――アーミヤが〈混沌〉へ触れた可能性がある。
通信を受けたヴェイルは、チェルノボーグ中枢区画の東側を走っていた。
銀灰色のパワーアーマーが一歩踏み込む度に、亀裂の入った路面が重圧を受けて砕ける。ネメシス・フォースハルバードを片手に保持したまま、倒壊した建物と放棄された車両の間を縫うように進み、最短の経路でヴァレリウスたちのいる広場を目指していた。
先ほど感じ取った〈混沌〉の気配は、既に消えている。
だが、それは脅威が去ったことを意味しない。
悪魔の力が痕跡さえ残さず消えることなど、本来ならばあり得なかった。僅かな接触であったとしても、触れられた者の精神には歪みが残る。夢、衝動、囁き、知識への渇望。最初は無害に思える変化であっても、時間と共に魂へ根を張り、やがて本人すら自覚できない形で思考を蝕んでいく。
何より、アーミヤが聞いたという言葉が事実ならば、触れた相手は数多存在する悪魔の一体ではない。
血と殺戮を司る、〈混沌〉の大いなる四柱。その一角だった。
ヴェイルが次の区画へ通じる交差点へ差しかかった時、右手にある細い路地の奥で何かが動いた。
彼は即座に足を止めた。ハルバードを両手で構え、切っ先を路地の暗がりへ向ける。装甲の視覚装置が熱源と生体反応を捉え、一人分の人影を輪郭として表示した。
「姿を見せよ。三秒待つ、それまでに武器を捨てて出てこなければ、敵性存在と判断する」
ヴェイルの声が路地へ響くが、返答はない。
一秒、二秒。三秒目を数え終える直前、暗がりから一人の女性が姿を現した。
長い髪の間から二本の角が伸び、腰には鞘へ収められた剣がある。着衣には戦闘と潜入による汚れが付着していたが、レユニオンの装備とは異なっていた。女はハルバードの切っ先を見ても足を止めなかった。右手を剣の柄へ近づけたまま、銀灰色の巨人を見上げる。
「……貴様も、ヴァレリウスたちの仲間か?」
ヴェイルの切っ先が僅かに上がった。
「その名をどこで知った」
「龍門で会った。ヴァレリウスだけではない、アイゼンヴァルトという黒い鎧の大男もいた」
「質問に答えよ。貴様は何者だ」
「チェン・フェイゼだ」
女は短く名乗った。
「龍門近衛局の――」
そこで一度言葉を止め、自分の服へ残っている近衛局の意匠へ目を落とす。
「いや、もう違う。私は近衛局の人間ではない。だが、ロドスと敵対するつもりもない。タルラを止めるために、ここへ来た」
ヴェイルはハルバードを下ろさなかったが、その名には聞き覚えがあった。
龍門近衛局督察隊長、チェン・フェイゼ。ヴァレリウスやドクターから、龍門における作戦報告の中で何度か名前を聞いている。外見的特徴も一致しており、腰にある剣も報告にあったものと同じだった。
「龍門近衛局督察隊長チェン。そう聞いている」
「さっき言っただろう。もう近衛局の人間じゃない」
「肩書きとは、口頭で捨てたと宣言すれば消えるものではない」
「だったら、どうすれば納得する?」
「説明せよ。何故、龍門の治安組織を指揮する立場にあった者が護衛も部隊も伴わず、一人でウルサスの移動都市へ侵入している」
チェンはすぐには答えなかった。ヴェイルの向こう側にある街路を一度見た後、剣の柄から僅かに手を離す。
「……長い話になる」
「簡潔に話せ」
ロドスが龍門を発った後、チェンはウェイ・イェンウと対峙した。
チェルノボーグが龍門へ接近していること、そしてタルラが都市の中枢にいる可能性が高いことを知ったチェンは、近衛局の部隊を率いてチェルノボーグへ向かうことを主張した。しかし、ウェイはそれを認めなかった。
