fragments of “HEART” 作:ladybug
怖くて、寂しくて、逃げ出した
私には無理だと思っていた
だけど、やっと分かったの
あの子が全部教えてくれた
始める前から諦めるのは駄目だ
何を言わずに捨て去るのは嫌だ
だから、お兄様
もう一度、話をしよう
「────コラさん!」
「うわ! な、何?」
椅子の脚を蹴られ、コラソンは飛び起きた。
突っ伏していた机にはコップ一杯分も呑み切れなかった酒と吸い殻の山。考え事をしているうちに、いつの間にか寝てしまっていたらしい。
口をへの字にした少年が見上げている。何か言いたげな様子だ。
すわ涎でも垂れているのかと思い口元を拭った。特に汚れていない。
「何、どうしたの?」
「……なんでもない。そんなとこで寝るな。顔洗ってベッドで寝ろ」
「まだ眠いし、もうこのまま寝るよ。起こしてくれてありがと」
「顔を! 洗って! ベッドで寝ろ!!」
「もう、ドフィって面倒見がいいよね」
欠伸をしながら顔を洗いに向かう。
寂れた宿にしては気が利いていて、洗面台の前に鏡が設置されていた。
微かに曇る鏡面を覗き込んで驚いた。
頬には涙の跡。道化の涙も崩れに崩れ、瞼も腫れぼったく、寝起きという点を差し引いてもひどい様相だ。
「あちゃ、心配させちゃったかな」
呟き、鏡に触れる。
夢を見ていた。まだ兄の思いについて考えられなかった頃の夢だった。
いや、夢というよりはただの追想だ。実際あった出来事を微睡の中で思い出していただけ。
顔を洗い終わり部屋に戻ると、小さな寝息が聞こえてくる。
寝返りを打つドフラミンゴを見て、コラソンはくすりと笑った。
旅を始めた当初は散々暴れてくれたが、その頃から寝ている時は大人しかった。いや、そもそもほぼ誘拐同然に連れ出されれば暴れるし、日がな一日気を張り続けていれば寝る時くらい大人しくもなるだろう。
さすがに悪いことをしたと反省していた。
最悪な始まりを経たというのに、最近ではこちらのことも少しは尊重してくれているように感じる。
離れないように後をついてくるし、コラさんなどと可愛い呼び名で呼んでくれるようになった。
ドンキホーテ・ドフラミンゴ。
兄の計画、その鍵と呼ばれていた。
弟を殺され、父親を殺した子ども。迫害を受ける元天竜人。憎しみと破壊願望を秘めた小さな身体。
────違うか。
そう独りごちて、コラソンは目を伏せる。
始まりがどうあれ。
思い出すのは、恥ずかしがってはそっぽを向き、困ったように口をへの字にする姿だ。
意地っ張りで賢しく、悪どくもありながら繊細で、強く強かな、つまりはごく普通の少年。
コラソンにとってのドフラミンゴは、心の底から愛しくてたまらない、大切な人間だった。
首から下げたペンダントを握り込む。
兄から預かり、ドフラミンゴが届けてくれた幸せの証。
ドフラミンゴとの旅を経て、コラソン自身も変わった。兄と向き合う覚悟が出来た。
兄はきっと変わっていない。
そう信じている。
信じたいのだ。
確かに彼は悪に堕ちた。
だが、何故そこまで世界の崩壊を望むのか、優しかった彼を悪へと突き進ませるものは何なのか。
コラソンとしてファミリーに潜入していたはずなのに、ラミは何も知らなかった。
当たり前だ。
変わってしまった兄を目の当たりにするのが嫌で、しっかり見ようとしなかった。一度もちゃんと話そうとしなかった。
怯えるばかりで、兄の苦悩に耳を傾けようともしなかったのだから。
少し前から、コラソンは考えるようになっていた。
兄と話をしよう。
話した上で止めよう。
そう思わせてくれたのは、他でもないドフラミンゴだった。
この旅でドフラミンゴは変わり始めている。
変わってくれた。
元から優しい子だとは思っていたが、案外面倒見が良く義理堅い。
