第15話 すれ違う真実、スペシャルウィークの決意
冬の冷たい風が吹きすさぶ中、トレセン学園の片隅にある古びた部室棟からは、熱気と騒がしい声が漏れ聞こえていた。
「ほらゴルシ! わたしの肉取らないでよね!」
「あぁん? 鍋の中のモンは弱肉強食がルールだろうが! オラ、マックイーンもぼーっとしてると白菜しか残んねぇぞ!」
「わ、わたくしはお肉よりお野菜の方が……ああっ! 狙っていた白滝が!」
「よーし、アタシがもっと肉追加してやるぜ!」
「ちょっとウオッカ、それまだ凍ってるじゃない! 鍋の温度が下がるでしょ!」
チーム・スピカの部室で行われている忘年会。中央に置かれた大きな土鍋を囲み、ウオッカとダイワスカーレットが小競り合いを始め、ゴールドシップが我が物顔で具材をさらい、メジロマックイーンが翻弄される。その傍らで、トウカイテイオーは「カイチョーも呼べばよかったかなぁ」と呟きながらオレンジジュースを啜り、サイレンススズカは静かに、しかし確実な箸捌きで湯豆腐を小鉢に移していた。
部屋の隅、パイプ椅子にだらしなく寄りかかっていた沖野トレーナーは、ビール代わりの炭酸水を片手に、そんな担当ウマ娘たちの騒ぎを笑いながら眺めていた。有馬記念も終わり、トレセン学園は完全なオフモードに入っている。スピカの面々も、厳しいシーズンを終えての束の間の休息を楽しんでいた。
そこへ、控えめだが芯のあるノックの音が響いた。
騒がしかった部室が一瞬静まり返る。「こんな時間に誰だ?」と沖野が立ち上がってドアを開けると、そこには冷たい夜風で鼻の頭を少し赤くした少女が立っていた。
「……沖野、さん。夜分遅くに、急にごめんなさい」
今年の有馬記念を制し、名実ともに『日本一』の称号を手にしたウマ娘。そして、新人の個人専属トレーナーである日高湊の指導のもとで無敗の三冠を成し遂げた、スペシャルウィークだった。
「スペちゃん?」
スズカが驚いたように声を上げる。他のメンバーも、予想外の来訪者に目を丸くしていた。
「……おう、どうした? 湊ならここにはいねえぞ?」
沖野は少し身構えた。有馬記念の直後から、彼女が何か思い詰めたような顔をしていることは知っていた。だが、まさか直接自分のところへ来るとは思っていなかった。
「お姉ちゃんの用事じゃありません。……沖野さんに、聞きたいことがあって来ました」
真っ直ぐな、射抜くような紫色の瞳。その視線に、沖野は小さく息を吐いた。
「……まあ、入れよ。外は寒いだろ」
スペは一礼して部室に入ると、鍋を囲むスピカのメンバーたちにも「お邪魔します」と小さく頭を下げた。スズカが温かいお茶を差し出すと、スペは両手で湯呑みを包み込むように持ち、一口飲んでから、真っ直ぐに沖野を見据えた。
「有馬記念が終わってから、ずっと考えていたんです」
静かな部室に、スペの凛とした声が響く。
「私、日本一になれたはずなんです。でも……どんなに速く走れるようになっても、お姉ちゃんには一歩も届く気がしない。いつも、お姉ちゃんは私のはるか先で、振り向くこともなく走っているような……そんな感覚が消えないんです」
スペの言葉に、スズカやテイオーたちは息を呑んだ。あのグラスワンダーやエルコンドルパサーといった同世代の猛者たち、そしてシニア級のトップウマ娘たちをなぎ倒した今のスペシャルウィークが、ただの人間の新人トレーナーである日高湊に対してそこまでの実力差を感じているという告白は、あまりにも異常だった。
「……沖野さんは、多分、お姉ちゃんが学園に入る前から、お姉ちゃんのことを知っていましたよね」
スペは一歩、沖野に歩み寄った。
