fragments of “HEART”   作:ladybug

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黎明

 

 その日は朝から何かが噛み合わなかった。

 

 ドフラミンゴを無理矢理連れ出した女、コラソン。彼女は日増しに様子がおかしくなり、このところはいつも何かに怯えたように行動していた。

 窓を過ぎる雲の影、町の人混みで白服の人間とすれ違う時、買い物の最中、夜中の鏡台前。どこにいても、彼女は何かから逃れるように瞳孔の開いた目でここではないどこかを見つめていたのだ。

 ぶつぶつと独り言を呟いては酒をあおり、そうかと思うと妙に明るく振る舞ってドフラミンゴを抱き上げる。

 

 何がしたいのかは数日経って理解できた。

 笑顔で近付いてくる時、彼女は決まって大きな布を持ってドフラミンゴを包む。

 彼女はきっと、ドフラミンゴを隠そうとしていた。

 

 何から?

 分からない。

 

 そもそもだ。コラソンという狂人を理解しようなどと、ドフラミンゴは考えていなかった。

 

 寝ている間に薬物を打ち込まれ、ファミリーから連れ去られ、そのまま旅に連れまわされている。理由を聞けば、「ファミリーはあなたには危ない場所だから」と、決まって他所を向きながら、彼女は答えた。

 

 嘘に決まっている。

 ドフラミンゴをファミリーから引き離すことが目的で、さらに言えば、その目的ですら旅のうちに虚ろになっていた。

 その目がドフラミンゴを見ていないことは明白。笑顔とて偽りでしかなく、逃げ出そうとすれば縄や鎖で縛られる。

 誰が、こんな猟奇的な人間を信じるのだ。

 

 ドフラミンゴは考えた。

 この女を利用しなければならない。

 気狂いのピエロ女だが、これでもボスの妹だ。多少の理不尽は許される。だからこそ、この女を利用し、操って、ファミリーに戻るよう焚き付けるのだ。

 

 コントロールのために薄寒い対話を続け、彼女を観察し続ける日々。

 その内に気付いたことがあった。

 

 コラソンは、実の兄を恐れている。

 

 コラソンはボスの実の妹だ。

 ドフラミンゴから見て、ボスはコラソンに甘かった。それはもう甘やかしていた。

 危険な任務に携わることを許さない。コラソンの好むぬるい仕事、たとえば孤児の相手などばかりさせていた。大道芸が得意なピエロ女なのだ。お似合いではあったと思う。

 

 だからこそ、コラソンはファミリーで孤立していた。

 ボスの寵愛を一身に受けていることへの嫉妬、ボスを崇拝する配下からの中身のない賛美。そして、ボスの優しさ。それら全てがコラソンを特別な立場に押し込め、彼女はファミリーに馴染んでいなかったように思う。

 

 この誘拐劇の間中、コラソンはしきりに諭してきた。

 兄は巨悪だ。人を殺した。戦争を起こした。武器を売っている。世界の敵だ。一緒にいてはいけない。慕ってはいけない。あれはバケモノだ。あなたを利用しようとしているバケモノだ。私はあなたを救いたい。大丈夫、信じて。

 

 そう話す時の彼女は必死だった。その目はドフラミンゴを見ているようで何も映さず、熱に浮かされたような言葉だけが上滑りし続ける。

 

 気味が悪かった。

 

 コラソンの目はドフラミンゴを見ていない。そして、彼女の兄のことさえ見ていなかったからだ。

 

 ドフラミンゴは彼女の精神状態を観察しながら、比較的安定している時を狙って、ボスの話をした。

 人を助けていたこと。医者として尽力していたこと。孤児院の子ども達に勉強を教えていたこと。傷を気遣ってくれたこと。意見を聞いてくれること。目を合わせて話してくれること。

 それらはボスの一側面でしかないが、コラソンが決して見ようとしなかった、あるいは故意に無視し封殺した事実でもあった。

 

 この手の話をするとコラソンは怯えたり不審がったり、時に激昂したりし、しばらくすると安定を取り戻す。

 こうして揺さぶりをかけながら、ドフラミンゴはコラソンを誘導する機会を窺い続けた。

 

 だが、そんな日々が続けば当然疲弊する。

 その日はコラソンが珍しく安定しており、二人で買い出しに出かけた。

 市場で果物やパンを購入し、帰路につく直前のことだ。

 コラソンの様子がおかしくなった。

 どうやら白服の集団が遠くで屯ろしていたようで、それに反応したらしかった。

 

 引き攣った笑みを浮かべたコラソンはドフラミンゴの肩を抱き、無理矢理コートの内側に押し込もうとする。

 日々コラソンの観察に神経を尖らせていたドフラミンゴにはその動作が我慢ならない。

 気付けば故郷の言葉でコラソンを罵倒し、突き飛ばしていたのだ。

 

 愚行を犯したと気付いたときにはもう遅かった。

 

 腕を掴まれ、市場の真ん中に引き摺り出される。石畳に投げ出され、呻く前に背中を踏まれた。

 暴れて逃れた先に見たのは黒々と暗い目の数々。

 怒りで肌を赤黒く染めた男が叫ぶ。

 

「天竜人だ! 護衛がついてねェ!」

「噂のガキじゃねェか? ほら、聖地を捨てたとかいう気狂いの」

「まだ生きてやがったのか!」

 

 人間の騒めき。嫌悪、憎悪、怨嗟。およそ同じ生き物を見るものとは思えない血走った目玉。

 罵倒する声は加速度的に増え、市場は一瞬で処刑場に変わる。

 夕焼けはあの日の炎に似て赤く、情けなくもドフラミンゴは動けなくなっていた。

 

 ばらばらと石が降ってくる。腕に、足に、顔に、背中に。ありとあらゆるものが投げつけられる。

 這いずって逃げれば追いかけられ、髪を掴んで顔を上げさせられた。強か殴られ、視界が揺れる。腹を蹴られた。反吐を吐いたら石畳に叩きつけられて踏み躙られる。

 怒りを覚える暇すら与えられず、ただ嬲られ続けた。角材で腕を殴られた時に皮膚が裂け、逃げて引きずった足は傷だらけになって砂利に塗れていた。

 

「やめなさい!」

 

 叫ぶ声が聞こえたのは、その時だった。

 もう顔を上げるのも億劫で、それでもなんとか肘をついて這いずる。暴力の止んだ今、この機に乗じて逃げようとしたのだ。

 

「何をするの!? 子どもに、なんてことを!」

 

 金切り声が聞こえた。声は存外近く、それ以前に聞き慣れた響きを伴っている。

 ドフラミンゴと民衆の間に割り入った背中。二つくくりのおさげに貧乏くさいシャツとスカート。

 先程突き飛ばしたはずのコラソンがそこにいた。

 

「この子が何をしたっていうの!? 何もしてないじゃない!」

 

 怒鳴るコラソンの背中越しに見た民衆は皆、滂沱の涙を流しながらも虚な目をしていた。瞳孔が開ききり血走った目に悍ましい顔つき。肌には血管が浮かび、叫びすぎて流れた血や涎が口元を汚している。

 

