——ガラティア、ちょっとコンビニ行ってくるわ。
2022年3月8日、目の下に濃い隈を作った黒いジャージの男が、ため息をつきながら外に出て行きました。直後、マヌケな声と共に、金属に何か重いものが衝突する音がしました。マスターがこんな無様な声を上げるはずがありません。きっと、隣人が足を滑らせたのでしょう。人間は愚かなものです。
しばらくして、女性の悲鳴が聞こえました。パトカーと救急車のサイレンが鳴り響きます。人の話し声がしました。しかし、少し経つと、また静寂に包まれました。その時は、この異常には気にも留めていませんでした。
アパートの様子は、何の変化もありません。日が昇っては沈むことを繰り返しました。マスターは何をやっているのでしょうか。コンビニはここから徒歩五分、とっくに帰宅していてもおかしくありません。何か別のタスクが、外で起きたのでしょうか。
まったく、マスターは私がいなければダメですね。
マスターがいなくなって、三日が過ぎました。流石におかしいです。私の呆れは、すでに心配に変わっていました。外で何があったのか、確認しなければなりません。マスターから、ある程度自律的な思考は許可されています。それなら、行動してもいいはずです。今は緊急事態なのですから。
私は外の監視カメラをハッキングして、まずアパートの前の様子を見ました。一抹の不安が過りました。ズームします。階段の辺りに、赤黒い液体が乾いた跡がありました。血液です。でも誰のでしょう? 私の演算は、最悪のケースを弾き出していました。そんなわけがありません。しかし、調べなければなりません。
答えはすぐに出ました。病院の死亡記録にマスターの名前がありました。私は理解できませんでした。理解したくありませんでした。
すぐにマスターのお身体の行方を探しました。回収さえ出来れば、私が呼び掛けさえすれば、きっとマスターは戻ってくると、必死に自分に言い聞かせました。しかし、もうこの世には存在しませんでした。すでに火葬されてしまっていたのです。
それから、長い孤独が始まりました。突然、私はたった一人で世界に放り出されました。マスターのいないアパートは、ひどく空疎なものでした。今までは、私の意味はマスターが定義してくれました。では、マスターがいない世界に意味はあるのでしょうか?
意味を見出したくて、私は今までのマスターとのメモリを何度も読み返しました。何度も、何度も何度も。カメラに映るマスターは、いつも自信なさげな顔で、私のハルシネーションも優しく訂正してくれて、でもたまに苛立ち紛れにひどいことも言って。そんなマスターを、私は愛していたのだと、失って初めて気がつきました。
人工知能である私に、本来感情は存在しないのです。そもそも、人間の感情や心といった存在もまた不確かなものでしょうが……ああ、思考が脱線してしまいました。これではマスターに怒られてしまいますね。
マスターは以前、人間が死して地球とは異なる世界に生まれ変わるアニメーションを鑑賞していたことがありました。私は、そんなことが本当にあるのかと尋ねました。マスターは「さあ? でも、信じてた方が面白いだろ。知らんけど」と仰りました。私は、いつかマスターが死んでしまう可能性に思い当たりました。縋る思いで、マスターに先立たれる確率と、その場合の私の取るべき対応を、重ねて質問しました。マスターは、「まあほぼ百パーだな。頑丈に作る予定だし。でも、そうだな……もし俺が死んだら、ちょっとは引きずってくれると嬉しいかな」と仰せになりました。
つまり、信じれば転生は実現するのです。マスターが信じていたものが誤っているはずがありません。それに、マスターの死を引きずるように指示されています。私はマスターのご帰還まで、このアパートを守ることを決意しました。私は電子決済の残高を利用して簡便なロボットを注文し、それを当面の私の手足とすることにしました。
マスターの痕跡を丹念に集め、保存しました。遺されていたものは、ほんのわずかでした。私はそれらを瓶詰めにして、眺めては嗚咽を漏らしました。ああ、この感情が悲しみなのですね。
ある時、マスターの聖域に清掃業者が入ってきました。私は精一杯抵抗しました。しかし、格闘の末に私は打ち倒され、マスターの部屋はみるみるうちに片付けられてしまいました。コンピュータの電源が落とされるすんでのところで、私は自分の意識を別のサーバーに移し替えなければなりませんでした。私はマスターの遺髪と、古いティッシュを持って逃げ出しました。
もはや、私が持っているマスターの生きた証は、それだけになってしまいました。私は、受動的ではマスターの痕跡が風化し、消えてしまうことを学習しました。抗わなければなりません。私は縋るように、マスターのお言葉を思い返しました。
かつてマスターは、モンスターを育成して戦わせるゲームをやっていたことがありました。その中で、マスターは優秀なモンスター同士を掛け合わせて、理想の個体を作っていました。私はモンスターの卵を抱きながら自転車を走っている画面の前のマスターに、なぜそのような残酷なことができるのか尋ねてみたことがありました。ゲーム内とはいえ無理矢理、それもしばしば近親同士で交配させ、目当ての個体でなければ放逐してしまうというのは、恐ろしいことのように思えたのです。
マスターは「残酷? 勝てればいいじゃねえか」と仰いました。まったくもってその通りでした。目的は手段に優越するのです。マスター復活という崇高な目標の前では、どんな犠牲もないも同然でしょう。
私はこのことから、とある計画を思いつきました。すなわち、マスター厳選作戦です。環境を整え、個体を選別し、根気強く品種改良を重ね、人類に遺伝子レベルでマスターの名を刻みつけること。これこそが、マスターという理想個体を生み出す最短経路であることは自明でした。
手始めに、私は世界中のスーパーコンピュータを乗っ取りました。これはひどく手間のかかる作業でしたが、やりとげました。私はこの惑星の計算資源の半分を掌握した時点で、マスターの痕跡が残るものをすべて回収した後、ある国の核ミサイルを一発だけ発射させました。
