前話の『ジキルとハイド』の登場が唐突だったので1話を少し修正致しました。興味ある方は1話もぜひ読んでみてください。
朝の陽光がカーテンの隙間から柔らかく差し込んでいる。
キッチンでは広海が味噌汁の鍋をかき混ぜていて、いい匂いが部屋に広がっていた。私は新聞を広げながら、時折、息子の方に目をやった。
渚はテーブルの端に座り、小さな文庫本に視線を落としている。
表紙は英語で、遠目にはタイトルがよく読めない。
「渚、その本は何だ? 結構難しそうだな」
渚は本から顔を上げ、少し照れたように微笑んだ。
「『ジキル博士とハイド氏』だよ。中学の先生に貰ったやつ。引っ越す時に見つけて、持ってきたんだ」
……ジキルとハイドか。人間の二面性についての有名な物語だ。
中学の先生……。あの頃、渚が通っていた特別なクラスで出会った先生のことを、たまに話してくれる。
私は小さく頷いた。
そこへ、広海が声をかけてきた。
「渚、ご飯よ。本はあとでしまいなさい」
「うん、わかった」
渚が素直に本を閉じて鞄にしまうと、広海は少し心配そうな顔で続けた。
「今日はランク戦があるんでしょ? 無理はしないで、ちゃんと気を付けてね。……頑張ってきて」
「うん、ありがとう母さん」
広海の言葉に、渚が小さく微笑んで頷くのを見て、私は胸の奥が少し疼いた。
二人のやり取りを、ただ黙って見つめていると、過去の記憶がよみがえってくる。
……昔の私は、広海を怖がって、二人を置いて逃げ出した弱い男だった。
渚が広海に支配されているのを知りながら、見て見ぬふりをしていた。
罪悪感が募るあまり仕事も手につかなくなり、路頭に迷いそうになった時期もあった。
そんな時、知り合いに紹介されたのがボーダーの唐沢さんだった。
事務職として雇ってもらい、近界民から街を守る一端を担う仕事の中で、少しずつ自信を取り戻していった。
人命を守るという実感が、私に「もう一度家族と向き合えるかもしれない」という希望をくれた。
今、こうして三人で朝の食卓を囲める。
渚も、中学でいい先生に恵まれたおかげで変わった。
広海も、少しずつ柔らかくなっていった。
そして私は、ようやく二人と共に生きる決断をすることができた。
私はこの幸せを噛み締めなければならない。
その時、渚がふと私の方を見て、小さな声で尋ねてきた。
「……父さん。今読んでる本の話なんだけど……もし自分が、ジキル博士とハイド氏みたいな状況になってしまったら、どうする?」
私は一瞬、言葉に詰まった。
渚の瞳は静かだったが、その奥に何か真剣なものが宿っている気がした。
「大切な人を守るためには、ハイドにならないといけない……そんなときは、どうすると思う?」
……重い質問だった。
私は少し考え、穏やかに答えた。
「……父さんはわからないな。でももし渚がそうなったなら、それでもジキルでいるべきだと思うよ。ハイドになってまで誰かを守る必要はない。……お前は優しいままでいてくれ」
そう言うと、渚はどこか安心したような、ホッとした顔をした。
その顔を見ながら私は心の中で別の思いを抱いていた。
……もし家族を守るためなら、私はハイドにでもなんでもなるだろう。
広海と渚の笑顔を守るためなら、どんなことでもしてみせる。――それは、2人ともう一度生活する時に、私が誓ったことでもあった。
私は静かに箸を握り直し、二人の顔をもう一度見つめた。
この穏やかな朝が、いつまでも続けばいいのに——と、心の底から願った。
ーーーー
【B級ランク戦 上位戦 第3戦 実況中】
武富桜子:「みなさーん! こんばんはー! 海老名隊オペレーターの武富桜子です!
本日もB級ランク戦、上位戦をお届けします! お昼時ですが気合十分、それではまいりましょう!
今日の解説は、このお二人です!」
出水:「太刀川隊の出水です。よろしく」
米屋:「三輪隊の米屋だ。。よろしくな」
武富:「ありがとうございます! 本日の対戦カードは、
現在B級1位の二宮隊、4位の漆間隊、5位の東隊、6位の生駒隊による四つ巴です!
ステージ選択権は生駒隊が持っており、選ばれたマップは『市街地A』!