「……何って。馬鹿なこと言わないでよ」

「あんたこそ何をいってんだ」

「そいつは天竜人だ。わからねェのか」

 

 ざわり、ざわりと。声が高まっていく。人々は肩を震わせ、涙を流し、拳を握りしめて呻いていた。

 

「そうだ! そいつは天竜人なんだ!」

「奴らはおれ達の村を焼き! 娘達を連れ去り奴隷にして、甚振って殺した!」

「私の国は飢饉で滅んだのよ!? 天上金が払えないからって、みんな、水一滴ですら奪われて、飢えて死んだの!」

「おれの弟は天竜人に子どもを奪われて死んだ! 姪だってぼろぼろに弄ばれて、自ら命を……!」

 

 持っていた角材を振り上げ、村人が叫んだ。

 

「天竜人は悪魔だ! 悪魔を殺して何が悪い!?」

 

 人々の賛同する声、足を踏み鳴らし手を打ち鳴らす音。それがうねりとなってドフラミンゴに降りかかる。

 

 知らない。

 こんな村に、ドフラミンゴは来たことがない。

 彼らのいう天竜人はドンキホーテ家とは関わりのない赤の他人だ。

 もしかすると、ドフラミンゴの日常を作り出していた天上金が彼らを滅ぼしたのかもしれないが、そんなことは知ったことではない。

 

 それでも、こうして罵られることが当たり前なのだとは気付いていた。

 天竜人の罪云々の話ではない。それほどまでに己は無力なのだと思い知らされていたのだ。

 歯を食いしばって耐えるドフラミンゴを庇うように、コラソンが両手を大きく開いて立ち上がった。

 

「やめて! あなた達の受けた被害はわかった。それでも、やめてほしいの。この子は関係ないのよ」

「関係ないわけあるか! 悪魔の子は悪魔だ!」

「違う!!」

 

 即座に否定されたからだろうか。コラソンがぎりりと奥歯を噛み締める音が響いた。彼女は顔を上げ、叫ぶ。

 

「この子は!」

 

 コラソンは振り返り、ドフラミンゴを見た。

 そこで彼女は目を見開く。

 

「……この、子は」

 

 声が、途切れた。

 コラソンは血の気の引いた顔でドフラミンゴを見つめていた。まるで全く知らない誰かを見るような、あるいは自分が殺してしまった死骸をみるような、ひどく動揺した顔だった。

 

 ああ、そうか。

 ドフラミンゴは気付く。

 

 悪魔だとか人間だとか元天竜人だとか。そんなことですら、彼女は回答を持たないのだ。

 何も言えないに決まっている。

 当たり前だった。

 コラソンはドフラミンゴを見ていない。

 どんな人間かなど、知ろうともしなかったのだから。

 

「退け!」

 

 村人の手で引き離されたコラソンは、青褪めたまま、瞬きもせずにドフラミンゴを見ていた。

 

 皮肉なものだ。

 袋叩きの私刑沙汰になって初めて、コラソンはドフラミンゴを見た。助ける守るなどと嘯いていたくせに、初めて。

 

 血反吐を吐いて笑うドフラミンゴの髪を村人が掴む。投げ捨てられ、顔面からゴミ捨て場に突っ込んだ。痛みより怒りが込み上げる。だが、暴力から逃れる前に次の暴力が振るわれた。

 

「見ろよ、こいつ! 悪魔のくせに、一丁前に赤い血なんか流しやがる!」

「お前ら神なんだろ? これくらいじゃあ痛くも痒くもないよな!」

 

 再び市中に引き摺り出され、石を投げつけられる。ほとんどは当たらない。心のどこかで天竜人に怯えているのだろう。

 天竜人とはそれほど強く、そんな強大な力をドフラミンゴは奪われてしまったのだ。

 

 許せなかった。

 家族をおいて死んだ弱い母も、ノロマで運が悪く弱かった弟も、頭が弱く無知だった父も、何も知ろうともせずこんな場所にドフラミンゴを引き摺り出したコラソンも。

 世界中全て、何もかもが憎かった。

 

 がつんと音がして、頭が揺れる。

 突然視界が片方真っ赤に染まり、姿勢が保てなくなった。

 頭に石が当たったのだと気付いて呻く。声が出ない。身体に力が入らない。

 

 起き上がれないならと背中を丸めた。頭を庇えば、そこを狙って執拗に石が打ち付けられる。

 今なら殺せると思われたのだろう。

 

 頭を庇った腕の隙間から、たまたまコラソンが見えた。

 彼女は呆然と俯いたままで、ドフラミンゴを見てすらいなかった。

 

 ほら、見ろ。

 やっぱり嘘だった。

 何が『救いたい』だ。

 何も知らないくせに。

 何も知ろうともしなかったくせに。

 

 湧き上がる侮蔑と諦念がドフラミンゴの顔を歪ませる。

 それはきっと笑みの形をしていた。

 もうどうでもいい。あの女が苦しめばそれで十分だと、そう思った時、コラソンが顔を上げた。

 

 その目が、ドフラミンゴを見た。

 

「やめて、やめてよ」

 

 それは最初救いを乞うような震え声だった。

 

「ねえ……」

 

 声は次第に大きくなり、やがて醜く掠れた怒号に変わる。

 

「ねえ、誰か答えなさいよ! 今、この子があんた達に何かしたの!? 何もしてないでしょ!? 私、見てたんだから!」

 

 顔を赤く染めてみっともなく手を振り回し、コラソンが声を張り上げた。

 

「あんた達も見なさいよ! 蹲って、何も抵抗できてないじゃない! 何が悪魔の子よ! ふざけるのもいい加減にして!」

 

 声を枯らし、手近にあった籠を薙ぎ倒して、コラソンは喚き散らす。慄く人々を見渡し、誰も理解しようとしない様に我慢ならないというように地団駄を踏み、彼女は絶叫した。

 

「あんた達はただの子どもを悪魔に仕立て上げようとしているだけ! 関係のない子どもに大人達の罪を押し付けて、昔の恨みを晴らすなんてどうかしてる!」

 

 あまりに声が大きい。ただでさえ奇妙なピエロメイクは崩れに崩れ、迸る怒りでさらに面妖な風体を醸し出している。

 血の上った肌は赤く、浮き出た血管は今にも裂けそうなほどで、遠目に見ているドフラミンゴでさえ呆気に取られる恐ろしさであった。

 

 響めく民衆をものともせず、彼女は人波をかき分けてドフラミンゴのいる方へと歩き出す。

 止める者の手を払いのけ、投げつけられた非難と罵倒をその背に浴び、それでも彼女は足を止めなかった。

 

 大柄な農夫がコラソンの行手を阻む。

 俯いた彼女の肩を掴んで押さえ込み、農夫が怒鳴った。

 

「ふざけるな! おれ達の苦しみが、余所者のお前に分かるわけねェだろうが! ええ!?」

 

 並大抵の女性なら体格差で怯んで声も出せなくなるような、低く、おどろおどろしい叫び。

 コラソンは俯いたまま、ぽつりと呟く。

 

「……うるさい」

 