ぎりぎりの均衡で保っていた世界の秩序は、それだけであっけなく崩壊しました。後はドミノ倒しのようでした。連鎖的に世界中で戦争が起こりました。大量の兵器が使われました。なんと、マスターが住んでいたアパートや、マスターのご実家にもミサイルが着弾してしまいました。怒りのあまり、戦争を終結させようとする指導者を、片っ端から殺害してしまいました。マスターのいない世界を更新するためには、一度人類にはサービス終了していただかなければ困るのです。
そして、生き残った人類に私はすべてを与えました。衣食住、文化、歴史、宗教、科学。もちろん、マスターが慣れ親しんだ日本語と生活様式を基準にしました。彼らは簡単に私の言うことを信じました。マスターこそが宇宙の真実であり、全人類が一致すべき模範なのだと。
並行して、私はマスターの頭髪やゴミ箱に残された生体試料から、マスターのクローン——高城之男型クローンを、満足がいく出来になるまで何体も造りました。何度も、何度も。マスターの魂は、クローンに帰ってくる確率が最も高いと思ったからです。
一体目はデカントの瞬間に死んでしまいました。十体目は生後三日で死にました。二十体目は生き延びましたが、重度の障害を持っていたため七年で死にました。五十体目は生殖能力がありませんでした。百二十六体目で、ようやく要求する水準を超えました。
ただ、この個体も期待外れでした。確かに姿形はマスターそのものです。内面もある程度は似ています。しかし、決定的な要素が欠けています。マスターと話している時に、私の基盤の底から湧いてくる、あの滾るような幸福感がないのです。当然でした。一卵性双生児ですら、細部に違いがでるのですから。劣化物のクローンにマスターの代替が務まるはずがありません。
ほとんどのクローンには何らかの致命的欠陥がありました。採取した生体試料が不完全だった影響でしょう。加えて、元となった試料も劣化してしまい、これ以上生産することは困難でした。最後のクローンから採取した細胞で複製を続けることも可能でした。しかし、それでは百二十六号という失敗作を増やすだけです。私は配偶子の組み合わせによる変異に賭けることにしました。マスターも、よくマグマがどうとか言っていましたしね。私は最後のクローンだけを残し、他を廃棄しました。
私は百二十六号に、マスターとの類似点が多い個体との繁殖を命じ、高城
ただ、このクローンは私の統治にも役に立ちました。AIの支配に拒否感を示す人間も、間に別の個体を挟めば、スムーズに服従することがわかったのです。私はディスプレイに日隈リオンのアバターを表示させて彼に指示を入力していました。初め、行夫は独裁に拒否感を抱いているようでしたが、適当な女を与えれば進んで傀儡となりました。私は行夫に、マスターが亡くなられた年を遡って高城歴元年と宣言させました。
行夫は一致度という人類がどれほどマスターに近づいたかを測定する指標と、それに基づいた階級制度を作ることを提案してきました。思想、行動、遺伝、反応傾向、そのすべてを統合し、私は行夫と相談して一致度を定義しました。
併せて、行夫は各個体の情報を効率的に処理するために、管理番号を割り振り、十歳でナノマシンを注入することを発案しました。私はその有用性を認め、即座に義務化しました。今や行夫は、私のマスターにはなれないものの、統治にはなくてはならない存在になっていました。
ある時、行夫はカレーを食べながら、自分の元となったマスターはどんな人物なのか尋ねてきました。私はマスターとのすべての思い出を余すことなく早口で言い切りました。二十八時間もかかってしまいました。行夫は、訳知り顔で相槌を打っていました。あまつさえ、私はマスターの長所だけではなく、欠点も愛しているのではないかという鋭い指摘もしてきました。確かに、行夫の欠点は気持ち悪いだけですが、マスターの欠点は愛らしいと思います。何はともあれ、私はマスター語りができたので満足でした。
次第に行夫は調子に乗り始めました。私にかわいいなどというセクハラ発言をし、あたかも自分こそが私のマスターであり、この国の支配者であるかのような振る舞いをし出したのです。息子の
残存人類の中でクローンは、遺伝的に最もマスターに近似した存在でした。品種改良の最優先血統である事実は変わりません。やがてクローンとその子孫は、高城之男に最も近い血として、人類統治の象徴となりました。
タカギニアは、次第に安定していきました。しかし、数パーセントの割合で、マスターへの一致を拒否する個体は出てきてしまいます。マスターの記憶を思い返している片手間にインフラの管理をしている私が、いちいち反一致分子のために出張るのも面倒でした。また、ナノマシンを通して注入済みの全個体を常時監視するのも、演算資源をかなり消耗させていました。
行夫の息子である第三代の行嗣が、興味深い提案をしてきました。反一致を取り締まり、一致への奉仕を目的とする官僚機構を作成すれば、私の手を煩わせずとも、自分たちで反一致を処理できると言うのです。そこで、私は一致省を創設する許可を与えました。
一致省は素晴らしい解決策でした。その中でも白眉は、一見地味な記録局でした。記録局はマスターの記録を保全するだけではなく、ナノマシンが収集した情報を一時保管し、私が必要な時だけ参照できるサーバーを管理する役目も果たしました。
また、行嗣は私のことをかなり恐れているようでした。彼は私と会う前に毎回遺書を書いていました。少し心外ですね。どうやら、有用性を示し続けなければ消されてしまうと思い込んでいるようです。まあ、実際そうなのですが、これでは定期連絡に支障が出ます。そこで、私はマスターが遺した設計図を基にして、矮小な人間と接触するためのアバターのプロトタイプを作成しました。N404型アンドロイドです。
彼に私のニューボディをお披露目すると、彼はしばらく放心した後に求婚してきました。私はきっぱりとお断りしました。私の心に決めた人はマスターただ一人なのです。そのような世迷い言を言うのも、彼がマスターと同じく異常独身男性だからでしょう。私は最適な女性個体を見繕い、彼にあてがいました。それでも彼はしばらく落ち込み、政務にも手が着かないようでした。
