無敗の三冠達成という偉業の余韻が冷めやらぬまま、季節は急速に深まりを見せていた。
トレセン学園のイチョウ並木が黄金色に染まり、朝晩の冷え込みが厳しくなる頃、スペシャルウィークは次なる、そして今年最大の試練へと足を踏み入れていた。
「さあ、いよいよ最高峰の決戦、ジャパンカップが始まります! 日本の三冠ウマ娘対、世界の強豪! そして歴戦のシニアウマ娘! 世代を超え、国境を越えたスピードの祭典です!」
東京レース場。芝2400メートル。
そこには、ライバルである怪鳥エルコンドルパサーをはじめ、経験豊富なシニア級のトップ勢、そして欧州や北米から参戦した未知の強豪たちが顔を揃えていた。
「スペ。今日走る相手は、今までとはわけが違うよ。世界のトップ、そして日本の意地を背負ったシニアの先輩たちだ。気を引き締めてね」
地下バ道で、黒い帽子を目深に被った日高湊が、手元のバインダーで軽くスペの肩を叩いた。
その声色はいつもの「人間トレーナー」としてのものだが、確かな真剣さがこもっている。
「はいっ、お姉ちゃん!」
スペは力強く頷いた。
これまでは同世代、つまり自分と同じ時期にデビューした仲間たちとの戦いだった。だが今日は違う。自分よりも何年も走り込み、完成された肉体と経験を持つ「大人」のウマ娘たちが相手なのだ。
(きっと、すっごく速いんだろうな……。お姉ちゃんみたいに、風になっちゃうような人たちがたくさんいるんだべ)
スペの胸は、恐怖ではなく期待で高鳴っていた。
自分を極限まで鍛え上げてくれた義姉――日高湊のピッチ走法。時速75キロを長距離で維持し、本気を出せば時速100キロの世界へと突入する「絶対的な速度の基準」。
それを毎日見せられ、追いかけ続けてきたスペにとって、「世界の強豪」や「シニアのトップ」という言葉は、大好きな姉と同じ高みにいる存在を想像させた。
「お姉ちゃんみたいに速い人たちと走れるなんて、ワクワクしちゃうなぁ!」
「……あんたねぇ」
無邪気に笑うスペを見て、湊は苦笑いしながら帽子のツバを少し下げた。
「まぁ、気負ってないのは良いことだ。あんたの走りは仕上がってる。相手が誰だろうと、いつも通り走って、最後は遠慮なくぶっちぎってきな」
「はいっ!」
ファンファーレが鳴り響き、大歓声に包まれたターフへと、スペシャルウィークは足を踏み入れた。
ゲートが開き、激闘が幕を開ける。
「スタートしました! まず飛び出したのはノイジーハンター! 一気に後続を引き離しにかかる大逃げです!」
レースは序盤から、シニアの逃げウマ娘によるハイペースな展開となった。
スペは中団のやや後ろで折り合いをつける。その少し前方の好位には、ダービー以来の対決となるエルコンドルパサーが、不気味なほどの静けさを保って追走していた。さらにその後ろには、『女帝』と呼ばれるシニアのトップウマ娘・エアグルーヴが、威風堂々とした足取りでレースの展開を睨んでいる。
(すごい……これが、シニアの人たちのプレッシャー……!)
バ群の中で、スペは肌が粟立つような感覚を覚えていた。
同世代のウマ娘たちとは違う、分厚く、重い気迫。レースの道中であるにもかかわらず、周囲を走るシニアウマ娘たちからは、一歩の隙も許さないような熟練の威圧感が放たれていた。
息苦しい。だが、同時に胸が躍る。
(この人たちとなら、きっと……最高に速いレースができる!)
大ケヤキを越え、レースは第4コーナーから東京レース場の長い直線へと差し掛かる。
大逃げを打っていた先頭の脚が止まり始め、後続のウマ娘たちが一斉に牙を剥いた。
「さあ、いよいよ最後の直線! 先頭のリードがみるみる縮まっていく!」
最初に動いたのは、『女帝』エアグルーヴだった。
彼女の周囲の空気が重く沈み込み、青き炎のような幻視がターフを包み込む。歴戦のシニアウマ娘のみが到達する、洗練された「領域」の発動。
重厚な推進力で、女帝が一気に抜け出しにかかる。
だが、それをさらに上回る気迫が、内から弾け飛んだ。
「日本の頂点は、このエルコンドルパサーがいただきマース!!」
エルコンドルパサーの仮面の奥の瞳が、紅く燃え上がる。
世界から音が消え、雄大なアンデス山脈の幻視と共に、一羽の巨大な黄金のコンドルがターフの空を覆い尽くした。
「エルコンドルパサー、圧倒的な力! エアグルーヴを競り落として、一気に先頭へ踊り出た!!」
ダービーの時は「片鱗」でしかなかったエルの力は、秋を経て、ついに完全な「領域」として完成されていた。
世界の強豪たちでさえ、その黄金のコンドルのプレッシャーに飲まれ、次々と後退していく。
(エルちゃん、すごい! 女帝さんも、海外の人たちも、みんな速い!!)
前を走るシニアのトップたち、そして完成されたライバルの背中を見て、スペは歓喜に震えた。
これだ。これが、私が追い求めていた「日本一」を決める戦い。
ならば、私も全てを出し切って、この人たちを追い抜く!
