冬の気配が色濃くなってきたトレセン学園。チーム・スピカの部室では、いつものように騒がしい日常が繰り広げられていたが、ホワイトボードの前に立つ沖野トレーナーの表情は、どこか真剣なものだった。
「今日話すことなんだがな」
パイプ椅子に座るスペシャルウィークを前に、沖野は腕を組みながら口を開いた。
「あいつをひとりにしないための実力ってのは、まぁちょっと一旦置いといてだ。そもそもその勝負の場は用意できるのか?」
その問いかけに、スペはハッとして目を見開いた。
「……あっ!」
ブラーに追いつく、ひとりぼっちにさせない。その決意を固め、スピカへの移籍まで果たしたというのに、「どこで、どうやってブラーと走るのか」という根本的な問題を、スペはすっかり失念していたのだ。いくら同じトレセン学園にいるとはいえ、ブラーは今や引退して久しく、現役のウマ娘ではない。
「そんなことだろうと思ったよ」
沖野は呆れたように息を吐き、ホワイトボードに『URAファイナルズ』と大きく書き込んだ。
「今年から理事長主催で開催される、URAファイナルズってのがある」
「URAファイナルズ? 廊下の掲示板とかに貼ってあるのは見たけど」
雑誌をパラパラとめくっていたウオッカが、顔を上げて首を傾げた。
「ボクもデビューしてたら、カイチョーと走れたかもしれないんだけどなぁ」
テイオーがハチミーのストローを噛みながら、少し悔しそうに呟く。今年から新設されるこのレースは、世代を超えた夢の対決が実現すると学園内でも専らの噂になっていた。
「でもあれって、トゥインクルシリーズかドリームトロフィーのどっちかに所属してるウマ娘が対象ですよね?」
スズカが冷静に指摘する。
「ドリームトロフィーに移ったレジェンドと、現役選手が混じるのは画期的だと思いましたが、引退ウマ娘は条件に入ってないですわよね?」
マックイーンも同意するように頷いた。一度ターフを降りたウマ娘が、再び最高峰の公式レースに戻るための枠組みなど、通常は存在しない。
「裏ルールがあるんだよ」
沖野はニヤリと笑い、ホワイトボードをトントンと指先で叩いた。
「『現役トレーナー二名からの強い推薦』。これがあれば、すでに引退したウマ娘であっても、特例として出場枠が与えられるって寸法だ」
それを聞いたスペの表情がパァッと明るくなる。
「じゃあお姉ちゃんを説得して、沖野トレーナーとお姉ちゃん自身の推薦で!」
日高湊は正真正銘、現役のトレセン学園トレーナーだ。条件は満たせる。
「断られた」
沖野は肩をすくめた。
「一杯食わされた意趣返しだとさ。まぁあの言いぐさなら、本気で無理そうなら手を貸してくれそうだが、他にあてがないわけじゃない。その当てを説得してくる」
「私も行きます!」
スペは勢いよく立ち上がった。湊を引きずり出すための舞台。その切符を手に入れるための交渉を、沖野に任せきりにするわけにはいかない。
沖野は少しだけ驚いたような顔をしたが、すぐに「……まあ、お前がいた方が話が早いかもしれねえな」と頷き、部室のドアを開けた。
向かった先は、学園最強のチーム・リギルの部室だった。
U U U
「失礼します、おハナさん」
「……沖野君? それにスペシャルウィークさん」
広々とした洗練されたオフィスで、膨大な書類に目を通していた東条ハナは、珍しい二人の訪問者に眉をひそめた。スペのスピカへの電撃移籍は学園内でも大きな話題になっていたが、まさかその当事者たちが揃って自分のところへやって来るとは思っていなかった。
「また何か仕出かしたの? 移籍の手続きなら、とっくに通っているはずだけど」
ハナが呆れたようにため息をつくと、沖野は無言のまま、一枚の書類をハナのデスクに差し出した。
『URAファイナルズ 特例出場推薦状』
そこに記載されたウマ娘の名前を見た瞬間、ハナの空気が一変した。
手元のペンがピタリと止まり、洗練されたオフィスに、氷のように冷たく張り詰めた沈黙が落ちる。
「……沖野君」
ハナの声は、先ほどまでの呆れ声とは全く違う、地を這うような低いものだった。
「これ、どういうつもり?」
「書いてある通りですよ。URAファイナルズの特例出場の条件を満たすために、アンタのサインが欲しい」
ハナはバタンと勢いよく立ち上がり、デスクを両手で強く叩いた。
「ふざけないで!!」
普段の冷静沈着なハナからは想像もつかない激しい怒声。スペは思わずビクッと肩を震わせたが、沖野は表情一つ変えずにハナを見据えていた。
ハナの脳裏には、9年前の出来事が鮮明に焼き付いていた。
当時、クラシック戦線で圧倒的な力を見せつけていた皇帝・シンボリルドルフ。彼女が、ある日ハナのオフィスを訪れ、見たこともないほど苦悩に満ちた顔で語った言葉。
『……彼女の歩き方は、致命的な故障を抱えた者のそれではありませんでした。東条トレーナー、私は……私は、彼女にとって競い合う相手ですらなかったのでしょうか』
圧倒的な力を持つブルーブラーの、突然の「故障引退」発表。
しかし、ルドルフはその観察眼から嘘を見抜いていた。そして、ハナもルドルフからの相談を受け、すべての状況を分析し、一つの結論に達していた。
ブルーブラーは、誰も自分の本気に着いてこられない絶望的な孤独から逃げるために、自らターフを去ったのだ。そして、これほどの大嘘を世間に信じ込ませ、隠蔽工作を完璧にやってのけることができるのは、当時彼女の専属トレーナーだった沖野が加担していない限り不可能だということも。