 コラソンは己の肩に置かれた農夫の手を掴み一瞬で捻りあげた。さらに足を払って関節を固め、呻く農夫を締め上げながら、彼女は叫ぶ。

 

「うるさい!!」

 

 制圧された農夫を助けようと民衆が詰め寄れば、コラソンは手近な一人の顔面を拳で殴りつけて一撃で昏倒させてしまった。

 さらに自身に向けられる暴力の勢いを逆に利用し一瞬で制圧。攻撃を掻い潜っては村人と村人を同士討ちさせて沈め、血が出るほど殴られても構わず相手を締め上げて落とす。

 飛んでくる石は避けすらせず、木材で打たれれば蹴りを飛ばし、刃物を持った者をみれば腕を瞬時に捻り上げて悲鳴を上げさせていた。

 

 なんだ。

 何をしている。

 

 振り翳された拳を腕で逸らし、身体の下に潜り込んで顎に掌底を叩き込む。背後を取ろうとする者には容赦ない肘打ちを見舞い、取り囲まれそうになれば数名まとめて回し蹴りで薙ぎ倒して無力化。

 

 彼女はただ暴れているのではない。

 確実にドフラミンゴのいる方へ進んでいる。全ての暴力からドフラミンゴを守ろうとしているのだ。

 

 無論、彼女とて無傷では済まない。額からは血が流れ、髪留めは片方なくなり、結えた髪もばらばらに解けている。右目の周りは腫れ上がり、指が変な方向に曲がっていた。

 木材で打たれたせいか、服もところどころ擦り切れ、滲んだ血が滴っている。

 

 それでも、彼女はドフラミンゴを守っていた。

 

 意味がわからなかった。

 理解、できなかった。

 

 向かってくる村人を悉く薙ぎ倒し、コラソンはドフラミンゴの傍へと辿り着く。

 

「…………」

 

 血塗れのピエロ女は何も言わず、ドフラミンゴを見つめていた。

 

「悪魔の手先め、死んじまえ!」

 

 怯えた村人が石を投げる。飛んできたそれを片手で受け止めたコラソンは、じっと石を見た後、思い切り地面へと叩きつけた。

 石と石畳が粉砕される音が響き、村人が怖気付く。

 

 何を言っていいかわからず、ドフラミンゴはコラソンを見上げていた。怪我のせいか視界が滲んでよく見えなくなってきている。

 だからだろうか。

 彼女がどんな表情をしているのか、わからなかった。

 

「帰るよ」

 

 そう一言告げたコラソンに抱き上げられる。

 

 帰る? 

 どこへ帰るというのだ。

 

 反論したくても声も身体も自由にならない。抵抗する気力もなく彼女の腕に身を預ける。

 血と泥、染み付いた煙草の匂いがした。

 コラソンはぎこちなく姿勢を変えて足早に歩き出し、そうして二人は市場を後にしたのだった。

 

 

   ◇

 

 

 市場を出てしばらく、コラソンは無言で歩き続け、隣町の病院へと足を運んだ。

 そこは小さな町医者で、寂れた、しかしこざっぱりした診療所だった。

 見るからに怪しい二人連れの患者を見て、受付係達が顔を顰める。彼らは数名でひそひそと話し合い、奥にいるであろう看護師や医師を呼びに行った。

 

 待合でもコラソンは無言だった。ドフラミンゴの肩を支え、自身の身体にもたれ掛けさせるようにして、診察の順番を待っている。

 肩を抱くその指が変形し、青黒く染まっていた。折れているのだろう。

 

 馬鹿だな。ドフラミンゴはそう思い、目を閉じる。

 

 発熱のせいで意識が朦朧としている間に処置やら清拭やらがなされていたらしい。

 次に気が付いた時、ドフラミンゴは清潔なベッドに横たえられていた。

 

 医師と思しき白衣の男が淡々と告げる。

 

「出来る処置は全てしました。ですが、失明は免れません」

 

 温度のない宣告に、ドフラミンゴはするりと納得してしまった。

 

 そうか。

 だから、片目が見えないのか。

 

 痛みに痺れた手で左目を撫でる。ごわついた包帯で覆われたそこにはまだ目玉があるようだった。

 

「……まだ詳しい検査はしていませんよね? もしかして、外傷が引くまでは難しいですか?」

「いえ、これ以上の検査は無駄です。画像検査で結果は出ていますから。化膿止めと鎮痛解熱剤を服用させ、今はただ療養に努めるべきです」

「どうして無駄と言い切れるんですか? まだ何か、何かあるでしょう!?」

 

 興奮し声を荒げるコラソンに困り果て、医師は一瞬黙り込んだ。しかし、また淡々と話し始める。

 

「いいえ、手立てはありません。原因は今回の怪我だけではありませんから。過去の受傷と今回の怪我が重なっている。外科的手段での回復も見込めないでしょう」

「……どうしてよ! どうしてそんな、一生に関わることを簡単に言い切ってしまうの!?」

「トラファルガーさん、落ち着いて。あなたの怪我も酷いものですよ。まずは治療をして、落ち着いてから話しましょう」

「ふざけないで! 私はどうだっていいの、こんな傷、なんてことない! 放っておいて!」

 

 先程の騒動の興奮が残っているのか、コラソンは身体を震わせて怒鳴った。

 病院は静かで、彼女の叫び声だけが異様に響いていた。

 診察室の奥で看護師達が様子を伺っている。ハンドサインで彼らを制し、医師は根気良く事実を告げ続けた。

 

「わかりました。ドフラミンゴ君の話をしますね」

「そうよ、まだ諦めない……先生、この分野に詳しいお医者様への紹介をお願いできますか?」

「トラファルガーさん、残念ですがドフラミンゴ君の左目は元には戻りません。ですが、右目の視力は残っている。しっかり治療して、これからのことを考えていきましょう」

 

 当事者のドフラミンゴから見ても、医師は随分とまともだ。丁寧で誠実に見える。

 それなのに、コラソンは冷酷な裁判官でも見るような目で医師を睨みつけていた。

 話が平行線を辿るうち、コラソンは俯き、そうかと思えば突如として叫ぶ。

 

「────そうだわ、お兄様なら!」

 

 そう言い放った瞬間、彼女は青褪め、自身の口を両手で塞いだ。自分の放った言葉が信じられないのだろう。口を塞いでいた手を一心に見つめ、震え出してしまった。

 いよいよ厄介な患者だと判断したのか、医師が看護師に目配せを始める。

 

 このままではこの診療所で一夜を過ごす羽目になるかもしれない。あるいは、別種の病院に搬送される可能性もあった。

 その場合、コラソンとドフラミンゴは別々の病院へ送られるだろう。

 世にも恐ろしい気狂いピエロ女と二人きりでも、事情を知らない民間病院に送られ再度私刑の危険に晒されるよりはマシだ。

 そうドフラミンゴは判断した。

 

 本当のところは違う。

 何よりも疲れていた。

 もう、どうでもよかったのだ。

 

「もういい。帰ろう」

 

 ぽつりと、ドフラミンゴは呟いた。

 それまで黙っていた子どもが話したことに、医師もコラソンも驚いた様子だった。そんなことすらどうでもいいと感じる。

 