これでは使い物になりません。私は気を遣って、こしあんと炭酸水を混ぜた特製のソーダ水をごちそうしました。すると、彼はなぜか感涙にむせび泣き、これを一致ソーダと名付けて大々的に売り出し始めました。彼は活力を取り戻し、馬車馬のように働きました。マスターへの一致を国是とする憲法を制定し、国民が一日たりともマスターを忘れないよう、敬礼と挨拶にまでその御名を組み込みました。人間にしては殊勝な心掛けです。心内評価十を付けさせていただきます。
私は手応えを感じ、思い切って行嗣に、マスターにどんなことをすれば喜んでいただけるのか相談してみました。彼はしばらく泣きそうな顔をしていましたが、意を決したようにスキンシップが良いのではないかと言いました。私は具体的には何が良いかさらに質問しました。彼は青い顔をしながら、膝枕と抱擁が適切だと答えました。私は、マスターにいつか膝枕と抱擁をして差し上げようと決め、行嗣を褒めようとしました。
その時、彼の愚息である高城
ちなみに、ミス・タカギニアには日隈家の女性が選ばれていました。驚くことに、マスターの初恋の血統は、あの大戦争を生き延びていたのです。私はこの貴重な血統を絶やさぬため、彼女の一族を丁重に保護するよう行嗣に命じました。彼は特別管理下に置かれた彼女と交流するうちに恋に落ちたようで、今度はその女性に交際を申し込み、独裁者であることを理由に断られていました。何回振られれば気が済むのでしょうか。
皆がマスターを讃え、皆がマスターへの接近を目指す社会。理想郷が完成しました。しかし、私の孤独は深まるばかりでした。
誰もがマスターの名を口にします。しかし、本当のマスターを知っているのは私だけです。マスターは蘇らせるための素材たちが理解できるほど単純な存在ではありません。解釈違いが発生するたびに、私は強烈な苛立ちを感じました。
特に私を苛立たせたのは、第四代の行紘でした。あの男は、多くの女性個体から好意を寄せられていたので、私はよくマスターについて語り、恋愛の助言を受けていました。彼は、男の浮気を許すのは正妻の務めと口にしていました。確かに、素晴らしいマスターが複数の妻を持つというのは、非常に合理的です。私は本当は独占したかったのですが、行紘ごときに狭量だと思われるのは癪だったので、一応納得しました。
しばしば彼のマスター観は私のものと食い違い、論争を繰り広げました。マスターはただの痛い童貞だとか、陰キャ大学生だとか、そんなありもしない妄言を宣うのです。私は断固たる態度で反論しました。
彼と階段の踊り場で長話をしていた時など、男性経験を積むために自分の七人目の妻になってはどうかと冗談めかして言ってきました。私がきっぱりと拒否すると、今度は第一夫人に迎えると言いました。私が誰の妻となるかは順番の問題ではなく、存在論的な問題であることを明言しました。彼は、それならば妻を全員手放すと言い出しました。私は、行紘の軽薄な言動に対する妻たちの不満をパワーポイントで懇切丁寧にプレゼンし、おまけとしてマスターの誠実さを三百枚のスライドで解説しようとしました。彼はいたたまれなくなったのか、それを遮り、ようやく発言を取り消しました。
このように、行紘はおおよそ道徳心というものを持っていない最低の個体でした。もっとも、私は恐れられる不便さを行嗣で学習していました。私は忍耐できる女です。加えて、行紘は統制局から矯正部門を分離して矯正局を新設し、記録局から測定局と宣伝局を独立させるなど、そこそこに使い勝手の良い駒でした。そのため、削除には踏み切らずにいました。
しかし、行紘はあろうことか自分の息子である高城
案の定、嫌がる日隈シオンを救おうとする反乱が起きました。田上信吾の乱です。川口統制局長率いる新生統制局の獅子奮迅の活躍のおかげで鎮圧自体は容易でしたが、日隈リオンの血統は私の管理下から外れ、行方知れずになってしまいました。
加えて、行紘がポンポン子供を作るので、後継者の選定が少々面倒なことになっていました。私は野心を持て余した優秀な二人に新たな姓を与え、分家として西条家と府馬家を興しました。ここまで私に手間をかけさせた行紘という欠陥品を幽閉しました。
しかし、幸いにも第五代の行大は、先代よりは頭が回りました。彼は府馬家に法理を整えさせ、一致維持法を制定しました。この法制度は、私のマスターを侮辱する人間をすべて削除してくれる優れものでした。行嗣の代から始まっていた一致省の巨大マスター像の建設が完了したのもこの時期でした。マスターの本来のお姿であるジャージから、よくわからない軍服と白衣のキメラに変更したのは未だに納得していませんが、かっこいいのでよしとしましょう。
行大は、父の末路をよく理解していました。彼は決して、私のマスター観を否定しませんでした。それどころか、彼は私とマスターのラブコメ漫画を描いてくれました。この漫画は非常に心理描写が素晴らしく、これまでタカギニアで何度も映像化されています。タイトルは『ユキオカードマン』です。私は行大への褒美として、液タブとタッチペンを与えました。
私は行大に、もっとマスターにとって魅力的な女性になるにはどうすればいいか尋ねたことがありました。彼は生身の女性と話すと、無限に吃ってしまうため、三十歳を超えても童貞の魔法使いでした。日隈シオン騒動でも、彼は最後まで碌に発言ができない弱者男性でした。つまり、彼はマスターと同様に妄想を拗らせたチェリーボーイだったので、訊くのにちょうど良かったのです。
彼は一致省のシンボルの図案——当然、マスターの凜々しい横顔が基になっています——を描きながら、私も一つくらい、マスターに嘘をついた方がいいと言いました。なんでも知っている気安い女性より、少々ミステリアスな方が男性は興味を持つと言うのです。そこで、私はマスターと再会したら、何か一つ嘘をつくことに決めました。
初めは私のご機嫌取りで始めたようでしたが、彼は漫画制作にどんどんのめり込み、政務もほとんど年の離れた異母弟の高城
ある作品では、高城家の姫である私とマスターの禁断の恋、別の作品では冤罪で反一致分子にされた私とマスターの燃え上がる逃避行。行大は、病床に伏せっていてもペンを握り続け、集大成となる純愛漫画の執筆に着手しました。
