Supersonic Derby   作:七つの混沌

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第23話 詰み

「さあ、各ウマ娘ゲートイン完了。……スタートしました!」

 

実況の声と共に、ゲートが弾け飛ぶ。

その瞬間、ターフの空気を切り裂くように、一頭の美しい栗毛が先頭へと躍り出た。

サイレンススズカ。長期のブランクを全く感じさせない、洗練された静かで美しいフォーム。彼女はスタート直後から一切の迷いなくペースを上げ、後続との距離をぐんぐんと広げていく。代名詞である「大逃げ」だ。

 

一方、スペシャルウィークは中団のバ群の中で、じっと息を潜めていた。

彼女の視線は前を行くスズカの背中を捉えつつも、意識の半分以上は自身の内側、「魂の奥底」に向けられていた。

 

(……探さなきゃ。私の中にあるはずの、お姉ちゃんから受け継いだ領域の『鍵』を)

 

前走の宝塚記念では、発動条件を探ることにばかり気を取られ、レースでの極限の集中を欠いたまま空回りしてしまった。その際、グラスワンダーが何に怒り、どれほどの虚無感を抱えていたのか、スペは全く気づいていなかった。

無敗の記録が途絶えようと、世間から批判されようと構わない。今の彼女とチーム・スピカにとっての至上命題は「勝つこと」ではなく、「なんとしてもお姉ちゃんに追いつくための条件を見つける」ことだったからだ。

 

しかし、ただ闇雲に内側を探るだけでは扉は開かないと、あの敗北で思い知った。

だから、今日は違う。

スズカという最高の逃亡者と本気でぶつかり合う「極限の実戦」の中でこそ、己の奥底に眠る「青い力」のトリガーに手が届くはずだ。そう決意してターフに立っていた。

 

レースは第3コーナーの大ケヤキへと差し掛かる。

スズカのペースは落ちない。いや、むしろさらに加速していく。後続との差はすでに十バ身以上に広がり、大観衆はその圧倒的な逃げ劇にどよめきと熱狂の声を上げていた。

 

スペはバ群の中から、遥か前方を走るスズカの姿を見つめた。

広大なターフの先頭で、誰の影も踏まず、誰の息遣いも感じることなく、ただ一人で風を切って走る孤高の背中。

その時だった。

 

(……あ)

 

スペの網膜の中で、スズカの美しいシルエットが、突如として別のウマ娘の姿と重なり合った。

 

青い髪、後ろに伸ばされた腕、異常なピッチの脚。

どれだけ追いかけても、どんなに必死に手を伸ばしても、絶対に手が届かない絶望的な距離。

誰も自分の隣に来てくれないと諦め、ただ一人、凍りつくような虚空の中でどこまでも走り続ける「青い閃光」――ブルーブラーの姿が。

 

『相手がいなかったからだ』

 

沖野の悲痛な声が脳裏に蘇る。

もし、このまま誰も彼女に追いつけなかったら?

もし、私が継承領域の条件を見つけられず、彼女の次元に辿り着けなかったら?

お姉ちゃんは、永遠にあの冷たい場所で、誰にも本気を出せないまま、ひとりぼっちで走り続けることになってしまう。

 

「……嫌だ」

 

スペの唇から、絞り出すような声が漏れた。

胸の奥で、何かが激しく熱を持ち、限界まで膨張していく。それは継承した青いソウルの力ではなく、スペシャルウィーク自身の、姉を想う強烈なエゴイズムと魂の叫びだった。

 

まだレースは中盤から終盤へ差し掛かろうというところ。本来の彼女の限界速度に達し、領域「シューティングスター」が現れるタイミングではない。

だが、限界まで膨れ上がった想いは、理屈も条件も強引に打ち破り、魂の形そのものを変質させた。

 

周囲の景色が暗転し、スペの意識は幻視の空間へと飛んだ。

夜空のような暗闇の中、彼女の周囲に眩い光の粒が現れる。

赤、青、黄、緑、紫、白、水色。

七色に輝く七つの星。それはまるで、彼女がこれまで戦い、想いをぶつけ合ってきた同世代のライバルたちや、スピカの仲間たちの絆を象徴するかのように、彼女の周りを猛烈な勢いで旋回し始めた。

 

「もう、一人では走らせない!」

 

そして、七つの流星はスペの真っ直ぐな視線の先で一つに集結し、遥か前方へと続く、輝く光の「道」をターフに描き出した。

 

「あなたの隣に、私は立ちます!」

 

 

 

〈七 煌 の 連 星〉

 

 

 

シューティングスターの劇的な進化。「中盤以降」に発動し、ウマソウルからのエネルギーが直接自らを強化する『進化した領域』、スペシャルウィークの新たな力が解放された。

 

「スペシャルウィーク、動いた! まだ直線には遠いぞ!? しかし凄い脚だ、一気にバ群を抜け出す!!」

 

七色のオーラを纏ったスペの身体が、凄まじい推進力でターフを駆け抜け、最終直線へと突入する。

 

その背後に迫る暴力的なまでの気配に、先頭を走るスズカはハッと息を呑んだ。

(スペちゃん……!)

振り返らなくてもわかる。恐ろしいほどの熱量を持って迫りくる、七色の流星。かつて自分を追いかけ、今は自分と肩を並べるどころか、さらに上の次元を見据える最高のライバル。

その気迫に当てられ、スズカの全身の血が熱く沸騰した。骨折を乗り越え、再びこのターフに戻ってきた歓喜と闘争心が、彼女の限界をさらに押し上げる。

 

(でも……!)

