鬱蒼と木々が茂っている。
空気はじっとりと湿り、木の表面を覆うように苔が生えていた。ツル植物が縦横無尽に横切り、倒木があちこちに転がっている。
四方八方から喧しい鳥の鳴き声が聞こえ、辺りには無数の虫が飛び交う。中には吸血するものもいて、肌が露出していればすぐに噛まれ、痒さと病に見舞われるだろう。かといって全身を覆うもの……例えば金属の鎧など着ようものなら、気温と湿気によって熱中症になりかねない。
森を歩く女剣士クリスは、革で作られた軽装の鎧を着込み、身軽さと通気性を重視していた。荷物入れである肩掛け鞄も必要最小限の、小さなものである。
「ふぅ。大分奥まで来たが……これといって見当たらないな」
それでも暑い事は変わらず。クリスはため息を吐き、汗を拭いながら端正な顔を顰める。兜を被らず、髪は短く切り揃えているが、それでも頭が蒸れてしんどい。革鎧の中も汗で蒸れ、かなり気持ち悪い。
いっそ男なら半裸で行けたのだろうか……なんて阿呆な考えが一瞬過る。どんなに筋肉質な男でも、羽虫は平然と血を吸い、病を撒き散らす。歴戦の猛者ほど半裸になんてならないだろう。そんな事はクリスもちゃんと分かっているが、ついつい思ってしまうぐらい暑い。
そこまで暑いこの森の中を彼女が歩いているのは、近くの村から『依頼』があったため。
クリスは剣士である。剣士とは本来「剣の使い手」を意味するが、この国では傭兵や便利屋の類だ。国からの支援が期待出来ない辺境などで、獣や山賊の討伐を行うのが主な仕事。相手は無法者や野生動物であり、失敗はそのまま死を意味すると言っても過言ではない。怪我をすれば治療費はほぼ自腹。実入りは良いが、割に合うとは言い難い。例年多くの若者が成り上がりを夢見て剣士になるが、大半は何一つ成せずに死ぬか、身体の何処かをなくして故郷に帰るかのどちらかだ。
クリスは無事、十年も生き抜いた手練の剣士である。歳は二十五歳とまだまだ若いが、十五の時には剣を振っていた。村が飢饉に見舞われ、仕事を求めて誰でもなれる剣士になっただけだが。
幸いと言うべきか。クリス自身も知らなかったが、彼女は剣の才能に恵まれていた。女でありながら数多の野盗や猛獣を斬り倒し、多くの仕事を達成している。今や女剣士クリスの名はそこそこ有名で、それなりに依頼が入ってくる身だ。
さて。今回彼女が受けた依頼は野盗、或いは獣の討伐である。
或いは、等という曖昧な表現になっている理由は、対象の正体が判明していないため。依頼してきた村では最近家畜が襲われる被害が多発し、困っているという。家畜は小屋で食い殺され、如何にも獣の仕業なのだが……扉が丁寧に開かれ、罠なども避けられているなど妙に小賢しい。大体数日に一度の頻度で来るらしく、既に十頭以上やられた。家畜の被害額は相当なもののようだ。
いや、金額だけならまだマシと言うべきか。
この辺りの森は石や砂が多く、腐葉土が薄いためあまり栄養はない。木々を切り倒して開拓しても、そこが畑として使えるのは精々数年。このため数年単位で住処を変える必要がある。だが森には山菜や薬草、材木や獣の皮など金になるものもあり、闇雲に森を切り開けばこれらも失う。それに場所が数年で変わっては、村人や商人も立ち寄れない。乱開発は村人の得にはならず、出来れば長い間一箇所に定住したい。
ここで役立つのが家畜だ。家畜は森の草や畑の雑草、家庭から出た野菜くずを食べる。食べれば当然糞をするが、これが畑にとってよい肥料になるのだ。勿論大きく育てば肉となり、畑の作物以外の食料となってくれる。畑を休めながら使えるので、これもまた畑を長持ちさせるのに役立つ。
この地域で人が定住出来るのは、家畜のお陰と言っても過言ではない。そんな家畜を食い殺されるのは、村の存続が脅かされるのに等しいのだ。
更に最近この森では、野営中の商人が襲われるという被害も相次いでいるという。夜中に奇襲された混乱もあって相手の姿は確認されていないが、食べ物が強奪され、怪我人が出ているとか。死人こそいないが、怪我の治療費も馬鹿にならない。商人は利益があるから村に立ち寄るのであり、怪我などで出費が増えれば来てくれない。このため村では塩や一部の薬が不足しつつある。
このままでは村の生活が崩壊する。犯人が野盗か獣かは分からないが、森に潜んでいるそいつを退治してもらえないか――――というのが村からの依頼の詳細だ。
