fragments of “HEART” 作:ladybug
荒れ果てた町の片隅、路地とも言えぬ壁の狭間。
少年は一人、荒い息を零していた。
纏う服は血と泥で汚れ、細く頼りない四肢には無数の傷が刻まれている。痩けた頬とは裏腹にふくりと膨らむ下腹部は、飢餓による腹水を示していた。およそ人の生活とはかけ離れた悲惨な姿だ。
宵闇に紛れ、少年は走る。
揺れる視界の端、石壁に空いた僅かな隙間を見つけ、彼は迷わずその路地へと飛び込んだ。
小さな壁穴へと自らの身体を捩じ込んだ後、ひび割れたサングラス越しに辺りを窺う。
眉間には皺が刻まれ、まだ幼いはずの顔は警戒に歪みひどく険しい。
少年の名はドンキホーテ・ドフラミンゴ。
かつて、少年は天竜人として暮らし、この世の栄華全てを堪能していた。
しかし、今は違う。
過去の彼が“下々民”として無下に扱ってきた人間、否、それ以下だ。人間に追われ狩られる存在として、彼は町を彷徨っていた。
父ドンキホーテ・ホーミング聖が天竜人の座を降り、家族四人で地上に暮らし始めたあの日。彼の運命は様変わりしてしまったのだ。
ドフラミンゴは孤独だった。
地上は天竜人を恨む人間達の巣窟であり、どこへ逃げようと迫害と暴力が彼を追い詰める。
故郷はただの“下々民”であるドフラミンゴを受け入れることなどない。
逃亡生活の果てに家族を喪った彼は、真の意味で孤独だった。
誰も彼を理解しない。誰もが彼を排斥する。人々は皆、彼を憎み、壮絶な苦しみの果てに無惨な死を晒すことを望んでいた。
突如、銃声が響く。
続いて複数の靴音と罵声。荒々しい憎悪に満ちた民衆達の気配は、次第に、しかし着実にドフラミンゴの隠れる壁穴へと近付いてくる。
何かをひっくり返すような金属音が響いた。路地のゴミ箱を蹴り付けたのだろう。溢れたゴミの中に天竜人の子どもが隠れていないか、確かめているのだ。
放り出された空き瓶が足下に転がってくるのを見てドフラミンゴは息を呑む。
追手はすぐそこまで迫っていた。
人々が歩き、暴れる振動が伝わってくる。
松明が揺れ、幾重にも重なった民衆の影をうつし出す。黒々と憎悪に蠢くそれはまるで獣のようで、少年は吐き気を堪えきつく唇を噛み締めた。
呼吸音が漏れては見つかってしまう。彼は慌てて口を押さえる。
心臓がうるさく鳴り続け、視界が滲んだ。
焦燥と憎悪。怒りと恐怖。
思考は既に限界を超え、蝕まれた心身は湧き上がる震えを抑え込むだけで精一杯だった。
「どこだ! どこに隠れやがった!?」
「許さない……殺してやる」
「早く見つけろ! 苦しめてやるんだ、死を望むまで!」
「これでやっと仇を討てる、ああ、ああ」
老若男女の罵声と笑声、泣き声に呻き。空き瓶を踏み破る靴音。壁を擦る金属の悲鳴。憎悪の塊となった集団は恐ろしい音を立てながら通りを進む。
ドフラミンゴが息を殺す中、民衆は通り過ぎていった。
安堵に力が緩みかけたその時、集団の最後尾にいた人間が足を止める。
それは小さな少女。
ドフラミンゴと変わらない年齢の子どもだった。
彼女は集団から離れて路地を覗き込み、みるみるうちに形相を変えて叫ぶ。
「いたよ!」
ぴたり、と。
靴音が止んだ。
静寂の中、母を返せと少女が泣き出す。彼女を押し除け路地に侵入した大人達が武器を手に憎悪と喝采を叫んだ。
殺せ。
痛めつけろ。
苦しみを!
死を!