龍門近衛局の督察隊長が武装した部隊を率いてウルサスの識別情報を維持している都市へ乗り込めば、それは単なる追跡や救援では済まない。龍門によるウルサス領への武力侵入と解釈され、黒蛇が望んでいる炎国とウルサスの戦争を自ら始めることになる。
ウェイの判断は、統治者として間違ってはいなかった。だがチェンにとってタルラはただのレユニオンの指導者ではない。自分の過去に深く関わる、長い間追い続けてきた相手だった。
二人の言い争いはやがて龍門の安全保障や近衛局の任務から離れ、ウェイ、チェン、そしてタルラの過去へ及んだ。互いに口にしなかったこと、意図的に伏せてきたこと、家族という言葉だけでは整理できない感情がぶつかり合った。
最後にチェンは、近衛局督察隊長としての地位をウェイの前で捨てた。
龍門の代表でも、近衛局の指揮官でもない。一人の人間としてタルラと向き合うために、チェルノボーグへ向かうことを選んだ。
「それで、ここまで来た」
説明を終えたチェンが言う。
「だが、妙なことがある。ウェイは私を止めると言った。それなのに、近衛局へ追撃を命じなかった。検問にも私の情報は回っていなかった。チェルノボーグへ移るための経路でも、妨害らしい妨害を受けていない」
「統治者は貴様を公には制止し、私的には通した可能性がある」
ヴェイルが答える。
「貴様が近衛局の地位を保ったまま侵入すれば、龍門の作戦となる。だが、地位を捨てた一個人ならば、少なくとも公式には龍門と切り離せる。失敗した場合は、命令に背いた元近衛局員の独断として処理できる」
「成功した場合は?」
「龍門が兵を動かすことなく、タルラを止められる」
チェンの表情が僅かに歪んだ。
「私が勝手に出ていくよう仕向けたと?」
「可能性を述べたに過ぎぬ。貴様らの過去を知らぬ私に、統治者の内心までは断定できない」
ヴェイルはようやくハルバードの切っ先を下げた。
「だが、ヴァレリウスたちから聞いた人物情報とは一致している。現時点では敵ではないと判断する」
「随分と慎重なんだな」
ヴェイルは広場へ続く街路へ向き直った。
「ロドスはどこにいる?」
「この先の広場だ」
「なら、私も行こう」
「私と行動を共にせよ。単独で先行することは認めぬ」
チェンの目が鋭くなる。
「認めない? 私はお前の部下じゃない」
「貴様が何者であろうと関係ない。現在、ロドスの最高責任者自身にも制御できぬ事態が発生している。そこへ事情を知らぬ者が独断で加われば、混乱を拡大させる」
「……アーミヤに何があった」
「今は話せぬ」
「それで大人しく待っていろと言うのか?」
「私の傍を離れるなと言っている。貴様の目的がタルラを止めることであるなら、ロドスとの合流を優先せよ」
「私はこのために近衛局を捨てた。奴と向き合うことだけは譲れない」
「過去との決着を急ぐあまり、現在を破壊するな」
チェンの右手、再び剣の柄へ近づいた。ヴェイルもハルバードを完全には下ろしていない。両者の間に張り詰めた沈黙が生じるが、その緊張は長く続かなかった。
ヴェイルとチェンが、ほぼ同時に同じ方向へ顔を向けたからだ。
街路の先、先ほどまで誰もいなかったはずの場所に二人の人影が立っていた。背丈はアスタルテスほどではないが、通常の人間より遥かに大きい。全身を黒い外套と重厚な装備で覆い、顔は異様な形状の仮面によって完全に隠されている。
二人とも、既に剣へ手を掛けていた。
「……何者だ」
チェンが問いかけるが返答はなかった。そしてヴェイルは一目見ただけで、二人の内側にあるものを感じ取っていた。