「(まぁ、ほぼ獣だろう)」
森を歩き回る中で、クリスは犯人の正体に見当を付けていた。
獣だと思った理由は、森の中に人の痕跡がなかったため。
人間は知的な生き物だ。だから自分が何故不快なのかを理解し、その不快を取り除く方法を考えられる。歩き辛いなら草を踏み均して道を作り、食べ物を美味しくするために火起こしして、風雨をしのぐ寝床として住処を作る。寝床を作るために木々を切り、不衛生なゴミや排泄物は一箇所に集め、森で迷わないようあちこちに印を刻む。これらの行動をしないという選択はない。不快だと認識したまま我慢するのは精神的負担が大きく、食べ物や衛生は生死に直結するので放置できないからだ。
しかしこうした生活の工夫は痕跡として、存在を知る手掛かりになる。諜報員や暗殺者など、存在を気取られてはならない者達は自らの痕跡を消そうとするが、知識と技術がなければ色々と残ってしまうもの。
暑さを我慢してまでクリスが付近の森を歩き回ったのは、人間がいる証拠を見付けるためだった。だが今のところそれらしきものはなく、故に村を襲っているのは人間ではないとクリスは考える。
なら、次に考えるのは『何』が相手であるのか。相手によって戦い方や戦略を変える事で、より確実に勝てるし、誤った戦い方では実力に劣る相手にも負けてしまう。
「(この森に住む動物で、人を襲うとしたらクマぐらいか)」
この地域に暮らすクマは人間よりも少し大柄で、しかも身体は筋肉の塊だ。力も速度も遥か上。剛腕は金属鎧さえも凹ませ、頭に受ければ防具など関係なく首の骨をへし折るだろう。
それでいて毛皮と脂肪は厚く、刃物を止めしまうほど。無論クマはこの森の住人なので、森の環境での戦いに慣れている。一対一ならベテランの剣士でも苦戦する相手だ。
クリスとしても戦いたくない。名声を上げるにはいい相手であるし、勝てる自信もあるが……死のリスクや報酬なども考えると割に合わない。
それに、この地域で起きている被害がクマの仕業と考えるのは違和感がある。
「(依頼によれば誰も相手の姿を見ていないらしい……クマなら目撃されていそうなものだけど)」
クマは非常に大きな動物だ。ずんぐりとした姿も特徴的で、見間違えたり見失ったりする可能性は低いように思う。動きは速いが俊敏でもなく、物陰に隠れながら襲うような生き物でもない。
話によれば相手の活動時間は夜なので、暗闇に紛れている状態ではあるが……だとしてもクマなら流石に分かりそうなものである。絶対ではなくとも、いまいち納得出来ない。
もっと小柄で、素早い動物に襲われたのだろうか。しかしこの辺りの土地にオオカミは生息していない。サルはいるが、精々人間の半分程度の大きさだ。いくら夜中に襲い掛かっても、家畜を殺せるだろうか?
シカやイノシシも人を大怪我させるだけの力を持つが、あれらは草食動物だ。若葉や根っこを食べる生き物達が、どうして商人の食糧を奪うのか。この豊かな森には、いくらでも食べ物はあるだろうに。
考えれば考えるほど、正体が分からない。何か重大な見逃しをしているのではないか。戦いにおいて情報不足は命に関わる。拾い損ねた情報がないか、何か勘違いをしていないか。周囲を見渡しながらクリスは思考を巡らせた。
残念ながらこれといった答えは全く出なかったが。
考えているうちにクリスは森の奥深く――――何人もの商人が襲われたという、街道近くまで来た。街道と言っても木を切り倒し、人や馬車が踏み均した程度の道であるが。最近は商人も通らないからか、小さな雑草が生え始めている。
結局、森の中に手掛かりとなるような情報は見付からなかった。
「……こればかりは仕方ない、か」
情報不足だ。勝てる相手か分からないという、不安はある。しかし依頼を受けたからには、そう簡単に引き下がる訳にはいかない。
確かに、手に負えない仕事からは退くべきだろう。剣士というのはその見極めの出来ない者から死んでいく、厳しい仕事なのは違いない。だがほんの少しの不確定要素で依頼を取り下げる剣士に、誰が仕事を信頼するのか。前金を返却すれば済む話でもない。依頼を取り下げるまでの間に被害が拡大すれば、それは依頼者に損害を与えたのと同義なのだから。
加えて、クリスは女だ。