 

スズカの視界が、極限の集中により透明に澄み渡っていく。

誰の足音もしない、自分だけの静かな世界。その先頭の景色だけは、誰にも譲れない。

ウマソウルのエネルギーが極度に圧縮され、彼女の肉体を覆う。

 

 

 

〈次 元 切 り 裂 く 逃 亡 者〉

 

 

 

スズカの全身から新緑のオーラが爆発的に噴き出し、瞬時に彼女の周囲を真空のようなベールで包み込んだ。外部エネルギーの直接還元により、空気抵抗という物理的限界を強引に排除した、異次元の再加速。

沈み込むような極限の低重心から繰り出されるそのスピードに、大歓声が悲鳴に変わる。

進化した領域『七煌の連星』をもってしても、同じく領域の進化に至ったスズカのその絶望的なトップスピードにはわずかに届かない。

 

(届かせる……絶対にっ!!)

 

スペは、限界まで高まった感情のままに、自らの武器の「もう一つの引き金」を引いた。

全身を眩い紫色のオーラが包み込む。

極限の急加速――『ソニックブースト』!

 

 

七色の領域による爆発的な推進力と、理外のブーストによる暴力的なトップスピード。

二つの力を同時発動させたスペの姿は、まさに紫色の流星そのものだった。

 

「……っ! スペちゃん……!」

真空のベールを纏ってなお、背後に迫る凄まじい風圧にスズカは目を見開く。限界を超えた逃亡者と、全てを解放した流星。

最後の直線は完全に二人の一騎打ちとなった。

極限のスピードのぶつかり合い。しかし、領域とブーストの同時使用による爆発的な執念が、スペをほんのわずかに上回らせた。

 

「スペシャルウィーク、差し切った! 天皇賞・秋を制したのは、スペシャルウィーク!!」

 

大歓声の中、スペは先頭でゴール板を駆け抜けた。

息を荒らげながら徐々にスピードを落としていく。自らの壁を破り、進化領域に至ったスズカの大逃げすらもねじ伏せ、見事に勝利を収めた。本来であれば、これ以上ない喜びに包まれるはずの瞬間だった。

 

しかし。

スペの足取りは、やがて完全に止まってしまった。

進化領域『七煌の連星』とソニックブーストの同時発動。自分自身の「魂の構造」と限界をかつてないほど鮮明に理解したことで、スペのウマソウルの深層が、ついに「もう一つの力」――ブルーブラーから継承した未知の領域への扉の形を、はっきりと直感で捉えたのだ。

 

(……あった。これが、お姉ちゃんの領域の扉)

 

スペは精神の世界で、その扉に手を伸ばした。

これで、ブラーの力を引き出せる。彼女と同じ次元に立てる。そう信じて。

だが、その扉に触れた瞬間、スペは全身の血の気が引くのを感じた。

 

扉には、重く冷たい鎖が幾重にも巻き付けられ、決して開くことのない巨大な南京錠がかけられていた。

そして、ウマ娘としての直感が、その錠前に刻まれた「発動条件」のシステムテキストを、無機質に読み取ってしまったのだ。

 

『発動条件:発動できない』

 

「……え?」

 

スペは現実のターフの上で、呆然と立ち尽くしていた。

条件が厳しいのではない。特定の動きが必要なわけでもない。

「発動できない」という状態に、完全にロックされている。

絶望的な事実の発覚だった。

 

「スペちゃん!」

クールダウンを終えたサイレンススズカが、息を弾ませながら駆け寄ってくる。

「すごいスパートだったわ。私、追いつかれるなんて…… スペちゃん?」

 

スズカは足を止めた。

振り向いたスペシャルウィークの顔は、勝利の喜びどころか、まるでこの世の終わりを見たかのように真っ青に染まり、大粒の涙をボロボロとこぼしていたからだ。

 

「スズカさん……ない……ないんです……」

スペは震える声で、ガクガクと膝から崩れ落ちた。

 

「ないって、何が? どこか痛むの!?」

慌てて背中をさするスズカに、スペは首を横に振った。

 

「お姉ちゃんの、領域の条件……『発動できない』になってる……ロックされてて、絶対に開かないの……っ!!」

 

秋の空に響き渡る割れんばかりの大歓声。

しかし、観客席の最前列で固唾を飲んでレースを見守っていたチーム・スピカのメンバーたちの耳には、その喧騒を切り裂くように、スペの悲痛な叫び声が不思議なほどはっきりと突き刺さっていた。

 

「……は?」

沖野が、持っていたストップウォッチを取り落とした。

ガシャ、と乾いた音が足元で鳴る。

 

「発動できないって……そんなバカな話があるかよ!?」

ウオッカが叫び、テイオーが絶句する。

 

それは、沖野が想定していた最悪のシナリオすらも下回る、完全な『詰み』だった。

スペがブルーブラーと同じ土俵に上がるための唯一の希望。それが、最初から存在しなかったのだ。

ターフの上で泣き崩れるスペと、それを抱きしめながら言葉を失うスズカ。そして観客席で凍りつくスピカの面々。

熱狂に包まれた京都レース場の中で、彼らだけが、分厚く冷たい絶望の底に突き落とされていた。

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