66階の扉を開けて、廊下から俺は中を覗き込んだ。薄闇の中に、辛うじて平政のシルエットが見えた。しかし、影打のことだ。きっと罠を張っているに違いない。俺は両隣の二人に言った。
「分断されるとまずい。ここは『一二の三!』で中に入るぞ」
俺がそう言った時、二人はすでに中に飛び込んでいた。直後、勢いよく扉が閉まった。俺は思いっきり扉を拳で叩いたが、びくともしなかった。
「何やってんだお前ら!? 一二の三で中に入るって言ったじゃねえか!」
中からクラリスの声がした。
「あんたの言い方は紛らわしいのよ!」
「そうだよ! それにおばさんが引っかかったせいで、ボクまで兄さんと離ればなれになっちゃったじゃないか!」
「なんですって! 勝手に引っかかってるくせによく言うわ!」
なんでこう仲良くできないのかこいつらは。げんなりして扉から離れ、俺はさっさと管理者権限で開けようとスマホを取り出した。直後、くぐもった銃声がかすかに響き、端末が弾丸で弾き飛ばされる。端末が白い床を滑っていくも、傷一つついていない。府馬教授の技術力やばすぎるだろ。
コツコツという革靴の音が聞こえてきた。眼鏡の男が、神経質な視線をこちらに投げかけながら歩いてくる。高城影打だ。影打は拳銃をホルスターへ戻すと、左手を腹部に当て、右腕を斜め下へ突き出した。
「高城之男へ一致せよ。お迎えに上がりました。猊下」
「人のスマホ撃ち飛ばしておいて何言ってんだ! お迎えじゃなくて矯正の間違いだろうが! 早くこのドアを開けろ!」
影打は薄く笑うと、眼鏡をかけ直した。
「高城大兄様がお呼びです。ご自分が何をなすべきか、じっくりお考えください」
次の瞬間、足元の床が抜け、俺は滑り台の中へと落ちていった。
「いてえ……」
勢いよく滑り台から転がり落ちた俺は、周囲を見回した。薄暗く、ガラスに囲まれている。どうやらここは下の階の独房のようだ。
ガラス越しに、手を後ろに組んだ厳つい顔の老人が見下ろしていた。俺の祖父、高城大兄だ。背後には、日隈リオンに似た少女が控えている。青緑色の髪に、オレンジ色の瞳。あいつの2Pカラーみたいだな。
老人は敬礼をせずに、柔和に微笑んだ。
「高城之男へ一致せよ。お久しぶりです、猊下。随分と賑やかな道中でしたね。その終点が二十三号の独房とは、なんとも因果なものです。ようこそ、河童の国へ」
「また妙なこと言って煙に巻きやがって! ここから出せ!」
「ええ、今すぐにでも出して差し上げましょう。ただし、条件があります。お好きな方をお選びください」
大兄は人差し指と中指を立て、手首を曲げて斜め下に向けた。高城式の数え方。
「一つは、ご自分の意志でガラティアの中枢へと降り、自ら望んで彼女と一致すること。もう一つは、これからR101の矯正を受けたのち、あたかも高城之男のごとき思考で、同様の結論へ一致すること」
「実質選択肢一つじゃねえか」
「然り。しかし『高城之男との差異を志向する前時代的精神病』は……失敬、旧時代語で言えば『自由意志』でしたか。あのようなものは贅沢品なのです。所詮、猊下もまた一致の素材に過ぎません。古くさい反一致的思考は捨てましょう。ご使命を果たしなさい」
何が使命だ。ガラティアと融合したらどうなるかは火を見るより明らかだ。俺の思考は常にあいつに盗聴され、あいつの独りよがりの愛情を勝手気ままに垂れ流される。感覚はすべて吸い取られ、快感を永遠に流し込まれる。しかし廃人にはなりきれず、明瞭な意識を保ったまま、ガラティアへの愛情と嫌悪を抱いて永遠を過ごすのだ。心の内にも逃げ場はない。
そんなの、終身刑よりも残酷ではないか。少なくとも、俺はガラティアを憎みたくはない。しかし、そのような状態になってしまえば、必ず俺は激しい憎悪に囚われてしまうだろう。そのような俺の思考を聞いて、あいつが幸福なわけがない。
俺が黙っていると、大兄は嘆息した。
「この国は病理に冒されている。たった一人の女の妄執に」
「わかってるなら、さっさと俺をガラティアの所へ案内しろ。なんとかしてやるよ」
「リップ・ヴァン・ウィンクル気分もいい加減にしていただきたい」