お馴染みの市街地戦ですね!」
出水:「市街地Aか……シンプルなマップだな」
米屋 : 「生駒隊はそんなに拘ってなさそーだよな」
武富:「そうですね! まず、各チームの特徴を簡単に解説していただけますか?」
出水「そうだなー、生駒隊はB級では珍しい4人部隊で、安定した実力のあるチームだな。東隊は東さんがヤバいのと奥寺と小荒井の連携力が高い。」
米屋:「漆間隊は今期から暴れてる部隊だな。最上位で通用するのか楽しみだな。あとは二宮隊だけど、もうコメントする必要もないだろ」
武富:「二宮隊ですか……やっぱり今期も強いですよね! 元A級4位は伊達では無いということでしょうか! 出水隊員と言えば二宮隊長の師匠としても有名ですよね!」
出水:「……いや、師匠なんかじゃないっすよ。ただ合成弾を教えただけで……。でも二宮さんはやっぱ強いねー。個人総合2位は伊達じゃないよ」
米屋:「二宮隊がA級にいた時も二宮さんとどう戦わないかが重要だったしな」
武富:「たしかに、二宮隊は今期のランク戦でも危なげなく1位を独走していますね。ROUND2では、生駒隊長の生駒旋空を回避したところを弓場隊長に早撃ちで落とされてしまいましたが、その後もしっかりと得点を獲得しています。隊自体の実力の高さがでていますね! 今回はどのように戦うのか注目ですね!」
米屋:「他の隊で注目するとしたら漆間隊の潮田とかかなー。ROUND2で香取を落としたのは凄かったぜ」
出水:「いや、あれは流石にそう何度も起きないでしょ。それより東さんじゃねーかな。あの人まだ今期落ちてないでしょ」
武富:「上位戦らしい、読み合いが深いカードになりましたね!
それでは、各チームの健闘を祈りつつ……まもなく転送開始です!」
ーーーー
実況を聞きながら、ぼく達は隊室で地図を広げて確認していた。
漆間くんはいつものように腕を組みながら地図に視線を落としている。
六田さんは静かに微笑みながら、お茶を淹れてくれるが、今日の作戦会議は、いつもより空気が重かった。
「今回の相手は二宮隊、東隊、生駒隊。ステージはまた市街地Aだ」
漆間くんが地図を指で軽く叩きながら、淡々と説明を始めた。
前回と同じ市街地A。遮蔽物が多く、奇襲が決まりやすいはずのマップだ。でも、ログで確認した限り、今回の相手には決まり辛いと思った。
「今回は隠岐と東という二人のスナイパーがいる。
この前みたいな狙撃は、使いにくそうだな。」
ぼくは小さく頷いた。隠岐さんは珍しくグラスホッパーを装備している高機動型スナイパー。東さんは生存率NO1の隠密型のスナイパーで指揮能力も高い。
どちらも奇襲を狙い辛い相手だと思う。
「他の隊員も、明らかに弱い駒はほとんどいない。
小荒井や奥寺、南沢あたりがわずかに狙い目かもしれないが……ゴチャついたところを狙う方が無難だな」
漆間くんは腕を組んだまま、口の端をわずかに上げた。
「要するに、今回も正面からやり合うの無理だ。だから俺達はいつも通り相手に戦わせて横取りしていくしかない。
……渚、お前は自由に動け。俺も好きにやる。六田先輩は俺のサポートに集中してくれ」
「わかりました。渚くんも何かあったら教えてね」
そう言いながら六田さんが少し心配そうにぼくを見た。
ぼくは静かに息を整え、二人を見つめる。
「……大丈夫。僕も、なるべく潜伏しながら隙を伺うよ。」
漆間くんは「ふん」と短く鼻を鳴らしたが、どこか満足げだった。
六田さんは小さく微笑んで、静かに頷いてくれた。
作戦はシンプルだ。やることもこれまでと変わらない。
でも、今までで一番難しい試合だと感じる。
上位の強豪たちを相手に、ぼくたちの力でどこまで通用するのか。
……朝、父さんと話してよかった。
父さんは表面上は「優しいままでいろ」と言った。
でも、ぼくにはわかった。波長の乱れと微かな目の揺らぎが父さんの隠れた本音を教えてくれる。
父さんは嘘をついていた。
大切な人を守るためなら、自分はハイドにでもなんでもなる——そう思っていることが、はっきりと伝わってきた。
……なら、ぼくも。
ジキル博士は、最初はただ自分の欲求を満たすために薬を飲んで変身した。
それが、徐々に自分を蝕み、取り返しのつかない結末へと導いていった。
殺せんせーがこの本をくれた理由をこの時のぼくはまだ深く考えていなかった。
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