民衆の声が折り重なり、瀑布となって降り注ぐ。
必死に逃げるドフラミンゴの頭を、老人の枯れた腕が掴み引き倒した。
痛みに呻く間も無く背を踏みつけられる。それでもドフラミンゴは足掻き、人々の手を払いのけて走った。
だが、非力な少年が憎悪の獣から逃れるはずもない。
明けない夜。薄汚れた町の片隅。
逃げ惑うドフラミンゴの視界は怨嗟を叫ぶ様々な顔に埋め尽くされていく。
伸ばされる無数の手。
その全てがドフラミンゴの死を渇望し、各々の恨みを晴らす歓喜に震えていた。
逃亡の果て、ついにドフラミンゴは倒れ込む。
彼はもはや声一つ出せず、自身に襲い掛かる人々を見上げた。
その時だった。
轟音が響き、石壁が崩れる。
一瞬で瓦礫となったそれは、怒れる民衆を飲み込み圧し潰した。
全ての声と音が消え、静寂が落ちる。
何が起きたか分からず、ドフラミンゴは呆然と空を見上げた。
暗い。
暗い空に、無数の星が鈍い光を放っている。
ドフラミンゴはへたり込み、視線を巡らせた。
山といたはずの人間が姿を消している。今の今までドフラミンゴを取り囲み、痛めつけ、殺そうとしていた数多の人間が一人もいない。
その代わりに広がっているのは瓦礫。ドフラミンゴが潜んでいた石壁、そして路地を隠してくれていた建物、その全てが崩れ去り残骸となっていた。
折り重なる白い壁の残骸にのぞく赤。
滲み、次第に広がっていくその赤は、瓦礫に圧し潰されて死んだ人々の血。
路地を濡らすだけには留まらず、通りまで流れ広がる血溜まりに、小さな波紋が広がる。
かつり、と。
石畳を踏む音がした。
顔を上げたドフラミンゴの傍を、黒い影が通り過ぎていく。
それは一人の男だった。
男は黒の外套に身を包み、黒いヒールの靴を履いていた。
彼は周りに一切の関心を払わず、当然のように血溜まりを踏んで進む。
瓦礫の山と人々の死体。
異様な光景が広がる中、男はただの一度も立ち止まることなく歩き去っていった。
しばらくして、静謐さを取り戻した夜の町に音が戻ってくる。
風が草木を揺らすざわめき、微かに響く虫の声。
ドフラミンゴが溢す微かな吐息。
いつの間にか、ドフラミンゴの頬には涙が流れていた。
濡れた頬を手の甲で拭い、ドフラミンゴは立ち上がる。頼りなくよろけ、躓きながら、彼は歩き出した。
星影が微かに照らす道の先、夜に溶けてしまいそうな背中。遠ざかるその黒を追いかけ、ドフラミンゴは町を進む。
もし。
もし、かみさまがいるなら、きっと、こんな背中をしているのだろう。
何も考えられずに黒衣の男を追いかけた先、薄明かりの溢れる建物が連なる場所へと出た。
門を通り過ぎる背中を追い、敷地へと滑り込む。
芝生の生えた敷地を進み、黒衣の男は扉の前で立ち止まった。
ドフラミンゴは少し離れた場所で様子を窺う。
しばらくして扉が開き、渋面の大男が顔を出した。大男は粘液が滴るような不快な音を立て、不機嫌そうに杖を鳴らす。
「どこをほっつき歩いてたんねー。ヒマなら少しはお前も宝探しを……?」
声を荒げていた大男が言葉を切る。
「ロー、お前、今度は何を連れてきたんだァ〜?」
そこで初めて、黒衣の男が振り返った。
血の気の薄い顔に青黒い髪。扉から漏れる灯りに照らされた顔はどこか病的で、目の下には濃い隈が浮かんでいる。
ローと呼ばれた彼はドフラミンゴを眺め、首を傾げた。
感情一つ窺えない金の瞳が瞬く。
視線を外した彼は答えず、大男の傍をすり抜けて扉の中に入っていった。
憤慨し何事かを怒鳴る大男の声が響き渡り、扉が閉まる。
慌てて二人を追い、扉の前まで移動はしたものの、どうしたものか分からずに動けない。
ドフラミンゴはただその場に立ち尽くしていた。
しばらくして再び扉が開く。
小綺麗なワンピースを着た小さな少女が顔を出し、恐る恐るといった様子でこちらを窺っていた。
メイドだろうか、それとも修道女だろうか。
ドフラミンゴより僅かに年下に見える少女は、いまいち判断に困る服装をしていた。頭には大きなリボンに加えて小さなゴーグルが乗せられており、歪ながら調和した不思議な雰囲気を醸し出している。
「あなた、だれ?」
答えないドフラミンゴを見つめ、彼女はさらに問いを重ねる。
「行くところ、ないの?」
迷い、散々迷い尽くし、ドフラミンゴは頷いた。
少女はワンピースの裾を握って視線を彷徨わせ、一度だけ扉の内側を振り返った。
ドフラミンゴに向き直った彼女は微かに笑う。
「私も」
扉の隙間からは穏やかな光と音が溢れていた。
柔らかい灯り、数名の人間が話す声。
その内の一人は先程の大男だろうか。今度は何やら機嫌が良さそうに捲し立てている。
「おいでよ」
少女が扉を開け、呼んでいる。
「おいで」
ドフラミンゴはわけもわからないまま頷き、扉の中へと足を踏み入れた。