Supersonic Derby   作:七つの混沌

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第1章 最速の「人間」トレーナー
第1話 幻の「ブルーブラー」と、黒髪のトレーナー


冬の澄み切った空気が、府中のターフをピンと張り詰めさせていた。

八年前。後に「皇帝」と称され、無敗の三冠ウマ娘として歴史に名を刻むことになるシンボリルドルフの、クラシック級の緒戦である共同通信杯。

スタンドを埋め尽くす観衆の視線は、先頭を駆ける威風堂々たるその姿に釘付けになっていた。

 

『さあ最終直線! 先頭はシンボリルドルフ! 圧倒的だ、後続を引き離しにかかる!』

 

実況の興奮した声がスピーカーから響き渡る。

ルドルフの走りは、まさに非の打ち所がなかった。一歩一歩が力強く、そして美しい。後方から追いすがる他のウマ娘たちの足音は、彼女が加速するたびに遠ざかっていく。

ルドルフ自身の瞳にも、確かな勝利への手応えが宿っていた。

自身の『領域』への扉に手をかけつつある彼女にとって、このレースは通過点に過ぎない。誰にも並ばれることなく、誰も寄せ付けることなく、ただ孤高の頂へと駆け上がる。その完璧な青写真が、彼女の脳内には描かれていた。

 

――だが。

その完璧な絵画を、キャンバスごと引き裂くような異音が、背後から急激に迫ってきた。

 

タタタタタタタタタタタタタタタタタタッ!!

 

ルドルフは耳をそばだてた。

それは、芝を蹴る音ではなかった。まるで高出力のモーターが唸りを上げているかのような、あるいは高速回転するタイヤがアスファルトを擦るような、常軌を逸した駆動音。

「……!?」

驚愕とともに視線をわずかに後方へ向けると、観客席からもどよめきが上がり始めていた。

 

『な、なんだ!? 最後方から猛烈な勢いで追い上げてくる影がある!』

 

アウトコースの遥か後方。そこから、信じられない速度で距離を詰めてくる青い旋風があった。

その姿を見た瞬間、ルドルフは自身の目を疑った。

ウマ娘の走り方ではない。

上体は地面と平行になるほどの極端な前傾姿勢。通常のウマ娘がバランスを取るために振る腕は、空気抵抗を極限まで減らすかのように、ピタリと背後へ真っ直ぐに伸ばされている。

そして何より異様だったのは、下半身の動きだ。

あまりにも回転数が早すぎる、ピッチ走法。

時速75km。短距離ウマ娘でも出せないその速度を、一瞬のスパートではなく、息の長い『ロングスパート』として維持していた。

 

「あり得ない……っ!」

ルドルフは本能的な危機感を覚え、限界を超えて加速しようとした。

だが、青い影はあっという間にルドルフの真横に並びかけた。

 

すれ違う瞬間。時間が引き延ばされたかのような錯覚の中、ルドルフは隣を駆け抜けるそのウマ娘――ブルーブラーの顔をはっきりと見た。

ルドルフは戦慄した。

必死に前を見据え、勝利をもぎ取ろうとする自分とは対照的に、ブルーブラーの表情は、驚くほど『涼しい』ものだったからだ。

息一つ乱れていない。歯を食いしばることもなく、汗すらかいていない。

まるで、近所のコンビニへ散歩にでも行くかのような、心底リラックスした表情で、時速75kmという非常識な速度を出しているのだ。

 

(これが、彼女の……『本気』ですらないというのか!?)

 

ルドルフの背筋を、冷たい汗が伝った。

それは、レースで負けることに対する悔しさではない。

自分たちが血の滲むような努力で築き上げてきた『ウマ娘のレース』という概念、歴史、そして限界。そのすべてを、ただの「お遊び」として根底から破壊されかねない、次元の違いに対する根源的な恐怖だった。

 

観客は沈黙した。歓声を上げることも忘れ、ただその異常な光景に目を奪われていた。

青い旋風は、ルドルフを抜き去った後も一切ペースを落とすことなく、無慈悲なまでの大差をつけてゴール板を駆け抜けていった。

 

伝説の始まり。誰もがそう確信した。

だが、ブルーブラーという名の青いウマ娘がターフに姿を現すことは、二度となかった。

数日後、陣営から「重度の故障による引退」という不可解な発表だけが残され、彼女は幻のように姿を消したのである。

 

U U U

 

それから、八年の月日が流れた。

 

春爛漫。東京都府中市にある日本ウマ娘トレーニングセンター学園は、舞い散る桜の花びらに包まれ、新たな出会いの季節を迎えていた。

その正門の前に、一人の人物が立ち止まっていた。

黒いパンツスーツに身を包み、目深に被ったキャスケット帽のつばを指で軽く持ち上げる。

「……全然、変わってないなぁ」

独り言のように呟いたその声は、飄々としていながらも、どこか懐かしさを帯びていた。

彼女の名前は、日高湊。

今日からこのトレセン学園に赴任することになった、新人の『人間』のトレーナーである。

 