剣士や傭兵という仕事は男社会である。差別云々ではない。人間という生物は女よりも男の方が身体は大きく、そして筋肉質。戦闘能力はどう考えても男の方が上である。剣士は戦う事が仕事である以上、『優秀』な人間を選ぼうとすれば誰だって男を指名するだろう。
今でこそクリスは女剣士として有名だが、それは何年も実績を積み上げてきたからだ。ここで下手な対応を取れば、今までの信用は一瞬で崩れ去る。やり直すにしても、「アイツはビビって簡単な依頼も放り出した」という噂は何時までも付き纏うだろう……新人なら許されても、名が売れた今となっては致命的である。
「(全ての可能性を恐れていたら、剣士として生きていくなんて出来ない)」
女にとって過酷な道を選んだ時点で、命を失う覚悟は済ませた。今回は退かず、留まるべき時だと判断する。
そして夜を待ち、姿を見せた対象を討伐する。
そうと決まれば野宿の準備だ。既に日は沈みつつあるので急がねばならない。周囲を見渡したクリスは、近くに倒木があるのを発見。この倒木を椅子代わりにするため付近の整備……軽く草を毟り、邪魔な石や木を取り除く程度だが……する。
多少開けた空間を確保したら、焚き火の準備を行う。近くにある枝と落ち葉、それと細長い枯れ草を集める。細長い枯れ草を丸めるように纏め、そこに火花が降り注ぐよう持参した火打ち石を叩く。飛んでいった火花が枯れ草に燃え移ったら、そっと草を両手で包み、息を吹きかけて新鮮な空気を送り込む。
やがて火が勢いを強めたら、集めた落ち葉の上に置いてまた息を吹きかける。落ち葉も燃え、勢いのある炎となったら細い枝を投入。最後に太い枝を投じれば、簡単には燃え尽きない焚き火の完成だ。
……焚き火を用意するのは大変な手間だ。市販されている薪と違い、野外の枝や葉というのは基本湿っている。どれだけ火花を落としても全然燃え移らない事も珍しくない。
クリスもそれなりに苦戦し、燃え盛る焚き火が出来た頃にはすっかり夜になっていた。町の灯りが届かない森の中は暗く、焚き火から数メートル先はろくに見えない。木々の奥に何かが潜んでいても、輪郭すら見えないだろう。
「……………食事にするか」
極めて奇襲しやすい状況だ。警戒心を強めながら、荷物から食料を取り出す。
村からもらった干し肉だ。焚き火の上に置いた小さな鍋に水を入れ、そのお湯に干し肉を浸す。干し肉は硬く、そのまま食べられない事もないが、柔らかくした方が美味しい。
程々に柔らかくなった干し肉を取り出し、噛み千切る。噛めば噛むほど味が染み出す。保存性を高めるために入れた塩が、汗を掻いた身体には心地よい。
この味を堪能したいが、相手はこちらの事情なんて汲んでくれない。何時やってくるか分からない。周囲の気配を常に探って異変に備える。
その甲斐もあって、と言うべきか。
かさり、と僅かな物音をクリスは聞き逃さなかった。
「……………」
ごくり、と口の中にある肉を飲み込む。音がした方には振り向かない。こちらが気付いたと、相手に気取らせないために。
未だ、気配は感じ取れない。
果たしてただの気の所為か、単なるネズミか何かか、それとも近くに潜んでいるのか。平静を装いながら次の肉を取り出し、鍋の中に放り込もうとした
瞬間、
「っ!」
即座に肉を投げ捨て、剣を掴む。
肉に反応してそちらに向かえば、時間稼ぎとなるので良し。肉ではなくこちらに来るなら、そのまま抜いた剣で切り裂くのみ。
どちらに転んでも対処可能。果たしてどうなるか――――
振るった剣先は、空振りに終わった。
頭上から落ちてきた何かは、近くの枝を掴むなどして軌道を変えたらしい。放り投げた肉の方に向かい、軽やかに着地していた。背を丸め、くちゃくちゃと音を鳴らしている。
捨てた肉を食っているのだろう。
幸いにして、比較的焚き火の近くに着地している。明るい場所に留まっているお陰で姿形をハッキリ観察する事が出来た。
戦いにおいて観察は重要だ。姿形だけでも、射程や攻撃手段などを探れる。目的などが分かれば行動も予測出来るだろう。それらの情報の有無が命に直結するかも知れないのだ。呆気に取られている暇なんてない。
「……流石に、これは想定外だな」
そうだと思うのに、クリスは驚きの所為で集中力を欠いていた。
自分を襲った存在が、薄汚れた一人の『少女』だなんて予想さえしていなかったのだから。