fragments of “HEART” 作:ladybug
────なぜ
少年は雪の中を歩いていた。
視界は白く、そして暗い。
足を滑らせて転んでも、周囲には誰一人存在しない。
少年の身体は赤で汚れている。
それは血。
少年のものではない。
少年を思い、守ってくれた人の血。
少年は思い出していた。
「ドフィのことは別としてね。私、本当はお兄様の犯した罪そのものが許せないんじゃなくて、『お兄様が悪いことをしてる』ことが嫌だったみたい」
はにかんだように微笑みながら語るコラソンの姿を。
「きっと、お兄様は我慢してるもの。だから、私がお兄様に伝えたいのは……思い出してほしいのは、善悪とか正義とかそういう立派なことじゃないのかも」
目を伏せ、穏やかに告げる彼女の声を。
「ドフィ、あのね。私、お兄様と、ちゃんと話してみようと思う」
つい数日前の夜、寝床に入る前。
彼女はすっきりしたような顔をして、決意の宿る瞳で語っていた。
「悪事にしたって、お兄様のことだもの。そうせざるを得ない理由がきっとある。何か解決策があるかもしれないし、一緒に考えようよって、妹の私が言わなきゃ」
コラソンが二の腕の筋肉を盛り上げて叩き、きりりと表情を引き締めるものだから、少年は呆れ声で突っ込んだ。
「分かってもらえなかったらどうするんだよ」
すると、彼女は首を傾げ、ぼんやりと呟くのだ。
「……どうしようね?」
「嘘だろ、オイ」
「だって! お兄様、いつも折れてくれてたんだもの。けんかだってしたことないのよ!」
「あいつ、コラさんには甘々だったもんな……」
やや引きながら少年が告げれば、コラソンは頭をかき、照れたように微笑んでいた。
なぜ。
つい昨日だって、彼女は笑っていた。
得意の大道芸で日銭を稼ぎ、意地の悪い商人に酸っぱい葡萄を掴まされ、馬鹿みたいに煙草をふかし、いつも通り笑っていたのだ。
それが、こんな。
なぜ、こんなことに。
ボスとの対面の時間が近付いた頃。
やはり心配になってきたからと、少年はコラソンの後を追いかけた。
途中で尾行に気付かれて叱られ、反抗しようとしたらいきなり薬を打ち込まれた。
何をするのかと訴える間もなく身体が痺れ、思うように舌が回らなくなる。必死に伸ばそうとしていた手は、もはや指先さえ動かない。
呆然とする少年を宝箱の中に押し込み、コラソンは自身の胸元へ手をやった。
身につけていた二つのペンダントを少年の首にかけ、彼女は微笑む。
「預かっておいて。私の宝物なの」
細い鎖がしゃらりと音を立てた。
ペンダントと少年を見比べてから、彼女は決意に輝く目を背後へ向ける。
何を見ているのか、何を感じているのか、指一つ動かせない少年には察することができなかった。
再び宝箱の前にしゃがみ込んだコラソンが純白のコートを脱ぐ。背中に“正義”の文字が刻まれたそれで少年の身体を包み、彼女は唇を引き結んだ。
彼女は硬く目を瞑り、静かに瞼を開ける。
それはまるで、暗闇に星を見つけたような、あるいは日向の花を眺めるような瞳。
そして、何よりも愛しい者を見つめる、優しい眼差しだった。
「ドフィ」
一音一音を噛み締め、コラソンが囁く。
「愛してるよ」
動けない少年をコートごと強く抱きしめ、彼女は宝箱の蓋を閉めた。
少年には分からなかった。
なぜ、そんな顔をするのか。
なぜ、そんな目で少年を見つめるのか。
その言葉は、どういう意味なのか。
コラソンは言っていたはずだ。
危険はないと。ボスを信じていると。
ならば、何故こんな、少年を隔離するように宝箱へと隠すのだ。
おかしいではないか。
もし、危険なのだとして。
そうだとしたら、二人で逃げればいいではないか。
また、旅を続ければいい。
それなのに。
銃声が響いた。
音を立て、宝箱が揺れる。
誰かが上に倒れるような音がして、一段と箱の中は暗くなった。
少年は動けないまま、宝箱の蓋に空いたひび割れの隙間を見つめていた。
そこから滴る赤い血を。
流れ落ちるコラソンの血を、ただ見ていた。
◇
全ての音は去り、雪が降る。
暗い宝箱の中、少年はずっと待っていた。
薬が切れ、やっと動くようになった身体。
血と涙を吸って重くなったコラソンのコートを置き去りに、少年は島を彷徨い歩いた。
遠く、去り行く船の灯り。
賑やかな音。
ここに来ていたはずのファミリーの船。
追ってはいけないと分かっていた。
それでも足が港へ向かうのを止められず、雪に埋もれかけた血の赤を辿る。
ボス。
トラファルガー・ロー。
信じていたのに、あの男はコラソンを殺した。
あの男が憎い。
殺してやりたい。
そう思う一方で、一人になるのがひどく恐ろしくて、少年は無意識に暗い光を探していた。
何がしたいのか、もう自分でもわからない。
寒くて、どうしようもなく寒くて、あんなに恐ろしかった火ですら恋しくて。
雪に足を取られ、少年は何度も転ぶ。
凍えて感覚を失った指でペンダントを握った。
痛みすら覚えるほど冷えてしまったコインを、それでも握りしめて進む。
港に辿り着いた時、既に船は離れており、少年は膝をついて涙した。
コラさん。自由なんていらない。
そんなものいらない。
だって、自由はこんなにも暗い。
泣き疲れ、もうどうにもならないのだと心底思い知り、やっと少年は理解する。
もう、誰も手を引いてはくれない。
一人で歩いて行かなければならない。
また、一人で。
港に背を向け、少年は歩き出した。
頼りない足音は雪に呑まれ、ただ静かに夜が更けていく。