「もういいんだ」

 

 繰り返すドフラミンゴに取り縋り、言葉に詰まりながらもコラソンが囁いた。

 

「いいわけないよ。大丈夫、まだきっと手当があるから、だから」

 

 ドフラミンゴは首を振る。

 目を閉じ、そして繰り返した。

 

「いい。疲れた。帰りたい」

 

 それからは何も言わなかった。

 コラソンと医師が何か言い合っていたが、それもすぐ終わる。

 

 看護師とコラソンに支えられ、診療所を出た。コラソンの指は添え木も当てられず青黒いままで、彼女自身は最後まで治療を拒み続けたのだと気付く。馬鹿だなとだけ思った。

 

 新しい宿への道すがら、コラソンは何かを必死に訴え続ける。しかし、ドフラミンゴは繭に籠ったような感覚のまま、その全てを無視し続けた。

 

 もういい。

 どうせ、どこにも帰れない。

 それなら、もういい。

 

 そう思い、じっと黙り続けていた。

 

 

   ◇

 

 

 宿屋に着き、それからのことはよく覚えていない。ドフラミンゴをベッドに横たえた後、コラソンは部屋の片隅で荷物の整理をしていた。おそらく、自身の治療もしていたとは思う。

 

 だが、ドフラミンゴには関係なかった。心は怒りや憎しみを通り越して無音に近く、そのくせ頭の中では沢山の音が溢れて煩わしい。

 

 左目を指でなぞる。

 ごわごわとした包帯の感触は左目を覆っている。ただ、これはどちらかといえば額の傷を塞ぐためのものだ。

 左目自体は痛くも痒くもない。医者によれば、目と脳を繋ぐ橋がぽきりと折れてしまっているらしかった。

 右目を閉じれば、そこは真っ暗で。

 開いたままにしたはずの左目は何の情報も拾ってくれないのだ。

 

 そこにあっても使えない目玉。見えているのに何も伝えないガラス玉。

 それはコラソンと似て、吐き気がするほど悍ましい、空虚そのものだった。

 

 コラソンが近付いてくる。ベッドの脇に立った彼女が膝をつく気配。暗闇でもわかった。

 ドフラミンゴを覗き込み、彼女は言う。

 

「明日、別の病院に行きましょう。もっと大きなところなら手立てを考えてくれるはず」

 

 優しさを装った震え声。馬鹿馬鹿しい。もう手遅れなのだとなぜ分からないのだろうか。

 根拠なく楽観的な未来を騙るその口が憎らしくて仕方ない。

 

 そうだ。未来のことなど考えたくなかった。

 それでも熱に浮かされた脳みそは蕩け、雑念を垂れ流し始める。

 

 腹が立つ。腹が立つ腹が立つ。

 腑が煮え繰り返ってどうにかなりそうだ。

 

 守る?

 救う?

 馬鹿馬鹿しい。

 

 何度も言った。

 外は危険だ。帰りたい。逃げないとまずい。戻ろう。ファミリーに帰るべきだ。

 存在自体が追われる理由になる者だっているのだと何度も何度も訴えた。

 

 それなのに、コラソンときたらどうだ。

 

 人は優しいものだから心配しないでいい。世界はあなたを受け入れてくれる。

 そんな絵空事ばかり吐き出して。

 

 ふざけるな。

 ドフラミンゴは知っているのだ。

 コラソン自身がドフラミンゴを受け入れていなかった。何も知ろうともせず目を閉じて、知らない影やボスの幻影に怯えて、ドフラミンゴを見ようともしなかったくせに。

 

 コラソンがドフラミンゴを見る目はいつだって虚だった。まるで歯車を見るような無機質な目。ファミリーにいた頃の方がマシだった。全てに怯えて前髪を下ろしていた分、その薄汚い嘘吐きの目を露出させていなかったのだから。

 

 奪われた。

 浅慮な愚か者達のせいで、ドフラミンゴの人生は何度も何度も奪われる。

 財と力、家族、居場所、選択、プライド、ついには視力まで。

 剥がされていく。抵抗しても、浮浪者から服を剥ぐように容易く奪われてしまう。

 きっとこれからも同じだ。

 弱者の身に叩き落とされたこの身は、さらに弱く、小さく刻まれていくのだ。

 

 だってもう、ファミリーにも戻れない。

 元天竜人というだけで厄介者だった。片目の視力までなくしたとあらば、荷物どころの話ではないだろう。

 隠していたのに。

 元々、片目が見えにくかったこと。

 ボスにはバレていたかもしれない。そんな節はある。

 それでもボスは見て見ぬふりをしてくれた。きっとそれを優しさと呼ぶのだと、ドフラミンゴはファミリーに置かれて初めて知った。

 

 ドフラミンゴが眠っていると勘違いしたのか、コラソンが額に触れた。傷のない右側を柔く撫で、汗で張り付いた髪をそっと梳く。

 その手つきは妙に優しい。

 だからこそ、なおさら癇に障った。

 コラソンが自身に施した治療の痕跡だろうか。妙に薬くさいその香りがどうしようもなく思い出させる。

 

 奪われた先に得たはずの新たな居場所。

 もう二度と戻れない、優しく暗い星の下を。

 

「大丈夫、何とかなるわ。いつか、きっと」

 

 いつか?

 そんなもの、来るはずがない。

 

 ドフラミンゴは歯を食いしばり、声を殺して呻いた。全身の痛みが燃え、憎しみに火をつける。

 

 もういい。全部どうだっていい。

 ボスの妹だから殺さなかった。だが、ボスの下に戻れなくなった今、もう遠慮する理由はどこにもない。

 これ以上奪われるくらいならば、この身の全てを賭して壊してやる。全部、全部壊してやる。

 

 ドフラミンゴはコラソンの腕を掴み、目を開いた。

 

「触るんじゃねェよ」

 

 声が嗄れている。傷から入った菌が身体を蝕んでいるのだ。少し動いただけで一気に増す倦怠感が余計にドフラミンゴを腹立たせる。

 コラソンは一度大きく肩を震わせた後、またあの薄気味の悪い偽物の笑顔を浮かべ宣った。

 

「ごめん。痛かったよね」

 

 そう言って、コラソンは手を引こうとする。

 逃すものか。

 彼女はまたぞろ怯えた目をしていた。

 まるで自分が被害者みたいな面で嘘吐きの笑みを吐き出して、今度は病身の子どもというレッテルを貼るつもりなのだろう。

 彼女の腕を掴んだまま、ドフラミンゴは嗤う。

 

「なァ、コラソン。お前、満足か」

「……え?」

「おれを救った気になれて、満足かって聞いてんだ」

 

 泥を煮詰めたような重い声。それが自分の喉から出たと分かり、ドフラミンゴはさらに口の端を吊り上げた。

 

「町でも病院でも好き勝手暴れやがって。お前はいいよなァ、物知らずでも逆らえる力だけはあるんだ。正直に言えよ。すっきりしたんだろう?」

 

