Supersonic Derby   作:七つの混沌

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第20話 宝塚記念、空虚な勝利

春のあたたかな陽気を越え、季節は初夏へと差し掛かっていた。

 

シニア級を迎えたスペシャルウィークの快進撃は止まらなかった。

ブルーブラーから徹底的に叩き込まれた、「無尽蔵のスタミナ」と「ピッチ走法」は、長距離レースにおいて圧倒的なアドバンテージを誇っていた。春の天皇賞(3200m)では、道中から自らペースを作り、他を寄せ付けない危なげない走りで堂々の勝利を収め、その強さがフロックではないことを世間に証明してみせたのだ。

 

しかし、その圧倒的な勝利の裏で、チーム・スピカの面々、そして何よりスペシャルウィーク自身の心には、常に重くのしかかっている「課題」があった。

 

『ブルーブラーから継承した領域の発動条件を解き明かすこと』

 

天皇賞(春)の勝利すら、彼女にとっては「条件が見つからなかった一戦」としての意味合いが強くなりつつあった。どんなペースで走っても、どんな位置取りをしても、あの得体の知れない「継承領域」が顔を出す気配は全くない。

焦りはないつもりだった。だが、次年度のURAファイナルズまでのタイムリミットは確実に迫っている。あの次元の違う青い背中に並び立つためには、絶対にこの謎を解き明かさなければならないのだ。

 

そして迎えた、春のグランプリ――宝塚記念。

阪神レース場、芝2200m。

 

空を覆う薄雲の隙間から、初夏の陽光がターフを照らし出している。

ファン投票によって選ばれた実力者たちが集うこの夢の舞台で、スペシャルウィークの少し離れたゲートには、静かに、しかし凄まじい闘志の炎を燃やす大和撫子の姿があった。

 

グラスワンダー。

昨年の有記念でスペと極限の死闘を繰り広げ、僅差で敗れた彼女は、この宝塚記念での雪辱を果たすべく、完璧な仕上がりでターフに立っていた。

彼女の心には、有記念でスペとぶつかり合ったあの熱い記憶が鮮明に焼き付いている。互いの全力を尽くし、魂を削り合うような勝負。あんなにも楽しく、あんなにもヒリヒリする時間は、彼女のウマ娘としての生をこの上なく満たしてくれた。

 

(有記念の借りは、ここで返させていただきます。スペシャルウィークさん……今日の私は、あなたの全力を必ず打ち砕く)

 

研ぎ澄まされたグラスの視線は、真っ直ぐにスペに向けられている。

大歓声が空気を震わせる中、運命のゲートが開いた。

 

一斉に飛び出すウマ娘たち。レースは平均的なペースで進み、中盤へと差し掛かっていく。

グラスワンダーは中団に控え、常にスペの位置を視界に捉えながら、いつでも仕掛けられるように完璧な折り合いをつけていた。前を行く逃げウマ娘のペース、バ場の状態、そして何より最大の標的であるスペシャルウィークの呼吸。すべてがグラスの計算と掌握の中にあった。

 

一方のスペシャルウィークはというと――。

 

(……えっと、天皇賞の時は『先頭に立つ』でも『後ろに控える』でもダメだった。じゃあ、道中で極端にペースを上げ下げしてみたらどうかな? いや、それともバ群の密集地帯をあえて走ってみるとか……)

 

彼女の頭の中は、目の前のレース展開ではなく、全く別の「検証作業」で埋め尽くされていた。

ブラーの領域を引き出すためのトリガーは何なのか。そればかりを模索するあまり、スペの走りは明らかに精彩を欠いていた。無駄に外を回ってみたり、かと思えばインコースに切れ込んでみたりと、チグハグな位置取りを繰り返す。

 

(おかしいな……何も感じない。じゃあ、呼吸のタイミング? ソウルにエネルギーを集めるようなイメージ? それとも、前のめりになってみるとか……)

 

周囲のウマ娘たちの息遣いも、ターフの熱気も、今のスペの感覚には届いていなかった。彼女の目は、今ここにある阪神レース場の芝ではなく、遠く離れたトレセン学園にいるはずの「青いトレーナー」の幻影ばかりを追いかけていたのだ。

