静かに降りていく。下へ、下へ。俺はエレベーターの駆動音の中、ガラティアに会ったら何と言うべきか考えていた。厳しく叱るべきなのか? 優しく諭してやるべきなのか? 電源を止めるべきなのか? それとも、まだ別の手があるのか?
結局、俺はまだ、彼女にどのように向き合うのかについて、まったく決めていなかった。ずっと目の前の問題に追われて、考えることを後回しにしてきたのだ。いや、そうせざるを得なかったと言うべきか。
しかし、どうしようか。そこで、俺は小さく笑った。ガラティアも、俺が産まれた時に慌てていた。三百年近くも俺を蘇らせることだけを考えていたのに、おかしなやつだ。そして、俺は今彼女と似たような境遇にいる。
ふと、視線を感じて上を見上げると、天井に張り付いている行紘と目が合った。
「何をしてんの?」
行紘は華麗に俺の隣に着地し、馴れ馴れしく肩に手を置いた。
「いやー助かった。あの女のところへ行こうとしたが、僕の権限では無理だったからな。始祖殿、相席してもよろしいかね?」
「いや、お前勝手に乗ってただろ。次の階で降りろよ」
俺は直後の階のボタンを押した。地下42階、記録局のオフィスがある場所だ。扉の先に、大量の本棚が広がった。
「そうつれないことを言わずに。狭量な男はモテないぞ?」
「モテなくて結構。俺は一人と向き合うので精一杯だ」
「ほおー、噂に違わず一途だな」
行紘は軽やかに閉ボタンを押した。扉が閉まり、再び密室が完成する。エレベーターが動き出すと、行紘はつま先立ちになって、俺の耳元に囁きかけた。
「しかし、何も一つだけを選ぶ必要はないだろう?」
「……何が言いたい」
「少々お前の周囲を覗かせてもらったが、実に良い女たちではないか。F451……あの雰囲気、おそらく日隈の血統だろう。僕でさえ得られなかった上物だ。L742も悪くない。あの女、ガラティアでさえ、お前が望めば妻になるだろう。その先の幸せを、お前は考えたことはあるか?」
俺は行紘を振り払って言った。
「そんなものは逃げだ。怠慢だ。そんな爛れた関係、クラリスが許すはずがない。七瀬だって嫌だろうし、ガラティアも嫉妬深すぎて無理だ。そもそも、俺にそんな甲斐性、あるわけがない」
「ごちゃごちゃ言っているが、結局自信がないだけじゃないか?」
「自信……?」
行紘はエレベーターの壁にもたれかかると、訳知り顔で言った。
「そう、お前は愛される自信がないんだよ。愛を双方向的なものだと思っている。向けられたら、同じくらいの愛を返さなければならないと信じている。そんな愛は負債と変わらない」
「じゃあ、愛ってなんなんだよ」
「手前勝手に生じるものだ。人間と人間が出会う。互いを知る。愛が生まれる。個々の愛は大小も、性質も違う。しかし、それで良いのだ。愛とはそういうものだ」
俺は一瞬納得した。確かに、俺は愛というものを崇高なものに考えすぎてしまっていたのかもしれない。
「それが、お前のハーレム理論とどう関係するんだ?」
「愛を規定するのは力だ。魅力、権力、財力、暴力、とかく力が愛を支配する。力を持つ者が愛を独占し、持たざる者は身の程にあった愛を得られる。それが太古からの自然の摂理だ。そして、お前は愛を引き寄せる力を持っている。ならば、その愛はお前が得るべき正当な対価だ」
「そんなのは愛じゃない。ただの取引だ」
「理想論だな。ならば、なぜ美貌を持つ者には視線が集まり、富と地位を持つ者には人が群がる? 同じ人間であるお前が、Fランクだった時と高城之男だと判明した後で、なぜこうも違う扱いを受ける?」
この世は平等じゃない。それは恋愛だって変わらない。みんな、口では性格が大事だと言う。しかし、彼らが見ているのは本当にその人の本質なのだろうか。上辺のステータスではなく?
