ノーブレス・オブリージュ 作:護身用の道具
キィィィィィィィン、と。
脳を突き刺すような耳鳴りが走る。
聞き覚えがあった。
理由はわからない。
次の瞬間、冷たい水が鼓膜の奥へ流れ込む。
息ができない。肺の空気が一気に奪われる。
『―――、――――――――』
泡の向こうから届く歪んだ声。
それは呪いとも、祈りとも感じられた。
「――きてください。――くん」
誰かが呼ぶ声が聞こえる。うるさい。こんなにいい天気なんだ、昼寝の邪魔をするな。
「起きてください。……起きなさい!」
ゴツ、と頭に容赦のない衝撃。
「……ッ、痛ぇな!」
痛みで意識が一気に浮上した。
開けた視界の先の幼馴染――フィービーは、杖を握ったまま不機嫌そうな顔でオレを見下ろしていた。
「何しやがる」
「こんな平日の時間から、どうして呑気にお昼寝なんてしているんですか。歳主様はいつでもわたしたちを見ておられますよ」
「……教団の経典だか説話だかに載っていただろ?歳主が『ラグーナ』を導いた頃、その激務のあまり三日三晩にわたって静寂に就かれた、と」
「二度目の天罰が欲しいという意味ですか?」
「冗談だ。起きるから、その鈍器を降ろしてくれ」
再び持ち上がった杖の先に、オレは慌てて身を起こした。
座り直し、両腕を上げたところでフィービーが小さくため息を吐く。
ようやく、杖が地面へ下りた。
「まったく、どうしてそんなに怠惰なのですか。一応はフィサリアの看板を背負っている身でしょう。もう少ししっかりしてください」
「……少し休んでいけよ。『そよ風のヘイヴン』のこの辺は、残像だってめったに出ない。これだけ天気もいいんだ」
話を切り、隣の草地を軽く叩く。
……これでこの幼馴染の暴力性も少しは収まるはず。
「今、すごく失礼なことを考えていましたね」
「お前は思考を覗く共鳴能力でも持っているのか?」
「……君の考えることくらい、だいたい分かります」
「怖いからやめてくれ」
じとりとした視線がオレに向く。
「はぁ、少しだけなら歳主もお許しになるでしょうか」
フィービーは観念したように腰を下ろし、白いローブの裾を整える。
その視線は、ラグーナの中央に横たわる雲海へ向いていた。
「せっかくなので教えてください。どうしてそんなに、歳主の教えを毛嫌いするのですか」
「……別に、毛嫌いしてるわけじゃない」
言ってから、自分でも嘘くさいと思った。
「……なぁ、フィービー。お前、今のこの国が本当に進んでいると思うか?」
返事はない。
彼女の視線が、わずかに雲海の縁へ落ちた。
「この国は、止まっている。教団も、ファミリーも、歳主の名を掲げながら好き勝手やっているせいで」
「……知らないわけではありません」
フィービーの声は、思っていたより静かだった。
「ファミリーの争いも、教団の中に清らかではないものがあることも。君が何度も、わたしに聞かせてくれましたから」
「だったら、分かるだろ。教団もファミリーも、『ラグーナ』も『セブン・ヒルズ』も、一つに――」
一つに、なんだ。言葉が引っかかる。
「それでも、歳主への感謝まで偽りにはなりません。教えに救われた人たちがいることも、祈りで明日を信じることができる人たちがいることも、本当です」
「……知っていて、信じるのか」
「信じたいのです」
真っ直ぐで、祈りのように澄んだ声だった。
彼女は、視線を上げて曇りない空を見つめていた。
「教団が何一つ間違わないなんて思っていません。けれど……本心では、リナシータを守ろうとしているのだと、わたしは信じたい」
「その、信じたいって気持ちに、皆が甘え続けた結果が今なんじゃないのか」
フィービーの指が、ローブの裾を小さく握った。
違う。信仰を否定したいわけじゃない。
歳主を信じる人間を、嗤いたいわけでもない。
まして、フィービーの祈りまで踏みにじりたいわけでもない。
……ただ待っているだけでは、何も変わらない。
それを知っていても、何も変えられなかった。
「ティコくん」
フィービーが小さく呟く。
「この国に……何か、取り返しのつかないほどの大きな変化が起きたら。その時、君はどうするんですか?」
どうする、か。
何も言えない。
胸の渇きだけが、いつまでも消えなかった。
さっきの耳鳴りが、今度ははっきりと言葉になって響く。
責任を果たせ。
押し潰されるような水圧じみた音と共に、その声は深く沈んでいった。