ノーブレス・オブリージュ 作:護身用の道具
耳鳴りがする。
責任を果たせ。
冷たい海水が耳の奥に満ちる感覚。
聞き慣れた囁きが、頭の中で輪郭を持つ。
「それが最期の言葉でいいんだな。なら――」
死ね。
そう言い、オレは引鉄を引こうとした。
「ダメ……です……!」
不意に、銃を構えたオレの右腕に、小さく震える手が重なる。
冷えた鉄に触れるその手は、信じられないくらい熱い。
「邪魔をしないでくれ、フィービー。これはフィサリアとしての――」
「君がこんなこと、する必要はありません……!」
こいつは、フィービーの気持ちを踏みにじったんだ。
生かしておくことを、オレの『責任』が許さない。
「……こいつはフィサリアの名だけじゃない。お前の信仰も、音骸たちも穢したんだぞ」
「もちろん、悔しいです……! 悔しいですけど……っ! 」
彼女の手が、銃を握るオレの手から離れない。
「君はいつも身内で殺し合うなんて沢山だって、そう言ってたじゃないですか……! だから、せめて――」
彼女の言葉の先が震えている。
「せめて、わたしの前では……!」
息が詰まった。
その隙を見たのか漂泊者が、オレの銃口の前に静かに立ち塞がる。
「一度、頭を冷やせ。ここでジルベルトを殺しても、俺たちは黒幕から遠ざかるだけだ」
背後から、ザンニーの冷えた声が続く。
「私たちは今、モンテリファミリーから音骸暴走の原因究明を請け負っている。アンタがこいつを引き渡せば、フィサリアは組織的関与を否定しやすくなる。そしてうちは黒幕の手がかりを得られる。」
モンテリの社員らしく、ザンニーは倒れかけているジルベルトを冷ややかに見下ろした。
「冷静に考えなよ。これが一番、割に合うビジネスだ」
耳鳴りが、少しずつ遠ざかっていく。
……オレはフィービーのために怒っていたはずなのに。
何に、そこまで急かされていたんだ。
ゆっくりと引鉄から指を離し、息を吐く。
背筋はいつの間にか、いつもの猫背へ戻っていた。
「……チッ。命拾いしたな」
糸が切れたように崩れ落ちるジルベルト。
それを見届けたザンニーが、すぐにデバイスを操作し身柄の回収班へと連絡を始めた。
「……ッ!?」
その瞬間、異様な周波数に全身の毛が逆立った。
「何かが、雲海の方に……。あれは、何だ?」
「音骸たちが、雲海に向かっています。これは、どういうことですか……?」
崩れ落ちていたジルベルトが、狂気に囚われた目でケラケラと笑いながら立ち上がる。
そして、再び天を仰いで叫んだ。
「ハハ……やったぞ、ローレライがついに我々のものとなった!これにてすべてが浄化される!静かに待とうではないか。雲海がここを、あの罪の都を飲み込むのを!」
ローレライ……?
確か、古い文献で目にした名だ。
歳主インペラトルから知性を授かった、汚染された周波数を浄化する反響生物。
なら、ジルベルトの言う「浄化」が本当とすれば、ローレライはラグーナそのものを汚染と認識している。
そんな奴が、ラグーナ周辺で暴れれば――。
「……もしもローレライに何かあったとしたらジルベルトさんの話は出任せではありません。ラグーナ城に、想像もつかない災難をもたらします……」
青ざめたフィービーの呟きが、重苦しい空気に落ちた。
漂泊者が迷いなく武器を握り直し、異様な周波数を放つ雲海――『霞立つ水鏡』へと向き直る。
「……黙って見ているわけにはいかない。俺は雲中庭園に向かう」
「私は残るよ」
ザンニーが腕を組み、ジルベルトを見下ろしながら続けた。
「こいつを確実にファミリーへ引き渡すのが今、私の引き受けた仕事だからね」
「漂泊者さん、すみませんがオレとフィービーも残ります。ここでオレがいなくなるとモンテリへの言い訳が立たなくなる。教団の証人の前でこいつを引き渡します」
フィービーが、教団の侍祭としての凛とした瞳で漂泊者を見据えていた。
「わたしたちもすぐに雲中庭園に向かいます。どうかお気をつけて、漂泊者さん。――歳主のご加護がありますように!」