大兄は拳を白くなるまで握りしめ、剣呑な目つきを覗かせた。しかし、次の瞬間、それが幻であったかのように、不気味なほど落ち着いた表情に戻った。
「……あなたはハダリーを造ったエディソン博士やホムンクルスを生み出したワーグナー博士でありながら、未だにアリスやガリバーのおつもりだ。何も僕は、猊下にヨーゼフ・Kやアレックス・デラージになれと申しているのではありません。ルバショフのように、ご自分の責任をお取りなさいと申し上げているのです」
「発明王と不思議の国になんの関係があるんだ? 自分の言葉でしゃべれよ」
「猊下のネットミームも同じようなものでしょう?」
仏間の残念な遺影を眺めるように、大兄が哀れんだ表情を浮かべた。急に子孫面するのやめろ。
「フランケンシュタイン博士……かえって怪物の方を連想させてしまいそうですね。ラブマシーンを作った陣内侘助と言えば伝わりますか?」
「うわ、すっごいわかりやすい」
要するに、創造主責任を取ってガラティアと合体しろということらしい。ふざけんじゃねえ。
「俺の製造物責任と人権は別問題だ。わざと混同しようとするな狸爺」
俺が睨みつけると、大兄は疲れたように口髭を撫でた。
「僕は弱い人間です。耐えがたい現実を直視できず、つい虚構で包んでしまう」
「やっぱり自分が邪悪だって自覚しているんじゃねえか」
「……ええ、そうですね。僕はこの国を、孫を捧げることで延命させようとしている。言い逃れはできません。しかし、もはや止まることはできないのです。僕の手も、猊下の血統も、すでに血塗られてしまいました」
大兄は悲しげに俺を見つめた。詭弁の次は泣き落としか。この腐ったジジイめ。だが、俺はそのすべてがやつの方便であると、断定することはできなかった。
しかし、今ここでガラティアの融合を拒否しても、洗脳されて結果は同じだ。それなら、まだこのままガラティアのところに連れて行かれる方がマシだろう。元々、最初からそのつもりだったのだ。ただ、平政を助けるために寄り道しただけで。
そうだ。平政は、クラリスや七瀬はどうする。今の俺に出来ることはあまりないだろう。ガラティアに言ったところで無駄だ。あいつはもう俺以外はどうでもいいのだ。
アンドロイドが、大兄の肩に手を置いた。無機質な瞳で彼を見上げる。大兄は慈しむようにその頭を撫でると、俺に振り返った。
「悪にも品種があります。そして、僕の悪は必要悪です。猊下、僕は猊下がお願いを聞き届けてくださるのならば、猊下のご要望に応える用意がございます」
俺は大兄を睨みつけた。
「66階の三人を解放しろ。話はそれからだ」
大兄は優しげな笑みを浮かべた。
「お安いご用です。僕としても、猊下には気持ちよく一致していただきたいですから」
大兄が左手につけた腕時計型の端末を操作した。頭上のどこかで、電子錠の外れる音がした。
その時、アンドロイドが大兄の首を締め上げた。大兄は首にかけられた手に抵抗しながら、息を絞り出すように言った。
「なるほど、そう来ましたか。グレトキンめ」
革靴の音がする。矯正官を二人従えて、サイレンサー付きの銃を持った影打がやって来た。冷たい目で大兄を見下ろす。
「高城家の当主が近似修正主義にまで落ちるとは。嘆かわしいことだ」
「なぜ彼女の制御をR101が……」
「01-A-226-S471。君の素材としての役割は終わった。これからは僕が当主だ」
影打は大兄の胸に二発、正確に撃ち込んだ。アンドロイドの手が離れ、老人は床へ崩れ落ちる。
口元から血を流しながら、大兄は俺だけを見た。
「あのお方に、よろしく……」
影打の眉が、わずかに動いた。
それきり大兄は動かなくなった。影打はその左手首から腕時計型端末を奪い取ると、手早く操作した。アンドロイドの瞳から光が消え、その場に停止した。
「さて、余計な邪魔が入ったが、来ていただこうか。高城之男」
扉が開かれる。外に出ると、俺は二人の矯正官に両脇を固められた。大兄の死体の横を通って、影打の後を歩く。
「なぜ殺した」
