Supersonic Derby   作:七つの混沌

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第22話 それぞれの戦い

秋の深まりとともに、木々は赤や黄色に色づき始め、冷気を帯びた風がターフを吹き抜ける。

京都レース場。マイルチャンピオンシップ。

スタンドを埋め尽くす何万という観客の熱気とは裏腹に、パドックを歩くグラスワンダーの周囲には、研ぎ澄まされた氷のような静寂が漂っていた。

 

前走、毎日王冠での不可解な大敗。多くのファンやトラックマンたちが「大和撫子はスランプに陥ったのではないか」「有記念と宝塚記念の激闘で燃え尽きてしまったのか」と危惧していた。

しかし、今の彼女の瞳に、あの日見せた虚無の影は一切ない。

彼女の視線は、目の前のコースでも、周囲のウマ娘でもなく、遥か遠く、途方もない高みを目指して一人でもがく「最強のライバル」の背中へと向けられていた。

 

(スペシャルウィークさん。あなたがどれほど高い空を見上げていようと……あなたが誰を見ていようと、関係ありません。私の方を向かせます。……ここで、証明してみせます)

 

「グラス」

パドックの脇から、東条ハナが静かに声をかけた。

「準備はいいわね」

「はい、東条トレーナー。……私の征く道に、もはや一切の迷いはありません」

グラスは深く一礼し、ターフへと向かう地下バ道へと足を踏み入れた。

 

大歓声の中、ゲートが開いた。

 

一斉に飛び出すウマ娘たち。マイル戦特有の息もつかせぬハイペースでレースは展開していく。

しかしグラスワンダーは、周囲のペースに惑わされることなく、後方待機を決め込み、荒れるバ群の中で静かに息を潜めていた。

彼女の呼吸は規則正しく、一切の乱れがない。前方で巻き起こる熾烈なポジション争いも、観客の耳をつんざくような喧騒も、今の彼女には遠くの波音のようにしか聞こえていなかった。ただ自身とコース、そして風の音だけが感覚を支配していく。

 

第3コーナーから第4コーナーへ。

逃げウマの脚が鈍り、バ群が凝縮し始める。勝負所の最終直線へと向かうカーブ。

歓声が爆発し、各々が残された体力を振り絞ってラストスパートをかける中、グラスワンダーはゆっくりと目を見開いた。

 

『精神一到何事か成らざらん』。

かつて彼女が至ったその領域は、己の精神を極限まで集中させ、揺るぎない意志で道を切り開くものだった。しかし今の彼女の胸にあるのは、そんな自己完結した覚悟ではない。

遥か高みを見上げる友を、その空から強引にターフへと引きずり下ろし、自分という存在をその目に焼き付けさせるという、強烈なまでのエゴイズムと執念。

 

(いざ……!)

 

グラスワンダーが深く、強く芝を踏み込んだ瞬間。

周囲の景色が、スッと色を失った。現実の時間が止まり、彼女の脳裏に鮮烈な幻視が広がる。

静寂に包まれた和の空間。月明かりに照らされた波一つない水面の上に、彼女は凛と立っていた。手には、彼女の魂の形である鋭い薙刀。

どれほどの強敵が立ち塞がろうと、どれほど絶望的な壁があろうと。決して折れることなく、すべてを薙ぎ払い、その視線を私に固定させる。

 

舞い散る無数の紅葉の葉を、彼女は薙刀で鋭く、力強く一閃した。

空気を裂く鋭い音と共に、刃の軌跡が眩い光となって弾ける。

 

 

 

〈不 撓 不 屈〉

 

 

 

幻視が弾け、現実の時間が再び動き出す。

その瞬間、グラスワンダーの身体から爆発的なオーラが噴き出した。それは単なる加速ではない。前を走るウマ娘たちの作り出す空気の壁を、文字通り「切り裂いて」進むような、圧倒的で暴力的なまでの推進力。

通常の領域を遥かに凌駕する、エネルギーの直接還元。

 