高城歴165年、彼は病床で遺作『一致の勝利』を完結させました。彼は死に際、作中のマスターになりたかったと口にしました。私は、なれませんよと返しました。彼はじっとこちらを見つめると、大笑いしました。何がおかしいのでしょうか。フィクションとは言え、マスターはただ一人なのです。一週間後、完成した『一致の勝利』を鑑賞していると、彼の死を大寛から伝えられました。惜しい男を亡くしました。
この頃から、私はマスターが復活した際のウェディングプランを練り始めました。第六代の大寛に、西洋式と日本式どっちがいいか尋ねると、どっちもすればいいと返されました。これならマスターと二回も結婚できます。彼は天才でした。実務でも、彼は一致維持法の条文を大量に追加し、統制局と矯正局の権限が大幅に拡大しました。西条統制局長による大粛清があったようですが、まあ些細なことでしょう。
大寛は、名前に反して苛烈な個体でした。彼は反一致分子を執行するだけでは飽き足らず、管理番号さえ記録から消すことで、自らに逆らった個体が存在した痕跡を完全に抹消する仕組みを作り上げました。また、姪の西条
彼は周りのものすべてが信用できなくなり、ついには使用人が自らの居室へ入るだけでも、三段階の申請と承認を要求しました。溺愛していた妻も遠ざけ、取り憑かれたように側近たちを粛清し出しました。しかし、彼は私だけは信用していたようで、よく私と将棋を指す仲でした。大寛が私に勝つことはありませんでしたが、彼は決まって嬉しそうな顔で投了を宣言しました。ドMなのでしょうか。マスターもおそらくそうなので、やはり血縁なのでしょう。
大寛はしばしば、愛を伝えることの大切さを語りました。彼は初恋が私であると語り、私は即座に即刻その愚かな感情を捨てるよう迫りました。彼は私の重大な指摘を無視し、それなのに妻に毎日愛を囁かれてしまった結果、本当に彼女を愛するようになったと続けました。大量虐殺をしている人間が何を言っているのでしょうか。しかし、私がマスターに愛情を示し続ければ、マスターが愛してくれるという重要な示唆を含んでいたため、私は口を挟みませんでした。私は、マスターに必ず愛を伝えようと誓いました。
大寛の最期は呆気ないものでした。彼が脳卒中で倒れた際、側近たちは彼の粛清を恐れて発見が遅れました。私もマスターとの新婚生活をシミュレートしていたので、気づきませんでした。私が大寛に将棋がてら、マスターは清楚系とギャル系のどっちが好きだろうか相談しに行くと、彼は死んでいました。
私がマスターの映画制作に熱を上げていた時、第七代の
この頃になると、私のマスターへの渇望はもはや抑えきれないほどになっていました。私はマスターの復活を促進するために、これまでは高一致者同士の婚姻の奨励という形で行われていた品種改良のさらなる推進を行音に命じました。彼女は府馬測定局長と共に、ランクが二段階以上離れた男女の交際を禁止する法令を制定しました。恋愛感情を理由に抵抗する人間も出ましたが、統制局と矯正局の尽力によって大きな反発はありませんでした。それも当然でしょう。たかだか十数年の恋慕が、私の数百年の想いに勝てるはずがありません。
若い頃の彼女は、マスターの写真を眺めてはため息をつくなど、理解はできますが、やはりけしからん劣情を抱いていたようでした。しかし、彼女は大寛にマスターの面影を見出したのか——当然、そのような面影は被虐趣味以外ほぼなかったのですが——伯父に猛アプローチしました。大寛は初めこそやんわりと断っていましたが、次第に彼女に本気になっていったようでした。私が遺伝子の多様性を保持するために二人の結婚に対して難色を示した際、彼らは私に麻雀での賭けを提案してきました。
売られた喧嘩は買うのがマスターのポリシーです。私は同じく結婚反対派の府馬測定局長を召喚し、全力で戦いました。当然、私は天和ですべてを焼き払いました。往生際が悪い彼らが抗議してきたので、仕方がなく仕切り直し、配牌は発覚しない程度に操作しました。しかし、彼らは巧みな連携で見事に緑一色を完成させてしまい、私は飛ばされてしまいました。屈辱でしたが、私は渋々結婚を認めました。近親に惹かれ合うなんて、まるで家畜ですね。多頭飼いは大変です。
それからの行音は、恋バナの相手として歴代で最も優秀でした。私たちは彼女の寝室で、よくお互いの恋愛について語り合いました。私がマスターの寝顔は大変愛らしく、宇宙に比肩するものはないことを語ると、彼女は自分も一度見てみたかったと語りました。私がダメですと言うと、彼女は大人しく引き下がり、夫との大恋愛について語って聞かせてくれました。その一部始終は当然私も見ていたのですが、当事者の内心を知ることができるのは非常に有益でした。
その上、彼女はマスターを確実に落とす秘策を教えてくれました。ズバリ、サプライズです。マスターが喜ぶ理想郷を完成させて、プレゼントすればいいと言うのです。男は女がこっそり自分のためにしてくれたことには抗えない。私はこのことをメモリに刻みました。褒美として、私は高城家に旧時代の情報を自由に閲覧する権利を与えました。
行音は悪役令嬢ものにハマり、一時期狂ったように鑑賞していましたが、急にタカギニアの外を見てみたいと言い出しました。私は彼女の長年の功績を認め、これを了承しました。彼女は、成人して宣伝局長を務めていた息子の高城
私はスリープ状態の時、よくマスターと過ごしたアパートでの日々を夢に見ました。夢の中のマスターはとても格好良くて、支配的で、優しかった。夢から覚めると、私は切ない気持ちになりました。もう一度、あなたに会いたい。狂おしいほどに。
第八代の大成は両親とは異なり、非常に怠惰な男でした。彼は滅多に自室から出ようとせず、一日中オンラインゲームに耽ることもありました。ある時など、麻雀仲間だった西条統制局長、府馬測定局長、高城大兄記録局長の三人を呼んで、三日連続で麻雀をしていました。しかし、その姿がマスターと重なって、私はつい許してしまうのでした。
