春の陽気がアスファルトを温め、行き交う人々の足取りもどこか軽やかに見える四月。
東京都、府中。見上げるような高層ビルと、ひっきりなしに行き交う車の波。そして、視界を埋め尽くすほどの人の多さに、スペシャルウィークは駅の改札を抜けた直後から目を回しかけていた。
「ほえー……! これが、東京……!」
両手に抱えきれないほどの大きなボストンバッグと、故郷である北海道の母から持たされたお土産の数々。それらを持ったまま、彼女はぽかんと口を開けて駅前のロータリーを見渡した。
テレビで見たことはあったが、実際に肌で感じる空気は全く違う。土と草の匂いがした地元の駅とは異なり、ここは鉄と排気ガス、そして得体の知れない熱気に満ちていた。
「おーい、スペ!」
人ごみの中から、聞き慣れた声が響いた。
声のした方へ振り向くと、黒いパンツスーツにキャスケット帽を被った女性が、小さく手を振ってこちらへ歩いてくる。
「あ、お姉ちゃん!」
スペの顔にパッと花が咲いた。周囲の目も気にせず、大きな荷物を抱えたままタタタタッと小走りで駆け寄る。
「長旅、お疲れ様。荷物、重かったでしょ。半分持つよ」
「ううん、平気! これくらい、全然重くないよ!」
姉である日高湊は、ふわりと微笑んでスペの頭を撫でた。黒いウィッグの奥から覗く焦げ茶色の瞳が、優しく妹を見つめている。
義理の姉妹とはいえ、一つ屋根の下で育ってきた二人の間に壁など一切ない。この世界において、ウマ娘と人間が姉妹であること自体は決して珍しいことではなかった。遺伝のイタズラか、はたまたウマソウルの気まぐれか。人間の家族から突如としてウマ娘が誕生することは、ごく自然な日常の風景として社会に受け入れられている。
だからこそ、スペが「お姉ちゃん」と呼ぶことにも、周囲の歩行者は何ら気にかける素振りを見せない。ただの、上京してきた妹を出迎える姉の姿にしか見えないのだ。
「それにしても、お姉ちゃん、本当に『人間のトレーナーさん』みたいだね!」
スペは無邪気な声で、湊の頭の先から足の先までを興味深そうに観察した。
「みたい、じゃなくて、今日からは正真正銘のトレーナーなの。スペのね」
「えへへ、そうだね! よろしくお願いします、湊トレーナー!」
元気よくお辞儀をするスペを見て、湊は思わず吹き出した。
(この子は本当に、真っ直ぐに育ってくれたな)
湊は心中で目を細める。
ウマ娘は皆、人間としての名前と、ウマソウルに由来する「ウマ娘名」の二つの名前を持っている。大半のウマ娘は本能的にウマ娘名を名乗り、その名で生きていくことを選ぶが、湊は今、自らのウマ娘名である「ブルーブラー」を捨て、「日高湊」という人間名のみで社会に立っていた。
ウマ娘の耳と尻尾を隠し、青い髪と緑の瞳を黒と茶色で塗りつぶして。
スペは、姉が怪我で引退したと信じている。だからこそ、この変装も「ウマ娘としての未練を断ち切り、指導者として生きていくための決意の表れ」くらいに捉えているのだろう。
本当は、自分自身のデタラメな脚力が、ウマ娘の歴史そのものを破壊してしまう恐怖から逃げるための隠れ蓑でしかないというのに。
「さあ、行こうか。まずは学園に行って、入学の手続きと……私たちの『契約』を済ませないとね」
「うん!」
二人は並んで歩き出した。
桜並木が続く道を抜け、やがて巨大なゲートが姿を現す。
日本ウマ娘トレーニングセンター学園。全国から選りすぐりの才能が集う、ウマ娘たちの最高峰の学び舎であり、トゥインクル・シリーズを目指す者たちの聖地。
その威容を見上げた瞬間、スペの紫色の瞳に、キラキラとした星のような光が宿った。
「ここが、トレセン学園……!」
「圧倒されるよね、最初は」
「私、ここで頑張る! 日本一のウマ娘になるって、お母ちゃんとも約束したもん!」
U U U
学園の本校舎にある事務室。
入学手続きを終えたスペは、湊とともに理事長秘書・駿川たづなのデスクの前に座っていた。
「これで、スペシャルウィークさんの入寮手続き等はすべて完了です。ようこそ、トレセン学園へ」
たづなが柔らかな笑みを向けると、スペは緊張した面持ちで「は、はい! よろしくお願いします!」と頭を下げた。
「そして、こちらが……日高トレーナーとの専属契約書ですね」
たづなは、机の上に置かれた一枚の書類に視線を落とした。
トレセン学園には、複数のウマ娘を抱える「チーム制」のトレーナーと、一人のウマ娘とマンツーマンで向き合う「個人専属」のトレーナーが混在している。湊とスペが結ぶのは、後者だった。
『トレーナー:日高湊』
『担当ウマ娘:スペシャルウィーク』
その文字列をなぞりながら、たづなはゆっくりと顔を上げ、湊と視線を合わせた。
「ウマ娘と人間がご姉妹であることは珍しくありませんが、姉が妹の専属トレーナーに就任するというのは、なかなかユニークなケースですね。学園としても、お二人の活躍には大いに期待しておりますよ」
言葉の表面上は、あくまで「人間のトレーナー」に対する労いの言葉。
しかし、その声色には、戸籍のすべてを把握している彼女特有の、どこか底知れぬ響きが混じっていた。
「ありがとうございます。妹の才能を一番理解しているのは私ですから。必ず、日本一のウマ娘に育て上げてみせます」
湊は表情を崩さず、堂々と応えた。その堂々たる態度こそが、人間・日高湊としての完璧な武装だった。
手続きを終え、事務室を出た二人は、広大なトレーニングコースを一望できる高台へと足を運んだ。
夕暮れ時。ターフにはまだ、泥だらけになりながら走り込みを続ける何人ものウマ娘たちの姿があった。
「すごいなぁ……みんな、すっごく速い!」
手すりから身を乗り出すようにしてコースを見つめるスペの目は、期待と興奮で輝いていた。
「スペだって、負けてないよ。ずっと私と北海道で特訓してきたんだから」
湊がそう声をかけると、スペは振り返り、えへへと誇らしげに笑った。
「そうだよね! なんたって、私にはお姉ちゃんがついてるんだもん!」
スペは胸を張り、コースの向こう側、はるか遠くにそびえ立つスタジアムを指差した。
「私、絶対に日本一になる! 今のシニア級のトップの人たちだって、お姉ちゃんの特訓を受け続ければ、きっといつか抜けるはずだもん!」
その言葉を聞き、湊はほんの少しだけ目を細め、微笑みかけた。
「そうだね。一緒に目指そう、日本一」
湊はキャスケットのつばを軽く押し上げ、夕日に照らされる妹の背中を優しく叩いた。
幻の青いウマ娘の歴史は八年前に途絶えた。
しかし今日、ここから新たな歴史が始まる。
ウマ娘・スペシャルウィークと、人間・日高湊。二人の二人三脚による、果てしない頂への挑戦が、静かに幕を開けたのだった。