「外から一気にグラスワンダー! 飛んできた! 飛んできた!!」

 

実況が悲鳴のような声を上げる。

一歩、また一歩と芝を蹴るたびに、並み居る強豪ウマ娘たちがまるで止まっているかのように置き去りにされていく。

その表情には一切の焦りもなく、ただ氷のように冷たく、刃のように鋭い闘志だけが張り付いていた。前を行く者すべてを飲み込む、青鹿毛の暴風。

彼女はそのまま後続を大きく突き放し、トップでゴール板を駆け抜け、高々と右手を天に突き上げた。

 

毎日王冠の沈滞を完全に払拭する、あまりにも強烈な圧勝劇。

進化した領域をまざまざと見せつけ、大和撫子は完全復活を高らかに宣言したのである。

 

 

U U U

 

 

時を同じくして、遠く離れた異国の地。

フランス、パリ郊外。ロンシャンレース場。

 

日本中がマイルチャンピオンシップの熱狂に包まれていた頃、欧州最高峰の舞台である凱旋門賞(芝2400m)で、一人の日本人ウマ娘が死闘を繰り広げていた。

 

エルコンドルパサー。

日本の黄金世代の一角であり、早くから世界を見据えて海外遠征を続けてきた怪鳥。

彼女は今、ロンシャン特有の深く重い芝と、心身を削る過酷な「フォルスストレート(偽りの直線)」を抜け、最後の直線での極限の叩き合いの最中にいた。

 

「ハァッ……! ハァッ……!」

エルの全身の筋肉が悲鳴を上げ、肺が焼け焦げるように熱い。日本の軽い芝とは根本的に違う、泥のように足に絡みつく重いバ場が、確実に彼女のスタミナを削り取っていた。

それでも、彼女は決して諦めない。

隣に並び、一歩も譲らないデッドヒートを繰り広げているのは、地元フランスの至宝であり、欧州最強のウマ娘と名高いモンジューだった。

 

「アァァァッ!!」

「ノン!!」

 

圧倒的なパワーと無尽蔵のスタミナで押し切ろうとするモンジュー。彼女の走りは、この重い欧州の芝こそが私の玉座であると言わんばかりの威風堂々たるものだった。

その王の走りを前に、エルコンドルパサーも持てる力の全てを振り絞って食らいつく。

 

(負けないデス! ワタシが、日本のウマ娘が、世界で一番強いんデス!!)

 

エルの闘志が限界点を超えた。

ウマソウルの莫大なエネルギーが沸騰し、彼女の肉体のリミッターを強引に焼き切る。

脳裏に響く、天空を舞う猛禽類の甲高い鳴き声。

 

 

 

〈エ ル ド ラ ド・ガ ナ ド ー ル〉

 

 

 

エルの背中に、黄金に輝く巨大なコンドルの翼を模したオーラが顕現した。

外部エネルギーの直接還元。放出されたウマソウルの莫大な気が、推進力と筋力の補強材となって彼女の肉体に直接作用する。

「ウオォォォォッ!!」

エルの足が、重いロンシャンの芝を強引に蹴り飛ばし、さらなる加速を生み出す。

モンジューもその異常な気配に目を見開き、自身の全霊をもってそれに呼応した。

 

二人の意地とプライドが激突し、火花が散る。

歓声が地鳴りのように響く中、黄金の怪鳥と欧州の王者は、鼻先を完全に並べたまま、ゴール板を駆け抜けた。

 

レース後、長い長い写真判定の結果、ターフの大型ビジョンに映し出された文字は『DEAD HEAT(同着)』。

 

「同着! なんと同着です! エルコンドルパサー、欧州最強のモンジューと完全に並んでゴール! 日本ウマ娘史上初の、凱旋門賞制覇という歴史的快挙です!!」

 

日本から駆けつけたファンや関係者が歓喜に沸き、抱き合って涙を流す。

欧州の頂点に立ち、堂々と世界一を名乗る権利を手にした。誰もが、彼女が満面の笑みでいつもの陽気なガッツポーズを見せてくれると信じていた。

 