寂しがりで可愛い子だ。
寂しいということは胸に穴が空いているようなもの。穴から何もかもがこぼれ落ちていってしまう。
だからだろう。彼は満たされないと思い込み、失うことや一人になることを極端に恐れている。
だからこそ、思うのだ。
怯えないでもいい。
怖がらないでもいいのだと、彼に伝え続けたい。
愛されていたこと、それを思い出して。胸の虚に花束を埋めていくように、愛情で満たし続ければきっと大丈夫だ。
それに、ドフラミンゴは他人に大事なものがあるということを本能的に理解している。
自身に大事なものや人ができれば、それをしっかり守って前を向くことができるはず。他人を尊重できる良い子なのだ。
少し乱暴者ではあるが、養父ならこの程度鼻で笑い飛ばせるだろう。
ラミの養父、センゴク。
優しくて剽軽で、何より頼りになる人だ。
本当は養父を頼るのも避けようとしていた。立場のある彼に迷惑をかけたくなかったから。
だが、ドフラミンゴから兄について『あいつ、コラさんには甘々だった』『家族なのにちゃんと見てないんだな』などと言われて、ふと気付いたのだ。
センゴクもずっと、待ってくれていた。
娘が頼ってくるのを、ずっと。
元帥である彼はラミの奇妙な旅路を制止しなかった。
厳格であるはずのセンゴク元帥が手出しをせずにただ報告を聞いてくれた。
それはつまり、そういうことだった。
「本当に甘いんだから」
また泣きそうになってわざと口に出す。
喉が焼けるように熱い。
愛されている。
その重みが、恐怖で吹き飛びそうな覚悟をラミの内に留めてくれる。
現実的に考えても、ここが潮時であった。
ファミリーとサイファーポールの目を誤魔化しながらドフラミンゴを連れ回すのも、海軍への報告を引き延ばすのも既に限界だ。
直接手を出してはこないが周りを嗅ぎ回られている。どこの手の者かは判断できない。ただ確実に追手が近付いていた。
今までは逃げ回っていたが、もうその必要はない。
きっと、兄は来てくれる。
来てくれたら、今度こそちゃんと話そう。
これまでのこと、これからのこと。全部話して分かち合いたい。
もし、兄が本当に悪に染まりきっていたとしても手を伸ばせばいい。
腕を掴んで、強引にでも引きずり上げてしまえばいい。
兄の身に何があったのか、彼が何をしたいのか。初めから全てを彼の言葉で聞きたい。ちゃんと知って、他の方法がないか一緒に考えたい。
自分の目で見て、聞いて、確かめて。
自分の心と頭で、しっかりと考える。
一緒に泣いて、一緒に笑って、一緒に悩んで、一緒に歩んで。
それが、父母と兄、そしてドフラミンゴとセンゴクが教えてくれたこの世界の歩み方。
それこそがトラファルガー・ラミの正義の示し方なのだ。
規則的な寝息を立てるドフラミンゴの頭を撫で、ラミは呟く。
「ありがとう、ドフィ」
ペンダントを失くした時、ドフラミンゴが届けてくれなければラミは挫けていた。
子守唄の夜、彼がそこにいなければ、コラソンのナイフはトラファルガー・ローの心臓を貫いていた。
この旅がなければ、兄と向き合う覚悟など出来なかった。
「今度は私が頑張るね」
眠る少年のこめかみに軽い口付けを落とす。
昔、父や母がそうしてくれたように。
「おやすみ、ドフィ。いい夢を」
タイトルはそのまま、方角を知るための技法。
羅針盤やらGPSやらを使わない伝統的航海術がありまして、周囲の環境やら生物やらの自然を観測して航路を割り出し、陸地ゼロの寄る辺なき海でも渡り切ることができるそう。
ここで使われる天体による方角算出技法の一つに「船を中心とした羅針盤を想定する」というものがあり、その羅針盤をスター・コンパスと呼びます。口伝で伝わるこれらの技法は地域によって少し差があり、歌になっているものもあるそうですよ。