魂と肉体の境界に異物が封じ込められている。それは〈歪み〉から生まれた存在ではない。四大神の印も、悪魔が現実へ侵入した際に残す傷も感じられなかった。
だが、人の内側に潜むべきものではない。冷たく、深く、現実を侵食しようとする飢えた意志。その存在は装備や肉体によって無理やり抑え込まれながらも、周囲の空間へ僅かな影響を及ぼしている。
そして、その異物はヴェイルの存在に気づいた瞬間、自らの力をさらに奥へ引き込めていた。
隠れているか、あるいは恐れている。
皇帝の利刃もまた、目の前にいる銀灰色の巨人が何者であるかを悟っていた。
「見つけたぞ。北部地区へ降下した、記録にない特異存在」
一人が、仮面の奥から低い声を発する。
「……貴様らが、この都市で感じていた異様な気配の主か」
ヴェイルがハルバードを構えると、二人の利刃も剣を抜いた。
「質問に答えよ。貴様らの肉体へ封じられているものは何だ」
「それを知る必要はない」
「人の魂へ異質な存在を繋ぎ止め、その力を周囲へ漏らしている。貴様らが自ら望んで受け入れたものであるならば、その時点で排除対象となり得る」
「排除されるのは貴様だ、異邦人」
もう一人の利刃が告げる。
「我々は、レユニオンに従うためにここへ来たのではない。チェルノボーグに現れた青い巨人たちの正体と、その目的を確認するために派遣された」
チェンの表情が変わった。
「……派遣された? 誰にだ」
「ウルサスに答えを求める立場にあると思うか、チェン・フェイゼ」
自分の素性を知られていると悟り、チェンが剣を鞘から僅かに抜く。
「レユニオン内部の工作員、第三軍の観測部隊、そしてタルラから得られた情報を照合した。異邦の戦士たちはこの世界のいかなる兵とも異なる。都市の防御を単独で突破し、遊撃隊を正面から押し戻し、既存の兵器体系では説明できない武器を使用する」
利刃の仮面がヴェイルへ向く。
「我々の任務は観察と識別。ウルサスへ利用可能であるならば、その方法を探る。脅威となるならば捕獲し、不能ならば排除する」
「それが貴様らの目的か」
「青い巨人たちは既に戦闘へ拘束されている。だが、貴様は報告に存在しなかった」
利刃の周囲から黒い靄が漏れ始める。
「そして貴様がこの都市へ入った時、我々の内なる〈国土〉が変化した。自ら身を潜め、貴様から遠ざかろうとした」
「……やはり、貴様らの内にいるものは私を恐れているのだな」
「恐怖などではない。自惚れるな、異邦人」
「ならば、何故隠れる」
利刃は答えなかった。
代わりに黒い靄が足元から街路へ広がり始め、急速に膨れ上がる。
それは煙のようでいて、そうではなかった。風の流れに従わず、路面や壁へ染み込むように広がっていく。靄に触れた建物の輪郭が歪み、直線だったはずの壁が内側へ湾曲する。落下した瓦礫が地面へ届く前に方向を変え、見えない力へ引かれるように横へ滑った。
街路の幅が伸び縮みし、距離の感覚さえ曖昧になっていく。物理法則自体が靄を発する存在に都合の良い形へ書き換えられていた。
「下がれ! それへ触れるな、呼吸もするでない!!」
ヴェイルが叫ぶ。
異常を察していたチェンは、命令へ反発しなかった。地面を強く蹴り、後方にある交差点まで飛び退く。着地と同時に剣を抜き、迫ってきた靄の一部を斬り払ったが、刃を通過した黒い霧は瞬く間に繋がり直した。
その瞬間、ヴェイルの周囲を黒い〈国土〉が覆い尽くし、銀灰色の巨体が靄の中へ消えた。
「――おい!!」
チェンが靄に包まれたヴェイルに叫ぶが、返答はない。
