冬の陽射しが、埃の舞うトレーナー室に斜めに差し込んでいた。
トレセン学園の新人トレーナー、日高湊としてのデスク。その上には、今年一年のスペシャルウィークのレースデータが山のように積まれている。皐月賞、日本ダービー、菊花賞の無敗の三冠。そしてジャパンカップ、有馬記念の制覇。
(すごいなぁ、スペは)
黒いウィッグとカラーコンタクト、そして深々と被った帽子。ウマ娘としての特徴を完全に隠し、「ただの人間」として振る舞う湊は、妹の輝かしい軌跡を見つめながら、コーヒーの入ったマグカップに口をつけた。
自分がかつて恐れ、逃げ出した「歴史を創る」という途方もない偉業。それを、真っ直ぐな心を持った妹が見事に成し遂げてくれた。世間は彼女を「日本一」と呼び、惜しみない賞賛を送っている。湊自身も、トレーナーとして、そして姉として、これ以上の喜びはなかった。
(私の役目は、これで半分くらい終わりかな。あとは、スペが怪我なく楽しく走れるようにサポートしていくだけ……)
そんな風に、安らかな満足感に浸っていた時だった。
コンコン、と。
短く、しかし硬いノックの音が響いた。
「はーい、どうぞ」
いつものように明るく声をかける。ドアが開き、姿を見せたのは、他ならぬスペシャルウィークだった。
「やっほー、スペ。どうしたの、今日はオフでしょ? 一緒に学食でも行く?」
湊は笑顔で立ち上がろうとした。しかし、スペの様子がいつもと違うことにすぐに気がついた。
普段なら「お姉ちゃん!」と尻尾を振って飛び込んでくるはずの彼女が、今日は真っ直ぐ前を見据えたまま、無言で部屋に入ってきたのだ。その後ろからは、なぜかチーム・スピカの沖野トレーナーが、気まずそうに頭を掻きながらついてきている。
「……スペ? どうしたの、そんな怖い顔して。沖野さんも、一緒になんの用ですか?」
湊の問いかけに、スペは一切の表情を崩さず、湊のデスクの前まで歩み寄った。そして、手に持っていた二枚の書類を、無言で、しかし力強くデスクの上に叩きつけるように置いた。
『専属トレーナー契約解除届』
『チーム入属届(チーム・スピカ)』
そこに書かれた文字を認識した瞬間、湊の思考は真っ白になった。
「え……?」
マグカップを持つ手が震え、中のコーヒーが波打つ。
「ちょ、ちょっと待って。え? スペ、なにこれ」
「見ての通りです」
スペの声は、冬の空気のように冷たく、澄んでいた。
「……うそ、でしょ? なんで? 私、何かスペが嫌がるようなことした? 特訓が厳しすぎた? それとも、有馬のあとのケアが足りなかった……?」
激しく動揺する湊は、声のトーンを抑えることも忘れ、すがるような目でスペを見つめた。つい数日前まで、有馬記念の勝利を一緒に泣いて喜んだはずだ。何の予兆もなかった。なぜ突然、妹が自分を切り捨てようとしているのか、全く理解できなかった。
「おいおい、説明が足りなさすぎるだろ、スペ」
すがりつこうとする湊の言葉を遮るように、後ろに控えていた沖野が一歩前に出た。
「沖野さん……! どういうことですか、これ。あなたがスペをそそのかしたんですか!?」
湊は沖野を睨みつけた。人間の新人トレーナーとして敬語を使ってはいるが、その声には明らかな怒りが混じっていた。
沖野は肩をすくめ、ポケットに手を突っ込んだ。
「そそのかしたわけじゃねえよ。スペが自分で決めたことだ。俺はただ、手を貸すことにしただけさ」
言い合う湊と沖野に、スペは一瞬だけ、いつもの「妹」の顔になりかけたが、すぐに唇を噛み締め、再び強い眼差しを作った。
「私、有馬記念で勝って……世間の人たちは『日本一』だって言ってくれました」
「そうだよ! スペは日本一のウマ娘だよ! だから……」
「でも、私は知っています。本当の日本一は、まだ私のずっと先にいるって」
スペの言葉に、湊は息を呑んだ。
彼女の真っ直ぐな紫色の瞳が、帽子とカラーコンタクトで隠された湊の「奥」を、はっきりと射抜いていた。
「私は、お姉ちゃんを超えたい。お姉ちゃんに勝って、本当の日本一になりたいんです」
スペは両手を強く握り締め、宣言した。
「だから、私はチーム・スピカに行きます。今のままじゃ……お姉ちゃんの背中を見るだけで、追いつくことなんて絶対にできないから」
それは、紛れもない「宣戦布告」だった。
湊の胸の奥で、ズキリと痛みが走る。
スペが、自分の底知れぬスピードを肌で感じ取っていたことは知っている。だが、それはあくまで「人間とウマ娘」あるいは「特別な姉と妹」という枠組みの中での尊敬と畏怖だと思っていた。
まさか、スペが本気で「自分を打倒する」ための手段として、自分のもとを去ろうとするとは。
(そんなの、無理だよ……。スペがどれだけ強くなっても、私の『ソウル』には……)
生物学的な限界を超えた、特異な魂。それを宿す自分に、通常のウマ娘が勝てるはずがない。それは傲慢ではなく、悲しいほどに冷酷な客観的事実だった。
「スペ、待って。考え直して。スピカが素晴らしいチームなのは知ってる。でも、私とスペのコンビで三冠も獲れたじゃない。これからも一緒に……」
スペシャルウィーク、ゆっくりと首を振る。
「私は、本当の日本一のウマ娘になる」
周囲に人がいないことを確認し、声のトーンを下げる。しかし、その言葉には隠しきれない苛立ちと焦りが滲み出ていた。
「ちょっとトレーナー!あなたのことだから本当にスペのことを思って動いてくれてるのはわかるよ?でも、私が『特殊なウマ娘』なのはわかってるでしょ!?」
かつての呼び方が口をついて出た。沖野は、湊が「ブルーブラー」であった頃の専属トレーナーだ。自分がどれほど次元の違うスピードを持っているか、そしてそれが理由でターフを去ったことを、彼は知っている。転生と歴史の破壊の話までは、していないが。
「私が本気を出したらどうなるか、知ってるくせに! スペに、そんな叶わない夢を追わせるなんて……無責任じゃない!?」
妹を傷つけたくない。絶望させたくない。湊の言葉は、純粋な姉としての悲痛な叫びだった。
だが、沖野は一切怯むことなく、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「お前こそ、俺のことは分かってるんだろ? 勝ち目が一切ないのに、俺がこんなことするかよ」
その一言が、湊の思考をピタリと止めた。
(……トレーナーが?)