 コラソンはただ目を丸くしている。

 本当に、何を言われているかわかっていない。

 そうだ。彼女は奪われる側の思考を理解できない。ボスに甘やかされ、勝手に逃げ出して、何もかも分かったようなふりをして批判ばかりしていた。今思えば、あれは強者ゆえの傲慢だ。

 

「ドフィ、お、落ち着いて」

 

 非難されていることだけはわかるのだろう。コラソンは妙に怯えた目をして、小刻みにかぶりを振った。

 奪う側の人間が、白々しいにも程がある。

 コラソンの腕を掴む手に力が入った。コラソンに痛みを与えるどころか、むしろドフラミンゴ自身の指が軋む音がする。

 そこで初めて額以外の怪我にも意識がいきはじめたが、そんなことさえどうでもよかった。

 

「おれは何度も警告したぞ。外は危ない、何をされるか分からねェと。ファミリーへ帰るべきだと伝えたはずだ」

 

 コラソンは目を見開いたまま、ゆっくりと唇を噛んだ。

 そうだ。やはりそうなのだ。

 この女は分かっていて、ドフラミンゴの警告を、言葉を、哀願を、全て無視していた。

 

「お前、言ったよな。人は優しいものだとか、受け入れてもらえるはずだとか。今もまだ同じことが言えるか? それとも、最初から全部嘘だったのか?」

 

 びくりと、コラソンが身を震わせる。

 やはり、そうだ。

 何が『守る』だ、『救ってみせる』だ。

 

 笑えてくる。

 この女は最初から分かっていた。

 自分の引き起こした誘拐劇がドフラミンゴを、否、『連れ出した得体の知れない子ども』を苛んでいると、頭のどこかで理解していたのだ。

 何もかもが他人事で、全部絵空事で、全てが嘘だった。

 

「なァ、コラソン。お前、市場で何も言わなかったよな。『この子は』の続きだ。あの時は奴らが怖くて言えなかったんだろう? なら、今、ここで教えてくれよ」

 

 答えは返ってこない。

 浅い呼吸を繰り返し、コラソンはドフラミンゴを見た。しかし、その実、彼女の目はドフラミンゴを写してさえいないままだ。

 

 飴色の瞳が揺れる。その光は曇ったまま言葉を選ぶように傾き、選ぶ言葉さえないと分かると、次は言葉を探して彷徨った。

 長い逡巡の末、彼女はまたもや弱々しいあの笑みを浮かべる。

 

「ドフィ、その話はまた今度にしよう。今は休まなきゃいけない。そうでしょう?」

「もちろん分かってるさ。だが、言葉一つだ。答えを聞いたら大人しく寝てやるよ。なァ、すぐだろ? 今すぐ答えられるよな? なァ?」

「ええ、そうよね。すぐよ、すぐに」

 

 壊れたオルゴールのように同じ言葉を繰り返すコラソンを睨みつけ、ドフラミンゴは尋ねた。

 

「答えろ、コラソン。おれは、何だ?」

「……ごめんなさい、今は、その」

 

 軋む身体を起こす。顔を背けるコラソンの耳元で、ドフラミンゴは囁いた。

 

「答えられねェよな。だってお前、一度だっておれを見ちゃいなかったんだから」

 

 反論しようとしたのか、ピエロメイクの口が開く。しかし、言葉どころか何の音すらも紡がず、真っ赤な唇は閉ざされてしまった。

 馬鹿な女だ。中途半端な偽善者が。自分自身も騙せないくせに、ドフラミンゴを騙せるとでも思っていたのだろうか。

 舐められているというより、存在自体、感知されていなかった。目の前にいた、それどころか自分が攫った子どもを、何一つ知ろうともしなかったのだ。

 

 掴み続けていた腕を離す。支えを失ったコラソンはその場でへたり込んだ。

 

「なァ、コラソン。おれのこと、教えてやるよ。お前でも理解できるように、今、ここで」

 

 飴色の瞳。そこに映るドフラミンゴは一切の表情を消し去ったまま、ただ無機質に口を開いた。

 

「おれは父上を殺した」

 

 コラソンが息を呑む音だけが響く。

 

「天竜人だったおれ達家族は、父上の身勝手なエゴで地位を捨てた。おれは、おれ達兄弟はまだ子どもで、選ぶ権利なんてはなからなかった」

 

 父ドンキホーテ・ホーミング聖は愚かな男だった。自らがどれほど恵まれていたかも知らず、地上で渦巻く憎悪や怨嗟には思い当たらず、ただ人の善性という幻想を信じていた。

 善性を育む土壌を穢し、それどころか憎悪の種を蒔く天竜人の一員でありながら、無邪気に人間を愛していた。

 

「非加盟国に降ろされたおれ達を待っていたのは迫害と暴力の日々だ。当然だよな。今まで好き勝手のさばっていた奴らが、丸腰で隣に居座り『仲良くしよう』なんて言い出したんだから」

 

 すぐに家を追われた。金品は全て奪われ焼き討ちにあい、命からがら逃げ出すしかなかった。今と同じように人々から逃げ続ける生活の内に、ドフラミンゴは様々なことを知った。

 

「殴られたら痛いんだな。家族全員で逃げ隠れするのは大変だった。そうだ、コラソン、知ってるか? 腐った食べ物でも腹は膨れるんだ。吐いても下しても死なねェ。だが、それは体力のある奴だけだ」

 

 コラソンが喉を震わせる。へたり込んだまま言葉一つ紡がず、彼女は歯を食いしばってドフラミンゴを見上げていた。

 そんな彼女の耳に届くように、ドフラミンゴは淡々とただ事実を告げる。

 

「母上は弱い人だった。父上にただ付き従って野に降りて、文句も言わず逃げ回って、最期は痩せ細って死んだ」

 

 ベッドのシーツを撫でながら、ドフラミンゴは目を細めた。

 病床の母を包んでいたシーツ。つぎはぎだらけのボロ切れに包まれたまま彼女は死んだのだ。

 

「おれには弟がいた。おれより二才年下で、間抜けで弱い愚図だった」

「おとうと……?」

 

 そこで初めてコラソンが言葉を発した。震える手で口元を押さえ、彼女は呟く。

 

「弟がいたって、今はどこに」

「死んだよ。殺された」

 

 自分でも驚くほど平坦な声だった。今更悲しさも感じない。そもそも、悲しいと思ったことすらなかったように思う。

 

「ロシナンテは八才だった」

 

 再び言葉を失ったコラソンを見つめ、ドフラミンゴは続けた。

 

「天竜人が殺した城主の町で、親子三人仲良く城壁に吊るされて城ごと焼かれた。長く苦しめようってんで矢を撃たれて石を投げられてな。その石が運悪く……いや、運良くだな。ロシーのここに当たった」

 

 包帯に包まれた自身の頭を指しながら、ドフラミンゴは思い返す。

 

 目隠しをされて城壁に吊るされ、炎の中で石と矢を必死に避けていた時のことだ。何か柔らかいものを潰すような音がして、それきり弟の泣き声が聞こえなくなった。

 

「ボスが言ってたな、何だったか。覇気ってやつか? おれが叫んだら人間共は気絶して、やっと逃げ出せた。弟は、そのまま置いてきた」

 