だが、検量室へと戻ってきたエルコンドルパサーの顔に、笑顔はなかった。

トレードマークのマスクの下、その表情は暗く、深く沈み込んでいたのだ。

 

「……信じられない、デス」

エルは、震える両手を見つめながらポツリと呟いた。

 

彼女の頭の中にあったのは、日本から送られてきた一つのレース映像だった。

自分と同世代のライバル、グラスワンダーがマイルチャンピオンシップで見せた、あの恐ろしいほどに完成された進化領域「不撓不屈」。画面越しにすら伝わってくる、背筋が凍るような殺気とスピード。

そして何より――あの日本ダービーの最後の最後、自分が見せた領域の片鱗すらも嘲笑うかのように、最後の一完歩で自分を置き去りにしたスペシャルウィークの、物理法則を完全に無視したデタラメな加速。

 

エルは、モンジューとの死闘で、自身の限界の底の底まで力を出し尽くした。

『進化した領域』まで引きずり出し、肉体の限界に外付けのエネルギーを加算して、一切のミスなく走り切った。

その結果が、欧州最強との「同着」だった。

 

(……限界ギリギリ、新しい領域まで使って、ようやく同着。……こんなんじゃ、ダメなんデス)

エルは唇を強く噛み締めた。

(モンジューは強かったデス。間違いなく世界トップクラス。でも……この程度の相手とギリギリ同着になるようじゃ、今のあの二人には……絶対に勝てない!!)

 

あの理外のブーストを隠し持ち、さらなる次元を見据えるスペシャルウィーク。

そして、そのスペを引きずり下ろすために進化した領域を手にしたグラスワンダー。

彼女たちがいる日本のトップレベルは、今や欧州最強すら凌駕する、未知の化け物たちの巣窟になりつつあった。自分が海を渡って必死にもがいている間に、ライバルたちは遥か遠く、手の届かない次元へと行ってしまったのではないか。

そんな絶望感が、エルの心を黒く塗り潰していく。

 

『……妙ね。世界最高峰の舞台で私と肩を並べたというのに、まるでお通夜のような顔をしているじゃない』

 

ふと、流暢なフランス語で声をかけられた。

顔を上げると、そこにはタオルで汗を拭うモンジューが立っていた。同着という結果に満足しているわけではないだろうが、彼女の表情には、全力を出し切った者特有の清々しさと、王者の余裕があった。

 

『悔しいのは分かるわ。私だって、単独で勝利したかったもの。でも、あなたのその絶望は、私との同着に向けられたものじゃないわね?』

モンジューは、鋭い観察眼でエルの心中を見透かしていた。

 

『……あなたには、関係ないデス』

エルが顔を背けようとすると、モンジューは面白そうにふふっと笑った。

 

『欧州最強である私と死闘を演じておきながら、あなたの心は、私よりもさらに『上の存在』を見ている。……海を越えた遥か東、あなたの祖国にいるウマ娘を』

モンジューは腕を組み、壁に寄りかかった。

『名前はたしか……スペシャルウィーク。日本の『総大将』と呼ばれているそうね』

 

その名を聞いて、エルの肩がビクッと跳ねた。

 

『あなたのような素晴らしいウマ娘が、あのような領域まで発動して私と互角の力を持つあなたが、幻影に怯え、絶望するほどの存在。……ふふっ、興味深いわね』

モンジューの青い瞳に、強い闘志の光が宿る。

 

『私のプライドにかけて、確かめさせてもらうわ。そのスペシャルウィークというウマ娘が、本当に私以上の器なのかどうかをね』

 

モンジューはそう言い残し、優雅な足取りで去っていった。

ジャパンカップへの参戦宣言。

一人残されたエルコンドルパサーは、暗い通路の中で立ち尽くしていた。

世界一の称号を手にしたはずの彼女の心には、歓喜の代わりに、ライバルたちの凄まじい足音が遠ざかっていく焦燥感だけが、冷たく渦巻いていた。

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