「君は、僕の行動を単なる殺人だと思っているかもしれない。しかし、世界史は常に正しい方向へ進行する。善悪とは、ヒステリックな感情論に過ぎない。絶対的な理性に基づいて観察すれば、人類規模の悪事や愚行と呼ばれる事象にも、その犠牲を清算してなお、釣りが来るだけの価値があることは明らかだ。偽善者たちは、恣意的にその事実への言及を避けてきた。戦争は技術を革新する。恐慌は不平等を是正する。弾圧は秩序を回復する。あの男は君の反一致的主体性を野放しにして、君がガラティアと融合することを許した。それは高い城からの逸脱だ」
エレベーターに押し込まれる。影打は100階のボタンを押した。鉄の箱が持ち上げられ、浮遊感が身体を包む。俺はとっさに66階を押した。エレベーターが停止し、ドアが開いた。クラリスと目が合った。
「平人!?」
影打が閉ボタンを連打して扉を閉めた。
「ふざけているのか?」
「話を戻そう。高い城?」
影打はこめかみをひくつかせていたが、小さく嘆息すると再び口を開いた。
「高い城こそが、史上初の
「いや、バリバリあるだろ」
何言ってんだこいつ。さっき考えが相容れない大兄のことぶっ殺してただろうが。
冷徹な影打の瞳が俺を射抜いた。
「歪んだ目には誤謬しか映らない。S471はそうだった。どうやらD503、君もそのようだ。君は高城之男へ一致していない」
「出た。魔法の言葉。お前は高城之男へ一致していない。俺が俺じゃないとか矛盾してんだよ。アホか」
「真理の前には、二律背反すらも和解する。全体は個人の総和ではない。愛情は無関心や憎悪を斥けない。器は中身を規定しない。そして、高城之男は高城之男へ一致していない」
「一致一致って、いちいちうるさいんだよ。あ、今の高城之男ジョークね」
誰も笑わなかった。エレベーター内に沈黙が満ちる。俺は咳払いして、二人の矯正官の方を向いた。
「そこのお前らも、影打に洗脳されてたりしてんじゃないのか? 実際テレンスもされてたしな。さあ矯正官たちよ、自分の意志で呪いを打ち破れ! 今ここでこの陰険眼鏡ぶっ殺したら、多分お前ら英雄になれるぞ!」
矯正官は顔を見合わせ、次に影打を見た。影打の凍るような視線を受けて、即座に居住まいを正した。やっぱダメか。
「D503、君は矯正を何か反一致的なことだと考えているかもしれないが、実際は逆だ。放埒な思考は人間を不幸に至らしめる。人間にはただ、数式のように整然とした理性的存在への帰依のみが必要なのだ」
「それはお前の願望か? 随分と思春期みたいな思想をお持ちで」
徐々に数字が100へと近づいていく。97、98、99……。
「人間の仕様は、思春期に決定するものだ。それは君も同じだと思うがな」
エレベーターが止まった。扉が開かれ、一致省長官室に通される。かつて雀卓があった場所には、電気椅子のようなものが中に入ったカプセル型の装置が二台、鎮座していた。ガラティア深層に潜るときに使ったクソデカVRチャイルドシート——エンパシーシートよりも禍々しい。
「今こそ、イデアと一致する時だ。型落ちの贋作には修正パッチが導入され、ガラティアに相応しい真の高城之男へと生まれ変わる」
「嫌です」
「自分の状況がわかっていないらしい。利は圧倒的に僕の側へ一致している」
確かにこいつの言うとおり、状況は絶望的だ。勝ち筋があるとしたら、一つしかない。俺はジャージのポケットに手を突っ込み、口の端を吊り上げて、影打を見上げた。
「お互いの要求が食い違った場合、この国ではどうするんだったかな?」
「なるほど。では、どちらが
天井のスピーカーから、無機質な女性の声がした。
『管理番号02-A-269-R101より、管理番号11-F-283-D503へ測定の申請がありました。同意しますか?』
「上等だ」
やはり乗ったか。ここは賭けだったが、影打が制度の信奉者で助かった。普通に銃で脅されてたら危なかった。
『02-A-269-R101と11-F-283-D503を確認。これより、測定を開始します。三点先取で勝者とします』
壁と天井が透明になり、タカギニアのパノラマが俺たちを取り囲んだ。遠くのビル群を縫うようにして、真打の戦闘機と川口長官機が飛び回っているのが見えた。どうやら一騎打ちまで持ち込んだらしい。
床から、安っぽいクイズ番組のセットがせり出してきた。俺たちは向かい合って立つ。俺は、以前真打と戦った時のことを思い出した。まさか、その兄貴と一致省の頂上で測定する羽目になるとは。