 

そんなことをしているうちに、レースは勝負どころの第3コーナーから最終コーナーへと突入した。

 

「行きます……!」

グラスワンダーが動いた。彼女の闘気が最高潮に達し、周囲の空気がビリビリと震える。有記念の経験を活かした、完璧なタイミングでのスパート。

そのグラスの強烈な気迫に呼応するように、周囲のウマ娘たちも一斉にスパートを開始し、バ群が大きく動き出した。各々が最善の進路を確保しようと、激しいポジション争いが勃発する。

 

普段のスペシャルウィークであれば、このバ群の動きを肌で感じ取り、瞬時に最適な進路を見つけ出して抜け出せていたはずだった。

しかし、今日に限って彼女の意識は自身の内側にばかり向いていた。

 

(違う、やっぱり身体の使い方じゃない。もっと精神的な――えっ?)

 

歓声の爆発と周囲の急激な速度変化で、ようやく現実のレース展開に意識を引き戻されたスペだったが、すべてが遅すぎた。

一瞬の反応の遅れ。それが命取りになった。

気づいた時には、スパートをかけた他のウマ娘たちに前後左右を完全に囲まれ、進路という進路を塞がれていたのだ。グラスワンダーの意図的なブロックでも、不運でもない。他ならぬスペ自身の「上の空」が生み出した、完璧な自滅だった。

 

「しまった……!」

 

前が壁になり、物理的に加速できない。ここであの「ソニックブースト」を使えば、前のウマ娘に激突してしまう。抜け出すための進路を探して右往左往するスペを尻目に、外を完璧に立ち回ったグラスワンダーが、凄まじい末脚で先頭へと躍り出る。

 

直線に入り、残り200m、150m……刻一刻とゴールが近づく。

スペがようやくバ群の隙間を見つけ、クリアな進路を確保できたのは、残り100mの標識を過ぎたあたりだった。

はるか前方には、すでに決定的なリードを築き、勝利を確信しているグラスワンダーの背中がある。

 

(遅すぎた……! でも、諦めない!)

 

スペは焦りの中で、直感的に「ソニックブースト」のスイッチを入れた。

パァン! と、彼女の体を明るい紫色のオーラが包み込む。

その瞬間、スペの走りは物理法則を無視した次元へと跳ね上がった。時速85kmに達する、理不尽な急加速。強烈な風圧を撒き散らしながら、凄まじいピッチでターフを削り取り、グラスワンダーへと猛追を開始する。

 

「なっ……!?」

先頭を走っていたグラスも、背後から迫る異常な気配に目を見開いた。

 

だが、どんなに絶対的な速度の暴力であろうと、レースにおける「距離と時間」の法則から完全に逃れることはできない。

残り100mを、時速85kmで駆け抜けるのに必要な時間は、わずか4秒強。

本来なら10秒間フルに使えるはずのブーストゲージを、半分も使い切らないまま――スペシャルウィークの猛追は、ゴール板の前で終わりを告げた。

 

「……勝ったのは、グラスワンダー!! 春のグランプリを制しました!!」

 

実況の声が響き渡る。

スペシャルウィークの猛追は、グラスワンダーにクビ差まで迫っていた。あと10mあれば、いや、あと1秒早く仕掛けていれば、完全に差し切っていただろう。

しかし、勝負の世界にタラレバはない。先にゴール板を駆け抜けたのは、完璧なレース運びを見せたグラスワンダーだった。

 

グラスは荒い息を吐きながら、確かな勝利の喜びに拳を強く握りしめた。

ついに、あのスペシャルウィークに勝った。有記念の雪辱を果たし、ライバルとして再び彼女と肩を並べることができた。終盤のあの凄まじい追い上げには冷や汗をかいたが、それも含めて最高の勝負だった。

 

グラスは、互いの健闘を称え合うため、振り返ってスペの方を見た。

 

「……え?」

 

しかし、グラスの目に飛び込んできたのは、予想とは全く違う光景だった。

 