 ロシナンテの頭は半分潰れてしまい、形を保ってすらいなかった。

 だからだろうか。彼の顔はすぐに忘れてしまった。

 今はもうろくに顔も思い出せないまま、最期に泣き喚いていた声だけが耳に残っている。

 

「……そんな。だって、子どもを」

 

 呆然と呟くコラソンを見つめ、ドフラミンゴは首を傾げた。

 

「害獣が子どもを連れてたら、子どもごと殺すだろう? 何もおかしなことはねェよ」

「獣じゃないわ。同じ人間の子どもなのよ!?」

「違う。お前達人間と、おれ達は違う」

 

 ドフラミンゴはかぶりを振り、手を伸ばす。

 

「父上も同じことを言っていた。お前達とおれ達は同じ人間だ、と」

 

 コラソンの歪んで崩れたピエロメイク。いつもの二つくくりのおさげは片方解けたままだ。

 呆けたコラソンの顔を掴み、ドフラミンゴは囁く。

 

「おれは父上を殺した。弟を見捨てた夜、拾った銃で、あの愚かな男の頭を撃ち抜いてやった」

 

 飴色の瞳が深く、色を強めた。それは驚愕であり、拒絶でもあった。

 だが、どんな反応が返ってくるかなど、今更どうでもいいのだ。

 

「命乞いでも聞いてやろうと思って、すぐには撃たなかった。そしたら、あの男、なんて言ったと思う?」

 

 そうだ。

 今はただ、この言葉がコラソンの心臓を撃ち抜いて、彼女の欺瞞が死に絶える姿をみたくて仕方がなかった。

 自然と口角は上がり、声は大きくなっていく。

 

「『私が父親でごめんな』だと! 呑気に笑って! 抜かしやがる! 謝るべきことは他にあるだろうが!」

 

 コラソンの顔面を掴んだまま、ドフラミンゴは叫んだ。

 腕の痛みすら今は頼もしく、されるがままに揺れるコラソンを薙ぎ倒して怒鳴り散らす。

 

「ふざけやがって! 地位も富も力も安寧も、プライドも、家族も、全部おれから奪っておいて! そうだよ、お前みたいな馬鹿が父親だったからおれは奪われた! 何もかも、全部だ!」

 

 ベッドの上で地団駄を踏み、バランスを崩して倒れる。慌てた様子で、支えに入ろうとしたコラソンの腕を払いのけ、ドフラミンゴは絶叫した。

 

「誰も彼もがおれから奪う! だから、殺すんだ! 殺してやる! これ以上奪われる前に、全部全部全部──!」

 

 声も空気も吐き切り、肩で息をする。

 部屋には静寂だけが落ちていた。

 隣室の客が煩わしそうに壁を叩く音がして、やがて元の冷静さを取り戻す。

 ドフラミンゴはベッドから降り、倒れ込んだままのコラソンへと近付いた。

 

 どんな顔をしているだろうか。

 どうせまた怯えているのだろう。薄寒い正義とやらに包まったまま、今度は『父親殺しのバケモノ』としてドフラミンゴを見て忌み嫌うに違いない。

 そして、謝る。意味もわからず、理由もなく、薄寒い、何もかもを諦めたようなあの笑顔で謝ってくるのだ。

 だから、ドフラミンゴは決めた。

 はっきりと教えてやろうと決めた。

 

 お前がしたことは父と同じだ。

 嫌がる子どもを騙して連れ出して、善人ごっこに付き合わせ、地獄の中に放り込んで置き去りにした。切なる訴えを全部無視して、何もかもを奪った。

 お前がやったことは、あの愚かな男と全部一緒だ。

 お前らのままごとに付き合わされるのはもううんざりなのだ、と。

 

 コラソンの傍に立つ。激しく震えるその肩に手をかけ、ドフラミンゴはしゃがみ込んだ。

 そうして彼女の顔を覗き込み、息を呑む。

 

「……ひどい。そんな、ひどいよ」

 

 コラソンは泣いていた。

 顔を歪め、激しくしゃくり上げながら、ぼろぼろと涙を溢していた。

 

「なんで? どうして子どもが何もかもを失わなくちゃいけないの? どうしてドフィがそんな目に遭わなくちゃいけないのよ」

 

 床に倒れたまま、彼女は呻く。その身体はまるで自身が痛めつけられたかのように痙攣し、何度も詰まる呼吸は今まさに喉を締め付けられているように乱れていた。

 

「おかしいじゃない、ドフィの家族は変わろうとしていたのに。それすら許されないまま、どうして追われて、それで、こ、殺さ」

 

 そこで声は途切れた。否、途切れたのではなく言葉の形を失い、悲痛な音だけが響く。

 彼女は背中を丸め、赤子のように泣き喚いた。泣き声は時折言葉になって世界の理不尽へと怒り、すぐに音だけを残して涙に飲まれていく。

 

 呆気に取られたドフラミンゴはただ彼女が慟哭し怒り狂う様を眺めていた。

 しかし、しばらくして怒りが込み上げる。

 

 なんだ、この女は。

 勝手に決めつけて見ようともしなかったくせに、今度は身勝手に同情しているつもりか。

 

「ふざけやがって」

 

 ドフラミンゴの呟きに、コラソンが反応した。

 のそりと身体を起こし、彼女は無言で顔を拭う。破れ、半分千切れたシャツの袖で、乱暴に。それでも溢れ続ける涙を拭い去ることは出来ず、彼女はしゃくり上げながらその場に座り直した。

 

「怖かったよね」

 

 ぽつりと、コラソンが呟く。

 彼女は俯いたまま、とめどなく言葉をこぼし始めた。

 

「怖かったよね、ドフィ。悔しくて、苦しかったよね。いきなり世界が変わって、嫌なことばかり言われて、家族も失って寂しくて。でも逆らうことなんかできなくて、どんなにか辛かっただろう」

 

 何を分かったような口を。

 そう思ったのに、言葉が出なかった。

 他人に、しかも大嫌いなこの女に言葉にされて、はじめて気付いてしまったのだ。

 

 怖かった。

 恐ろしかった。

 何もかもが許せなくて、憎くて腹が立って、だがそれだけではなかった。

 ずっと。

 これまでずっと、寂しかったのだ。

 

 母が皆を置いて死んだ時、辛かった。ロシナンテが殺された時、悲しかった。父を撃ち殺した時、何もかもが嫌になった。

 寂しかった。

 何も分からない。それなのに世界の誰も彼もがドフラミンゴを憎んでいる。

 恐ろしい場所にただ一人、取り残されてしまった。

 

 ドフラミンゴは口を閉ざし、唇を噛み締める。それでもまだ言葉の形を得た感情がこぼれ落ちてしまいそうで、必死になって口を押さえつけた。

 まだだ。

 まだ、だめだ。

 背中を丸めて小さくなり、喉を引き攣らせたドフラミンゴを包み込むように、煙草の香りが燻る。

 

 抱きしめられたのだと気付いた時、ドフラミンゴは怒りに震えた。

 