二人の利刃は剣を構えたまま黒い領域を見つめていた。
「未知の存在であろうと、国土の内では――」
利刃の言葉が途中で止まった。
黒い靄の奥に、青白い光が灯ったからだ。最初は点に過ぎなかった光がゆっくりと広がっていく。黒い靄がそれを覆い隠そうと渦を巻くが、光へ触れた部分から薄れ、押し返されていった。
二人の利刃が同時に一歩退く。
「何だ、これは……」
青白い光の中心でヴェイルは片膝をついていた。ネメシス・フォースハルバードの石突きを地面へ突き立て、両手で柄を握っている。銀灰色の装甲へ刻まれた祈祷文が一つずつ光を放ち、胸部、肩部、脚部に取りつけられた純潔の証が風もないにもかかわらず激しく揺れていた。
ヴェイルの口からチェンには理解できない言葉が発せられている。響きも文法も、テラで用いられているどの言語とも異なっていた。だが、それが祈りであることだけは理解できた。
一語が発せられる度に青い光は強くなる。現実を侵食していた黒い領域が押し戻され、歪んでいた建物の輪郭が本来の形へ戻っていく。横へ落ちていた瓦礫が再び地面へ引かれ、街路を覆っていた異様な圧力が薄れていった。
〈聖域〉――サンクチュアリ。
グレイナイトが行使するサイキック能力の一つ。
悪魔と邪悪な精神存在を拒絶し、術者とその周囲にいる者を守るための防御術。その力は単なる障壁ではなく、現実へ侵入しようとする異質な意志を排除し、空間そのものへ正しい在り方を強制する。
二人の利刃は国土へさらに力を注ぎ込んだ。
黒い靄が膨れ青い光へ押し寄せるが、境界は動かなかった。やがて青い光が黒い領域を少しずつ押し返し始める。
「あり得ない。国土が……拒絶されている?」
利刃の声に、初めて明確な動揺が混じった。
ヴェイルは祈祷を終えると、ハルバードを握ったまま立ち上がった。彼自身も疑問を抱いていた。利刃の内側にいるものは、〈混沌〉の悪魔ではない。
〈歪み〉へ繋がる痕跡もなく、四大神の力も帯びていない。それにもかかわらず、悪魔を拒絶するための〈聖域〉が有効に作用している。
起源が異なるだけで、存在の構造が似ているのか。あるいは〈聖域〉が拒絶するものは〈混沌〉そのものではなく、人の魂と現実へ侵入する異質な意志なのか。
今は判断できないが、一つだけ確かなことがある。目の前にいる二人は明らかに人ならざる存在を肉体へ封じ、その力によって現実を侵食している。それを放置する理由はない。
ヴェイルはハルバードを引き抜いた。刃の周囲へ青白い稲妻が集まり、装甲へ刻まれた文字から溢れ出した精神エネルギーが柄を通じて刃へ流れ込む。
「――貴様らが何を国土と呼んでいようと、私にとっては名を持たぬ邪悪に過ぎぬ」
ヴェイルがハルバードを薙ぎ払うと、刃から放たれた青い光が半円状に街路を走る。黒い靄が切り裂かれ、触れた部分から燃えるように消滅していった。国土によって歪められていた空間が一挙に修復され、周辺の建物が大きく震える。
一人の利刃が剣を強く握り、もう一人が制止する。
「待て、奴へ不用意に近づくな。国土の力が薄れている」
「異邦人一人を前に退くつもりか!」
「これは未知の――」
警告を最後まで聞かず、利刃はヴェイルへ飛びかかった。
黒い外套が広がり、その巨体が靄と共に視界から消える。次の瞬間には、ヴェイルの頭上へ現れていた。振り下ろされた剣が、銀灰色の兜を狙う。
ヴェイルは僅かに上体を逸らした。巨体からは想像できない速度で姿勢を変え、ハルバードの柄を滑らせるように両手の間で動かす。刃の軌道が反転し、利刃が剣を振り下ろすより早くハルバードの切っ先が仮面の中央へ迫る。
