Supersonic Derby   作:七つの混沌

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第21話 グラスワンダーの沈滞と、ハナの導き

秋の深まりを感じさせる冷たい風が、トレセン学園のターフを撫でていく。

本格的な秋のG1シーズン開幕を告げる前哨戦、毎日王冠。その結果は、ターフで見守る多くのファンや関係者をどよめかせるものだった。

 

「グラスワンダー、沈んだ……! バ群に飲まれて、まったく伸びない!」

 

実況の驚愕に満ちた声がスピーカーから響き渡る中、グラスワンダーは後方のまま、力なくゴール板を通り過ぎていた。

体調不良ではない。脚に異常があるわけでもない。息の入りも悪くない。

フィジカル面は間違いなく万全だった。だが、彼女の走りには、決定的な何かが欠落していた。

闘争心。あるいは、勝利への渇望。

かつて有記念や宝塚記念でスペシャルウィークと極限の死闘を繰り広げた際に見せた、あの鬼神のような気迫は微塵も感じられず、まるで抜け殻のような、ただコースをなぞるだけの空虚な走りだった。

 

レース後、検量室へと向かうグラスワンダーの瞳には、ハイライトが宿っていなかった。

(……何のために、走るのでしょう)

宝塚記念での光景が、呪いのように彼女の心にこびりついて離れない。

全身全霊をかけてスペシャルウィークを打ち破り、ようやく宿敵と肩を並べたと思ったあの瞬間。振り返った先で見た、自分との勝負など頭の片隅にもないといった風な、彼女のあの上の空の表情。

私がどれほど刃を研ぎ澄ませても、どれほど完璧な走りを見せても、あの人は決して私を見てはくれない。ならば、私がターフで全力を尽くすことに、一体何の意味があるのか。

 

心にポッカリと空いた穴からは、冷たい風が吹き込むばかりで、再び熱を帯びる気配はなかった。

 

 

U U U

 

 

数日後。チーム・リギルの部室に隣接するトレーナーオフィス。

東条ハナは、デスクの向かいのソファに静かに座るグラスワンダーに、温かい紅茶を差し出した。

 

「……ありがとうございます」

グラスは両手でティーカップを受け取ったが、口をつけることはなく、ただ水面に映る自分の顔を虚ろに見つめていた。

 

「毎日王冠の走り。……あなたらしくなかったわね」

ハナは自分の席に座り、単刀直入に切り出した。

「身体に異常がないことは、データが証明している。問題は心よ。……宝塚記念の、スペシャルウィークさんのことね?」

 

グラスの肩が、微かに揺れた。

図星を突かれた彼女は、ティーカップをテーブルに置き、静かに伏し目がちになった。

「……東条トレーナーには、お見通しですか」

「あなたのトレーナーを何年やっていると思っているの。あんな負け方をして、悔し涙一つ流さないなんて、普段のあなたならあり得ない」

 

グラスは小さく息を吐き、ポツリポツリと胸の内を語り始めた。

 

「私は……スペシャルウィークさんを、最高のライバルだと思っていました。有記念で負けてから、彼女に勝つためだけに、血の滲むような思いで己を鍛え上げてきました。そして宝塚記念で、ようやく勝つことができた」

グラスは両手を強く握り締めた。

「でも……彼女は、私との勝負の最中、私を見てすらいませんでした。他の何かに気を取られ、持てる力を全て出すこともなく……私の全力を、ただやり過ごしたんです。……あんなもの、勝負ではありません。ただの、虚しい独り相撲です」

 

グラスの声には、怒りよりも深い悲しみが滲んでいた。

「私の目標は、もう彼女の中にはない。……なら、私はこれから、誰を目指して走ればいいのでしょうか」

 

沈痛な面持ちで語るグラスを見つめながら、ハナは静かに息を吐いた。

彼女の喪失感は痛いほどに理解できる。ウマ娘にとって、切磋琢磨できるライバルの存在は、自身の限界を押し上げる最大の原動力だ。それを失った虚無感は、一流のウマ娘であればあるほど深い。

 

ハナはデスクの引き出しを開け、一枚の書類を取り出した。

それは先日発表された、『URAファイナルズ』の出場予定者リストだった。

 

「グラス。あなたに、一つ事実を伝えておくわ。……これを『言い訳』と取るか、『新たな闘志』の火種と取るかは、あなた次第よ」

ハナはそう言って、リストの一箇所をペンで指し示した。

 

「特別推薦枠……ブルーブラー、ですか?」

グラスは訝しげにリストを覗き込んだ。学園内で噂になっていることは知っているが、引退した過去のウマ娘が、自分たちとどう関係するのか分からなかった。

 

「彼女は、10年前のクラシック戦線に突如として現れ、あのシンボリルドルフさんに土をつけた幻のウマ娘。……ルドルフさんが、相手にすらならなかったと絶望したほどの、次元の違うスピードを持ったバケモノよ」