「教えてください。お姉ちゃんは……本当は、何者なんですか? どうして、あんなに速いのに、トレーナーなんてやっているんですか?」
沖野は頭を掻き毟った。あいつ、妹にどこまで隠し通すつもりだったんだ、と心の中で毒づく。だが、目の前の少女の眼差しは、誤魔化しが通用するものではなかった。
有馬記念のあの極限のレースで、彼女は確実に何かを掴み、そして何かを感じ取っている。
「……あいつに聞けばいいだろ」
「お姉ちゃんは、私が笑っていればそれでいいって、そう思ってます。だから、絶対に本当のことは教えてくれません」
スペの言葉には、確信があった。彼女は湊の愛情を疑ってはいない。しかし、その愛情の裏にある「断絶」に気づいてしまったのだ。
沖野は大きくため息をつき、パイプ椅子にドカッと座り直した。
「……俺は昔、担当を持っていた。たった一人の、とんでもねえ化け物みたいなウマ娘をな」
沖野の低い声に、部室の空気が張り詰める。
「そのウマ娘は、レースの常識をまともにしらねぇ。だけど、一度ターフに出れば、誰の目にも見えないようなスピードで他の奴らを置き去りにした。当時のクラシック戦線で、あのシンボリルドルフでさえ、そいつの背中を捕まえることはできなかったんだ」
「えっ……!」
テイオーがガタッと音を立てて立ち上がった。手からオレンジジュースのコップが滑り落ちそうになるのを慌てて掴む。
「カイチョーが……負けた? それって、もしかして……!」
「ああ。記録上はただの『故障引退』ってことになってる、幻のウマ娘だ」
沖野はスペの瞳を真っ直ぐに見返した。
「……『ブルーブラー』。それが、お前の姉ちゃん、日高湊の本当の姿だ」
沈黙が落ちた。
「ぶ、ブルーブラー? 誰だそれ?」
きょとんとした顔で口を開いたのはウオッカだった。
「はぁ!?」
隣にいたダイワスカーレットが、信じられないという顔でウオッカを小突いた。
「知らないの!? シンボリルドルフさんに黒星をつけた、伝説のウマ娘よ! 記録にはほとんど残ってないけど、日本のウマ娘なら誰だって一度は名前くらい聞いたことあるでしょ!?」
「い、いや、俺はダービーのことしか頭になかったし……」
「それが、スペちゃんのトレーナーの湊さん……?」
テイオーは呆然と呟いた。
「なんだテイオー、お前気づいてなかったのか?」
静まり返った空気の中で、ゴールドシップが鍋の底からすくい上げた謎のキノコをかじりながらニヤニヤと笑った。
「アタシは初めてアイツを見たときから、『おっ、ブルーブラーじゃん。なんで人間のコスプレしてんだ?』って思ってたぜ」
「ええっ!? ゴ、ゴルシ気づいてたの!? っていうか、なんで言ってくれなかったのさ!」
「聞かれなかったからな! つーか、あんなバレバレの変装で気づかねえ方がどうかしてるぜ。帽子とカラコンなんて、アタシの目は誤魔化せねえよ」
「う、うぅ〜……アタシの目は節穴だったのか……」
ショックのあまり、テイオーは耳をペタンと伏せて肩を落とした。
そのやり取りを見て、スペ自身は驚きはしなかった。日高湊のウマ娘名が『ブルーブラー』なのは、当たり前だが妹として知っていたからだ。彼女が知りたいのは、その先だった。
「お姉ちゃんは、故障で引退したんじゃないんですか……?それに、会長さんを……?」
震える声で尋ねるスペに、沖野は首を横に振った。
「9年前の共同通信杯を調べてみるといい。だが1つ。あいつの脚は、どこも壊れちゃいなかった。ピンピンしてたさ。……あいつはな、自分で走るのを辞めたんだよ」
「自分で……どうして?」
「相手がいなかったからだ」