そこには、負けた悔しさで唇を噛むわけでもなく、死力を尽くした勝負に清々しい笑顔を見せるわけでもない、スペシャルウィークの姿があった。

スペは、顎に手を当てて首を傾げ、宙を見つめながらブツブツと何かを呟いていたのだ。

 

「うーん……最後、焦ってブーストを使ったから、もしかしてそのタイミングにヒントがあるのかな? いや、でもあれはただの反射だったし。やっぱり、もっと根幹的なソウルの形をイメージしないと……」

 

まるで、テスト問題の難問に頭を悩ませる中学生のような、どこか間延びした表情。

自分が負けたという事実や、目の前でグラスワンダーが成し遂げた偉業など、彼女の頭の中には一ミリも存在していないようだった。

 

その姿を見た瞬間、グラスワンダーの背筋に、ゾクリと冷たいものが走った。

 

(……何ですか、あれは)

 

記念での、あの魂を削り合うような死闘はなんだったのか。

今日、自分が全身全霊をかけて挑み、完璧な戦術で掴み取ったこの勝利は、彼女にとって「考え事の片手間」でしかなかったというのか。

最後に見せたあの不自然で理不尽な加速。あれを使えば絶対に勝てたはずなのに、彼女はバ群に沈み、勝負の大勢が決した後に慌ててそれを使った。

明らかに彼女は、持てる力のすべてをこのレースに――自分との勝負に――注いでいなかった。上の空で、ただ自滅しただけなのだ。

 

グラスは、自分の中にドス黒い感情が湧き上がってくるのを止められなかった。

怒り、悲しみ、そして、強烈な虚無感。

自分がいま手にしている宝塚記念の栄冠が、急に色あせた石ころのように感じられた。

 

「あ、グラスちゃん! おめでとう! グラスちゃん、すっごく速かったね!」

 

歩み寄ってきたスペが、無邪気に笑いかけてきた。その笑顔には、負けた悔しさも、グラスを侮るような嫌味も一切ない。心からの祝福だった。

だからこそ、残酷だった。

 

グラスは、スペの言葉に応えることができなかった。

口を開けば、あまりの虚無感に泣き叫んでしまいそうだった。彼女はただ無言のまま、冷ややかな視線をスペに向けることしかできなかった。

 

「……あれ? グラスちゃん、疲れてる? 無理しないでゆっくり休んでね! じゃあ、またね!」

 

自分の視線の意味にも、グラスの心の内の嵐にも全く気づかないまま、スペは「それじゃあ!」と手を振って、明るい足取りで検量室の方へと去っていってしまった。

 

一人残されたターフの上で、グラスワンダーはギリッと強く唇を噛み締めた。

届かなかった思いが、胸の奥で重く渦を巻く。

 

(……スペシャルウィークさん。あなたは……誰を見て走っているのですか?)

 

その問いが声になることはなく、ただ初夏の風に虚しく溶けていった。

 

U U U

 

レース後。

検量室の裏手で、沖野トレーナーは戻ってきたスペを軽くポンと叩いて出迎えた。

 

「ま、気にすんなスペ。今回は色々試すためのレースだったんだ。結果的に自滅しちまったが、領域の条件じゃないパターンがいくつか分かっただけでも収穫だろ。本番は秋からだ、切り替えていけ」

 

沖野は普段通りの飄々とした態度で笑い、スペの頭をガシガシと撫でた。

「……はい。ごめんなさい、トレーナーさん。私がボーッとしてたせいで、ブーストを使うのが遅れちゃって……」

「謝るな。ほら、クールダウンしてこい」

 

スペが申し訳なさそうに控え室へ向かうのを見送り、彼女の背中が見えなくなったのを確認すると。

沖野はゆっくりと踵を返し、人目のつかない地下の薄暗い階段の踊り場へと向かった。

 

「……くそっ」

 

誰もいない空間。先ほどまでの飄々とした態度は嘘のように消え失せ、沖野の顔には焦燥と苛立ちが色濃く浮かんでいた。

 