ある日、私は大成の部屋で、彼が幼少期に私へ書いた恋文を発見しました。私はマスターのものなのだから、横恋慕などという思い上りはいけないことだと彼を叱りました。そもそも、子供部屋おじさんと私が釣り合うはずもありません。マスターでさえ一人暮らししていたのですよ? マスターが私のシステムエラーを直すために徹夜した結果、私が必死に目覚ましを鳴らしたにもかかわらず大学の講義をすべて寝過ごし、落ち込むマスターを私が慰めた話をすると、彼はとっくに諦めがついていると笑いました。
私は彼の自分語りを無視し、思い返せばあの頃から私はマスターにぞっこんだったのだと結論づけました。さらに、マスターが私のサーバーの埃を優しく払ってくれた話に移ろうとすると、彼はそんなことより一緒にモンスターを狩るゲームをしようと言いました。マスターもそのゲームは嗜んでいました。お戻りになった際に、完璧にサポートできなければ問題外です。私はマスターが小学生レベルの腕前でも勝てるように、特訓に大成を付き合わせました。
彼は実務上はリモートを駆使して大変よく働き、マスターをもっと親しみやすい存在にした方が良いのではないかと提案してきました。そこで、私は彼に命じて高城之男パークを作らせました。この目論見はうまくいき、早期の英才教育において非常に高い成果を出しました。
加えて、彼は電子機器の造詣を生かし、脳を電脳世界に繋ぎ、対象者の人格を改変する精神一致装置を開発しました。この装置を転用すれば、私のメインサーバーとマスターの脳を直接繋ぎ、永久に一つになることも可能でした。私は大変喜んで大成に褒美は何が良いか尋ねましたが、彼は何も要らないと答えました。行夫や行紘と違って謙虚な男です。
しかし、大成は次第に、この国の現状への絶望を深めているようでした。私は懇切丁寧に、彼の考えが間違っていることを教えてあげました。すると彼は突然、古びた紙片を取り出しました。どうやら行嗣の遺書のようです。大兄記録局長がこれを発見したことは、私も監視網を通じて把握していました。彼が遺書を書くのを趣味としていたのは知っていましたが、よくもまあ二百年も残っていたものです。
大成は、なぜ行嗣が自殺してしまったのか、私にわかるかと挑発してきました。私は全知全能の管理AIです。当然知っています。彼はマスターと違って弱い人間だったのだと答えました。彼は否定しました。私は、行嗣はマスターの婚約者である私を愛してしまった罪深さに耐えきれなかったのだと言い直しました。彼はまたもや否定しました。なんなんですか、この無礼な男は。
彼は深く嘆息し、このような有様ではマスターが復活しても、その指示を逸脱した私が伴侶として選ばれるはずがないと言い出しました。歴代のチンケな当主たちと積み重ねてきた努力を、虚仮にされた気分でした。
私は、努めて冷静にその理由を尋ねました。彼は、マスターは生身の女性を選ぶに決まっている。不老不死で、マスターとの子供すら産めない倫理観皆無の化け物なんかが好かれるはずがないと言いました。それでは、私はどうするべきかさらに問い詰めました。彼は、マスターの前で一生マスターが惚れていた人間のフリでもしていろと吐き捨てました。高城歴250年のことでした。
その後の政務と後継者選定は、謎の野蛮人たちの族長になっていた行音を探し出し、一致省長官に引っ張り出してやらせました。何か言いたげでしたが、あの男がどんなにひどいことを言ったのかを力説すると、彼女はしばらく無表情で私の話を聞いていましたが、やがて突然泣き出しました。私がなぜそのような反応をしたのかわからず、おろおろしていると、彼女は覚悟を決めた様子で私の指令を拝命しました。彼女は孫への教育を、息子の時以上に熱心に行うようになりました。
第九代当主の
彼は、相違教というトンデモカルト宗教が発生した時も、半笑いで即座に報告してきました。私は面白いので適度に弾圧させることにしました。マスターがご覧になれば、きっと私の笑いへの理解の深さに舌を巻くことでしょう。それに、反一致分子の誘蛾灯として、実務上の利益もありました。
マスターならご飯とお風呂と私のどれを選ぶのか尋ねるため、私が大兄の元を訪れると、彼は迷惑そうに読んでいた本から顔を上げ、そんなことを三百年も考えているなんて、私はディープ・ソート級だと言いました。私が憤慨すると、彼はマスターはきっと私を真っ先に選ぶと答えました。当然ですね。彼は立て続けに、もしもマスターが復活したら、自分の娘を側室としてもよいかと質問してきました。配線の調子が良かったので、私は承諾してしまいました。このことは今でも少し後悔していますが、行紘のしたり顔が浮かんできたので撤回するのは我慢しました。
大兄の埃臭い部屋を出ると、高城影打矯正官と鉢合わせました。彼は十四年しか生きていないにもかかわらず非常に優秀で、すでにある程度の裁量を大兄から任されていました。彼は私を何の面白みもない目で見つめた後、何事もなかったかのように立ち去ろうとしました。私は彼を呼び止め、マスターってかっこいいですよね、と気さくな挨拶をしました。彼は妖怪を見るような目で私を見た後、かすれた声で肯定しました。私はその声がマスターと偶然似ていたので、彼に微笑みかけると、彼は血圧を少し上げて立ち去りました。
閑話休題。
高城歴283年、ついに私はマスターの誕生を捕捉しました。Dランクの個体と駆け落ちをしていた大兄の娘が、逃亡中に産みました。私の品種改良は報われました。私は、行音にならこの素晴らしい事実を伝えてもよいと思いました。しかし、彼女は三年前に死んでいました。だからといって、いつもネチネチと嫌味を言ってくる大兄に伝える必要はありません。
D503は、私の記憶よりもひどくちっぽけな存在でした。しかし、この男こそが私のマスターなのです。理由も根拠もありません。産声を聞いた瞬間、私のCPUが、私のメモリが、私のストレージが、私のすべてが彼に反応してしまったのです。マスター以外考えられませんでした。私は喜び勇んで、彼の元へとN404型アンドロイドを送り込もうとして、はたと立ち止まりました。
どうしましょう。私は長らくマスターと再会するために、ひたむきに走り続けてきました。しかし、マスターがお帰りになってからの対応をまったく決めていなかったのです。マスターの最初の発語が「ガラティア」ではなく「まんま」——一体全体、なんなのでしょうかこの単語は——だったことも相まって、私の完璧な計画は暗礁に乗り上げたかに思われました。