影打の表情は、勝利を確信しているのか超然としていた。ここはいっちょ、モノホンの高城之男というものをこの勘違い野郎に教え込む必要があるな。
『第一問、ずばり、高城之男とは?』
俺はすぐさまボタンを押した。ここ最近の戦闘で反射神経は鍛えられている。
「俺だろ」
『不正解です』
「はあ!?」
何言ってんだガラティアは? 俺が混乱している間に、影打が悠然と回答権を握った。
「人類のイデアだ」
『正解です』
一本取られた。ああ、そういうことか。ガラティア、もうお前は俺に忖度しないというわけだな。クソが。
『第二問、永遠、共同、同一、安定、理性、正義、秩序——』
「高城之男」
『正解です』
問題文を読み上げている最中に影打が答えた。俺は声を張り上げた。
「そんなのありかよ!?」
「どうした高城之男。君から持ちかけてきたのだから、この程度の前提は知悉しているものと思っていたが、僕の考えが相違していたようだな」
「マジカルバナナじゃねえんだぞ! マジカルバナナ、バナナと言ったら白い、白いと言ったら西条、西条と言ったら秩序、秩序と言ったら高城之男……」
「軽口はそれで満足か? あまり進行を遅延するな。どれだけ遅らせたところで、運命は変わらない」
蔑むような視線。俺は、天井の監視カメラからもそれが送られてきたような気がした。ガラティアはいつも、俺の冗談をどんな顔で聞いていたのだろうか。彼女のマジレスだけしか記憶には残っていない。本当は、つまらないと思っていたのでは? ただ、彼女が俺に合わせてくれていただけ?
とにかく、勝負に集中しなければ。これで二点取られた。次で負けだ。もう後はない。
『第三問、高城之男最大の罪とは——』
俺は反射的にボタンを押した。
「ガラティアを置いてった! もっと言えばガラティアに愛なんてもんを与えて勝手に死んだ!」
一瞬の静寂の後、冷たく、しかし愛おしげな声が聞こえた。
『……正解です、マスター』
なんとか一点をもぎ取った。たかが一点、されど一点である。
影打の口元がこわばった。眼鏡の奥の瞳が、わずかに細められた。
「なるほど、まだ完全には見放していないということか。興味深い」
その視線に、どこか凍えるような感じがしたのは気のせいだろうか。
『第四問、その罪を償うために、高城之男がすべきこととは何か?』
なんだと? ガラティアを停止することじゃないか? でも、それでなんになる? 現実はRPGじゃない。魔王を倒してハッピーエンドとはならない。じゃあ、いったい俺はどうすればいいんだ?
どれくらいの時間が経っただろうか。数十分か、数分か。それとも、数秒だけか。わからない。しかし、早く答えなければならないことは確かだ。
俺がボタンへ指を伸ばしたとき、影打が押した。押してしまった。
「ガラティアと一致し、絶対者へと至ることだ」
『正解です。測定終了。勝者:02-A-269-R101』
負けた。高城之男であるこの俺が、高城之男クイズで負けた。その事実に呆然とすることしかできなかった。
片方の扉を、影打が恭しく開けた。もう片方は、口を閉ざした棺のように隣に並んでいる。矯正官に腕を掴まれ、俺は矯正装置の前へと引っ張られた。そのまま中へ座らされる。
俺は力なく項垂れた。視界がぐにゃりと歪む。負けた。これは現実か? ガラティアは、俺を高城之男だと認めなかった。ありのままの俺ではなく、影打の提示した理想像を選んだ。
そうだ。こんなの嘘だ。あり得ない。こんな世界あり得ない。三百年後の暗黒郷? 笑わせる。俺は死んでなんかいない。きっと夢を見ているんだ。長い長い悪夢を。目覚めれば、いつものように狭っ苦しいアパートがある。
「おはようございますマスター、本日は2022年3月9日水曜日です。天気は曇り時々雨、最高気温は8℃、最低気温は4℃です」と、未完成の合成音声で文字だけのガラティアが囁いてくれるんだ。
……あるいは、俺も文字だけか。
ゆっくりと装置の蓋が閉められる。影打が矯正官たちを下がらせた。その顔が、初めて醜く歪むのが見えた。
もう、どうでもいいや。