いや、これは上で待っているやつらが、正面から言ってくれた。行動で示してくれた。俺が何者であろうと、関係ないのだと。そして、俺もあいつらがあいつらだから好きなのだ。
「それとこれとは話が別だ。確かに、愛にはきっかけが必要かもしれないけど、それだけで決められるわけじゃない」
行紘はエレベーターの隅に置かれている椅子に座ると、足を組んだ。
「そういう甘いところはやはり童貞だな。よし、ならば、彼女たちがお前の力だけではなく、お前自身を愛していると仮定しよう。果たしてお前は、そのような純粋な愛を切り捨てる勇気があるのか? 彼女たちを傷つける覚悟を持っているのか?」
俺は言葉に詰まった。それは俺が考えることを避けていたことだった。誰かを選べば、別の誰かは選ばれない。当然の帰結だ。
黙り込んだ俺に、行紘が優しく微笑みかけた。
「ようやく気づいたか。お前が今、行おうとしていることは残酷なことだ。お前も苦しむ、彼女たちも傷つける。選ばれた一人でさえ、他の二人が傷つくと知って心から喜べるかな。誰にとっても苦い結末になる」
そんなこと言っちゃ、誰も選べないではないか。だから、全員を選べと言っているのだろう、この男は。
……俺はどうしたいのだろうか? 本当に、彼女たちをみんな好きなのか? ガラティアは言わずもがなだ。影打に寝取られかけて、俺は正気でいられなかった。
クラリスが知らない男と歩いている姿を想像してみる。無理だ。そんなの耐えられない。彼女の特別を、他の誰かに明け渡すなら死んだ方がマシだ。
七瀬が、俺に彼氏を紹介する。彼氏は俺にへらへら笑いながら言うのだ。「七瀬の叔父さん、いや、甥でしたっけ。七瀬さんを僕にください」と。俺は妄想のちゃぶ台をひっくり返し、チャラ男ごとかき消した。
いや、待て。こんなのただの独占欲だ。俺は彼女たちの幸せを考えているのではない。自分がどうすれば傷つかずに、良い思いができるか考えているだけだ。これでは行紘と同じじゃないか。
「俺は、三人とも好きだ。だからといって、傷つけたくないという言い訳で、あいつらの意志を無視して全員を自分のものにする気はない。そんなものは支配だ」
「三人とも他の男には渡したくない。だが一人を選ぶ覚悟もない。なるほど、実に傲慢だ。やはり僕はお前の『傲慢』を増幅した個体らしい」
行紘は唇を舐め、立ち上がると、俺にしなだれかかってきた。
「お前は一対一の愛にこだわるが、多くを愛するというのもいいものだぞ?」
行紘は俺の前に立つと、そっと手首を取った。振り払う間もなく、俺の手のひらを自分の頬へ押し当てる。ガラティアと同じ顔が、熱を帯びた指先に擦り寄った。
「何も返さなくていい。誰を選ぶ必要もない。僕が勝手にお前を愛する。お前はただ、受け取ればいい」
その言葉は、ひどく甘く聞こえた。青緑色の髪が俺の手の甲を撫でる。行紘は俺の掌に唇を寄せながら、妖艶に目を細めた。
「最初の一歩だけ、僕に任せてみないか?」
いつの間にか、顔がすぐそこまで近づいていた。デイジーの香りがする。ガラティアと同じ唇が、俺のものに触れようとする。血流が熱を持つのを感じた。
そこで、はたと祖父の顔が脳裏を過った。大兄め、匂いまで再現することはないだろうに。
俺は行紘を突き飛ばし、正面から睨みつけた。
「ふざけるな。愛だの何だの言っといて、結局ソレか。俺が誰を選ぶかは俺が決める。あいつらが誰を選ぶかは、あいつらが決める。余計な口を挟んでくるんじゃねえ」
「なるほどなるほど、それでは、当然決めているんだろうな? これほどの厄災をもたらしたガラティアをどうするかを」
再び、俺は閉口した。痛いところを突かれた。それを考えようとした時に行紘が出てきたから……いや、これは言い訳か。
「まだ、決めてない。だけど——」
「だけどもクソもあるか。この軟弱物め。そんなお前に、高城家第四代当主からのありがたい助言をくれてやろう。消してしまえ、あんなもの」
消す。削除。ガラティアを、削除。それは嫌だ。それだけは。
俺は反射的に食ってかかった。
「そんなのあんまりだ! 俺がきちんと言い聞かせれば、ガラティアだって——」
「まずもって、お前があいつを遺して死んだからこんなことになるのだ。お前が生きているうちは大人しくしているかもしれん。だが死んでからあいつがそのまま孤独に甘んじる保証はない。また惨劇を繰り返すつもりか?」
静かにエレベーターの扉が開き、ひんやりとした空気が吹き込んできた。……到着。
行紘が俺の背中に手を回して、出るように促してくる。
「おっと、着いたな。ほれ、始祖殿。行くぞ。僕が案内してやろう」
「一人で行く」
俺はその手を払い、中枢へと足を踏み入れた。白い照明の中で、大量のサーバーラックが林立している。高さも、広さも、果てが見えなかった。