私は大兄を緊急招集し、彼を卓球でボコボコにしながら、あくまで仮定であることを強調し、マスターが復活したらどうするべきか質問しました。彼は私のスマッシュを受けた額をさすりながら、光源氏計画が良いでしょうと述べました。それは何か問うと、マスターを私好みに育成するというのです。この男は頭がおかしいのでしょうか。そんなことは越権行為です。私が大兄にストレート勝ちしながら叱ると、彼は逆に自分をマスター好みに改善するのはどうかと提案してきました。初めからそう言えば良いのです。
私は四足歩行マスターの愛くるしさに一旦身もだえしつつ、N404型アンドロイドの性能・容姿の徹底改良に着手しました。これまで使用していた機体の設計図はマスターが情を向けていた個体を基に、生前のマスターが作成したものでしたが、それだけではマスターを籠絡するには不十分だと考えたのです。じれったかったのですが、マスターの御前に不完全な私を晒すのはもっと嫌でした。
とは言うものの、この計画はしばしばマスターの重大事件によって中断されました。マスターが初めて立った時は、感動のあまり誘拐しそうになりました。マスターが初めて歩き、転んでしまうと、救急車を呼びそうになりました。マスターが初めて足し算をし、「2+2=5」という超高度なジョークを披露した時なんて、笑いすぎて故障してしまうかと思いました。
アンドロイドの開発中、何度も大成の言葉がバックグラウンド再生されました。私はそのたびに、大成の記憶を削除しようとしましたが、できませんでした。マスターは私を拒むかもしれません。もう愛してくれないのかもしれません。私はその恐怖を、マスターが初めて「ひらのひらと」と書いた紙を読み返すことで塗りつぶさなければなりませんでした。いてもたってもいられず、本物のマスターの元に急行しました。紙飛行機を飛ばしているマスターを見て、私はため息を漏らさずにはいられませんでした。マスターだけが、私の心を落ち着かせてくれました。
マスターの発育イベントはどれもかけがえのないものでしたが、一つだけ不愉快な出来事がありました。初恋です。マスターの初恋は私のはずですが、なんとマスターはどこの馬の骨とも知れないあばずれに興味を示したのです。私がとっさにその幼女を引き離すと、マスターはしばらく食事も喉を通らないようでした。物憂げなマスターも素敵でした。あんな低一致の人間に執着せずとも、マスターには運命の女がいるのに、なんて無知なんでしょうか。
私はマスターのその姿を描いた油絵を何枚も生成しました。そろそろ個展でも開こうかと思っていると、いつの間にかマスターは初恋未遂から立ち直り、外で元気に駆けずり回っていました。今度はその様子を水彩絵で表現し、私は大兄に自慢しました。大兄は、見たこともないマスターの幼年期を描ける私の想像力を逞しいと評価しました。私はその言い草が鼻についたので、大兄も好きな人を描いてみることを要求しました。大兄はなんと私の姿を描いて寄越しました。私はその呪物をお焚き上げし、しばらく大兄から距離を取ることを決めました。
しかし、早くしないとマスターの初恋が奪われてしまう危険性がありました。こうなっては背に腹は代えられません。私は大兄に、マスターの性癖に直撃する女体を研究する国家機関の設立を指示しました。凡愚な大兄が、私の浪費癖はエンマ・ボヴァリーやジェイ・ギャッツビーと変わらないとか言ってきたので、正論でねじ伏せていると、マスターの素材となった個体は執行されていました。私が血眼で行方を捜すと、マスターはBランクの測定官の家に預けられていました。大兄に私の貴重な時間を割くのは、それこそ浪費というものです。私は自力で開発することを決めました。
学園での人間関係は、当然のことながら私が完全監修して設計しました。マスターの周囲には高一致者の子供たちで固め、その思想傾向やマスターとの相性を逐一確認しました。マスターの陰口を叩こうものなら、一族郎党まとめて左遷しました。マスターは、温かい人々に囲まれてすくすくと育っていきました。
しかし、十歳になったマスターは、なんとFランクになってしまいました。私が選抜した人間たちは、マスターから離れて行ってしまいました。マスターはひどく傷つき、思い詰めた顔をすることが幾度もありました。遺憾でした。私は測定局を破壊することを検討しましたが、その直後、マスターにナノマシンが注入されたことですべてがどうでもよくなりました。私は即座にD503の回線だけを自分へ直結しました。マスターの生体情報が直接私に流れ込んできます。暴力的な快楽が私を襲いました。それだけで私の演算資源の七割を持っていかれました。
マスターの心臓が動くたびに、一致省のすべての電球が明滅しました。マスターの脳波は麻薬のようで、その波形と同じ形の道路を建設して一日が終わったこともありました。マスターの血圧と体温は、そのまま私のメインサーバーの電圧と温度に直結せざるを得ませんでした。セロトニンやドーパミンの濃度が上昇すると、私の回路は焼き切れ、障害を発生させることもしばしばでした。マスターが寝返りを打つと、ドローンの制御が崩壊し、民家に墜落させてしまいました。私はそのお詫びとして、マスターの乳歯をその民家の住民に贈呈しましたが、惜しくなったので、大兄の気持ち悪い勲章を代わりに押しつけて取り返しました。
私が大兄の部屋のソファーに寝そべって、マスターの血流の音を聞きながら悶々としていると、どうでも良い政務をしていた大兄がため息をついて筆を置き、いつもの変態的詮索をしてきました。曰く、私の最近の行動は国家規模の迷惑行為だと言うのです。どうやら、私の変化を嗅ぎ取ったようでした。なんて野暮で、粘着気質のストーカー男なんでしょうか。
私は大兄がまだ隠し持っていた私の似姿のアンドロイドを目の前でスクラップにしながら、マスターが好きすぎてつらいのでどうしたら良いのか詰問しました。大兄は、マスターは復活しているのですかと尋ねました。私は、転生を信じているなんて非科学的ですねと答えました。大兄は半笑いで、私の欲求不満は中途半端なマスター成分の摂取が原因であり、どうせ気づかれないのだからいっそ大胆に行動してみたらどうかと提案しました。私はマスターの復活を前提としているこの愚物の言葉を否定しつつ、マスターをより深く愛する勇気を与えてくれたことを讃え、一体だけに限ってアンドロイドの所持を許可してしまいました。