利刃は空中で身体を捩った。切っ先が仮面の側面を掠め、黒い装甲の一部を削り取る。利刃はそのままヴェイルの横を通過し、路面へ着地した。
完全に避けたわけではなかったため、仮面の裂け目から僅かな黒い靄が漏れ出している。
その瞬間、異様な雰囲気を感じ取り利刃は即座に振り返る。
だが、ヴェイルが既に左手を向けていた。銀灰色の掌へ青白い光が集まり、周囲の大気が歪む。
「――退け!」
もう一人の利刃が叫ぶが、間に合わなかった。
ヴェイルの掌から青い稲妻と圧縮された精神エネルギーが放たれる。利刃の身体が光に包まれた。黒い装甲の表面を稲妻が走り、内部へ封じられている存在と肉体を繋ぐ経路へ流れ込む。利刃は剣を取り落とし、全身を硬直させたまま数歩後退した。
仮面の奥から言葉にならない呻きが漏れる。やがて身体を支えられなくなり、その場へ倒れ込んだ。
もう一人の利刃には倒れた同胞の内部で起きた変化が理解できた。そこに封じられている悪魔の影が、極端に薄くなっている。消滅したわけではないが、先ほどまで肉体の奥で蠢いていた力が縮み上がり、外界へ触れることさえ拒むように深く隠れている。
――恐れている。
その認識が生まれた瞬間、利刃自身の中にも同じ感情が生じた。皇帝の利刃が周囲へ与える恐怖は内なる存在の力となる。敵が怯え、絶望し、抗う意志を失うほど、国土は深く現実へ広がっていく。
その自分が、今は目の前の銀灰色の巨人を恐れている。
理解し難い皮肉が、不快感と怒りへ変わった。
「貴様……!」
利刃は低く唸り、剣を両手で構えた。
「……恐怖に任せて挑むか」
ヴェイルがハルバードを正面へ向ける。
「黙れ!」
利刃が地面を蹴り、剣とハルバードが激突する。
甲高い金属音と共に火花が散り、衝撃が街路の窓ガラスを震わせた。
利刃は力任せに押し込まなかった。剣を滑らせ、長柄武器の内側へ潜り込もうとする。ヴェイルは柄の中央を軸としてハルバードを回転させ、石突きで剣の側面を打ち払った。
利刃が姿勢を崩すより早く横薙ぎの刃が迫り、黒い剣がそれを受け止めた。再び火花が散り、二人は僅かに離れてほぼ同時に踏み込んだ。
剣とハルバードが幾度も衝突する。利刃の剣術は単に超常的な力へ依存したものではなかった。ヴェイルの長い間合いへ正面から入ることを避け、街路の壁や瓦礫を利用して死角を作り、国土による僅かな空間の歪みを攻撃へ組み込んでいる。
直線だった剣の軌道が途中で曲がり、ヴェイルの首元へ迫った。ヴェイルは上体を沈めて回避したが、剣先が肩部装甲を掠める。銀灰色の表面に深い傷が走った。
利刃はそのまま剣を引き、胸部を狙って突き出す。ヴェイルはハルバードの柄で切っ先を受け流し、装甲靴を利刃の胸へ叩き込んだ。
黒い巨体が後方へ弾き飛ばされる。利刃は空中で回転して着地したものの、立ち上がるまでに僅かな遅れが生じた。
〈聖域〉の内側へ踏み込む度、利刃の力は失われている。外套から溢れていた黒い靄は薄れ、空間を歪める範囲も狭まっていた。肉体の中へ封じられた存在が青い光を嫌い、宿主から力を引き上げている。
利刃自身の剣技は変わらないが、それを支えていた異常な力と耐久性が失われつつあった。
「何をした……」
利刃が呻く。
「貴様らの内にいるものを、現実から切り離している」
「国土は、ウルサスそのものだ」
「否、それは国などではない。貴様らの肉体を巣とする寄生者だ」
ヴェイルが一歩踏み込む。
利刃が怒声と共に斬りかかった。ヴェイルはハルバードで剣を受け、刃を絡めるように捻る。