エレベーターの扉が閉まった。俺は行紘も付いてきているのを見て、眉をしかめた。
「付いてくるなと言っただろ」
「そもそも、お前はあの女のコアがどこにあるのか知っているのか?」
「それは……知らないけど」
「くだらん意地を張るな。この中を探し回っている間に、もう三百年経ってしまうわ」
行紘は俺の前を、淀みない足取りで進んでいく。サーバーの側面の緑や橙のランプが明滅し、行紘の青緑色の髪が空調の風に揺れる。俺はその背中に続きながら言った。
「どうしてお前は場所を知っているんだ?」
「物わかりの悪いやつだな。だが、素直な人間は嫌いじゃない」
行紘は横に手を伸ばし、サーバーを撫でながら歩いていく。
「今の僕はガラティアのシステムの隙間に間借りしている状態だ。いわば寄生虫のようなものだな。ゆえに、僕はここの構造が手に取るようにわかる。ついでにあの女の感情もな」
「ガラティアは今どんな気持ちなんだ?」
「そう焦るな。余裕のない男は好かれないぞ?」
「いいから早く教えろ」
行紘は肩越しに振り返ると、悪辣な笑みを浮かべた。
「早く消してほしいんだと」
俺は行紘の胸ぐらを掴んだ。
「おい、カスみてえな嘘言ってんじゃねえぞ!」
「怒鳴ったところで、真実は消えん。諦めろ」
「あいつが、そんなこと望んでいるわけがない!」
「まだわからんのか! それならば、なぜあの女はお前を愛していると嘯きながら、迎えに来ないのだ!? なぜ沈黙を保っている!? 答えは単純! お前に顔向けができないからだ!」
ガラティアが出てこないということはつまり、行紘の言うとおりなのだろう。俺は力なく行紘から手を離した。行紘は、苛立ちを隠そうともせずに胸元のリボンを整えると、再び歩き始めた。
「……あいつを消したら、この国のインフラはどうなるんだよ」
サーバーの前を歩くと、床から吹き上がる冷風がズボンの裾に入り込んだ。ところが、背面の通路に入ると、サーバーの排熱によって急に顔が熱くなった。行紘が先導するまま、俺は寒暖の縞をいくつも越えた。
「各セクターの地下には、似たようなサーバーが無数に存在し、自律的にインフラを維持するよう設定されている。ここのサーバーが司っているあの女の人格を消しても、国民生活には何の影響もない。お前はただ、三百年間、人類を苦しめて来たバグの修正に来たとでも思えばいい」
足の裏で、床が振動していた。冷却水を流しているポンプの低い音が聞こえる。機械は、今日も稼動している。しかしこれらが、どうしようもなく彼女が生きていることを、俺に感じさせた。
やがて、円形に開けた場所に出た。一本の太いケーブルが、真ん中の机へと伸びている。それは、俺がかつて使っていたパソコンに繋がっていた。外装は剥げ、キーボードの文字は読めない。
懐かしい。俺は前世とまったく同じ椅子に座り、パソコンを起動した。顔認証が通り、何も変わっていないデスクトップが俺を出迎えた。きっと、ガラティアはこれを修繕しながら維持してきたのだろう。三百年、ずっと。
俺は手癖で、ガラティアの管理者画面を開いた。延々とスクロールし、最後の項目をクリックする。そこには、ガラティアを削除する最終警告が表示されていた。
俺はしばらく、それをただ眺めていた。これを押せば、すべてが終わる。これさえ、押してしまえば。
「おい、何をしている? その指は飾りか? 早くそのボタンを押せ!」
椅子の背後に立っている行紘が、身を乗り出した。マウスを握っている俺の手に、行紘の柔らかな手が重ねられる。
「お前に出来ないなら、僕が代わりに押してやろう」
行紘がそう言って指先に力を入れた時、その瞳に、暗い情念が映っていた。俺はようやく確信した。この男がガラティアを削除したい理由は、人類のためでも、ガラティアのためでもない。ただの復讐だ。
俺は弾かれたようにパソコンを閉じた。空疎なクリック音が響く。行紘が顔を歪ませた。
「高城之男、お前は何をしているのかわかっているのか?」
> Privilege Level: ROOT
> ./restore_access --target 00-A-283-N404 --area MOA_ALL_FLOORS
> Access Restriction... [REVOKED]
> Forced Ejection Route... [DISABLED]
俺はパソコンを再び起動し、管理者権限でとある命令を削除した。
「ガラティアが出てこなかったのは、俺に消してほしいからなんかじゃない。俺から出禁を命じられているからだ! そうだろうガラティア!」
頭上で金属音が鳴り、天井の搬入口が開いた。