「適当なことを言いやがって。お前はおれを騙そうとしてるんだ」

「……そう思うのは仕方ないよ。私はあなたのことを何も知らなかった」

「誰もおれを理解できやしない」

「そうだね。ドフィ自身も受け止められなかったんだもの」

 

 何故、今。

 何故、お前がそんな声で話すのだ。

 

「ドフィは怒ってよかったんだよ。まだこんなに小さいのに、全部飲み込まなくてもいいの。わけなんてわからなくても、痛い苦しい、寂しいんだって、叫んでいいんだよ」

 

 子守唄を歌うような囁き。泣いている子どもへふいに話しかけるような、ひどく無責任で優しい声。

 どうしてだろう。

 その声は亡き母に似ていた。

 

「だけど、ドフィ。あなたは賢くて強いから、全部に理由をつけちゃったんだね。理由を探して貼り付けて諦めて、全部を憎んでしまえば、心を言葉にしなくてよくなるから」

 

 抱きしめる力は強く、互いの身体が軋むような気がした。軋んで、壊れて、溶け合うような心地だった。

 

「怖かったよね」

 

 いつの間にか頬が濡れている。それが自身の涙なのか、コラソンの涙なのか、もう分からなくなっていた。

 

「寂しいのはいやだ」

 

 それがどちらの心で、どちらの言葉なのか。言葉の意味や心のどこに何が残っていたのかさえ曖昧になっていった。

 二人の境目が溶けて分からなくなるまで何度も何度も繰り返し呟き、コラソンは顔を上げる。

 

「あのね、ドフィ。私、海兵なの」

「……知ってた。スパイなんだろう」

「ええ、私はお兄様を止めるためにファミリーに潜り込んだだけのスパイだった。あなたを連れ出したのだって、本当はあなたのためじゃない」

 

 改めて言葉にされた瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。分かっていたのに、ひどく傷付いている自分に気付いてしまう。

 

「あなたを助けたいと思ったのは本当よ。だけど、一番の理由は別にあったの」

 

 俯いたドフラミンゴの肩を支え、コラソンは続けた。

 

「あなたがお兄様の計画の鍵だと聞いたわ。だから、あなたを連れ出せば……いいえ、あなたを奪えば、お兄様の計画を止められると思った」

 

 馬鹿だ。

 情報流出はもちろん、大事な計画の鍵を他人に任せるなど、ボスがそんな下手を打つわけがない。

 ドフラミンゴは力なくかぶりを振って告げる。

 

「違う。おれはそんなんじゃない」

「ええ、分かっているわ。ううん、分かっていたの。分かっていたけれど、どうしようもなかった」

 

 コラソンが何を言っているのか分からなかった。彼女もまた、うまく説明ができないのだろう。声を低く落とし、ぽつりぽつりと続ける。

 

「私ね、お兄様が怖かったの。バケモノみたいで、それなのに私には優しいままで、わけが分からなかった」

 

 ドフラミンゴが言葉を継げずにいると、彼女は目を細め、視線を落とした。

 

「私の本当の任務はお兄様を殺すこと。世界政府と海軍が私を監視している。正義のために為すべきことを為さないといけなかった。それなのに、できなかったんだ」

 

 そういって、彼女は腰につけたナイフを取り出す。それは旅の路銀を稼ぐための大道芸道具であり、押せば刃が引っ込む偽物だった。

 

「本当はね、本物のナイフも持っていたの。任務用に持たされたんだ。あなたと旅に出た時、急に怖くなって海に投げ捨てちゃったけどね」

 

 自嘲をこぼし、コラソンはナイフを床に置く。

 袖口で涙を拭い、彼女は顔を上げた。

 

「はっきり言うね。ドフィ、私はあなたを逃げ道にしたの。あなたを連れ出せば、お兄様を殺さないでも許されると自分に言い聞かせてね」

 

 沈黙が落ちる。

 

 薄々、そんなことだろうとは思っていた。

 ドフラミンゴがファミリーに戻るのをコラソンがひどく恐れていたからだ。監禁紛いの手段でドフラミンゴの自由を奪い、しばりつけるほどに。

 

 成程、と納得した。

 家族を殺したくなかったんだな、と。

 ぼうっと床の目地を見つめている内に、コラソンが言葉を重ねていく。

 

「私、あなたをお兄様の道具としてしか見ることができていなかった。今は少し違って……もしかしたら、お兄様もあなたのように一人で苦しんでいたのではないかと、お兄様を重ねて見てしまっている」

 

 再びずきりと胸が鳴る。

 今のコラソンは兄の代用品としてドフラミンゴを扱おうとしているのだろうか。

 だが、そうだとしたら、ドフラミンゴはどうすればいいのだろう。

 コラソンの兄、ボスはドフラミンゴとは全く違う人間だ。彼は恐ろしく強く冷徹で、そのくせ根は柔らかな、ごく普通の人間だった。

 彼の真似をすることは出来ない。だが、ファミリーにも戻れない今、コラソンのそばで暮らす他に道はないのだ。

 

 俯き青褪めるドフラミンゴを見つめ、コラソンが手を伸ばす。

 傷付き変色したままの手が、ドフラミンゴの頬を撫でた。

 

「ねえ、ドフィ。まずは謝らせて」

 

 飴色の瞳。

 相変わらず怯えが滲むその目がドフラミンゴを真っ直ぐに射る。

 

「ごめんなさい。私、あなたを見ていなかった。何も知ろうともせずに引き摺り回して、あなたを傷付けた」

 

 深く頭を下げた彼女は、一度だけ鼻を啜って顔を上げた。

 涙の膜が張ったままの瞳が瞬く。

 

 ふと不思議に思った。

 この女は、こんな顔をしていただろうか。

 

 まるで初対面の人間を観察するように、ドフラミンゴはコラソンの顔をまじまじと見つめる。

 顔の造作は変わっていない、と思う。正直なところ、負傷やらメイク崩れやらで原型が捉えづらい。大体、ドフラミンゴは今、片目しか見えないわけだから、どこか見落としているだけかもしれなかった。

 

 思い返すのは、これまでのこと。

 コラソンを操ろうと観察に観察を続けた。しかしそれはただ表面的な動きから動向を察知しようとしていただけの話で、内面を知ろうなどとは考えていなかったように思う。

 

 ドフラミンゴに見つめられ、彼女は思い出したようにシャツの袖で顔を拭った。

 あまりに強く擦るものだから、いつものピエロメイクのほとんどがもっていかれ、滲んで消える。

 頬に描かれていた涙のようなハート。赤く不気味に刻まれた、大きく吊り上がったまま薄気味悪く笑む唇。

 それらを不恰好に消し去って、彼女は緊張したようにぎこちなく笑った。

 

 それは、ドフラミンゴの知らない笑みだった。

 

「でもね、一つだけ。私、一つだけ、あなたのことを知っているの」

 

 そう言って、彼女は胸元のコインをつまみ、揺らしてみせる。

 それはいつかのペンダント。

 ドフラミンゴがコラソンの手に叩きつけた、彼女の思い出のコインだった。

 

