Supersonic Derby   作:七つの混沌

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第17話 チームスピカの日常と、見えない「青」の幻影

澄み切った冬の青空の下、トレセン学園の広大なグラウンドには、今日も活気あふれる声が響き渡っていた。

 

「ちょっとウオッカ! アタシがインコースを走るって言ったでしょ! 退きなさいよ!」

「はぁ!? 先にコースに入ったのはアタシだろ! ダスカこそ外回れよ!」

「なっ……! いいわ、じゃあ今からグラウンド三周、先にゴールした方がインコースってことで!」

「上等だ! 負けた方は今日の昼飯おごりだからな!」

 

言い争っていたかと思うと、猛然と土煙を上げて走り出すウオッカとダイワスカーレット。チーム・スピカの日常風景である。

 

「おーおー、若いねぇ。血の気が多くて結構なこった。……よし、アタシは芝が荒れる前に、この重さ30キロの特製タイヤを引きながら後ろ走りで精神統一を図るとするか」

「ゴルシさん! それが一番芝を荒らす原因ですわ! 今すぐおやめなさい!」

「うるせぇ! 宇宙の真理に近づくためには必要な儀式なんだよ!」

「意味が分かりませんわ!」

 

奇行に走るゴールドシップを、優雅なティーカップを片手に持ったメジロマックイーンが必死に嗜めている。その傍らでは、トウカイテイオーが「ボクもウオッカたちに混ざってこよーっと!」と軽快なステップで飛び出していく。

 

「ふふっ、今日も賑やかね」

サイレンススズカが、マイペースにストレッチをしながらその様子を微笑ましく見つめていた。

 

スペシャルウィークは、そんな個性豊かで騒がしいチームメイトたちを、少し眩しそうな目で見つめていた。

スピカに移籍して数日。個人専属トレーナーであったブラーとの「一対一」の静かなトレーニング環境から一転、常に誰かと競い合い、笑い合い、時にぶつかり合うスピカの環境は、スペにとって非常に新鮮だった。

 

「おら、お前ら! ウォーミングアップはそのくらいにしておけ! メニュー始めるぞ!」

 

沖野トレーナーのホイッスルが鳴り響き、スピカの面々がスタート地点に集まる。

今日のメインメニューは、実戦を想定した中距離での併走トレーニング。複数人でペースを上げ下げしながら、終盤の競り合いでいかに最高速度を引き出すかという、非常に実践的で質の高い練習だ。

 

「スペちゃん、よろしくね」

「はいっ! スズカさん、皆さん、よろしくお願いします!」

 

ゲート代わりのラインに並び、一斉にスタートを切る。

(すごい……!)

走り出してすぐに、スペは肌が粟立つような興奮を覚えた。

隣にはダイワスカーレットの正確無比なペース配分があり、後ろからはウオッカの力強い足音が迫る。前を行くスズカの静かで洗練された逃げのフォームは、見ているだけで吸い込まれそうになる。

これまで、スペが「他のウマ娘」と全力で走るのは、公式戦のレースの時だけだった。日常のトレーニングにおいて、これほどレベルの高いウマ娘たちと息遣いを感じながら走るのは初めての経験だった。

 

蹄が芝を蹴る音。風を切る音。誰かの荒い呼吸。

仲間と競い合いながら、自分の限界を引き上げていく。これが「普通」の、そして「最高峰」のチームトレーニングなのだと、スペは全身で感じていた。

 

「よし、最終コーナー! ここからペース上げるぞ!」

 

沖野の指示が飛び、ウオッカとダイワスカーレットが一気にスパートをかける。

スペもそれに呼応し、自身の武器であるピッチ走法へとギアを切り替えた。

タタタタタッ! と小気味よいリズムで芝を蹴り、驚異的な加速で前を行く二人に並びかける。

 

「くっ……! やっぱ速いわね、スペ!」

「だけど、ここで譲るかよ……!」

 

必死に食らいついてくる二人。その気迫を肌で感じながら、スペはさらに前へ、先頭へと抜け出していく。

風が強くなる。視界が開ける。

先頭に立ち、全ての風を真正面から受け止めた瞬間——スペの体に、ふと奇妙な感覚が走った。

 

(あれ……?)

 

心地よい疲労感と、仲間と走る楽しさ。それは間違いなく本物だ。

だが、スペの「肉体」が、あるいは「本能」が、無意識のうちに“あるもの”を探してしまっていた。

 

いつもなら、このタイミングだ。

スペがスパートをかけ、息を荒らげて最高速に達したその時、少し前方の斜め右あたりに、必ず「青い影」がスッと入り込んでくる。

 

『ほらスペ、顎が上がってるよ。ピッチはそのまま、歩幅をあと半歩広げて!』

 

 

青い髪、緑の瞳のウマ娘、ブルーブラー。

彼女は、スペが全力を出しているその真横で、まったく息一つ乱さず、涼しい顔をして並走していた。

足元は凄まじいテンポで音を立て、砂浜だろうが急勾配の坂道だろうが関係なく、異常なピッチで芝を撫でるように走る。最大時速75キロという、ウマ娘の限界を超えた速度を、「ただのジョギング」であるかのように維持し続ける異常なペースメーカー。