ハナは、沖野を責めなかった。
誰も隣を走ってくれない孤独な世界で走り続ければ、彼女の心はいつか壊れてしまっていただろう。彼女を守るために自ら泥を被り、共犯者となった沖野の不器用な優しさを理解し、「沖野とは、そういう男だ」と納得して、今までこの秘密を誰にも話さずに胸にしまってきたのだ。
「あの時、あなたが泥を被ってまで彼女を隠したのは、もう彼女の全力を受け止められる相手がこの世界にいないと悟ったからでしょう!?」
ハナは怒りに任せて沖野に詰め寄る。
「それを……! ことここに至って、今さら彼女をターフに引っ張り出そうというの!? またあの子に、誰もいない前だけを見て走れと強要するの!? だいたい、完全に姿を消した彼女と、どこでどうやってコンタクトを取るつもり!?」
ハナの激昂に、沖野が口を開くより早く、スペが一歩前に踏み出した。
「お姉ちゃんは、消えてなんかいません」
スペは、真っ直ぐにハナを見据えた。
「ずっと、私のそばにいました。……新人トレーナーの、日高湊です。お姉ちゃんが、ブルーブラーなんです」
「……え?」
ハナの動きが、完全に停止した。
怒りで紅潮していた顔から、スッと血の気が引いていく。
「……日高トレーナーが、ブルーブラー? 人間の、しかもあなたの……お姉さん……?」
ハナの脳内で、バラバラだったパズルのピースが、凄まじい勢いで組み上がっていく。
不自然なほど特徴のない「人間の新人トレーナー」。あれが人間への変装だったとしたら。
その彼女が考案したという、巨大ホイールや砂浜特訓などの常軌を逸したトレーニングメニュー。
そして何より――日本ダービー以降、スペシャルウィークが見せた、スポーツ科学のデータを一切無視したあの『ソニックブースト』。
あの異常な末脚の正体が掴めず、ハナはずっと日高湊というトレーナーの指導法に底知れぬ気味悪さを感じていた。
(……ただの人間であるはずが、なかったのだ)
あの走りは、かつてシンボリルドルフの心すらへし折った、伝説の幻のウマ娘によって仕込まれたもの。しかも、この二人が姉妹だというのなら、あの理外の力は……。
驚愕で声も出ないハナに向かって、スペは深く、直角に頭を下げた。
「お姉ちゃんは、ずっと私に嘘をついていました。私のペースに合わせて、息を乱したふりをして、一緒に走ってくれていたんです」
顔を上げたスペの目には、大粒の涙が浮かんでいた。
「私は、有馬記念で勝って日本一になれました。エルちゃんやグラスちゃん、スズカさんたちと一緒に走って、限界まで力を出し切る勝負が、どれだけ熱くて、どれだけ楽しいかを知りました。……でも、お姉ちゃんは、それを知らないんです」
スペの言葉が、ハナの心に重く響く。
「誰もいない世界で、たった一人で走り続けるお姉ちゃんを……私は、絶対にひとりぼっちにしたくないんです! ターフには誰もいないなんて、諦めさせない! 私が、お姉ちゃんの隣を走ります! だから、お姉ちゃんが全力を出せる舞台を、どうか作らせてください!」
涙ながらの、あまりにも無謀で、しかし純粋すぎる叫び。
ハナは、目の前で必死に頭を下げる少女を見つめた。
彼女は、あの黄金世代を完膚なきまでにねじ伏せた日本一のウマ娘だ。
しかし、ブルーブラーはあの皇帝ですら「相手にすらならなかった」と絶望した次元のウマ娘だ。
その次元に、たった一人で踏み込もうとしている。
それがどれほど途方もない茨の道か、誰よりも理解しているはずの沖野が、それに加担している。
「……あなたは、自分がどれほど恐ろしい相手に挑もうとしているか、分かっているの?」
ハナの声は、先ほどの怒りが消え、微かな震えを帯びていた。
「はい! お姉ちゃんは、私よりずっとずっと、ずーーーっと速いです! でも、だからこそ、私が追いつかなきゃいけないんです!」
一点の曇りもない紫色の瞳。
その眼差しの中に、かつてルドルフがブルーブラーに向けた「絶望」はなく、ひたすら前だけを見据える「希望」の炎が燃え盛っていた。
ハナは深く、長い溜息をついた。
これほどまでに強い光を放つウマ娘を前にして、理屈で押し留めることなど不可能だと思い知らされた。何より、ハナ自身も心のどこかで、あの悲しき幻のウマ娘が、本当の意味で救われる瞬間を見たいと願ってしまっていた。
ハナはデスクに戻ると、万年筆を手に取り、推薦状の所定の欄に流れるような筆致でサインを書き込んだ。
そして、その紙をパチンと弾き、沖野に向けて差し出す。
書類を受け取る沖野を、ハナは鋭い、射抜くような目で見つめた。
「……勝算はあるの?」
問いかけは、静かだった。だが、そこには東条ハナという一人のトレーナーとしての、真剣な覚悟の確認が込められていた。
沖野は推薦状を無造作に折りたたんでポケットに突っ込むと、スペの背中をポンと叩き、ハナの目を真っ直ぐに見返して、ただ一言、短く答えた。
「ある」
一切の迷いがないその声色に、ハナは小さく息を吐き、静かに目を閉じた。
「……その言葉、信じさせてもらうわよ」
リギルの部室を後にした二人の足取りは、来た時よりも遥かに軽く、そして力強かった。
かくして、次年度に波乱を巻き起こす「青い閃光」を呼び覚ますための、最後で最大のピースが揃ったのである。