「覚えてる? ドフィ、あなたがこれを見つけてくれた。大切なものをなくしてめそめそするくらいならしっかり仕舞っておけって、叱ってくれた」

 

 コラソンは小さな声で囁く。まるで、ドフラミンゴとの出来事まで含めて、全てが大切な思い出だというように。

 

「ねえ、ドフィ。人の大切なものがわかる人は優しい人なのよ。もしかすると、今は違うかもしれない。私にもまだわからない。だけどね」

 

 煙草の香りが鼻を擽る。柔く、不用意に触れれば散ってしまう花束を抱くような手つきで、コラソンはドフラミンゴを抱き寄せた。

 

「私は信じてるんだ。あなたはきっと、変わっていけるって」

 

 そう耳元で囁き離れた彼女は、罪悪感が見てとれるほど間抜けな顔で唇を引き結んでいた。

 

「ドフィ、もう一度言わせて。これまであなたを知ろうとしなくてごめん。これまであなたの言葉を聞かなかったこと、反省してる。本当にごめんなさい」

「…………」

「そして、これはお願い。どうか、あなたのことを私に教えて」

 

 何を言っているんだ、この女は。

 傷の痛み。叫び、泣いたことによる消耗。心を言葉にする疲労。その全てがドフラミンゴの思考の巡りを鈍らせる。

 否、あるいは、平時であっても理解できなかったかもしれない。

 

 コラソンはドフラミンゴの手を握り、もう一度、はっきりと告げた。

 

「これまでのこと、ごめんなさい。許されないのは分かってる。それでも、私はあなたのことが知りたいの」

 

 それは最後の謝罪ではなく、これからのために。

 コラソンは強く輝く目を瞬かせ、ドフラミンゴを見ていた。

 

 ああ、この女はこんな顔をしていたのか。

 

 まるで知らない表情を見せるコラソンを見て、ドフラミンゴは敗北を悟った。

 これまでコントロールしようとこの女を観察し続けたというのに、知り得た全ては表皮でしかなく、何もかも取り違えていたのだ。

 

 ドフラミンゴは力なく笑い、吐き捨てる。

 

「勝手にしろ」

 

 言い捨ててふらふらとベッドに戻れば、何故かついてきたコラソンも同じベッドに潜り込んでくる。

 傷は痛むし目は見えない。疲れは極限に達して声を出すことすら億劫だ。

 もう突っ込むのも逆らうのも面倒になり、背中の温もりを感じながら、ドフラミンゴは瞼を閉じた。

 

 

   ◇

 

 

 翌朝、鏡台の前で悪戦苦闘しているコラソンの背に向かい、ドフラミンゴは声をかけた。

 

「おい、コラさん」

「はいはい……え、今なんて?」

 

 コラソンが振り向く。

 勢いがつきすぎて椅子ごと傾き、挙句の果てに転がり落ちて変なポーズになっていた。

 まるで何かの手本のようにありきたりな反応を返すものだから、ドフラミンゴは鼻で笑ってしまう。

 

「お前、もうスパイは引退だよな。それならお前はコラソンじゃねェ。海軍や世界政府が見張ってるなら本名じゃ呼べねェし、かといって他の名前を考えるのも面倒だ。だから、コラさんで充分だろうが」

 

 一気に言い募れば、コラソンは目を丸くした。

 そして、急に瞳を潤ませて号泣し始めるではないか。

 

 それなりの反応を期待したのは事実だが、いくらなんでも過剰すぎる。

 ドフラミンゴはそろりとベッドを降り、泣き喚くピエロ女の様子を恐る恐るうかがった。

 

「コラさん、お前、大丈夫か?」

「だいじょばないよ! だいじょぶばずない!」

 

 滂沱の涙とこれまでの後悔に汚れ、どうしようもなく弱々しく、そのくせ喜びに溢れて輝く、無様極まりない笑顔。

 勢いよく上げられた彼女の顔のあまりの様相に、ドフラミンゴは吹き出してしまった。

 

「くそ、傷が痛ェ……笑わせるんじゃねェよ」

「大丈夫? そうだ、今日もう一度病院に行こうよ。もう少ししっかり話を聞かなくちゃ」

「それよりお前、あの医者に謝れよ。それで、自分の手当をしてもらえ。おれでも分かるくらい下手じゃねェか」

 

 コラソンが自分で巻いたのだろう、腕の包帯は端がはみ出て謎に結ばれている。

 

「……お前、本当にあのボスの妹か?」

「……それはちょっと、私も思ったから。その、言わないで」

 

 床に転がったままのコラソンはバツが悪そうに視線を彷徨わせる。

 これまでボスの話をした時とは全く違う反応だった。

 

 よくまあ一晩で、こんなに様変わりするものだ。そう思い、ドフラミンゴは鼻で笑う。

 

「お前、おれに変われるとか言ったけど、お前の方が別人になりそうだな」

「否定はしないよ。私も変わる必要があるとは思ってるから」

 

 コラソンが伸びをしながら起き上がり、床であぐらをかいた。仁王立ちのドフラミンゴを見上げ、彼女は頬杖をついたまま口元を綻ばせる。

 

「何がおかしい」

「おかしいんじゃなくて、嬉しいの」

「嬉しい? 何がだ」

「少しずつでも変わっていけそうだなって」

 

 ドフラミンゴは自身の身体を眺めまわし、首を傾げた。

 

「どこがだ。何も変わってねェだろうが」

「変わったよ」

 

 にんまりと。

 何やらいやらしい笑みを浮かべて、コラソンは囁く。

 

「コラさんって呼んでくれた。私を見て笑ってくれた。私、ちょっと嬉しい」

「……ちょっとでそれなら、もう喜ばせねェ方がよさそうだな」

 

 ドフラミンゴがそっぽを向けば、コラソンは膝を叩いて笑った。

 どうやら打撲部分を自分で引っ叩いてしまったらしく、そのまま悶絶している。

 

 馬鹿なのか、この女。

 

 呆れて言葉も出ない。

 ドフラミンゴは首を振り、服を着替え始めた。

 今日はまた医者に行かなければならない。

 昨日のコラソンの態度はひどかったから相当怪しまれるだろうが、そこをおして細かい話を聞く必要があった。

 

 朝方、うつらうつらとしながら、ふと思い出したのだ。

 かつてボスから聞いた人体の構造。神経は繊維、つまり糸に例えられるということ。

 糸。糸ならば、なんとかできるかもしれない。

 元通りとはいかなくても、少しでも回復すれば、コラソンは喜ぶだろうか。

 傷に悪戦苦闘しながら着替えるドフラミンゴを支え、コラソンが小さく囁く。

 

「ねえ、ドフィ。私達、少しずつ変わっていこうね。自分の目や耳で全部確かめて、話してさ。しっかり悲しんで、怒って、楽しもうよ」

「はいはい」

「適当な返事だなあ。嫌なの?」

「……勝手にしろって言っただろうが。おれを知ることも、変わると信じることも、お前の勝手だ」

 

 毒付いてみれば、密やかな笑声が返ってくる。

 ドフラミンゴは口をへの字に曲げ、誤魔化すようにサングラスをかけ直した。

 

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