 

スペがどれだけ必死に走っても、ブラーの背中は常に「手が届きそうで届かない絶妙な位置」にあり続けた。それがスペの闘争心を引き出し、無尽蔵のスタミナとスピードを限界まで鍛え上げてきたのだ。

 

だが今、スペの目の前には誰もいない。

ただ、冬の冷たい風が吹き抜けていくだけだ。

 

「……っ!」

 

スペは無意識に、さらにピッチを上げた。

もっと速く。もっと。そうしなければ、あの「青い影」に置いていかれてしまうような気がして。

しかし、どれだけ足を回しても、あの異常な引力で引っ張られるような感覚は訪れなかった。

 

「ゴォォォル!!」

 

沖野の声と共に、ラインを駆け抜ける。

少し遅れて、ウオッカとダイワスカーレット、他のメンバーも次々とゴールに飛び込んできた。

 

「ハァッ……ハァッ……! まったく、有記念勝った途端にバケモンじみてきたわね……!」

ダイワスカーレットが膝に手をついて荒い息を吐く。

「ぜぇ……ぜぇ……。ちくしょう、最後の加速、全然追いつけなかった……!」

ウオッカも芝の上に大の字に寝転がった。

 

「タイム出たぞ。……おいおい、ただの練習でコースレコード迫るタイム出しやがって。スペ、お前どんだけスタミナ余ってんだ」

沖野がストップウォッチを見ながら、呆れたような、それでいて嬉しそうな声を上げた。

 

その言葉通り、スペの息はほとんど上がっていなかった。

湊の課した「巨大ホイール」や「砂浜特訓」によって培われた無尽蔵のスタミナからすれば、この程度の併走は、限界の底の底を叩くようなものではなかったのだ。

 

「……スペちゃん?」

スズカが、立ち尽くしているスペの異変に気づいて声をかけた。

 

スペは、自分の足元を見つめていた。

タイムは素晴らしい。スピカのトレーニングの質も最高だ。仲間と一緒に走るのは、とても楽しい。

だけど。

 

(遅い)

 

スペの脳裏に、ぞっとするような冷たい事実が突きつけられていた。

 

ウオッカも、ダスカも、スズカも、日本トップクラスの素晴らしいウマ娘だ。

でも、彼女たちが全力で、限界まで息を乱して競い合っているこの世界は、ブラーからすれば『あまりにも遅すぎる』のだ。

 

ブラーは、スペの前を走る時、いつも優しく微笑んでいた。

『すごいよスペ、また速くなったね!』と褒めてくれた。

それは嘘ではない。スペの成長を本気で喜んでくれていた。

 

だが、時速75キロの通常走行を息一つ乱さずこなし、さらには時速90キロを超える領域を持っているブラーにとって、スペの限界スピードなど、ただの『お散歩』に過ぎなかったのだ。

自分の途方もないスピードを殺し、息苦しいほどの遅い世界に閉じこもりながら、ただひたすらにスペの歩幅に合わせて、優しい言葉をかけ続けてくれていた。

 

記念を制し、「日本一」の称号を得た。

スピカという最高の環境に入り、同世代のトップたちと最高のトレーニングをした。

それでもなお、ブラーが生きている次元の入り口にすら、自分は立っていない。

 

「……お姉ちゃんは、いつも」

 

ポツリと、スペの唇から声が漏れた。

 

「こんなにも遅い世界で……ずっと、私に合わせてくれていたんだ……」

 

見上げた冬の空は、どこまでも高く、澄んだ青色をしていた。

その青空の向こう側に、誰にも見えない速度で、たった一人で走り続ける幻のウマ娘の姿が見えた気がした。

どれだけ叫んでも届かない。どれだけ手を伸ばしても触れられない。

絶対的な孤独の中で、青い閃光が、ただ無機質に風を切り裂いている。

 

(あんなに冷たいところに、お姉ちゃんを一人で置いておけない)

 

胸の奥が、ギリッと締め付けられる。

仲間と走る温かさを知れば知るほど、湊が抱える孤独の深さが浮き彫りになっていく。

 

「どうした、スペ? どこか痛むか?」

沖野が心配そうに覗き込んでくる。

 

「……いえ! なんでもありません!」

スペは顔を上げ、両頬をパンッと両手で強く叩いた。

 

迷っている暇はない。

あの青い空の高みへ辿り着くためには、生半可な成長では絶対に届かない。

 

「トレーナーさん! 私、もう一本いけます! 今度は最初から全力で飛ばします!」

 

「お、おいマジか。ウオッカたちが死にそうな顔してるぞ」

「俺は……ぜぇ……まだまだ……やれる……!」

「当たり前よ……! スペなんかに……負けてられないんだから……!」

這い上がるように起き上がってくるウオッカとスカーレットを見て、スペは小さく微笑んだ。

 

(待ってて、お姉ちゃん)

 

再びスタートラインに向かうスペの瞳の奥には、確かな決意の炎が、静かに、しかし熱く燃え上がっていた。

 

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