世界が反転する。
深く澄んだ夜空のキャンバスに、一筋の流星が走り抜ける。
異常なまでのピッチ走法が火を吹き、スペの体が弾丸のように前へと迫る。
「スペシャルウィークも来た! 外から猛烈な末脚! 無敗の三冠ウマ娘が、シニアと世界に牙を剥く!!」
残り200メートル。
エルコンドルパサー、エアグルーヴ、そしてスペシャルウィーク。
三者の領域が激突し、ターフ上に凄まじいエネルギーの乱気流が巻き起こる。
「譲りませんヨォォォッ!!」
「退けっ!!」
エルとエアグルーヴが、極限の死闘を繰り広げる。シニアのトップと、それに追いついた怪鳥。彼女たちの走りは、間違いなく現代のウマ娘の最高峰であり、限界点だった。
スペの「シューティングスター」のピッチを以てしても、その差はジリジリとしか縮まらない。
(届かない……! 普通に走ったんじゃ、この人たちには勝てない!)
スペは悟った。
日本のトップ、世界の強豪。彼女たちは確かに強い。
だからこそ、これを使う。
菊花賞で解禁した、自分の奥底に眠る「絶対的な切り札」を。
残り時間、約10秒。
スペは深く息を吸い込み――――
「ソニックブースト!!!」
瞬間。
スペシャルウィークの身体から、強烈な明るい紫色のオーラが爆発的に噴き出した。
「スペシャルウィークさらに加速!!菊花賞でも見せた信じられない末脚です!!」
実況が絶叫する。
領域を認識できるエルコンドルパサーとエアグルーヴの目に、信じられない光景が映り込んだ。
極限まで削り合っているこのトップスピードの状態から、さらに物理法則を嘲笑うかのような理不尽な急加速。
「ウ、ウソでしょ……!?」
「ばかな、あんな加速が……っ!」
黄金のコンドルも、女帝の青き炎も、そのすべてを、紫の光の矢となったスペシャルウィークが、いとも容易く轢き潰していく。
戦術も、経験の差も、極限の叩き合いも関係ない。
ただ純粋な「外部からのエネルギーの暴力」が、シニアのトップと世界の強豪を、まるで止まっているかのように置き去りにした。
「スペシャルウィークッ! 日本の三冠ウマ娘、世界を相手に堂々の勝利!! 圧倒的、あまりにも圧倒的な末脚で、頂点に立ったのはこの若き流星です!!」
万雷の拍手と、地鳴りのような大歓声。
ジャパンカップという最高峰の舞台で、スペシャルウィークは後続に決定的な差をつけ、悠々とゴール板を駆け抜けた。
U U U
レース直後のターフ。
大観衆の熱狂に包まれながら、スペシャルウィークは全身から溢れる紫色のオーラを収束させ、荒い呼吸を整えていた。
「ハァ……ハァ……」
勝った。
無敗の三冠ウマ娘として挑んだ、初めてのシニア級と世界の強豪との戦い。
持てる武器を全て使い切り、勝利を掴み取った。それは紛れもない事実だ。
エルコンドルパサーが悔しそうに膝に手をつき、エアグルーヴが信じられないという表情でこちらを見ている。彼女たちは確かに、ものすごく強かった。
(でも……あれ?)
ウイニングランへと向かうため、ゆっくりと歩みを進めながら、スペはふと小首を傾げた。
勝った瞬間の喜びよりも先に、言葉にできない不思議な感覚がスペの心にぽっかりと浮かんでいた。
(エルちゃんも、女帝さんも、海外の人たちも……すっごく速かった。苦しかった。でも……)
自分が目標にしていた「大人の壁」や「世界の壁」。
それは、想像していたよりもずっと、現実的で『届く高さ』にあるように感じられた。
それは裏を返せば、別の誰かに対する純粋な疑問の浮上だった。
(私が毎日追いかけてる『お姉ちゃんの背中』……あっちの方が、なんだかずっと遠くて、速い気がする……?)
息一つ乱さず、特異なピッチ走法だけで時速75キロを維持し続ける姉。
もし今日、あのターフにお姉ちゃんが「ウマ娘」として立っていたらどうなっていただろうか。
エルちゃんや女帝さんがどれほど凄まじい領域を発動させようと、お姉ちゃんは涼しい顔をして、全員をはるか後方に置き去りにしていたのではないだろうか。
「スペちゃーん! おめでとー!」
「すごいよ、スペシャルウィークちゃん!」
フェンス越しにファンが手を振り、祝福の声をかけてくれる。
スペはハッとして、いつものように満面の笑みを作り、手を振り返した。
(気のせいかな。お姉ちゃんは凄いけど、怪我で引退してるんだよ? 現役で完成されてる世界トップの人たちより、ずっと遠くに感じるなんて……)
スペは、観客席の隅、関係者エリアのフェンス際に立つ人物を見つけた。
黒い帽子を目深に被り、地味なジャージを着た、人間の新人トレーナー。
自分が勝ったのを見て、目元を優しく細め、小さく拍手を送ってくれている大好きな姉に向かって、スペは大きく手を振り返した。
周囲から見れば、それは輝かしい勝利を手にした無敗のウマ娘の、幸福に満ちた姿そのものだ。
だが、その笑顔の裏側で。
スペシャルウィークの中に芽生えた「世界のトップと、自分の姉に対する実力差の違和感」という小さな種は、確かに根を張り始めていた。