沖野の言葉は、冷たく、残酷な事実として部室に響いた。
「速すぎたんだよ、あいつは。ルドルフですら、あいつにとっては『ただの後ろを走るウマ娘』でしかなかった。誰も自分の本気に着いてこれない。誰も自分の隣を走ってくれない。……そんな世界で走り続けることに、あいつは耐えられなかったんだと思う」
言葉を切った沖野は、自嘲するように鼻で笑い、言葉を継いだ。
「あいつがスズカみたいな性格だったら良かったんだろうけどな。負けず嫌いなくせに、勝負になってない勝負は嫌とか、ほんとしちめんどうくさいやつだよ」
吐き捨てるような乱暴な口調。しかし、その言葉とは裏腹に、沖野の表情はどこかひどく悔し気だった。かつての担当ウマ娘の抱える底知れぬ孤独を救えず、ただ『故障引退』という嘘の逃げ道を用意してやることしかできなかった無力な自分を、今でも強く呪っているかのように。
その痛切な横顔を見て、スズカはハッとして息を呑んだ。
(勝負になっていない勝負……)
ただ走るのが好きで、先頭の景色を求めてひたすらに走り続けていた自分。もし、自分の前にも後ろにも誰もいなくなり、ただ一人で永遠に虚空を走り続けることになったとしたら。振り返っても、誰も追ってこないとしたら。
……その底無しの孤独と絶望は、想像を絶するものだ。スズカは胸が締め付けられる思いで、俯くスペを見た。
幼い頃、北海道の草原で、ブラーの背中を追いかけていた記憶がスペの脳裏に蘇る。
いつも優しく振り返って、スピードを落として待ってくれていたお姉ちゃん。トレセン学園に来てからも同じだ。ブラーは常にスペのペースに合わせ、スペが全力を出せるように伴走してくれていた。
だが、それは裏を返せば、ブラーは常に「手を抜いていた」ということだ。
有馬記念で、グラスワンダーたちと同世代の頂点を争い、死闘を繰り広げた。ヒリヒリするような勝負の楽しさ、全力を出し切って互いを認め合う熱さ。それを、スペは知っている。
だが、ブラーはそれを知らない。知るための相手が、いなかったのだ。
(お姉ちゃんは、ずっと……)
視線の先。いつも優しい笑顔を向けてくれる彼女が、本当はどれほど冷たい風の吹く場所に立っているのか。誰も届かない高みで、たった一人、誰かが隣に来てくれるのを待ち続けて……結局諦めて、ターフを去った。
「……ひとりぼっちだったんだ」
スペの目から、ポロリと涙がこぼれ落ちた。
日本一になったからといって、ブラーが本当の意味で喜んでくれるわけがない。自分がどんなに速くなっても、ブラーの孤独を癒やすことはできないのだから。
「……スペちゃん」
スズカがたまらず声をかけるが、スペは乱暴に涙を拭い、顔を上げた。その瞳には、先ほどまでの戸惑いは消え、代わりに強烈な決意の炎が宿っていた。
「沖野さん。教えてくれて、ありがとうございます」
スペは深く頭を下げた。
「……日本一のウマ娘になる。それが、私とお母ちゃんの夢でした」
顔を上げたスペの声は、驚くほど澄んでいた。
「でも、今は違います。私が一番勝ちたいのは、グラスちゃんでも、エルちゃんでもない」
スペの脳裏に、青い閃光のようなスピードで駆け抜けるブラーの姿が浮かぶ。
追いつくのではない。引きずり下ろすのでもない。
彼女が諦めてしまった世界で、彼女の隣に並び立つ。
「私……お姉ちゃんを、もう『ひとりぼっち』にさせません」
その宣言は、チーム・スピカの部室の空気を震わせた。誰の目にも、今のスペが、今までで一番恐ろしく、そして美しく見えた。
沖野は炭酸水のペットボトルをテーブルに置き、ニヤリと口角を上げた。
「……そのでけえ夢を叶えるために、お前はどうするつもりだ?」