湊は、周囲に誰もいないことを確認すると、自身の身なりを改めてチェックした。

肩まで伸びる黒髪はウィッグだ。本来の、空のように鮮やかな青い髪は一つ残らずその下に隠されている。

瞳には、特注の焦げ茶色のカラーコンタクトレンズ。本来の宝石のような緑色の瞳を覆い隠している。

帽子とウィッグの隙間には、ウマ娘の象徴である耳をテープで平らに押し込み、スーツのズボンの下では、自慢の尻尾を何重にもテーピングで太ももに固定していた。

息苦しいし、何より動きづらい。

だが、そうしなければならなかった。彼女は「ウマ娘のブルーブラー」ではなく、「人間の日高湊」として、この学園に入らなければならなかったのだ。

 

(ごめんね、スペ。本当は、普通にお姉ちゃんとして迎えてあげたかったんだけどね)

湊の脳裏に、故郷である北海道で留守番をしている義理の妹――スペシャルウィークの無邪気な笑顔が浮かんだ。

 

八年前。ルドルフを抜き去り、ゴールテープを切ったあの瞬間。

湊の心を満たしたのは、勝利の喜びではなく、底知れぬ「恐怖」だった。

周りのウマ娘たちがまるで止まっているかのように見えた。自分が本気を出せば出すほど、ウマ娘という種族が積み上げてきたレースの歴史や尊厳を、理不尽な暴力で破壊してしまう。

「私は、ここにいてはいけない存在なんだ」

そう直感した湊は、自らの担当トレーナーであった沖野に懇願し、泥を被ってもらって「故障引退」という大嘘をつき、北海道へと逃げ帰った。

スペには「怪我で走れなくなった」と笑って誤魔化した。

 

だが、幼いスペは違った。

湊が「もう走れない」と言っても、彼女は一人で野山を駆け回り、「日本一のウマ娘になる!」と瞳を輝かせ続けた。

ある日、そんな妹へのせめてものご褒美にと、湊は幼いスペを自らの腕にしっかりと抱きかかえ、誰もいない大自然の中でひそかに『本来の力』の一端を解放して走ってやったことがある。

凄まじい風を切って走る湊の腕の中で、スペは恐怖するどころか、無邪気な歓声を上げていた。

『お姉ちゃん、すごーい! 私もあんなふうに速く走りたい!』

泥だらけになっても瞳を輝かせる妹の姿に、湊の心に絡みついていた恐怖の鎖は、少しずつ解けていったのだ。

 

そして、湊は『あの奇跡』を目にした。

 

(歴史を壊すのが怖いなら……私が直接走るんじゃなくて、スペが新しい歴史を創る手伝いをすればいいんだ)

 

 

それが、湊が再びこの府中へと戻ってきた理由だった。

「よし」

湊は小さく息を吐き、気合を入れるように両頬をパンッと叩いた。

「今日から私は、ただの人間の新人トレーナー。……ちょっとドジで頼りないけど、情熱だけはある若手、ってところかな」

完璧な擬態だ。誰にも悟られてはならない。

特に、八年前の自分を知る者たちには。

 

正門をくぐり、桜並木を抜けて本校舎の事務室へと向かう。

すれ違うウマ娘たちが、見慣れない黒髪の女性を不思議そうに見つめてくるが、湊は愛想よく会釈をしてやり過ごした。

事務室の扉をノックし、中へと入る。

「失礼します。本日付けで赴任いたしました、新人トレーナーの日高湊です」

快活な声で挨拶をすると、奥のデスクから一人の女性が立ち上がった。

緑色の帽子を被った、理事長秘書の駿川たづなだ。

 

「お待ちしておりましたよ、日高トレーナー」

たづなは穏やかな笑みを浮かべ、湊の元へと歩み寄ってきた。

その柔和な表情の奥にある瞳が、一瞬だけ鋭く光ったのを、湊は見逃さなかった。

湊の心臓が少しだけ跳ねる。

当然だ。雇用者の個人情報を管理し、学園のあらゆる人事を把握している理事長秘書が、日高湊=ブルーブラーであるという事実を知らないはずがない。

だが、たづなは核心には触れず、手元にあったバインダーを胸に抱いて優しく微笑んだ。

 

「これから、素晴らしいドラマが始まる予感がしますね。どうか、担当される生徒さんを……しっかりと導いてあげてください」

「……はい。精一杯、やらせていただきます」

湊もまた、ただの人間の新人トレーナーとして、深々と頭を下げた。

 

(待っててね、スペ。もうすぐ、ここでお姉ちゃんが、あなたを最強のウマ娘にしてあげるから)

青いソウルを心の奥底に深く封じ込め、黒髪のトレーナーは、懐かしくも新しい戦場へと力強く足を踏み出した。

 




※注釈
「時速75km。短距離ウマ娘でも出せないその速度を」
まだカルストンライトオが登場してないからね
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