 

「……会長が、相手にならない……?」

グラスの目が見開かれた。リギルに所属する彼女にとって、シンボリルドルフの実力はよく知っている。その彼女が絶望するほどの力など、想像もつかない。

 

「彼女は、誰も自分の本気に着いてこられない孤独に耐えきれず、故障と偽ってターフを去った。……そして今、彼女は素性を隠して、このトレセン学園にいるわ」

ハナは真っ直ぐにグラスの目を見た。

「新人トレーナーの、日高湊。……スペシャルウィークさんの義理の姉であり、彼女の元・専属トレーナーよ」

 

「……っ!」

グラスワンダーは息を呑んだ。

あの、いつも帽子を目深に被り、控えめに笑っていた新人トレーナー。彼女が、ルドルフを絶望させた伝説のウマ娘だというのか。

 

「スペシャルウィークさんはね、自分の姉が、誰もいない冷たい世界で一人きりで走り続けていることに気づいてしまったの。……だから彼女は、決意したのよ」

ハナは、先日自分のオフィスで涙ながらに頭を下げたスペの姿を思い出しながら、静かに語った。

「あの次元の違う存在に、たった一人で立ち向かうことを。誰もいないターフを、姉に一人で走らせないために。……彼女がシニア級のレースで見据えているのは、目の前のライバルじゃないわ。物理法則を無視した、絶望的な『青い閃光』の背中よ」

 

グラスは、雷に打たれたように固まっていた。

 

「宝塚記念で彼女が上の空だったのは、あなたを軽んじたからじゃない。あのブラーに追いつくために、もがいて、焦っていたからよ。……彼女は今、途方もない重圧と、果てしない目標を前に、たった一人で戦っているの」

 

ハナの言葉が、冷え切っていたグラスの心に、ゆっくりと浸透していく。

スペシャルウィークは、自分を見下していたわけではなかった。

彼女が見つめている空は、自分が想像していたよりも遥かに高く、そして恐ろしいほどに孤独な場所だったのだ。自分には見えない巨大な壁に、彼女は身を削って挑もうとしている。

 

(……だから、私のことが目に入らなかった)

 

腑に落ちた。あの時のスペの、テスト問題に頭を悩ませるような表情の理由が。

だが、その事実を理解したからといって、大和撫子であるグラスワンダーの心が「仕方ない」と凪ぐわけではなかった。

 

静寂に包まれたオフィス。

グラスはゆっくりとティーカップに手を伸ばし、一口だけ、すっかり冷めてしまった紅茶を飲んだ。

 

「……東条トレーナー。お話は、理解しました」

カップを置く小さな音が、やけに大きく響いた。

グラスが顔を上げると、先ほどまでの虚ろな瞳は完全に消え去り、そこには静かで、しかし底知れぬ熱量を秘めた炎が宿っていた。

 

「スペシャルウィークさんが、どれほど途方もない空を見上げていようと。どれほど恐ろしい相手に挑もうとしていようと」

グラスの声は、恐ろしいほどに澄み切っていた。

「私たちが同じターフに立つ以上、そんな事情は関係ありません」

 

ハナは目を細めた。彼女の内に眠る『不撓不屈』の精神が、再び息を吹き返すのを感じた。

 

「私は、彼女を誰よりも認めている。だからこそ……彼女が私の隣を走りながら、他の誰かを見ているなど、絶対に許しません」

グラスはスッと立ち上がり、ハナを真っ直ぐに見据えた。

 

「彼女が空の上の姉を見ているというのなら。……私が、全力でその羽を叩き折って、このターフに引きずり下ろします。私の方を向かせます。……それが、彼女をライバルと定めた私の、矜持ですから」

 

その言葉には、一切の迷いがなかった。

圧倒的な壁に挑む友を案じる優しさすらも、闘争の燃料へと変換する。それこそが、グラスワンダーというウマ娘の恐ろしさであり、強さの根源だった。

 

「……いい目になったわね」

ハナは満足げに微笑み、リストを再び引き出しにしまった。

「秋のG1戦線、本番はこれからよ。まずはマイルチャンピオンシップ。……完全復活したあなたの走りを、見せてもらうわよ」

 

「はい。……必ず」

グラスは深く一礼し、オフィスを後にした。

 

ドアが閉まり、一人残されたハナは、窓の外の青空を見上げた。

「沖野君……グラスワンダーの心に火は点いたわ。さあ、次はあなたが、スペシャルウィークの刃を研ぎ澄ます番よ」

 

秋の冷たい風が、トレセン学園を吹き抜ける。

最強のライバルは、沈滞の底から這い上がり、より鋭い牙を剥いて待ち構えている。

絶対的な「青」を追う少女と、不屈の「大和撫子」。

二つの極限の意志が再び激突する有記念へのカウントダウンは、すでに静かに始まっていた。

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