黒い剣の軌道が外側へ逸らされ、利刃の胸部が開く。ヴェイルは柄を両手で押し出した。ネメシス・フォースハルバードの切っ先が黒い装甲を貫通する。刃は胸部から背中へ突き抜け、青い稲妻が傷口から全身へ広がった。利刃の身体が大きく震え、握っていた剣が路面へ落ちる。
ヴェイルはハルバードを突き刺したまま相手を持ち上げた。仮面の奥から、血と共に掠れた声が漏れる。
「貴様は……何者だ……」
ヴェイルは答えなかった。ハルバードの柄を両手で握り直し、刃を上方へ向けて一気に振り抜く。
胸を貫いていた刃が黒い装甲を内側から切り裂いた。利刃の上半身が二つに割れ、左右へ分かれて路面へ落下する。中にあった肉体と装備の破片が散り、その中心から大量の黒い靄が噴き出した。
封じられていたものが、器を失って解放される。
靄は空中で膨れ上がり、一定の形を持たない巨大な影となった。幾つもの手足にも、角を持つ獣にも見える輪郭が瞬く間に入れ替わり、周囲の空間を再び歪めようとする。
だが、その影は先ほどまでの力を持っていなかった。
〈聖域〉によって弱められ、宿主との繋がりも断たれている。
青白い光へ触れた部分から黒い影が燃えるように崩れていった。
ヴェイルはハルバードの刃を影へ向ける。装甲へ刻まれた聖句が一斉に輝き、刃の周囲へ精神エネルギーが集中した。
黒い影が逃れようと広がるが、ヴェイルは短い祈りを唱えてハルバードを振り下ろした。
青白い稲妻が影を貫く。声とも衝撃とも判別できない振動が街路を満たし、建物の壁面へ亀裂が走った。黒い靄は中心から引き裂かれ、細かな粒子となって青い光の中へ消えていく。
最後に残った僅かな影も、ヴェイルが刃を向けると同時に燃え尽きた。
残滓はない。〈歪み〉へ逃げ込む気配も、別の宿主へ移ろうとする動きもなかった。
――完全に消滅している。
ヴェイルは暫くその場所を見つめた。
やはり、〈混沌〉の悪魔とは異なる。悪魔であれば、現実から肉体を失っても〈歪み〉へ戻る。真名や特別な儀式を用いずに存在そのものを消滅させることは容易ではない。
今の存在は現実に根差していた。異質でありながら〈歪み〉ではないどこか別の領域から来たもの。それでも、グレイナイトの祈祷とサイキック能力は有効だった。
その意味を考えるには、情報が足りない。
ヴェイルはハルバードを持ち直し、最初に倒した利刃へ向かって歩き始めた。
青い稲妻を受けた利刃は未だ路面に倒れているが、死んではいない。だが立ち上がる力も残されていなかった。仮面の奥から荒い呼吸が漏れ、指先が僅かに動いている。
内部へ封じられた存在は完全には消滅していないものの、その影は極めて薄い。〈聖域〉の中で力を封じられ、宿主の肉体を支えることもできなくなっている。
ヴェイルは利刃の首を片手で掴んだ。黒い装甲ごと握り締め、巨体を軽々と持ち上げる。利刃の両足が地面から離れた。
「聞こえているな。貴様らの内に何を封じた。誰が、どこで、何のために、それを人の肉体へ入れた」
ヴェイルの青いレンズが仮面の奥を覗き込む。
利刃は答えなかった。ヴェイルの指へ力が加わり、首を覆う装甲が軋む。
「国土とは何だ。貴様らと同じ存在は何人いる。第三軍はどこに展開し、タルラと何を取り決めた。青い巨人たちについて、どこまで知っている」
仮面の奥の呼吸が止まりかける。
「洗いざらい話してもらう。拒む権利が残されているとは思わぬことだ」
ヴェイルは感情のない声で告げた。
少し離れた場所では、チェンが剣を手にしたまま立ち尽くしていた。