「メフィスト!」
狙撃部隊の生き残りが一斉に武器を構えた。照準はメフィストを持ち上げるアイゼンヴァルトへ向けられたが、引き金が引かれるより早く、背後の暗がりから黒蓑が襲いかかる。
鋭い刃が急所を貫き、鋼線が首へ巻きつく。四人の狙撃兵はまともに反撃する間も与えられず、次々と床へ倒れた。
それでも、アイゼンヴァルトは彼らへ視線を向けなかった。赤いレンズの奥にある意識は、片手で吊り上げた少年だけへ注がれている。
「停戦合意は、貴様自身が破った」
「違う……!! 僕は、ファウストを助けるために……!!」
「貴様はアーツによって兵の意思を奪い、敵味方の区別なく襲わせた。感染を拡大させ、龍門とロドスの双方へ攻撃を仕掛けようとした事実は変わらん」
「黙れ!!」
「理由は問わん。合意が失効した以上、貴様を保護する必要もない」
淡々とした宣告が終わると同時に、メフィストの喉を包む五指が、逃げ場を塞ぐようにゆっくりと閉じていった。
メフィストは抵抗しなかった。既にその目には、アイゼンヴァルトも黒蓑も映っていない。視線の先にあるのは、冷たい床へ横たわり、二度と自分の名を呼ばなくなったファウストだけだった。
「さー、しゃ……」
唇から零れた声は、最後まで名前の形を保てなかった。
耳の奥を満たしていた群れの声が、一つずつ遠ざかっていく。龍門の各地で荒れ狂っていた操り人形たちとの繋がりが薄れ、視界の端から光が失われていった。
「
アイゼンヴァルトの呟きがぼんやりと耳に入る中、最後に浮かんだのは古い診療所で、死なないと言い切ったファウストの顔だった。
その姿へ手を伸ばそうとした瞬間、メフィストの意識は、二度と朝の訪れない暗闇へ沈んだ。
こんなのひどい!!と思ったそこの貴方、冷静に考えてみてください。