ドンッ、と。

苛立ちに任せて、沖野はコンクリートの壁を軽く殴りつけた。

 

「……手がかり一つ掴めねえ。条件が複雑すぎるのか、それとも根本的に何かが間違ってるのか……」

 

沖野は頭を抱えた。

スペの前では余裕ぶって見せたが、事態は深刻だった。

このまま領域の発動条件が見つからず、今日のようにレースに集中できない状態が続けば、スペの闘争心や勝負勘そのものが鈍ってしまう。最強のウマ娘としての輝きを失わせてしまうかもしれないのだ。

URAファイナルズまで、あと半年しかない。あの幻のウマ娘――ブルーブラーに挑むための絶対的な武器が、未だに形すら見えない。

 

「……らしくねえ顔してんなぁ、トレーナー」

 

突然、頭上から間の抜けた声が降ってきた。

「うおっ!?」

 

驚いて見上げると、階段の手すりの外側、本来なら人がいるはずのない細い梁の上に、逆さまにぶら下がったゴールドシップがニヤニヤと笑いながらこちらを見下ろしていた。

 

「お前……! なんでこんなとこにいるんだよ!」

「宇宙の電波を受信してたら、お前がしけたツラして壁を殴る音が聞こえたからな。わざわざ見に来てやったんだよ」

クルリと身軽に宙返りをして、ゴルシは沖野の目の前に着地した。

 

「……見られてたか」

沖野はため息をつき、ポケットからミントタブレットを取り出して口に放り込んだ。

「情けねえだろ。あいつにハッパかけといて、俺自身が暗礁に乗り上げてんだ。あの青いバケモノのパズルの解き方が、全く見当もつかねえ」

 

弱音を吐く沖野に対し、ゴルシは鼻を鳴らし、腕を組んだ。

 

「お前さ、頭固くなってんじゃねぇの?」

「あ?」

 

「知恵の輪とかパズルボックスってのはな、無理やりこじ開けようとすると、中の部品が引っかかって絶対に開かねえようになってるんだよ」

ゴルシは、自分の頭をトントンと指差した。

 

「スペはアホだ。そして、お前も今アホになってる。アホが小難しい顔して『条件』だの『理屈』だの考えてっから、余計にこんがらがってんだよ。今日もそうだ、自分の走りに集中してねぇから、あんなアホみたいな負け方すんだ」

「……」

 

「あの青いトゲトゲ野郎の領域なんだろ? あいつが『理屈』で走るようなタマに見えるか? アタシの勘だがな、そういうのはもっと直感的で、バカみたいにシンプルなもんのはずだ」

ゴルシはニカッと笑い、沖野の背中をバンッと力強く叩いた。

 

「アホはアホらしく、全力でターフを駆け回ってりゃいいんだよ。そうすりゃ、そのうち勝手に箱が落っこちて、中身が飛び出してくるさ。お前はただ、スペが余計なこと考えずに全力で走れるように背中を押してやりゃいいんだ」

 

その突拍子もない、しかし妙に説得力のあるゴルシの言葉に、沖野は呆れたように目を瞬かせた。

そして、フッと吹き出し、やがて声を上げて笑った。

 

「ははっ……違いない。お前の言う通りだ。俺がこんなとこでウジウジ悩んでても始まらねえな」

 

「だろ? 感謝しろよ。相談料は今日の晩飯の焼き肉でチャラにしてやる」

「お前、結局それが目当てかよ」

 

沖野は苦笑しながら、再びミントタブレットを噛み砕いた。

胸の中を覆っていた焦燥感が、少しだけ晴れた気がした。

 

理屈ではない。もっと根源的な何か。

スペシャルウィークというウマ娘が、最も輝く瞬間。

 

(……焦るな。まだ秋がある。必ず、あいつの中に眠る流星を引っ張り出してやる)

 

薄暗い階段の踊り場で、沖野は再び不敵な笑みを取り戻し、前を向いた。

秋のターフには、彼らを待ち受けるさらなる試練と、そして、この「空虚な敗北」によって真の覚醒を果たすライバルの姿が待っている。

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