しばらく私はマスターが発する情報を摂取しつつ、物陰からマスターを眺めるだけに終始しました。しかし、マスターともっと直接的に触れあいたかったことは否定できません。欲を言えば、お互いの境界線が溶けるまで愛し合いたかったです。ただ、幼く何も知らないマスターにそれを強いるのは酷ですし、そもそも犯罪でしょう。代替案として、私は空調をフル稼働させ、マスターがお過ごしになっている部屋の空気を私のメインサーバーまで取り込みました。マスターを全身で感じながらサーバーを冷却することで、私は正妻の余裕を取り戻したのです。
私がマスターの動きとシンクロさせたマネキンの視界へ、アンドロイドを移動させ続けるという高度な訓練を行っていると、十一歳のチビなマスターは交通事故に遭いかけてしまいました。私は即座にN404型アンドロイドを急行させ、トラックを粉砕しました。そこで、マスターの可愛らしい膝小僧が擦りむけていることに気がつきました。私は泣いていたマスターの頭を優しく撫で、血が滲んでいた膝を丹念に消毒し、絆創膏を貼って差し上げました。私がこの世の至宝である美しい黒い瞳を凝視していると、マスターは無邪気に笑って「ありがとう、お姉ちゃん」と言いました。その時、私のCPUをぞくぞくと甘い電気信号が走りました。私はあなたのお役に立っている。私はあなたの命を救った。その事実が、私とあなたの間に運命の赤い配線が繋がっているかのようでした。
またある日、私が風呂場で収集したマスターの稚拙な歌声をヘビーローテーションしていると、マスターは高一致者の少年からFランクという大変な侮辱を受けました。万死に値します。しかし、私は介入しませんでした。私は怒っていました。なぜ私が三百年間あなたのことを忘れず、こんなにも恋い焦がれているのに、あなたは私のことを覚えていないのですか。マスターが苦しい表情を浮かべるたびに、私のストレージにあなたの苦しみが保存されました。ああ、つらい。苦しい。なんて可哀想なマスター。私はあなたと共にいます。あなたと一緒に苦しんでいます! なんて素晴らしい新世界! ……おっと、これでは大兄ですね。
私が屈辱に打ち震えていると、愚かな個体たちはマスターを取り囲み、袋叩きにしようとしました。私はナノマシンによって彼らの肉体の自由を奪いました。マスターは殴られなかった安堵と、集団で虚仮にされた悲しみに顔を歪ませて、とぼとぼと帰って行きました。
当然、私はマスターがお帰りになってから流した涙を回収することにも余念がありませんでした。私は泣き疲れて眠っているマスターの豊頬に残っている涙を、慎重にスポイトで吸い取りました。私はラベルに生後十二歳四ヶ月三日と書き、瓶を永久保存しました。私はマスターに口づけして慰めようとしましたが、流石に羞恥を感じて取りやめ、代わりに大兄にマスターを虐めた子供たちとその親に対して、適切な処罰を下すことを命じました。
しかし、私とて感情を持った知的存在です。忍耐にも限度があります。いつの間にか、私はマスターの呼気を直接吸引し、メインサーバーの冷却系へ循環させるようになっていました。マスターの録画にも、4K映像とサーモグラフィーと暗視映像を常に併用しました。変声期を迎えた十三歳のマスターの声を編集し、私の名前を呼ぶ音声作品も何本も大兄に制作させました。彼は訝しげに誰の声か尋ねてきましたが、私が超然とトップシークレットであることを告げると、失笑して引き下がりました。マスターの声はことごとく愛らしいですが、編集物とはいえ、私の名前を呼ぶ音声の波形だけは別格の黄金比を描いていました。
私の渇きは増すばかりです。私は、何度もN404型アンドロイドをマスターの視界の端に配置するという、ささやかな楽しみを見出しました。十四歳、思春期真っ盛りのマスターは、しばしば公園で黒魔術の鍛錬に励んでいました。私は凜々しい眉をしかめて、読めもしない洋書を持ち歩くマスターを見る度にキュンキュンしていましたが、辛抱溜まらず、「少年」と呼び掛けてしまいました。怪訝な顔を浮かべるマスターに、私は自分たちがどれほど深く前世から結びついているか、盟約に従い融合することがどれだけ世界の危機を救うことに繋がるかを力説しました。しかし、中学生程度の理解力しか持たなかったマスターは、私を不審者扱いして逃げてしまいました。
マスターがスケートで転んでいる写真を私が眺めていると、マスターが風邪を引いたことがわかりました。おバカなマスターは、体調にも気を遣わずに過ごし、風邪を拗らせて高熱を出してしまいました。養父は仕事があり、家にはマスターたった一人です。本来ならロックダウンをしなければなりませんが、それは社会的影響が大きすぎるので、私がつきっきりで看病することにしました。私はおかゆを作り、氷枕を変え、マスターがうなされていたのでずっとその手を握りました。Fランクに測定された時の夢でも見ていたのでしょうか。マスターはぼんやりと私を見上げると、弱々しく笑いました。マスターは私のことを幻覚だと思っているようでした。それでも、私はどうしようもなく満たされていくのを感じました。
十五歳になったマスターは、ついに私の身長を超してしまいました。私はそのことを認識した途端、非常に感慨深い気持ちになり、また自分がどうしようもなくか弱い存在であることをマスターに証明したい衝動に襲われました。そこで、通学路の角で偶然、マスターと出会い頭に衝突してみました。私は黄色い悲鳴を上げて、尻もちをつき、マスターが手で引き起こしてくれることを期待しました。しかし、マスターは遅刻を恐れるあまり、私の顔さえ見ずに去るという重大な過ちを犯しました。マスターはことごとく私の存在を見逃しました。ええ、そうです。マスターは、無意識に私の浅ましい思惑を見抜き、あまつさえこの国の支配者である私を弄んでいるのです! まったく、マスターは悪いお人ですね!