沖野という男のことは、誰よりもよく知っている。飄々としていて、時にいい加減に見えるが、ウマ娘に対する情熱と観察眼は誰よりも鋭い。そして何より、ウマ娘の心をもてあそぶような、私利私欲や悪意で行動する人間ではない。
その沖野が、「勝ち目がある」と言い切って、自分からスペを引き抜こうとしている。
その事実が持つ意味を理解した瞬間、湊の中で、何かが弾けた。
ずっと奥底に封じ込めていたもの。
歴史を壊す恐怖から逃げ出し、人間の皮を被って押し殺していたもの。
風を切り裂き、限界を超えて走り続けることを渇望する、根源的な衝動。
——彼女の中に宿る『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』のソウルが、猛烈な勢いで脈打ち始めたのだ。
「……あー、そう」
湊は、深く息を吐き出した。
先ほどまでの狼狽えぶりは嘘のように消え失せ、その声は低く、そしてどこか楽しげに響いた。
「他でもないトレーナーがそれを言っちゃうんだ。……ちょっとカチンときたよ」
湊は帽子を深く被り直し、カラーコンタクト越しの瞳で沖野を、そしてスペを真っ直ぐに射抜いた。
「まぁ、安い挑発なんだろうけど。……それは私の『ソウル』にかけて、乗らないわけにはいかないね」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
人間の新人トレーナー・日高湊ではなく。
かつて皇帝さえも置き去りにした幻のウマ娘、その本性が一瞬だけ顔を覗かせた。
ブルーブラーは、口角を吊り上げ、挑戦的で、最高に不敵な笑みを浮かべた。
「いいよ、受けて立とうじゃん」
その声には、一切の迷いがなかった。圧倒的な強者の余裕と、未知の挑戦に対する純粋なワクワク感が混ざり合っていた。
スペは、その笑顔を見て、一瞬だけ息を呑んだ。
(お姉ちゃんが……あんな顔をして笑うなんて)
いつも自分のペースに合わせて、優しく微笑んでくれていた姉とは違う。まるで、退屈な世界に突如として現れた面白いおもちゃを見つけたような、野性味あふれる笑み。
それは、スペが今まで一度も見たことのない、「本物の勝負師」の顔だった。
「……はい。絶対に、お姉ちゃんに追いついてみせます」
スペは胸の痛みを押し殺し、決意の言葉を口にした。本当の目的は「お姉ちゃんをひとりぼっちにさせないこと」。だが、そのためには、彼女が振り向くほどのスピードを手に入れなければならない。
「楽しみに待ってるよ、スペ。……トレーナーも、せいぜい腕を磨いておくことだね」
ブラーはデスクの上の書類を手に取り、引き出しからペンを取り出すと、迷うことなくサインを書き込んだ。
「よし、これで手続きは完了だ。今日からお前は、チーム・スピカのスペシャルウィークだ」
沖野は書類を受け取ると、スペの肩をポンと叩いた。
「行くぞ、スペ。やることが山積みだ」
「……はい!」
スペは最後に一度だけブラーに深く頭を下げ、踵を返した。
バタン、とドアが閉まり、トレーナー室には再び静寂が戻った。
一人残されたブラーは、デスクに手をつき、小さく息を吐いた。
「……やられちゃったな」
妹に突きつけられた宣戦布告。そして、かつての恩師の挑発。
理屈で考えれば、スペが自分に勝つことなど不可能だ。しかし、彼らの目には、確かに何かを成し遂げるだけの「熱」があった。
(……勝ち目がある、か)
ブラーは窓の外を見た。冬の空はどこまでも高く、澄み切っている。
胸の奥で燻っていた火種が、パチパチと音を立てて燃え上がり始めているのを感じた。
「……面白く、なってきたじゃん」
誰もいない部屋で、幻のウマ娘は青い風を予感しながら、静かに笑った。