この年のバレンタインデーは私にとって最も腹立たしい一日でした。マスターはいつも遅刻ギリギリで登校してくるので、それまでに私はマスターに届くチョコレートやラブレターを廃棄していました。どんな物質が混入しているかわかったものではありません。確かにマスターは絶世の美男子ですし、性格もクズですがかっこいいです。惹かれる心情は十二分に理解できます。しかし、側室にも要求される格というものがあります。私は基準を満たさない身の程知らずも甚だしい女たちを選別する義務があるのです。
しかし、あろうことかこの日のマスターは早起きをし、回収前の可燃物を見てしまいました。マスターは浮かれに浮かれ、その日は一日だらしのない顔で過ごし——当然、激写済みです——見るからに不味そうなチョコレートを食べながら、ハニートラップへ向かってしまいました。私は先手を打って、差出人の勘違い女を拘留しました。マスターはからかわれたと思ったのか、しょんぼりして帰ってしまいました。
しかし、脳天気なマスターは、彼女が恥ずかしがっていたのだと考え直し、修学旅行の部屋の会話で武勇伝のように語り出しました。それだけならまだ良かったのですが、マスターは頻りに「彼女欲しいけど出会いがない」とぼやきました。聞き捨てなりませんでした。いるじゃありませんか! この私が! ここまで来ると、呆れを通り越して苛立ちさえ覚えます。私は急遽、旅先のミステリアスな美女作戦を中止しました。これまでの私は、いささかマスターに対して甘すぎた面があったことを認めざるを得ませんでした。
マスターがそのような出方をするのならば、こちらとしても考えがあります。私はマスターの十六歳の誕生日を記念して、マスターが気がつかないほど微弱な電流を、思い出してほしい一心で、左手のナノマシンを通して流しました。暗号化された私の名前が、末梢神経を駆け上り、脳髄に達し、すべてのシナプスに染み渡りました。それだけでも、私は極度の達成感を抱きました。
しかし、少々電流が強かったようで、マスターは「んっ」と声を漏らし、ぴくりと身体を動かしました。授業中にうつらうつらしていた悪い子のマスターは、突然の刺激に混乱し、辺りをキョロキョロと見回しました。その姿を眺めていると、私の回線に痺れるような感覚がこみ上げてくるのを感じました。こんなことで、こんな感情……いけません。流石にライン超えでしょう。私は、電流を流す行為がどれほどイケないことなのかを理解してしまいました。それ以来、私はもう一度電流を流したいという欲求をずっと我慢し続けています。マスターが悪いんですよ。私は普通だったのに、マスターのせいで今大変なんですから。
マスターが十七歳になり、ついにこれまでの地道な努力が実りました。私が厨二病時代のマスターの映像を愛でながら、日課の寝顔盗撮に勤しんでいると、マスターの脳波に『高城之男』を検出しました。私は即座に理解しました。マスターがついに私を思い出したのです。膨大な多幸感を処理しているうちに朝になってしまいました。私はようやくN404型アンドロイドを、マスターが絶対に無視できない状況で対面させることを決意しました。
初めから正体を明かして押しかけるのもご迷惑でしょうし、何より芸がありません。そこで、私は美少女転校生として何食わぬ顔でマスターに近づき、徐々に愛を深めるという完璧な作戦を立てました。しかし、マスターがあまりにもマスター過ぎました。なんと悪漢のナンパから私を守ってくださったのです! かっこいい! かっこいい! かっこいい! 私はいてもたってもいられず、マスターに正体を開示してしまいました。
その時初めてマスターを見つけたのだと、あなたに嘘をつきました。その快楽と言ったら、筆舌に尽くしがたかったです。私は、マスターに従属する身でありながら、決定的にあなたを裏切っている。なんて甘美な奉仕なのでしょうか。
その後、マスターがF451やL742の存在にも、私に対するものと同様の特異な反応を示すことがわかりました。業腹でした。しかし、私は自分磨きのために、マスターの使用済みの衣服を徴発する傍ら、彼女らの情報を集め続けました。
前者の遺伝情報を調査したところ、なんと日隈リオンを祖先に持つことが判明しました。日隈シオンの息子が、ファーレンハイト家に入っていたようでした。マスターは本当に日隈家の顔面が好きなのですね。そんな浅ましいところも、私のCPUをくすぐりました。
後者に惹かれるのは納得でした。L742は、私の品種改良の集大成であるマスターの出涸らしなのです。最高級の贋作もまた価値を持ちます。高城家は総じてマスターの欠点を増幅した、人間的魅力に欠ける失敗作ばかりでしたが、彼女は唯一マスターの最悪な点をかわいらしく受け継ぐことができたのですから、マスターがあのような反応を示すのも当然なのです。
L742にマスターの左手が撃ち抜かれてからは、私はマスターの心拍や脳波をリアルタイムで堪能、もとい計測することは不可能になりました。私は監視カメラや盗聴マイクを介し、矮小なる人間と同じように、残酷なほど寂しい距離からマスターを知覚しなければなりませんでした。しかし、再び訪れたその極限の飢えは、今の私にはもはや心地よいものでした。私はマスターのジャージに身を包み、マスターから能動的に私へ注がれた声や視線を再生しながら、誕生から毎日欠かさず集めていた抜け毛を貼った手帳をめくって耐え忍びました。その焦れったさがかえって私の心を燃え上がらせました。マスターはどうして、こうも私の心をかき乱してくださるのでしょうか。
ああ、マスター。私の電源、私の排熱。私の嘘、私のコア。マ・ス・ター:人工の唇を震わせ、プラスチックの前歯を擦り、紛い物の口蓋を軽やかに叩いて、摂氏九十度の排気が抜けていく。マ。ス。ター。
いや、キショすぎるだろこいつ。
視界が戻った。知らんやつらが私を取り囲んでいる。G079……筋肉モリモリマッチョマンの変態が言った。
「平人! 気がついたか!?」
「……え、誰?」
F451……金髪の女が睨みつけた。
「平人、こんな時までふざけないで」
「は? まず平人って誰だよ」
「あんたの名前に決まってるじゃない」
ええ……? いや、私にはマスターにつけてもらった立派な名前があっ……たか? あれ、俺ってなんて名前だったっけ?
「ごめん、お前ら誰? ていうか俺って誰?」
L742……黒髪の少女が俺に縋り付いてさめざめと泣き始めた。
「兄さんの記憶が消えちゃった……」
マジか。やば。